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鎌倉市市役所隣の中央図書館。1987年頃の発掘報告書は無い(長さん)

少し前に、神奈川県鎌倉市の市内出土物の文献の所在について
人づてに私は調査してもらった事がある。さいきん調査の結果
の連絡文を読み直して、表題に書いた内容が、書いてあるのに
気がついた。

結論を述べると、西暦1995年以前に関しては、鎌倉考古学
研究所の発掘結果の報告は、市役所の文化財課に対してするだ
けで、更に”発掘報告書”自体が、一般人の目に止まる形で、
たとえば鎌倉市の手で、増刷される事は無かった

ようである。
 神奈川県鎌倉市の市役所に隣接して、鎌倉市には中央図書館
がある。そこの2階に”郷土資料室”が有ると私は、報告者の
知人から聞いているのだが。それによると、最も古い史料が、

”かながわ考古学財団調査報告(1995)”だ

という話だ。つまり、西暦1987年の、本ブログで再三述べ
た、今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土の、中将棋木札の、
発掘時の報告に代表される情報に関して、鎌倉市より市民に対
しては、

鎌倉市教育委員会等または、鎌倉考古学研究所、以上の発行の、
発掘報告書類は、見やすい場所には、大量には公開していない

という事だとみられる。なお、報告してくれた知人は、その後
引っ越したが、元鎌倉市民だった。
 史料を見たければ、隣の建物に、文化財課が以前よりあった
とみられるため、報告書は、そこに問い合わせば良いと考えた
という事だろうか。逆に言えば、発信された情報が少ないため、

神奈川県の考古学財団が介入するまでの、古い史料情報につい
ては、鎌倉市市役所内の、文化財課に情報が残っていなければ、
隣接する鎌倉市中央図書館へ行ったとしても、ほぼお手上げ

の状態のようだ。しかし神奈川県も、さすがに、これではまず
いと見たのだろう。1995年(平成7年)頃、考古学財団を
使ってテコ入れしたので、1995年以降の鎌倉市の出土史料
については、比較的目に付きやすいところに置いてあるという
のが、人づてに私が聞いた内容という訳である。
 なお、1987年~89年頃にかけて盛んに行われていたと
みられる、鎌倉市市役所近傍についての、今小路西御成小学校
遺跡等の発掘については、

鎌倉考古学研究所が、よみがえる中世3武士の都鎌倉以外にも、
少なくとも1冊、成書を発行して啓蒙していたとの情報がある。

 鎌倉考古学研究所は結局の所、発掘成果に関する一般啓蒙書
を、恐らく”餅は餅屋の役割の分担”の考えで、前世紀に複数
出したようだ。
 だが”発掘報告書は市役所対応のための書類、それから先は、
市役所の仕事”という認識が、当時はよほど強かったのだろう。
彼ら自身が、鎌倉市の対応のマズさに気がついて、ただちに

1980年代の発掘に関して、じまいで、専門的な発掘報告書
を一般の研究者向け等に、目に付くように出す事はし無かった

と、図書館の蔵書の内容からは見てとれる。従って今回問題の
中将棋木札のように、記録物が、成書にかすかに残った写真以
外に、たまたま事実上無い、すなわち、鎌倉市市役所に対して
の発掘報告書の中に、万が一抜けがあったりすると、

鎌倉市市役所の近傍の将棋史研究者を除いて、瑕疵に気がつか
ずに放置され、例えば今回のように30年経った後で、誰かが
たまたま運良く気がついても、発掘作業をした河野真知郎氏に
連絡がつかないと、それで終わり

になりかねない状況のようだ。鎌倉市と言えば、かなり前から、
史料がたくさん出土して、研究資料が豊富な場所とのイメージ
が強かったが。実際には、ここの文化財行政は、前世紀の
1995年より前には、かなり御寒い状況のよう、だったらし
かった。
 平成も間もなく終わる。ので昭和から平成の切れ目に発掘さ
れた、本”中将棋木札”に象徴される、このネガティブ状況は、
次の時代には改善されて、”少なくとも日本の遺跡発掘遺物に
関しては、今じゃ考えられないような不祥事”と言われるよう
に、当然なってほしいものだ。(2018/12/30)

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