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27升目駒数1年の日数型将棋で覚えやすいタイプを作成(長さん)

本ブログによると、水無瀬兼成は泰将棋を作成したが、
豊臣秀次が余りにせっつくため、出来の良いものは作れ
なかったという事になっている。そもそも盤は3の倍数
で作るのが、超摩訶大大将棋を作るとしたら、常識だっ
たはずだ。9の3倍である27升目タイプは、最も大き
な数ある”9”が2回出てくるので、最適だと私は思う。
 つまり3×3×3で27と言うのは、中世ならウケた
はずだし、白道28宿とか27宿といった、陰陽道の占
いの月の位置に因んだ星座の数とも合っているので、
25升目にするなら、この方がずっと”中世らしかった”
という事である。ところで、前に、以下のような将棋を
私は作成したが、風邪引きで、体調が悪いときの作だっ
たので、こちらも余り出来が良くなかった。

以前>
口口口口口口口口口口仲人口口口口口口口口口口口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
奔王鉤摩飛鷲角鷹龍王龍馬角行堅行横行方行堅兵横兵車兵飛車
自在四天教王孔雀口口朱雀口口白虎口口玄武口口青龍口口右車
奔鷲獅鷹法性口口奮迅口口金翅口口大象口口大師口口鵬師砲車
狛犬夜叉口口鳩槃口口羅刹口口金剛口口力士口口白象口口強車
獅子麟鳳悪狼口口飛龍口口猛牛口口盲熊口口嗔猪口口老鼠走車
酔象盲虎猛豹臥龍口口古猿口口蟠蛇口口淮鶏口口猫叉口口奔車
太子近王提婆口口無明口口行鳥口口馬麟口口変狸口口驢馬反車
玉将右将金将銀将銅将鉄将瓦将石将土将火将木将水将桂馬香車

この程度の将棋ならば、

本来、簡単に配列が覚えられて当然のような、規則性の
有る作りをしていなければならなかった

と思う。しかも、動きの対称性の悪い駒が多くて、ゲー
ムは、いっけんして、しにくい。

特に朱雀、白虎、玄武、青龍は、ゲームしていて神経を
使う非対称駒なので、入れやすくても、入れてはいけな
かった。
 また、駒の配列の規則性が充分でなく、覚えるのに苦
労を感じるものであった。
 そこで最近、空覚えで並べられ、ルールも規則性が高
くて、わかりやすいように、上記のゲームを直してみた。

水無瀬兼成は本来、延年大将棋はこう作るべきだったと
ありありと見えるような形を、私なりに目指してみた

のである。
 結果は下記のようである。
改善後>
27×27升目将棋初期配列(中央より右側。11段目以降
”口”のみ。)
口口口口口口口口口口仲人口口口口口口口口口口口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
奔王前旗大鳩龍王龍馬角行方行堅行横行鉤行堅兵横兵車兵飛車
自在天王大鷲大鷹口口奔鷲口口教王口口大象口口大獏口口右車
法性獅鷹奮迅口口飛鷲口口角鷹口口右鷲口口山鷹口口摩羯砲車
狛犬鳩槃口口夜叉口口羅刹口口金剛口口力士口口白象口口強車
獅子麟鳳悪狼口口飛龍口口猛牛口口盲熊口口嗔猪口口老鼠走車
酔象盲虎猛豹臥龍口口古猿口口蟠蛇口口淮鶏口口猫叉口口牛車
太子近王提無口口踊鹿口口行鳥口口馬麟口口変狸口口驢馬反車
玉将右将金将銀将銅将鉄将瓦将石将土将火将木将水将桂馬香車

これなら、
一段目は将と桂馬。
二段目は大大将棋真ん中列と成り小駒、泰将棋の上段端。
三段目は摩訶大大将棋の中央と、非対称小駒と猫叉。
四段目は後期大将棋の3段目に摩訶大大将棋の袖小駒の上段。
五段目は摩訶大大将棋の4段目、仏教駒の並びと白象。ただし
大局将棋の強い、鳩槃をより中央に置く。
六段目は不正行度踊り駒と、居喰い駒の並び、最後角行2回の
摩羯。ただし、鷲鷹は隣接8方居喰い可能に、変えて統一。
七段目は制限なし跳び越え駒4つに、走りかつ踊り駒並び。
八段目は摩訶大大将棋や後期大将棋の歩兵下段並びで、奔王の
次に3踊り走り駒を入れ、行駒に鉤行を追加、兵駒を加える。
端列は香、反、牛、走、強、砲、左右、飛車の、判り易い車駒
の下からの並び。
その上は、摩訶大大将棋と同じパターンの歩兵と仲人列。
 以上で、記憶できそうだ。
 特に、風邪をひい時に作った、元の配列は、6段目と
7段目の作りが、覚え辛いし、動きのわかり易い駒が集
まっていないし、なっていなかったように思う。ちなみ
に、部分的に間違った所を直して、成りも次のようにな
った。

27×27升目将棋成り配列(中央より右側。11段目以降
”口”のみ。)
口口口口口口口口口口奔人口口口口口口口口口口口口口口口口
金将金将金将金将金将金将金将金将金将金将金将金将金将金将
奔鷲大旗鳩槃不成不成金将強車金将金将金将車兵水牛天王金将
不成不成不成不成口口不成口口不成口口不成口口不成口口鉄車
不成不成不成口口大鷲口口大鷹口口飛鷲口口角鷹口口金将不成
大象不成口口四天口口四天口口四天口口四天口口象王口口不成
獅鷹獅奔奔狼口口龍王口口飛牛口口飛鹿口口奔猪口口蝙蝠砲車
太子奔虎奔豹奔龍口口山母口口奔蛇口口仙鶴口口奔猫口口前牛
玉将前旗教法口口方行口口奔鬼口口奔王口口鳩盤口口鳩盤金将
城玉右軍奔金奔銀奔銅奔鉄奔瓦奔石奔土大将中将副将金将金将

