SSブログ

大坂電気通信大学高見友幸研究室で、古代の大将棋文献発掘か?(長さん)

最近、大坂電気通信大学の高見友幸氏の研究室の摩訶大将棋
のブログに、表題のように、大将棋の12世紀中、平安時代
末の史料が新発見されたと出た。
 該ブログでは簡単に紹介されているだけなので、内容は、
はっきりしない。玄怪録”小人の戦争”の史料をめぐる、旧
遊戯史学会での論争を振り返ると、著者の、いかがわしさで
はなくて、

本当に、西暦1100年代の真ん中に成立したものなのか

が一番大事だ。ともあれ次の旨の記載が、大坂電気通信大学
の高見研究室の、摩訶大将棋のブログには記載されていた。

1.15升目130枚制後期大将棋に関する新情報で有る事。
2.将棋種の中に、飛車と猛牛と、その他が含まれる事が記
載されている事。
3.少なくとも飛車と猛牛が、摩訶大大将棋、摩訶大将棋同
様、金将に成るとの旨が判る事。
以上が、ブログに書いてある。

 今の時点で、本ブログではどの程度の価値の情報と考える
のか。以下に結論から述べる。

15升目130枚制後期大将棋の情報のように、見えない。

では、以下に説明する。
 重要な問題点は、普通唱導集の大将棋の唱導唄を、少なく
とも高見研究室の摩訶大将棋のブログの、同じページで、
”後期大将棋に関する物”と判定していると言う事である。
 この判定は、どちらが正しいかではなくて、相対的に
どちらがルーズがシビヤに見ているかという点で、本ブログ
とは合って居無い。
言うまでも無く、本ブログの判定の方が、よりシビヤだ。
だから、ルーズな見方で、問題の平安末期の史料が、後期
大将棋に関する情報だと評されても、本ブログでは、それを
更に追認する立場には無い。

だから、1の”15升目130枚制後期大将棋に関する新情
報で有る”という、高見研究室流の判別法で、判定した結果
に基づく主張には、とりあえず賛成できない。

 すると、残りは、飛車と猛牛が、三善為康が懐中歴を書い
た頃に、有ったとする情報が有るという事だろう。
 本ブログで前に述べたが、

二中歴の将棋と継子立ての繋がりから、懐中歴には、大将棋
の記載が無かった

疑いがあると見ている。つまり、二中歴に二中歴大将棋又は
13升目68枚制平安大将棋が記載されたのは、
西暦1200年頃と、疑っていたと言う事である。なお、
13升目68枚制平安大将棋は、西暦1110年頃成立した
のではないかと、大江匡房の西暦1080年頃の平安小将棋
標準化仮説から、我々は推定している。つまり、

飛車と猛牛のある、駒数多数将棋が有るとすれば、それの無
い平安大将棋の指された期間内であると、見られるという事

である。公平に見ると、
飛車を発明するのは、1110年から1150年の間には、
奔横の発明が先行していれば、走り駒を増やすと”車駒”は
ゲーム性能と言う点で、害になる駒では無い事位、判りそう
なものであるから発生しそうだ。また同じ期間内に、猛虎と
飛龍の間に、猛牛と、嗔猪を入れ込む事位は、鬼門や、
十二支信仰は平安時代から当たり前であるから、本ブログの
これまでの論よりも、もっと早くに考え付いて、一部で指さ
れていたのかもしれないという事であろう。つまりは、
徳島県の川西遺跡大将棋の成立を、80年程度早く見さえす
れば、

全てが13×13升目将棋であったとしても、説明できる

という事になる。
 問題の史料の将棋も、平安大将棋の形に近いものであって
3段目が4段目になっただけであり、二中歴には記載されな
かったが、西暦1150年頃には、飛車、猛牛、嗔猪の存在
する13升目80~82枚制(更に奔横が有った場合82枚)
の将棋が有った可能性も、否定できないという、だけの事な
のではないのか。
 ただし、

摩訶大将棋の成りの多くが、金将である理由に関する起源と
いう意味では、その史料は何か情報を含むものかもしれない。

以上のように、限られた情報を見る限り、本ブログでは以上
のような見方をする。
 現在調査中らしいが、この史料が、西暦1250年頃では
無くて、本当に西暦1150年頃成立したものであるよう、
本ブログでは、大いに期待いたしたいと考える。(2019/01/02)
(追記)
 その後まもなく、高見研究室の摩訶大将棋のブログに、本件
追加の情報が載った。が上記情報の、元史料自体の

成立年代に関する、明解な言及は特に無かった。

他方、本ブログの管理人は、更なる追加情報に接した後、
”大将棋の戦国時代、西暦1500年前後の、進化に関する
証拠史料”も現行、実はほとんど、話が無かったと言う点に、
かなりの注意を払うようになった。(2019/01/04)


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー