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高見友幸氏の16段19筋摩訶大将棋は升置きで良い(長さん)

京都の条理図が将棋盤になっており、駒は路置きで
表題のように、筋は19だが、段は19ではなくて、
16段の摩訶大(大)将棋の説が、直近の高見友幸
研究室の摩訶大将棋のブログに出ている。交点置き
の証明として、諸将棋図式の文字による記載を、根
拠としているらしい。今回は、

京都の条理図を将棋盤にした19×16、192枚
制、摩訶大(大)将棋駒将棋は升目置きとしてよい

という内容を、以下に示す。根拠を答えから書いて、
仔細はその後で述べる。理由は、以下の通り。
 京都の条理図は東西が33路、南北が39路に設
計されていて、東西が17路、南北が今は20路等
には、高見友幸氏の言うように、設計されていない。
升目の方を採用すると、東西が16升目で、南北が
19升目になっておらず、東西が32升目、南北が
38升目になっているという意味である。つまり、
設計された、19×16型の摩訶大将棋または、
摩訶大大将棋で、4升目で将棋盤1升目分に、京都
の条理は、なっている。だから+印の小路の中央に、
駒を置けば、路を飛び飛びに1つ置きに書いて、
将棋盤にしたのだと考えれば、駒は路の交差点に
置かれているのだが、

路の、飛び飛び省略型将棋盤を通常は使用するので、
+型の路地が見え無くなり、表現上は升目置き

となる。そして京都の条理は、飛び飛び将棋盤とし
ては、南北が19升、東西が朱雀大路を挟んで、
対称であって16升だが、横倒しにすれば、
19×16升の192枚の摩訶大(大)将棋型に、
一応なっている。従って、

日本の六将棋が交点置きだった事を、そのために証
明する努力をする分、このゲームの説明に関しては、
ほぼ無駄だった

ように私には思える。”昔は何処かの路が無かった
という説がある”と聞いているが、それについては、
その代わりに、何か別の路が有ったが、昔の記録の
再現は、元々困難だから、

プラスマイナス0になるように、京都の東西路の
路数カウントで、路を別のところで落としているの
かもしれないと、一度疑ってみてはどうか

と私は思う。
 では、以下少し説明を補足する。
 京都の条理図は各種教科書、日本史辞典等に載っ
ており、内大離が、19×16置き摩訶大大将棋で
言うと、右辺に来る側で言って、端筋から5筋まで
の4路または5升、7段目から10段目までの4段
または3路を切り取っていて、升目で言うと、5×
4の駒置き場所不明の点を、作っている構造になっ
ていると認識する。また第15筋の6段目と11段
目に、”東西の市場”が有って、そこも一部、升目
の潰れた所があるようだ。
 その他は南北19升、東西16升の将棋盤の升目
を書いてから、

各筋のちょうど真ん中に、”口口小路”を1筋づつ、
細かく入れた形

になっているのではないのだろうか。(下図)

京都条理図.gif

つまり、高見研究室の摩訶大将棋では、実際の京都
条理図を実質、路の形

田の字1つで、1目と見ている

と、私は考える。
 そもそも、摩訶大将棋のブログを見る限り、大内
離や、東市、西市の、小路の無い所にも、将棋盤に
するために、

同じ間隔で、無い所には路を適宜補っている

ようにしか、私には高見システムが見えない。
 それなら、その将棋盤は、
 横筋38升、段32段の升目になるように、横に
39線、縦に33線引いてから、端枠を含めて、

1つ置きに、太線に変え、太線・細線と交互に並ぶ
ようにして、駒は”細線(小路)”の交点置きをルー
ルにしておいて、太線枠内の十字細線が田の字に入っ
た各升目についての、升目置きゲームにしたのと、
いっしょ

