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鶴岡八幡宮出土鳳凰、不成香車、歩兵駒。なぜ今小路に無かった(長さん)

何回か述べたが、神奈川県鎌倉市今小路西御成小学校、および
福祉センター遺跡付近は、大日本史料の1221年7月13日
の僧清寂の、後鳥羽上皇御前での小将棋自慢話に、今小路殿と
いう場所で将棋の専門家が、順位戦をしている旨の記載が有る
ため、鎌倉時代のやや遅れるが、少なくとも後期には、ゲーム
センターとして、著名だったのではないかと疑われる。
 御成小学校遺跡からは、実際、やや粗雑な文字の金将駒と、
文字が消えたと見られる駒が計2枚出土している。しかし、こ
の出土駒の総数は、鶴岡八幡宮境内遺跡の5枚に及ばない。ま
た、駒種も前者は、2枚の形の差から持駒ルール有りと見られ
る平安小将棋の駒と、比較的ありきたりであるが、
鶴岡八幡宮境内遺跡の駒は、南北朝時代頃の後期大将棋系の駒
のようであり、明らかに格が上である。
 普通に考えると、鶴岡八幡宮の境内で、後期大将棋系の将棋
が指され、たまたま出土したようにも見える。しかし、在来仏
教の時代、大将棋と小将棋は神社仏閣では賭博行為として禁止
されていたし、南北朝時代の遊学往来では、大将棋と中将棋は、
博打の道具と記載されている。そもそも、博打は今小路で盛ん
に行われているのに、なぜ表向きにせよ、禁止されているよう
な所に、わざわざ大将棋の道具を運んで指したのか、良く考え
てみると、若干だがおかしい点があるのではなかろうか。
 そこで今回は、鶴岡八幡宮境内遺跡から出土の、後期大将棋
系の駒が、たとえば今小路西鎌倉市福祉センター遺跡で、なぜ
出土しなかったのか、考えられる理由についてを論題とする。
 いつものように最初に答えを書いて、その後で解説する。
鎌倉市の鶴岡八幡宮には現在、鎌倉国宝館が有って、今小路西
御成小学校出土の、安達氏一族のメンバーを記載した木簡等が、
鎌倉市の指定文化財として保管されている。が鎌倉時代等にも、

鶴岡八幡宮は、少し前の時代の遺物を安全に保管するのに使用

されていたのではないかと、推定される。
 では、以下に説明を加える。
 前に、仏教の戒律に触れるため、将棋駒が魚型に変化しなか
ったとの論を、本ブログで述べた事があった。その際、生臭僧
侶が、寺院で将棋賭博をするために、寺院から将棋駒が出土す
るケースとは別に、棋士が故人となった後で、宗教施設に、将
棋具が奉納されるケースが、あるのではないかと論じた。
 他方、神奈川県鎌倉市の今小路西鎌倉市福祉センターから、
中将棋のバージョン指定の木札が出た事から、成りのルールが
完成していない”鶴岡八幡宮境内遺跡タイプ”の黎明期の中将
棋にも使える後期大将棋系の駒が、かなりの数、鎌倉市の何処
かにあった疑いが出てきた。

言うまでも無く、御成小学校遺跡や鎌倉市福祉センター遺跡の
付近は、鎌倉武家でも、かなり位の高い人物が出入りしていた

所である。よってそこで使われた、特に上流階級が使うと、ほ
ぼ特定できる、中将棋の駒等は、出入りしていた、実は鎌倉幕
府や次の時代の、南北朝時代の鎌倉府内の重要人物である、
ゲーマーが亡くなると、遺品として、保存が考えられたであろ
うという事を、一応想定する事はできるのではないか。

鶴岡八幡宮境内遺跡の出土駒は、鎌倉時代等には、今の
鎌倉国宝館に保管されている、文化財のような扱いの遺品

だった可能性が、実はあるような気がする。鶴岡八幡宮の下級
の神官が、後期大将棋系の将棋をわざわざこっそりと、
鶴岡八幡宮の境内内で、近くの高級武家が出入りする、今は
今小路通り西の御成小学校の建っている、ゲームセンターへは
行かずに指すというのも、不自然と言えば不自然だからだ。
 では鎌倉幕府等の要人である、今小路ゲームセンターのゲー
マーの遺品を、鶴岡八幡宮に、なぜわざわざ運んだかだが、

将棋駒等は、次の時代のゲーマーにも使われるので、そこに
置くと盗難の恐れがあったから

だとみられる。つまり、

今小路西御成小学校遺跡近傍で、遺物を保存管理させるのは、
昔も今も危険

という事なのかもしれない。
 そもそも、鎌倉幕府自体が、講談社、2011年出版の、
細川重男氏(東洋大学講師等)著”北条氏と鎌倉幕府”にあり、
彼のブログ”日本中世史を楽しむ♪”にも書いて有るとおり、

極道の巣のような所であったとしたら、法を守るかどうかは謎

であったのだろう。また特に蒙古来襲の後、カリスマ執権と
現代評される北条時宗が他界した後は、鎌倉幕府内には政治混
乱や、退廃がひどかったと、私は上記細川氏の、前記本等で読
んだ事がある。南北朝時代になると、更に混乱が起こったのも
明らかだ。
 そのため、将棋のうちでも価値の高い後期大将棋系の遺品が、
他界した幕府や府の高官の、記憶の品として後世に残るように、

黎明期中将棋が好きだった、他界した鎌倉幕府等高官の遺族は、
遺品を鎌倉鶴岡八幡宮の、当時の”国宝館”に当たる所に奉納

したのではないだろうか。しかし時代が変わり、その時代の国
宝館が、戦乱等で消滅したため、遺物の一部が地下に埋もれ、
たまたま水分の量が適切であったために、鎌倉市鶴岡八幡宮境
内遺跡の出土将棋駒として、現在我々は目にする事ができてい
るのかもしれない。
 最近紛失が発覚した、今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土
の中将棋木札も、鶴岡八幡宮境内遺跡出土駒といっしょで、
重要な故人の記憶である。
 なぜならそれは、雄山閣出版が、だいぶん前の西暦1998
年に出した”考古学による日本歴史12 芸術・学芸とあそび”
で、福井県の一乗谷朝倉氏遺跡を扱った、出土品研究者の
水野和雄氏が、”輸入された娯楽”の最後で結んでいる、

成書によれば近いはずの、”日本将棋の成立過程を解明する日”

を実際に迎えるための、最大の難所になった部分に関する

核心的な疑問、すなわち

鎌倉時代頃大将棋と中将棋はどこでどう、線で結んで繋がるか

に関する

決定打となる情報を含んでいる

からである。
 従って運良く、紛失した、今小路西鎌倉市福祉センター遺跡
中将棋木札が、仮にまもなく見つかったなら、

安達氏の武士名を羅列した、御成小学校遺跡の西暦2016年
に鎌倉市指定遺跡となった木簡同様、鎌倉市の指定遺跡に昇格
させ、鎌倉国宝館に移したほうが、御成小学校近傍の施設に、
他の大量の有形文化財と、混ぜ合わせに置くより、ずっと安全
で適切な事は明らか

だ。
 だから鎌倉市は、この木札の管理場所も、

その重要性から見て、

行く行く鶴岡八幡宮に移して、保管を強化すべきではないかと
私は考える。それが文字通りの、”温故知新政策”であると、
このケースは、言えるのではなかろうか。(2018/12/16)

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