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日本最古の将棋の棋譜。本因坊算砂の終盤106手目の悪手の謎(長さん)

最近、日本将棋の江戸時代の棋譜にを見る機会があり、日本最古
の棋譜が、西暦1607年のもので、桂馬が7七の位置から、先
手▲6五桂馬と、63手目に大橋宗桂(初代)が指しているのが、

現行の桂馬のルールと、昔のルールに差が無い

ことの、一番古い証拠である事が判った。将棋六種之図式の桂馬
のルールの表記は、図式書の正確な成立年代は不明なものの、西
暦1607年よりは後である事が、間違いなく、よって将棋六種
之図式の桂馬の、動かし方ルールは、略式のために、鳳凰の跳ぶ
動きと同じに、たまたま表現されていると私には理解できた。

高見友幸氏の”中世以前の桂馬の駒の動かし方ルールが、今とは
異なる”との説には、弱いところがやはりありそうだ。

 更に、日本最古の棋譜を見た所、終盤、本因坊算砂が、受けで
悪手を106手目に打ち、初代大橋宗桂に負けている事も判った。
 今回は後者の方の、本因坊算砂が、106手目に指してしまっ
た悪手から、何が推定できるのかを論題とする。
 いつものように、結論から先に書いて、後で説明を加える。

本因坊算砂が日本将棋を習いたての、西暦1960年代後半、
持駒ルールの細則の、二歩の禁手と、打ち歩詰めの禁手が、その
時点でまだ、ローカルルールに過ぎなかったと推定

できる。
 では、以上について以下に説明を加える。
 この日本で最初の日本将棋の棋譜は、例えば次の成書で詳しい
内容と、解説がある。

日本将棋大系1 初代大橋宗桂・二代大橋宗古 勝浦修著
筑摩書房(1979)

それによるとこの棋譜は、133手で大橋宗桂が、本因坊算砂を
下した、西暦1607年の将棋に関するもので、恐らく関西方面
で指されたが、日は不詳と言う。
 終盤、競り合って寄せ合いになり、比較的堅い陣を守っていた、
後手の本因坊算砂に、先手の大橋宗桂が攻めで打った、105手
目の▲6四香車の王手に対して、

合駒の歩兵を、(2)6三の位置に打つべき所を(1)6二の位
置に、打って負けてしまった

と、将棋棋士で名高い、勝浦修氏の解説がある。誠に判りやすい
解説で、さすがだと感心させられる。

最古棋譜.gif

 日本将棋の現行のルールからすると、通常は、この手は単なる
ミスなのであろう。
 が、仮に正しく△6三歩兵打ちと、持ち駒歩兵を打ったとして、
この将棋に、二歩の禁手が仮に無かったら、日本将棋の結果とは、
違ってくるのではないか。即ち107手目▲6二歩に対し、以下
△7一玉と逃げれば▲8二銀△同金▲同金で、詰みだから、たぶ
ん107手目▲6二歩(2歩)には後手は△同金と、金を動かす
しかないだろう。すると、▲同桂△同角▲6三香不成になるから
9七の地点に、先手の馬が利いて、詰めろになっていた原因のは
ずの、後手の飛車打ちが出来なくなる。だから、二歩が禁手であ
る普通の場合と、そうで無い場合とは、後者の方が、先手にとっ
て有利になるように、状況が大きく変わってくるに違いない。
 ひょっとしたら、本因坊算砂が日本将棋を習った、彼が7歳
の西暦1566年に、二歩の禁手はローカルルールだったとして、
彼が二歩の禁手の将棋を指したのは、西暦1570年代になって
からだったとしたら、

本因坊算砂には、二歩指しに対応する癖が、幾分か残っていた

という事は、ひょっとして無いのだろうか。
 そのため、問題の局面では、後手が106手目に指すはずだっ
た、△6三歩をうっかり止めて、子供の頃のルールと錯覚して、
△6二歩と、香車の合い駒の歩兵を、自玉の直ぐ前に打ってしまっ
たのではないだろうか。

そうだとすれば、この将棋には、持ち駒ルールの変遷の歴史が
刻まれて居る事になり、たいへん貴重だ。

 なお、解説した勝浦氏は、そもそもその前の先手の▲6四香車
自体も、△6三歩を見落として打った手の可能性があると、指摘
している。ちなみに、初代大橋宗桂の方が、本因坊算砂より、更
に少し年上だ。
 という訳で、仮に持ち駒ルールが発生したのが、西暦1300
年頃と古かったとしても、禁手という細則に関して、一本化に
長い年月がかかり、そのため持ち駒ルール自体が、余り記録に
残されなかったとしたら、実際と比較的、残存している史料の
傾向が、合っていないだろうか。そもそも、普通唱導集の小将棋
の第2節の記載も、

平安小将棋の持ち駒ルールバージョンにしては、銀・桂交換で、
銀を失った側が、酷く落胆しているという、不自然さがある点

を、前に本ブログでは指摘した事があった。
 つまり持ち駒ルールは、

発生したのが西暦1300年より少し前でも、細則がほぼ一本化
されたのは、西暦1570年前後という事は、ひょっとして無い
のだろうか。

 たとえば、一乗谷朝倉氏遺跡では、西暦1560年代に、二歩
が、まだ出来る、持ち駒ルールで指されていたのかもしれないと
言う意味だ。
 そのような可能性に関する情報が、西暦1607年前後の、
江戸時代の日本将棋の棋譜に、かすかに残っている。その可能性
が、全く無いとも言えないような気が、この悪手に関して、私は
するとの印象を受けた。(2018/12/11)

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