だ。
 そもそも、こんな事を私が言うのは、

京都の条理図で、南北中央大通りの朱雀大路が、平
行に2本書いてある京都条理図が、見当たらない

からだ。
段は16段だと聞いているので本当に交点置きなら、
朱雀大路は、互いに接する形で2本走って居なくて
は、横倒しにした時に、段が16段に例示される、
段数”偶数路の交点置き将棋”にはならない。
 朱雀大路は平安時代に、昇りと下りで2車線で、
更には真ん中に、他の将棋の升の構造との対応上、
中央に小路が、もう一本あったという話が有ると言
うのなら、私も上のように見るのを考え直すのだが。
 このままでは、京都の条理図を基に作った将棋は、
20×17路とか、19×17路であって、

段が例えば16という、偶数段の将棋のモデルには、
かなり、なりにくいのではないか

と私は疑う。
 つまり、考えてみると、1目分の升目がこのケー
スは”田”なので、最初から、あまり困っていなかっ
たのに、

交点置きという事にしたために、
横筋の数は、確かに18を19に増やして、合わせ
たらしいのだが、今度は段が、16から17へ、
1つ増えて狂ってしまい、何にもならなかった

と言う事に、なるのではないのか。
 結局そうすると、19×16区画の将棋のモデル
が京都条理図が元だったという事を、ここでは、そ
れについては疑わない事にすると、摩訶大将棋また
は、摩訶大大将棋の駒の置き型は、ゲーム上は升目
置きであり、中世の駒数多数将棋のうちの六将棋は、
全て升目置きで有って良い。そのため京都の条理の
家屋の中に、駒がある事になってしまうという、
条理モデル将棋に、いっけんすると発生しそうな矛
盾は、将棋盤を作るとき、小路を1つ置きに省略し
て、見やすくしたために、本来なら

駒が小路の交点に置かれているのに、そのようには
表現されないため、単にそう見えてしまっていると
いうだけ

という事に、なっているのではないか。以上のよう
に、高見友幸研究室の、交点駒置き将棋を主張する、
最近のページに関しては、本ブログでは評する。
 ようするに升目を数えると、段19の東西8づつ
に1ユニットが、田の字に区切れる京都の条理図を、
複数の文献で見るにつけて、私はだんだんと以上の
ように、”日本の将棋は本来、駒交点置きだった”
という説を、疑って掛かるように、なってしまって
いるという事である。(2019/03/21)

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摩訶大将棋展2019winterのweb情報(長さん)

一ヶ月以上前の、2019年2月3日頃の話であるが、
大阪電気通信大学の高見研究室が、大阪駅付近で、
表題のイベントをしていた。株式会社いつつという、
兵庫県の会社が運営するサイトに、訪問者の報告が
載っていた。高見友幸氏が、パネルディスカッション
をした論題が、入り口の看板として掲示されていて、
その写真が、最初の方に有る。なお看板は2枚、写真
に写っているが、今問題にしているのは、右側だけだ。
今回注目するのは結論から書くと12項目あるうちの

第11番の内容

である。では説明を続ける。
 問題の看板については、株式会社いつつで検索する
と”いつつブログ/株式会社いつつ”に、しばらくは、
トップで出てくるだろう。写真の看板の論題11番の
題字は、残念ながら

net上で、たまたま内容が正確には読み取れない。

”古代日本の将棋の盤(か書)について”と書いてある

のかもれない。が内容は仮に、盤と読むとすれば、

将棋史家が誰も知らず、又言及すべき事実が皆無な事

が定説であるように、私には見える。

桂馬の桂と、香車の香がヒントだというのは、本ブロ
グの中だけの話

だ。なお、現物が明らかな日本の将棋盤で一番古いの
は、14世紀の新安沖沈没船将棋盤(?)を、15升
の後期大将棋の将棋盤と見て中世だ。文献でも、
藤原定家の明月記の”三面の記載”は、鎌倉時代早期
に入ると思う。平安時代の史料は、全く無いはずだが。
 ちなみに本ブログでは、

皇族用以外、定常的で長期保管に耐える将棋盤は、
上代にはほとんど作成されなかった

とみる。8×8型と9×9型が日本では並存していた
のが、主な原因のはずだ。
 なお高見研究室のイベントに関する報告者は、
株式会社いつつの金本奈絵(Nae Kanamoto)
さんと名乗られている。
写真の撮影者も、多分同一人物だろう。話をほぼ聞き
取られたように、本文からは読み取れた。

第11番の内容は、どれなのかは書かれていなかった。

たぶん基本的に、内容は高見友幸氏しか知らない話

を話されたのは確かなように、私には推定されるが。

ただし”将棋の口”の口の字がはっきり見えず不確実

な推定ではある。㈱いつつさんのブログでは、話全体
の内容について、いちいち”番号でこれだ”とまでは、
特に言及されておらず、そのため仔細不明だった。
 他の11の項目については、摩訶大将棋のブログに、
だいたい書いてあると見ているのに、古代の将棋盤の
話(?)だけ不明な内容なようだ。なので全体として
は、情報の提供は、たいへんありがたいものの、
たまたまだろうが、ごく一部についてだけ謎の有る、
残念な、報告文になってしまっているように、個人的
に、私には感じられた。(2019/03/20)

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普通唱導集大将棋の猛牛猛虎は火位置で無く水木隙間(長さん)

前に、普通唱導集大将棋で、五行の木に嗔猪が、火に
猛牛と猛虎の中間の艮が、土に飛龍が対応するという
説明を、木火土金水の五行の何を対応させるのかは、
あくまで一例だとして、したが、

陰陽五行説では、対応付けはいい加減なものではなく
て、きちんと決まっている

のを、易学の、乾兌離震巽坎艮坤と、五行の対応が
書いてある本を見て、ようやく私も気がついた。私は、
易学の基本が、なっていないようだ。
 そこで結論から書くと、猛牛猛虎は火位置で無く
水木の隙間、嗔猪と飛龍は、木と土の位置ではなくて、
それぞれ金水の隙間と、木火の隙間の、

不安定な部分を固めるための、動物神を意味

しているようだ。
 では、以上で結論を書いたので、説明を加える。
 わかり易く解説がでている成書に、前にも紹介した
事が有ると思うが、次の図書が有る。
 新潮選書(西暦1982年)”暦と占いの科学”
永田久著。
 それによると、そもそも易学の乾兌離震巽坎艮坤の
艮は土だが、八卦も季節を分ける記号であり、

本質的に五行の季節対応については、木が春、火が夏、
土が夏の土用、金が秋、水が冬で、立春に当たる位置
が艮なので、同じく本来季節に関係する易学の、乾兌
離震巽坎艮坤の艮である鬼門は、元々は水と木の隙間

のはずだった所という事のようである。なお、上記の
”本来”とは、8つの八卦へ5つの五行を当てはめよ
うとした無理から、

前漢の薫仲舒は隙間としたが、後漢の班固が土対応と
して整備した結果が、易の乾兌離震巽坎艮坤の五行対
応に関して影響した結果、鬼門を生んだ

との解説が有る。つまり陰陽五行道による暦学解釈で、

一年の終わりの半端を、季節円表示を方位表示に、な
ぞらえ変えする事によって、飛び地のある土で対応さ
せた結果が、鬼門という方向を発生させた

という事らしい。水と土、土と木が両方相剋であった
ために、”土の所は、縁起が悪い”という訳である。
 以下では最後に述べた、陰陽道の後漢バージョンで
は無くて、より素朴な、前漢バージョンで、普通唱導
集大将棋2段動物駒による、鬼門等の守りの理屈を、
説明してみる。
 五行の理解で大切な事は、時刻、季節、方位に全て
五行を対応づけしたが、パターンが類似なので、時計
文字盤、大マゼラン雲方向から見た地球の公転円、
方位磁石の盤の意匠を、関連付けて、むしろまぜこぜ
に考えると良いと言う点である。
 つまり方位の鬼門は、

後漢バージョンでは土(班固)だが、前漢バージョン
では水と木との境(薫仲舒)

という事である。
 そこで今度は、地球の公転円をこれにダブらせると、
艮は冒頭で述べた薫仲舒の冬を意味する水と、春を意
味する木の、真ん中の旧暦の年末の位置で、方位磁石
に話を戻すと、方角では北東に対応させているという
事である。ちなみに方位の五行では、水は、北北北東
より、すこし北よりに中心があり(薫仲舒)、木は、
東東北東より、すこし東に中心が来る(同)。厳密に
は32方位ではなくて、40方位にすると、正確に中
心位置を表現できるらしい。方位角表記では、北から
時計回りに、水が角度の9°、木が角度の81°にな
り、真北と真東から、すこし内側に入っていると言え
る。
 そして、
嗔猪は、水の中心より更に反時計回りに角度で36°
回った、北北西と西北北西の中間辺りにある、北から
方位角で27°西方向の、金と水の間の境目が弱いた
めに、ほぼその位置を守る守り神の動物として必要、
飛龍は、木の中心より更に順時計回りに角度で36°
回った、東南東と南東南東の中間辺りにある、東から
方位角で27°南方向の、木と火の間の境目が弱いた
めに、ほぼその位置を守る守り神の動物として必要、
というのが、陰陽道流の、駒種としして必要な理由と
いう事になるらしい。つまり、前に本ブログで述べた
ように、

 嗔猪から牛虎が、牛虎から飛龍が、生まれるわけで
は無さそう

だ。
 ただし、前に述べたが、嗔猪は境目方位より西北北
西に近い方向に角度で3°、居場所がヅレているし、
飛龍も境目方位より南東南東に近い方向に角度で3°、
居場所はズレている。その3°は、許容誤差が7.5°
有るので、無視できるという事である。ところで、
3°の誤差は、嗔猪の位置が方位角で、北から西へ
30°で27°より3°大きく、飛龍の位置が方位角
で、東から30°で27°より3°大きいためだが、
これは、磁石よりも時計盤で考えた方が、32等では
無くて、12分割な為に、ずっとよく判る。
 そこで、 今度は地球の、大マゼラン雲から観測し
た公転円図と、時計の文字盤とを、重ね合わせてイメー
ジしよう。時間の五行を、問題にするときには、今の
時計が1日に時針2回転なのが問題になる。が、以下
の議論は、地球軌道で季節を説明する話を中心にして、
話がごちゃごちゃするのを、回避する。
 つまり、大体だが、ちょうど今のグレゴリオ暦の月
が、時計の文字盤を、月数に直すと、干支の順番-1
(ただし鼠だけ、更に12をプラスする)の干支の、
動物対応に近くなるようだ。つまり嗔猪は、文字盤に
位置をなぞらえると11時(トキ)の位置。鬼門の艮
は、1時(トキ)半の時針位置。飛龍は地球軌道位置
を、時計文字盤になぞらえると、ちょうど4時(トキ)
の針の位置である。だから嗔猪と飛龍は、北から西へ
30°と、東から南に30°で良いのだ。季節の月数
に話を置き換えても、嗔猪がグレゴリオ暦の11月、
艮が1月と2月の境に近い2月の節分の頃、飛龍が、
グレゴリオ暦の4月の、陰陽道流のグレゴリオ月名で
ある。ちなみに猛牛がグレゴリオ暦の1月、猛虎が、
グレゴリオ暦の2月の中央位置である。
 1月の終わりから2月の頭に、立春なので、当然東
アジアの、太陰太陽暦、旧暦の正月がそのとき来る。
漢王朝からだと聞いているが、昔はほぼ、猛虎の寅か
ら1年が始まる、太陰太陽暦が東アジアでは使われて
いた。ので、時計の文字盤になぞらえると、文字盤が、
時計回りに1時間分回転してしまい、月遅れで最上段
が、11時の文字盤時計になってしまっていた。だか
ら丑正月に近い今の方が、時計文字盤も、大マゼラン
雲から地球を見た地球公転軌道の図も、全部方位磁石
の盤意匠に近似していて、むしろ判り易くなっている。
 そして、時計の文字盤の11時と4時の間の角度は
150°だから、円周の2/5の144°より、3の
2倍の6°だけ大きすぎると言う事で、上に述べた話
に矛盾がない事が判る。
 実際には、艮が真冬で、嗔猪が秋深しで、飛龍が、
だいぶん春めく季節なのだが、太陽の動きよりも、季
節の進みが、熱の蓄積の関係で遅れるので、そうなっ
ているだけである。つまり天象の上では、嗔猪がやや
冬に入った天象、両方猛の牛虎の艮が旧正月。飛龍が
立夏より、少し前の春天象という事になる。4つの四
季を、5つの五行に分けると、当然四季の境目とは、
かみ合わない。ので後漢の時代に問題になって、易学
の五行対応が、新たに発生したのだ。
 以上の事から、それぞれ五行対応で、金と水の中間、
水と木の中間、木と火の中間に有るので”嗔猪、
猛牛と猛虎、飛龍で、方位についての、境界領域の
3箇所の、五行大将の守りの弱い箇所の、守り神になっ
ている”という、前漢型陰陽道流の意味づけで、
大将棋に駒が有る理由の説明は、それで良いという事
に、なるという訳だろう。
 なお、残りの火土と土金の隙間を、どうしたのかは、
私には良く判らない。ひょっとしてゲームデザイナー
は、それぞれ角度で9°ズレているものの、馬の一種
である麒麟と、鶏の一種(?)である鳳凰を、その守
りの任務に、当たらせるつもりだったのかもしれない。
(2019/03/19)