これも、基礎を摩訶大大将棋とし、加えた部分は、なる
べく、大局将棋に合わせているので、規則的だろう。
 今回は、攻守バランスも考えて、バランスが取れるこ
ともめざした。
 全体として、

普通では、この将棋はやや、攻撃力過多

のはずである。

踊り駒がたくさんあるためだ。

そこで、3つ跳び越え駒を、狛犬動きに弱体化させたり、
自在王を、空いた升目は何処にでも跳ぶが、相手駒を取
るときには、奔王のルールで取れるだけにするという風
に弱くした。ただし、自在、天王、大鷲、大鷹も8方喰
いができるとした。
 更に、類似の動きの駒が増えることもあり、提婆、無
明、教王、法性を取ったら、入れ替われるルールは止め
た。
 その上で更に成りも、全ての駒について、自陣または
相手陣の中にある、相手の駒を取ったときに強制的に成
る。敵陣に入るだけでは成らない。中間段では、相手駒
を取っても成らないという、

比較的、弱い成り

を考えて見た。
 また、従来の駒種には全く存在しないが次のルールの

成りの玉将、”城玉”

を、上の将棋では新たに考えた。この将棋で新しいのは

ほぼこの点だけ

である。
 ちなみに、木将の成りは奔木や白象ではなくて、大局
将棋の副将の斜めを縦横に変えた動きの、仮称、中将と
してみた。
玉将については成ると、相手の駒は直射では王手が掛か
るが、踊りでは取れず、跳び越えも出来ないという、
駒の格が、成ると発生するという調整方法を思いついた。
なお、玉将は、駒を取った時だけでなくて、酔象が太子
に成ったときか、太子が駒を取ったときにも、成れると
する。(太子、玉将は、常に片方に1枚以下。)
この場合、踊り駒が味方の駒に隠れた玉将に、王手が掛
けられなくなるだけでなく、四天王等の跳び越えも、
成った玉将については、出来なくなるとした。 ただし、
獅子のような、不性行度駒は複雑なので、例外なく跳び
越えられるとすべき、また桂馬は跳び越えられるとすべ
きとみられる。
 駒の格が無い、普通の玉将は玉将で、成って相手の駒
の動きに関して、駒の格が発生する方を、入城した玉将
の意味で、城玉としてみたわけである。
 もともとこの将棋は、踊り駒があるので、攻撃側が強
すぎると見たのである。だから踊りで、玉駒の一方の
玉将が成ったら取れなくなる程度で、もしかすると、
バランスは、ほぼ良いゲームになるのではないかと、
現時点では考えられた。
 なお、この程度まで配列が規則的になれば、泰将棋よ
り、初期配列を覚えるのは、はるかに簡単であり、2~
3回良く見れば、そのあと何も見ないで、駒が初期配列
に並べられそうだ。
 そのうち実際に、模型を作って、チェックしてみよう
と思う。(2019/02/18)

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鎌倉期の大日本史料駒落ち標準平安小将棋。段位の判定は不能(長さん)

前に述べたように、隠岐に配流になった後鳥羽上皇の家来
で、もうそのときには僧侶であった清寂の言から、西暦
1221年よりも少し前に、清寂の段位の認定の基準になっ
た、今小路の御所で指した将棋は、8升目タイプの取り捨
ての原始的な平安小将棋だったとみられる。それに対して、
後鳥羽上皇の御前で、彼が仲間の将棋の強豪の家来との対
局結果を予想した上で、やはり後鳥羽上皇の家来の西蓮に
負けた、駒落し型の将棋は、9升目タイプの標準的な取り
捨て平安小将棋だったとみられる。
 後者は、旦代の難点を回避するために、5筋の歩兵を1
枚か、または、2一の位置の囲い方の桂馬を一枚落して
指す事が、後鳥羽上皇の御前での清寂の言の内容であると、
本ブログでは推定している。
 以前、そう推定する根拠として、話の中で、

1)今小路の御所の将棋に関して、駒落しの言及が無い点

を、根拠として挙げた。
 しかし、言及が無いという理由付けは、言わなかっただ
けとも取れるので、根拠としてさほど強いものではないと
の印象も、あるかもしれないとも思われた。
 そこで今回は、今述べた大日本史料の西暦1221年
7月13日の条の話の中に、
今小路の御所で清寂が指して、調子が良いとき”1マチ下”
だという、彼の段位認定の根拠になった将棋に関して、
9升目の標準型の平安小将棋では無い
と考えられる、別の更なる根拠が無いのかどうかを論題と
する。
 最初に回答を書き、次いで説明を加える。

根拠は有る。

9升目の標準型の平安小将棋を使うやり方では、測定者に
はせいぜい”清寂が、3マチのへぼ将棋指しでは無い”
程度しか、判定の”分解能”が無い

とみられるからである。
 では、以下に説明を加える。
 9升目型の平安小将棋では、最も棋力が接近した相手同
士用に、用意された駒落し将棋は、

上手が5筋の歩兵を落して、先手で指すバージョン

だったとみられる。しかしながら、それで、

2マチ(2段)差の棋士同士が対局しても、下手が常に、
勝つだけだった

と予想される。

5筋の歩兵で、位を保つ事だけ考えれば良い程度の、工夫

の将棋なためである。そこで清寂言う所の今小路の御所で、

相手が2マチの下より下でないと、1マチ上とみられる
”コンパニオン棋士(先生棋士)”でも、上手では”標準
型9升目平安小将棋、駒落し”では勝てなかった

と、予想されるのである。
 具体的に、将棋の棋譜の例で示してみよう。
 下の写真は、下手がマネをしながら、5筋の相手には
無い歩兵で、位を維持する事だけに、注意しながら指した
9升目の標準平安小将棋の途中図の例である。

後鳥羽将棋歩兵落.gif

この例は、後手が△4七玉と、上手の桂馬筋を外した所で
あり、

下側が後手の、下手である。

この局面では、下手の5筋の赤丸の、歩兵の存在が強力で、
既に、かなり下手有利だ。すなわち、一例では、この後、
上手が桂馬交換の攻撃に出るが、結局、玉回りの守り駒を
使い果たしてしまうことになる。すなわち、一例で
▼6五桂△5五歩▼7七桂成△同金▼6五金△5六金
▼同金△同玉▼3五歩△同歩▼同金△7六金▼同銀
△同銀▼2六金△6五玉と16手、

取捨ての将棋が進んで、

以下の局面になると、いう事である。

後鳥羽将棋16後.gif

この局面で、上手の玉がほぼ、詰んでしまう状態である。
つまり上に述べたような要領で、下手が指せるようにな
るには、

標準平安小将棋の、初心者の域を脱しさえすれば充分

だったとみられる。だから、
この将棋を指せば、1マチ上と2マチ下以内の、棋力差の
者同士が指せば、いつも、下手の勝ち、上手の負けだった
と考えられる。
 実際、大日本史料中に書かれた、清寂対西蓮の一局は、
清寂が、おだてられて、5筋歩兵落しで指した、標準型の
平安小将棋であっただろうと言うのが、本ブログの見かた
だ。
 従って、清寂が今小路の御所の、娯楽用遊戯センターと
みられる場所で、コンパニオン棋士の1マチ上格の先生
から、

1マチ下であったり、2マチ上であったり、識別分解能の
1/4程度の判定が、9升目標準平安小将棋駒落し型で
出来たとは考えられない

という事になるのである。つまり、
平手で普通に指せる別のバージョンの小将棋で、今小路に
於ける、後鳥羽上皇家来の清寂の、将棋の棋力の判定は、
行われたに違いない、という事である。
 よって、今小路の御所では、

その時代には、いろいろなバージョンの将棋で指す事が、
当たり前と認識され、将棋の会話も、その常識に従って
今とは違って、普通に行われ、それに誰もが慣れていた

と考えられる。やはり以上のように、

後鳥羽上皇が隠岐に配流になった時代には、平安小将棋に
少なくとも2つの別バージョンのゲームが有った

と結論せざるを得ない。以上のように、私には考えられるの
である。(2019/02/17)

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今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札盤目示唆しない訳(長さん)

現在の所、問題の神奈川県鎌倉市御成町の発掘遺跡の木札
には、将棋駒の種類は書いてあるが、将棋盤に関する情報
は無いとみられる。二中歴の大将棋で、初っ端に、”また
十三間の将棋があって”と書いてあるのとは対照的である。
 本ブログで、これが中将棋類だとするのは、獅子である
か狛犬か、猛豹の位置と総駒数、盲虎のルールの3項目の
記載とみられるものは、中将棋のゲーム性能を決める、概
ね、主要部分であると見ている点からの、推理にすぎない。
 では、木札に将棋盤の升目情報を書いて、15升目盤、
13升目盤、12升目盤のどれを、将棋の道具を運搬する、
ゲームセンター店側の使用人のウエイター・ウエイトレス
が、ゲームセンターの来客の所に持って行くのかを、木札
で、なぜ指示しなかったのであろうか。
 以上を今回は論題にしよう。
 最初に回答を書く。

木札が将棋盤とセットで使うものであり、客の前に置いた
状態で、将棋盤が中将棋の盤であるか、そうでないかは、
将棋盤自体を見れば、札を運んだ本人にも判るような木札

だったからだと、本ブログでは推定する。
 では、以下に説明を加える。
 今にして思えばだが、もしこの木札が、中将棋大会での
各将棋盤卓に、共通のルールが書いてあるとしたら、

”中将棋大会”とか”本大会規定”とか、木札の最初に、
書いてあるのが普通

だったように私は思う。
 しかし、各将棋盤卓に、個別にゲームバージョンを表示
するために使う、

駒数多数将棋の乱立時代、ならではの物品だった

としたら、中将棋の盤が置いてあれば、ゲーム種類の

大分類が中将棋である事は、ギャラリーにとってさえ自明

だ。逆に言うと、

この木札が作られた時点で恐らく既に、13升目型の平安
大将棋系ゲームは、鎌倉の今小路西御成小学校遺跡ゲーム
センターでは、盤の用意がないほど、廃れていた

と推定される。

12升目盤を読み間違えるとしたら、13升目盤くらい

しか無いからだ。このゲームセンターには、恐らく、将棋
用の将棋盤として、8×8升目、9×9升目、12×12
升目、15×15升目の4種類の将棋盤の用意があったの
だろう。今小路西御成小学校遺跡ゲームセンターに出入り
する程度のレベルの客にとって、西暦1290年タイプの

13升目の普通唱導集大将棋には、自明定跡があって、ゲー
ム性に問題があり、対局を希望しても、誰にも相手にされ
ない

のは、少なくとも西暦1360~80年頃には、常識だっ
たとみられる。
 12升目盤が、仮に今小路西鎌倉市福祉センター遺跡で
出土した木札(当時は2片)といっしょに置いてあったら、
中将棋という大分類のゲームのうち、”92枚制へ陣弱体
化の改善した狛犬中将棋を、守り方盲虎強化型で指す”と
いうのは、

そこに居合わせた、マニア連中の誰にでも判ったこと

だっただろうという意味である。
 だから逆に言うと、盤升に関する情報が無く、かつ小型
で邪魔にならない大きさであるという事から、

問題の木札が、将棋盤とセットで、将棋場の雰囲気をかも
し出す、どの将棋種が指されているのかを示すアイテム

と見るのが自然であると、河野真知郎氏に知恵をつけても
らったからこそ、私には出来たことだったが、私には、今
ではそう思える。
 この木札は、今では将棋種が、完全に日本将棋の1種類
に固まってしまったので、たとえば20世紀には、全く
類似品に、お目にかかれなかった代物ではあった。が本ブ
ログのように、”大将棋の時代”の存在を強く意識すると
ともに、中将棋は、鎌倉時代末期以降の、ある決まった時
点で始めて発生したと、きちんとイメージしさえすれば、

鎌倉市の遺跡から出る物品が使われた時代は、中将棋の
初期の乱立時代に違いないと判るので、出てきて当たり前

の物と理解する事が、始めて可能になったというわけなの
であった。(2018/02/16)

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今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札割れて出土した訳(長さん)

よみがえる中世(3)武士の都鎌倉「文字のある生活」
(220ページ~221)等の執筆者、
河野真知郎(かわのしんじろう)氏からの直接情報によ
れば、表題の、神奈川県鎌倉市御成町にある、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡より出土の、墨書木札
は、出土時2つに割れていたとの事だった。
 本ブログ独自の解釈だが、

木札は鎌倉時代または南北朝時代に、元々2枚に分かれ
ていたものを、1枚目の下部を少し削って、南北朝時代
の接着剤(襖のノリか?)で、接合したもの

である。だから、

接着剤が劣化して接着力が無くなったので、元の2つの
状態になり、出土してから鎌倉考古学研究所で、現代の
接着剤で再結合した現物が、前世紀には実際に存在した

とみている。
 では、
1)なぜ元々2枚だったのか。
2)南北朝時代等に、(推定)今小路御成小学校遺跡ゲー
ムセンターにて、わざわざ少し削ってから当時の接着剤
で、結合してなぜ1つにしたのか。

以上を、今回の論題とする。
 本ブログの見解回答を先に書き、ついで説明を加える。

1)について。
後半の記載に関して、”斜めへ行くが、十字わゆけぬ”
という旨の記載の木札が、該鎌倉時代末期または、
南北朝時代のゲームセンターに別に有ったため。
2)について。
 盲虎の駒の動かし方ルールが7方歩みに、10年位で
収斂したので、平安大将棋型の後半バージョン木札は、
その時点で不要になり、バラバラだと管理が難しいので、
接合された。その際、保管場所に旨く収まるように、
多少切れていても意味の通る、1枚目の下部が、劣化と、
接合部分を揃える目的で切除された。
 以上と、本ブログでは考える。
 では、以下に説明を加える。
 以上の1)と2)の結論は、さしあたり一案であり、

仮に”2枚を合併の原因A”とでも、しておこう

と考える。
 では説明しよう。
 ポイントは、当時の中将棋には、バージョンがいろい
ろあり、1種類づつ作っていたのでは、木札が多種類に
なって、遊戯具運搬係り(以下、ウエイトレスと記す)
が、間違えてしまう状態だったと言う事だと考える。

志ろいぬ、猛将のような猛豹。盲虎は
近くへ行くが、上はゆけぬ。

という木札と、

志ろいぬ、猛将のような猛豹。盲虎は
斜めへ行くが、十字はゆけぬ。

という木札は、ウエイトレス役の人間が、忙しさにかま
けてうっかり前半だけ読んで、

札を間違えて配ってしまうと、後で、将棋の着手の合否
で大きなトラブルになる恐れが有った

とみられる。
 だから、ウエイトレスの注意が、このケースは、

盲虎の動きに関する、後半へも行き届くように、2枚に
分けた

と私は考える。つまり、実際に出土したのは、
(盲虎は)近くへ行くが、上はゆけぬ。の木札であった
が、(盲虎は)斜めへ行くが、十字はゆけぬ。の木札も
別にその時代には有ったのではないかと、疑われるとい
う事である。
 前半はいつも一緒の木札だが後半は、バージョンによっ
て、どちらかを持って行く事に、なっていたに違いない。
 しかし、客から見ると、将棋盤にルール木札がごちゃ
ごちゃと並ぶよりは、1枚にまとまっていた方が、あり
がたかったに違いない。そのため、
10年程度後と見られる一例では西暦1380年頃にな
り、盲虎は現在の中将棋の、七方歩みの盲虎が主流にな
り、猫叉も出現して、斜め動きのバージョンが消えると、

出土物の1枚目の”ぬ”の下部1/3程度と、”ひゃう”
の”ゃ”の1/2程度は、見えないのを承知で切り落と
されて、後半の”斤くへ行く・・”木札片と前半とが
上下に、南北朝時代の接着剤で結合されたと、私は見る

のである。接着のときに、1枚目の下部を削ったのは、

基本的に、保管スペースに無理やり入れるため

であったと見る。理由は、
”志ろいぬ”の”ぬ”が”め”に見えても、ゲーマーは
狛犬だと判るし、”もしひゃう”のゃが、ゅかどうか判
らなくても、”う”が見えなくても、慣れた客なら猛豹
と判るだろうし、文句が来たら、きちんと書き直したの
を手渡し直せばそれで良いと、ゲームセンターの店主が
見たからだと、私は思う。
 そもそも、接合部分が線引きと、カッターナイフで
削ったように真一文字なため、

出土木札が、自然状態できれいに割れるとは考えられな
いという点で、1枚目下部の手直しがないという説は、
かなり不自然

だし、

1枚目の下部に欠損が有るのは”志ろいぬ”のぬの字の
下部の1/3とみられる部分が、接合部分の下の方の木
札片と疑われる物に、墨跡がハミダして無い事から自明

のように、本ブログでは見る。
 最後に書いた事は、もしこの木札の実物が発見されれ
ば、簡単かつ厳密に、当否が判断できるに違いない。

現物が早くみつかってほしい

ものだと思う。(2019/02/15)

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今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札が小型だった理由(長さん)

前に述べたように、よみがえる中世(3)武士の都鎌倉
「文字のある生活」(220ページ~221)の執筆者、
河野真知郎(かわのしんじろう)氏によれば、表題の、
神奈川県鎌倉市御成町にある、福祉センターの地下より
出土した、墨書木札は”百人一首札程度の小物”との事
だった。
 従って、この物品の内容を棋士が一度に複数人で、や
や遠方の”将棋盤”の所から眺め、内容を把握する事は、

出来なかった

と、一応考えられる。つまり、将棋大会規定を書いた木
札では、どうやら無さそうだ。
 では、いったいなぜ、木札の作成者が、一部の人間だ
けが、記載されたルールに従えば良く、

皆に徹底する事を目的にしなかった

としか考えられないような物品を作成したのかを、今回
の論題とする。
 以下、小型の理由の回答例(A)としたいと考える。
すばり

(A)この時代は、将棋盤によって、別のルールの将棋
が、ばらばらに指されていたから

だと、先ずは考えてみる。
 では以下に、そう考えられる根拠や、経緯の説明等を
する。
 そもそもこの問題を考える上で、今の所唯一の史料は、

大日本史料、西暦1221年7月13日の”隠岐に配流
された後鳥羽上皇の所に、将棋士を名乗る僧侶の清寂が
訪れたとの旨”の段

しか、関連するものがない。本ブログでも”今小路殿の
御所”は、京都に有るのではないかと疑っているが、
今小路という、鎌倉の遺跡の発掘現場と、類似の名が出
てくる、将棋の史料はこれだけだ。
 以下も、本ブログの”勝手読み”と言われれば、それ
までだが、以前述べたように、本ブログでは、

清寂が話題にしている将棋の種類は、”今小路の御所”
で指されていたのが、8升目の平安小将棋(初期型)、
後鳥羽上皇の御前で指すのが、旦代の難点を回避するた
めに、駒落しで指す、9升目の平安小将棋(標準型)

と、使い分けていると疑っていたのである。
 これはようするに、

今小路の御所では、将棋指しのマニアが集まる所なので、
形式ではなくてゲーム性の良し悪しが、指される将棋種
の、バージョンを決めていた

という、本ブログ独自の推定に基づいている。
 そこで、この事を更に推し進めると、次のような事が、
遊戯センターとしての、”今小路”では、実際には起こっ
ていたとも考えらる。すなわち、

お客さんの段位(1マチ、2マチ、3マチ・・)を判定
計測する、店が用意した接待用のコンパニオン将棋棋士
は、客の求めに応じて、指す将棋種のバージョンを、
そのつど変えていた。

 ようするに大日本史料、1221年7月13日の条は、
今小路の御所が、現代の日本将棋連盟の将棋会館のよう
に、専門棋士同士で、棋力を切磋琢磨するために、順位
戦をやっているような場所なのではなくて、ゲームセン
ターのゲーム機に、最後に客の綜合スコアを表示して、
お客の、そのゲーム種に対する上達の

自己満足を満たすことを目的としたのと類似の娯楽施設

だったのではないかと、見ているのである。
 もしそうだとすれば、一マチの下というのも、かなり
甘い判定であるのが当然である。清寂の棋力を判定して
そう言ったのは、清寂の求めに応じて、特定の将棋種、
8升目型初期(原始)平安小将棋を指す相手をしたあと、
”過ぎたる手を指した”と、清寂を大いに持ち上げて、
個人の判断だけで評した、今小路西御成小学校遺跡娯楽
遊戯センターの店が予め用意した店側の、コンパニオン
将棋棋士の”先生”の言だったのではないかと、疑われ
るという事である。

つまり、指す将棋種のバージョンは、個別にお客さんが
選べ、店のコンパニオン棋士は、有る程度、どの将棋バー
ジョンでも指せて、どれもそれなりに強い人間だった

という事ではないかと言う事である。
 そして、もしそうであるならば、
客によって、希望の将棋種メニューが違うので、レスト
ランのメニュー表のように、いろいろなルールの将棋が
一覧表で、別途記載された紙の表があって、それが運ば
れ客がそれを見て、指す将棋バージョンを客が選ぶと、

客が指したいルールバージョンの、出土したのと同類の
木札の仲間で合致する物が、将棋具とともに店から運ば
れてきて、将棋盤の上に置かれ、

”これで良いですか”と客に確認してから、コンパニオ
ン棋士対客の、将棋の一局が始まったのではなかろうか。
 つまり、

各将棋盤に関して、将棋盤によって、同時に指している
将棋の種類は、それぞれの客の希望するものであって、
ゲームセンターの店の中でバラバラ

だったのではないか。
 そして後鳥羽上皇を訪問した、鎌倉時代の将棋”道場”
マニアの清寂は、

何度も”今小路”に通っているうちに、コンパニオンの
マネまで出来る、”通”にまでなっていた

のではないか。そう考えると、清寂が大日本史料に残る
彼の発言の中で、

指す将棋のバージョンの話を、コロコロすり替えて面白
く語れる理由

が私には、良く判るような気もするのである。
 以上のように考えると、将棋の指し始めの少し前に、

店が、客によって指定された、指す将棋のゲームバージョ
ンを判別するための木札

が、実際出土した、今小路西鎌倉市福祉センター遺跡の
墨書史料の、当時の使い方だっだと言う事にな。そうだと
すれば、論題の、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土中将棋木札は、
それが、あまり邪魔にならない程度の小型のものであっ
た事が、有る程度説明できるのではないか。
 以上のように、ここではA案として、出土品の姿が小
さい事を、一応説明してみた。

現物がもし有ったら、何か別の情報も有った

のかもしれない。現物が紛失して無いのが、返す返すも
悔やまれるところだ。(2019/02/14)

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平安・鎌倉期。スペア金将がなぜ作られたのか(長さん)

天童の将棋駒と全国遺跡出土駒には、将棋の出土駒の大き
さに関する、測定情報が載っている。平安時代最末期の、
岩手県西磐井郡平泉町の中尊寺境内遺跡出土駒を見ると、
この時代には、駒の種類により大きさや形の差を、積極的
には付けなかった事等が判る。ただし、体裁からだろうか。

歩兵駒の大きさが、他の駒種に比べて、わずかだが小さい。

駒木地のうち、小さくロットブレしたものを、寄せ集めて
歩兵を作ったとも想像される程度の、大きさの差がある。
 ところが、統計を取ろうとすると、前記成書、
”天童の将棋駒と全国遺跡出土駒”の中尊寺境内遺跡出土
駒の番号で、歩兵駒のうちで、

137番が大きく、歩兵を小さく作ったという仮説を棄却

させてしまう。
 この駒は、前に述べた神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮境内
遺跡出土駒の、”5番”と恐らくは同じく、
中尊寺境内遺跡出土歩兵駒の中で唯一の、

二文字”金将”に成る歩兵

である。
 前に、本ブログでは、この種の二文字金将成り歩兵駒を、
歩兵駒の紛失による、予備の金将駒からの作り変えと解釈
する説を述べた。今回は、それの続きになるのだが、

ではなぜ、現代のように”と金成り歩兵”駒を、余分に作
らずに、平安・鎌倉期等には不成りの金将駒を、多少余分
に作って、駒が紛失したときの予備に無理やりしたのか

を論題とする。
 結論をいつものように先に書く。

大理国から伝来した立体駒では、歩兵と”と金”が、物体
として、別々だったという記憶が、まだ残っている時代の
アイディアの伝承だった

からだとみられる。
 では、以下に説明を加える。
 本ブログの仮説によれば、日本の将棋は、ほぼたった
1セットの

金・銀・ネフライト玉、肉桂の彫り物、桂の木の将棋盤、
成り金の駒20個程度をセットする、輝く小さな”控え選
手の棚”等で構成される、後一条天皇所有の立体駒将棋具
の宝玉

だったと見ている。それが、経帙牌に金将、銀将、玉将、
馬、車、立体駒材質は未知の、兵と書く事に置き換えられ
たが、兵等の駒と、成りの金将と同じ立体駒の”と金”等
とが、元々は、敵陣三段目に達したときに、兵の立体駒と、
黄金製の成り表現専用金将像とを取り替える手法で、ゲー
ムが進むのを、経帙牌の裏表に、元駒”兵”と成り駒”と
金(当時は”金也”)”の名前を書き、駒をひっくり返す
事で置き換えるという手法で、ゲームの着手表現が、置き
換えられたと考えられる。この記憶は、五角形の書き駒が、
将棋駒の主流になると省みられなくなった。しかしながら、

この置き換えの記憶は、少なくとも、不成り金将駒が、統
計的に有意に多く出土する奈良県の興福寺遺跡出土駒の時
代や、岩手県平泉町の中尊寺境内遺跡の将棋駒の作成の
時代には、まだ薄く、記憶として残っていたのではないか

と疑われる。
 そして、実際には平安小将棋を黄金将棋具で指す際に、
成り金の金将像立体駒は、全部、置き場棚から出されて、
使われるほどには、平安小将棋では、成り金将が、ゲーム
の最中に発生しない場合が多かった。ので、

予備駒のイメージで語られる事が多かった

のであろう。その記憶から、

不成り金将駒を、成りとして2文字で楷書だと不便なはず

なのに、それを敢えて無理押しして

予備駒(スペア駒)として使う習慣が、ひょっとしたら

自然に出てきた

のではあるまいか。
 だから、少なくとも鎌倉市の鶴岡八幡宮境内遺跡の時代、
すなわち鎌倉時代の中~末頃までは、持ち駒ルールはさほ
ど普及していなかったために、金将駒を他の駒に作り変え
る事が可能という条件の元で、無地駒を駒箱に予備に置い
ておくのではなくて、

現在の、余分に1~2個入った歩兵駒の代わりを、1~2
個余分に入った、裏無地”金将”駒が、果たしていた

のではないのか。
 もしそうだとすれば、
なんでもないような、使いづらい、成り二文字金将歩兵駒
だが、伝来した将棋駒具が、書き駒ではなくて、成りが自
明には表せない、立体駒だったという、

重大な情報

を、金将駒を、小将棋駒セットの、部分紛失時の予備に、
相当昔は使ったという習慣の記録は、

淡くだが、隠しているのかもしれない

と、私には疑われるという事になるのである。(2019/02/13)

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鶴岡八幡宮出土駒。本ブログ見解”歩兵3枚の成りが違う”訳(長さん)

あくまで本ブログの見解では、鶴岡八幡宮境内遺跡から
1980年前後に発掘された5枚の将棋駒は、
1)成り楷書奔王鳳凰(左上)
2)成り”(真性)と”金の歩兵(中央)
3)不成り香(車)(右下)
4)1)と同色の不成り歩兵(左下)
5)成り二文字金(+一字不明)歩(兵)(右上)
となっている。なお番号は天童の将棋駒と全国遺跡出土駒
の番号、()内の位置は”よみがえる中世(3)武士の都
鎌倉”の、巻頭カラー図版の位置である。
 先行研究としては、鎌倉考古学研究所の見解とは、5)
だけが異なり、
”5・鎌倉考古学研究所)成り(普通の飛の書体に似た)
飛(車)金将”とされる。
 次に、大阪電気通信大学の高見友幸氏による見解があり、
”5・高見友幸)成り奔(+一字不明)何らかの(将)”
とされる。つまり5)の駒が何なのかについては、諸説有
るわけである。なお、たいがいの成書では、
鎌倉考古学研究所の見解が、成りの飛車について(?)マー
ク付きで紹介され、現行普及していると私は認識している。
 蛇足だが、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の、5)のス
ケッチ図は、オモテとウラの図がアベコベだ。
 このページの表題では、これらの解釈の中で本ブログの、

