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今小路西鎌倉福祉センター遺跡木札。現物が有れば何が判ったか(長さん)

表題の神奈川県鎌倉市の鎌倉市役所に近い市役所膝元遺跡、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土の中将棋に関する木札は、
残念な事に、現物が見当たらない状態と言う。ただし成書、
”よみがえる中世(3)武士の都鎌倉”に、幸い貴重な写真が、
かなり鮮明に掲載されていて、それが今の所、唯一残された
史料である。この写真に基づいて、本ブログはこれまで、問題
の木札につき、一応突っ込んで議論してきた。写真だけでも、
相当いろいろな事が言えたが、現物が見れれば、更に情報自体
が確実になるし、より詳しい事も、本来なら明らかになるはず
だった。
 そもそも研究者が、それぞれにこの史料を分析できれば、情
報量は、現物が有るのか無いのかで、相当差が出るはずだ。
一例では、化学的な分析が出来たり、裏面が見れたり、大きさ
が正確に計れたりできよう。本ブログでは、元々の情報は、恐
らくこれだけだろうと見る。が例えば裏面に、表面記載の中将
棋バージョンで指す期間が、具体的に書いてあったとしたら、
紛失したために判らないのは、我々にとっては致命的な打撃だ。
 しかし、想像で一般論を述べても、ピンと来にくいとの指摘
も出るかもしれないので、明らかに現物が有れば判ったと予想
される事柄で、今回は最も大きな、現物の有無の差につき論題
にしたい。最初に、いつものように答えから入る。

豹を示すと見られる、”ひ口▲”が、”ひゃ▲”なのか、
”ひょ▲”なのかが、現物が有ったとしたら確実に判定でき、
中将棋が92枚制に、この遺物が作成できる時点で、なる間近
だったかどうかを、正しく知る事ができた所だった

と考える。
 では、以下に説明をする。
 成書、”よみがえる中世(3)武士の都鎌倉”の221ペー
ジの写真から、上三列、下三列それぞれについて、

志ろいぬ 毛ひゃう まうこ波 (以上上三列)
近くへ行が 上わゆ けぬ   (以上下三列)

と今の所、本ブログでは読んでいるわけだが、

ひゃうの”う”、近くへの”近”は、磨耗で消失している

と本ブログでは見ている。また、以下が重要だが、

ひゃうの”ゃ”は、上端だけが、かろうじて残っているだけで、

実際には”ゃ”か”ょ”かは、微妙である。

やかよ.gif

現物が有れば、ちょうど中央付近の、切れ目に掛かった所の

この”ゃ”か”ょ”か判らない字が、完全に判定できた

所だっただろうと、私は見る。それが何故重要かと言うと、

”ょ”だったとしたら、単に音通りに書いただけ

だからである。つまり今の所、本ブログで見ているように”ゃ”
だったとしたときには、これを書いた、南北朝時代の今小路
ゲームセンターの管理人は、故意にか、当時の旧かなづかいと
我々が表現する日本語の理解が、足らないためかは不明だが、

”将”の字の旧かなづかいの”しやう”に合わせて、豹のかな
づかいを本来の”へう”ではなくて、誤った”ひゃう”にした

可能性が高い。しかしながら単純に、現代の我々の表記と同じ
になる音通りの”ひょう”にするのが目的だったとしたら、

”ひょう”では、将の旧かなづかい”しゃう”と結びつかない
ので、その時にはまだ中将棋が92枚制に、なって無いと確定

するからである。つまり、本ブログの管理人は、

南北朝時代の今小路ゲームセンターの管理人が、間違った旧日
本語を使っている所から見て、猛豹を猛将と関連付ける動機付
けが有ったのであり、この木簡が作成された時点で中将棋が、
92枚化していたか、あるいは、中将棋は96枚制から92枚
制に移行間近かだったかの何れか

ではないかと、現時点で疑っているのである。
 この判定は、現物が有れば、”ひ□▲”の

”□”が”ゃ”なら、写真からの印象どおり”+”と墨跡があ
るはずだし、
”□”が”ょ”なら、写真からの印象と違い”ト”と墨跡があ
るはず

と、判断が付くのだ。いまや現物が無いので、豹が”ひゃう”
なのか”ひょう”なのか、確定できなくなってしまった。現物
を誤って廃棄したか盗まれたか、今の所良く判らないようだが。
とにかく”何処かへ行ってしまって無い”とは。鎌倉市役所に
は、余り他では聞かない、遺跡の発掘成果発表会での、遺物の
取り扱いに関する相当な落ち度が、30年前には、少なくとも
あったようだ。(2018/12/15)

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