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平家一族。”奢っていた”割には将棋の史料が無いのは何故か(長さん)

俗に、”奢る平家は久しからず”という文句がある。遊戯史に
興味がある者の立場からすると、この言葉から、平家一族関連
の遺物に、囲碁・将棋・盤双六・サイコロ等の遺物が期待でき
そうだと、にわかに活気付く。しかしながら実際には、平安時代
最末期の将棋史料に、平家に関係した物が有ると言う話を、少
なくとも本ブログの管理人は、聞いた事がない。ここではこの、
”かつての平安時代中期の藤原貴族に取って代わり、一時期
貴族的状態に有った”とされる平家一族関連に関して、将棋史
に関係する遺物や史料が、なぜ今の所、未発見とみられるのか
についてを、今回の論題とする。
 いつものように、回答を先に書き、後で説明を加える。
以下回答を書く。

平家は奢っていなかったと疑われる。

では、以下に説明を加える。
 平家は京都を勢力圏とした状態で、平治の乱で事実上の国の
制圧に成功したとみられる。平清盛やその一族の日記が、見当
たらないが、恐らく彼らに、京都で政権を奪取した時代に、日
記等を書く能力や、余裕が無かったのではなくて、壇ノ浦等の
海に沈んでしまい、残って居無いだけであろう。
 京都の内大裏を、平清盛軍は制圧して、後白河上皇を事実上
屈服させていたと見られるため、平家政権が、京都であった時
代の遺物は、有っても、彼らの物とは判別できないとみられる。
 従って彼らが遊戯をしたとの跡は、福原遷都の後、そこでの
遊戯の跡が、遺物として残っているかどうかであろう。が、

今の所臨時の都、福原から、将棋駒等が出土しているという
話は聞かない。

なお、この時代の史料としては、西暦1183年に、京都で、
”暲子内親王が、将碁を指していた”と、権春門院中納言日記
または、健寿御前日記で、藤原俊成の娘が、記載している例や、
西暦1185年に、同じく京都の神護寺で、僧文覚起請文が
書かれ、”囲碁・双六・将基・蹴鞠を禁止する”という記載が
された例がある。
 しかし、二中歴成立の時代に近いのに、我々にとっては残念
な事に、

平家が制圧していた地域で、その重臣等によって、将棋が指さ
れていたとか、そういった類の、”平家時代の将棋史料”で、
明確なものは、今の所無いとみられる。

 平家物語絵巻を見ても、平清盛が水浴びをしているような絵
は見るが、彼の居所に、双六盤・囲碁盤・将棋盤が有るような、
家具・道楽品が、部屋の隅にあるような中に、一族が住んでい
るように描いた絵は、少なくとも私は見かけない。少なくとも
一般成書の範囲で探して見つかるのは、厳島神社に平家が奉納
した、王朝時代の絵を描いた物品位ではないかと思う。これは、
ひょっとして、

”平家が奢っている”という証拠が、文学作品に書かれている
等程度で、客観的には乏しい事を、意味してはいないだろうか。

なお、少し後だが、藤原定家が西暦1203年に明月記で、朝
廷の間に、複数の貴族や皇族が遊戯する目的で、囲碁盤・双六
盤・将棋盤が並んでいたと、公家の暮らしの様子の一種を、
明確に記載している。
 つまり、平家政権時代には、戦乱が続いていて、側近の武者
は、合戦に出動するケースが多く、実際には平家一族には、

暇で贅沢三昧をしており、将棋も指していたという事が、遺物
が出るほどには無かった

という事なのではないか。
 将棋史の目だけで、平清盛一族の日常を、判断するのは危険
だろうが。

”奢っていたとしたら、その時代には、どの程度の遊戯品の遺
物、史料が、本来なら残るはずだという調査”からも平安末期
史のヒントの一つが、得られると言う点だけは確か

なのではないかと、私は疑うのである。(2018/12/13)

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