最もありきたりで、面白みの無い見解

に基づき、

鶴岡八幡宮境内遺跡(神奈川県)からは、歩兵駒が3枚出
ていると仮定

して、以下論を進める。すなわち、
歩兵の成りが、2)はきれいな”と”、4)が不成り、
5)が二文字金将というように、

3枚とも、バラバラなのは何故なのか

を、今回の論題とする。
 最初に回答を書き、ついで説明を加える。

5)の駒が、スペヤの金将を歩兵駒に改造して、小将棋の
駒として使ったため、ばらばらになった

と考える。
 なお4)の、1)と同色の不成り歩兵は、前に述べたよ
うに、1)の楷書奔王成り鳳凰駒、3)の不成り香車駒と
共に、時代は下るが安土桃山時代末期の、水無瀬兼成の
将棋纂図部類抄に記録の有る

後期大将棋系の駒であるため、はっきりしないが、不成り

なのかもしれないと、本ブログでは見る。
 では、以下に説明を加える。
 本来なら、4)の歩兵だけが不成、5)が2)のと金成
り歩兵と、ほぼ同じ姿で出土する確率が、最も高かったは
ずである。しかしたまたま、鶴岡八幡宮境内で鎌倉末期に

小将棋を指すとき、歩兵を無くして足りなくなった。

そこで前に本ブログで、岩手県平泉町の中尊寺境内遺跡の、
”大きめな金将成り歩兵駒の出土”を説明するために導入
した、”昔は多めに作った、予備用の金将駒のウラに、
歩兵と新たに書いて代用するやり方”を、たまたま鎌倉市
の鶴岡八幡宮境内遺跡でも行い、そのために、2文字金将
に成る歩兵駒が、汚れた形ではあるが、出土したと考えた。
 そう考えなければならないのは、以下が重要だが、

5)の成り面の金の位置が、比較的駒の前の方に偏り、
将の字も存在する事を、このケースはかなり示唆している

という点である。つまり、本ブログのように考えてしまう
と5)が、一文字金成り歩兵である可能性が、余り無いと
いう点には、注意すべきである。
 鶴岡八幡宮境内遺跡の将棋駒の年代が鎌倉時代末期なら、
同じ場所で、大将棋と小将棋が両方指されたというのは、
厳密に言うと、大将棋は大将棋類だと表現すれば、

ありきたりだ

と言える。
 だから、歩兵は結局普通なら、2種類のはずなのだが。
3種類有るという事は、成りが金将だとすれば、どんな将
棋種であるにしても、初期配列に並べるとき、注意しない
と正しく並べられ無いと言う点で、使いにくい駒を、無理
やり使っているという事になる訳だろう。だから、
 金将成り歩兵が、存在すると見なせるというケースだか
ら、平泉と鎌倉は同じで、

予備(スペヤー)金将を、歩兵に改造して使った駒が、
たまたま一枚混じっていた

と説明するしか、本ブログのように解釈する場合には無い
ように思える。
 よって、冒頭述べた結論に、本ブログのように考えた場
合には、到達するという訳である。(2019/02/12)

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今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札は小さい(長さん)

さいきん、本ブログで繰り返し話題にした、表題の
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札について、

新たな事実が判明した。

 表題のように、本ブログで今までは想定したように、
この木札はある程度の大きさが有り、はがきの大きさ、
以上であろうとしてきた。が、

1)実際には、それよりかなり小さく、百人一首の札
の大きさの程度

である事が判明した。情報の出所は、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡を発掘した、

上智大学名誉教授の河野真知郎氏

である。
 この結果、本ブログの主張のうち、

木札が、少なくとも一度に多数の人間が見えるように
するというタイプの、”掲示物”である可能性は、
ほぼ無くなった。

 神奈川県鎌倉市の上智大学名誉教授で、鎌倉市の遺
跡発掘で功労のあった河野真知郎氏によれば、当時

2)文字の内容の鑑定は、専門家が行い、”「漢字カ
ナ混じり文の一種」とされたが、解読不能”との結果

だったという事だ。また

3)真ん中の筋は、出土状態で割れていたが、元々一
つであると判る状態だったので、発掘後、近年に接続

したとの事。
 墨書を読んだ鑑定者の見解では、”繋がったもので
はないかと、された”との事で、私の”もともとは、
上下で繋がっていない”との説には、

河野氏としては、にわかには信じられず賛成できない

との事だった。
 更に次の質問にも、回答があった。すなわち、

4)さいしょの字が、”志”かどうかについて質問し、
No.との答えだったが、正解は、聞き漏らした。

 ちなみに、以下にその部分の拡大写真を示す。
私には何回見ても”志”の草書だ。この書籍を読んだ
事の有る、他の読者の方に、判断してもらうしか無い
と思う。

志.gif

どうやら”この木札は、誰にも読めるはずがない”と
の、かなりの確信が、いろいろ調査に手を回した事の
ある、河野真知郎氏には有りそうだった。  
なお、
5)この写真は普通のモノクロで赤外線写真では無い
そうだ。
 何れにしても、大きさは、

残念ながら、想定したものの大きさ未満で、
私の解釈には未だ、チグハグなところが有る

事だけは判った。

料理メニューのように将棋盤ごとに1セットづつ配った

のだろうか。何だか良く判らなくなってしまった。解釈
は、少ししてから考えてみようと思う。
 何れにしても”よみがえる中世3、武士の都鎌倉”の、
「文字のある生活」の執筆者、河野真知郎氏が幸い、
現在も元気なようすで、ありがたかった。その結果連絡
が来て情報が更に増え、私としてはたいへん助かった。
 なお現物は、やはり紛失したようで、紛失の経緯は、
河野氏も知っているようであった。
 最後に木札とは離れるが”鶴岡八幡宮境内遺跡出土駒
については、将棋史研究者の増川宏一氏も、当時鑑定に
立ち会った”と、河野氏は話されていた。(2019/02/11)

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大将棋。”麒麟が左で鳳凰が右は獅子の座の為”と別解発見(長さん)

前に述べたが、中将棋や大将棋では、中段中央、一筋袖寄り
で麒麟が左、鳳凰が右に配列される。本ブログでは、理由を
西暦1275年前後で、普通唱導集時代少し前の、
当時13升目自陣4段104枚制の大将棋の時代に、酔象と
両猛虎の間に、左に成りが獅子の麒麟、右に成りが奔王の
鳳凰を入れ込んだ習慣が、後期大将棋と中将棋では、継続
して生かされた為とみる。ただし大大将棋では、鳳凰に
ちなんだ宗教施設関連のゲームデザイナーの作だったためか、
本当の理由は良く判らないが、日本ではより階層が上位とさ
れる左側上手に、鳳凰が、逆に下手右に麒麟が入ったようだ。
 つまり、左側が上手だったためで、

獅子の座という言葉が、隣に配置された、釈迦が主体となる
モデルとみられる、太子に成る酔象の、添え駒として相応し
いと考えられたための、麒麟の左置き

だったという説明を、前にした。
 最近、理由がもう一つ考えられる事に、私が気がついたの
で、それも本ブログ独自の説として紹介しよう。

答えから書く。

鳳凰の居る右辺はそこからその袖に向って、猛虎、猛牛、
嗔猪、飛龍と配列され、円環していると見て、飛龍を最初に
移動すると、

飛龍、猛虎、猛牛、嗔猪、となり、左回りの方位であるから
天球の方位を示すと見て、空を飛ぶ鳥の類である鳳凰を配置

し、左辺はそれに対して、今度は袖から麒麟駒に向かって、
同じく飛龍、嗔猪、猛牛、猛虎と配列され、やはり円環して
いると見て、今度は飛龍を最後に移動すると、

嗔猪、猛牛、猛虎、飛龍、となり、右回りの方位であるから
地上の方位を示すと見て、語源は馬の仲間である麒麟を配置

した。
 以上の理由による。つまり、右辺は、地面にひっくり返っ
て、空を眺めたときの、北東中心に方位の十二支として、鼠
と兎を跳ばして、鬼門の北東の牛虎を中心に、4つの動物駒
が並んでいるので、空に因んで、空を飛ぶ鳥を持ってきてい
るのであり、それに対して左辺は、普通の立って、北東を
中心に眺めた時の方位なので、馬の仲間と見られた、地上を
走る麒麟を持ってきているという意味である。
 では以下に、だからどうなのかを中心に、解説する。
 今回述べた理由付けの、前より良い点は、成りが無くても
有っても関係ない事、および、

奔王の王より、獅子の座の方の獅子が、常に格上である事を
証明しなくても良い

事である。また、

猛虎の内側に、酔象とは別に、12神に因んだ文物を、その
配置で、左右に持って来る事の、動機が自然に説明できる。

特に後者が大切

であろう。つまり、偉人としての釈迦を表す、太子成りの
酔象が入っているから、麒麟と鳳凰を入れる動機付けは
元々有るのだが、それだけなら、左右は、どちらでも良い
はずである。だから更に、

麒麟が左で、鳳凰が右でなければならない事

が、十二支駒の配置の左向き、右向きで天・地となるために
自然に説明が出来るという点が無ければ、

陰陽道の信仰の厚い、当時の将棋棋士には、”左麒麟、
右鳳凰”は、自明な配列とは受け取られなかった

という事である。
 駒数が108枚ともなれば、そもそも将棋種に

亜流が出来る要素が、幾らでも発生

するはずである。しかし、その中で主流として生き残るため
には、日本の中世の場合には、

陰陽道と、完全に同化している事が、ほぼ絶対に必要

だったのだろう。
 逆に言うと、その将棋種が滅びるとき、元々の原因は
定跡が出来てしまうという、ゲーム性の問題
だったのかもしれない。が、その改善を困難にするような、
改善しようと、配置をいじる事による

陰陽五行説との乖離という、阻害要因が無ければ、

本当の所は、
中将棋よりも、成りが少なく、獅子に関する特別な規則の
無かった、総合的に見ると中将棋よりも、ルールのより単純
な普通唱導集大将棋については、実は”大将棋は中将棋より
も、常に複雑”という名前のイメージだけから来ると見られ
る通説は、間違いであって、

実際には絶滅は、起こらなかった事だった

のではないか。
結局、

今述べた、大将棋に関する”本ブログの絶滅原因論”。これ
が、極めて大切であるという事。

以上のことが示されているように、私には思われたのである。
(2019/02/10)

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国会図書館デジタルコレクション色葉字類抄に象戯が無い?(長さん)

12世紀の中旬に成立したとされる、表題の色葉字類抄には、
”象戯の字が記載されている”とされる。国会図書館には、
最も古い、二巻物(12世紀中旬成立)が収められて、デジ
タルコレクションとして、netで閲覧できるので、さいき
ん私も、「象戯」の字を確認しようとしてみた。

が、みつからない。

 紹介されている成書の中で例としてあげると、松岡信行氏
著書の「解明:将棋伝来の『謎』」に写真が載っている。
ので、念のため、その写真と比べながら、3回探してみた。
”シ”の人事の所、下巻の76ページ前後が、本来なら
”象戯”記載の場所の、ようなのだが。

「試楽」から「シリハ子?」「偲」の字に飛んでいるようだ。

ひょっとして、西暦1200年程度に成立した色葉字類抄の
増補版、伊呂波字類抄の”十巻物”にしか、「象戯」は載って
居無いのではないか。
 実体を知らないのは将棋史愛好家では、私だけなのかもし
れないのだが。この件、正確な話については、もっと調べる
必要が有りそうだ。(2019/02/09)

(追記)
やはり、西暦1199年頃成立した、伊呂波字類抄の、
十巻物(増補版)の方には少なくとも、下記のような書体で、
”象戯”の文字が有りました。

伊呂波字類抄.gif

松岡信行氏著書の「解明:将棋伝来の『謎』」の写真も、
内容を比べてみると、十巻物の方の写真のようでした。
(2019/02/10)

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