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作者が同じでも、情景の差で碁盤の脚が違う例(長さん)

前に、狩野派、狩野元信の厩馬屏風と、狩野永徳
の聚光院方丈壁画とで、同じ狩野派の絵でも、
日本人の棋士の指す碁盤の足は蓮座、
中国人の棋士の指す碁盤は足無しで台座
になっていると述べた。
 しかし、厩馬屏風と聚光院方丈壁画とでは、絵
の作者は同じ血筋らしいが、全く同一人物では無
かった。
 東京文化財研究所の、江村知子氏によれば、
近世の画家、土佐光吉の絵は、囲碁盤について、
路線の書き方と、

碁盤の足の描き方で、作者が特定される

と、日本の美術543”土佐光吉と近世やまと絵
の系譜”(2011)㈱ぎょうせいで、述べてい
る。足の形が蓮座なのは、日本人が棋士なら大概
そうだと、私は思うのだが。世俗の将棋史愛好家
と、文化財研究所の専門家とでは、美術品に関し
て後者の言う事の方が、通りやすいだろうから、
この状況で、

本ブログの主張は通りにくい

だろう。そこで今回は、私のような素人に判る
範囲内でだが、

厩馬屏風の狩野元信の絵で、情景の異なる、囲碁
盤の図を探してみた。下の図のように群仙図屏風
(伝)元信作というのが、確認されているそうだ。

群仙図屏風.gif

この絵の囲碁盤も、指しているのが中国人の仙人
という設定のようなので、聚光院方丈壁画の碁盤
と同様、足が無く、何らかの台の上に乗っている
ように、書かれている。盤線のパターンは、私に
は確認できて居無い。
 ただし、文献として、同じく㈱ぎょうせいの、
日本の美術485”初期狩野派-正信・元信”
(2006)によると、

厩馬屏風、群仙図屏風は両方とも、狩野元信の作
では無いと、京都国立博物館の山本英男氏が指摘

しているようである。どちらも(伝)のように表
現するのが、この領域では通例らしい。であるが、
美術史専門家の大勢が、事実をどう見ているのか
は、私には良く判らない。御存知の方があれば、
御教示願いたいところである。何れにしても、

別々の絵の作者が同じでも、中国風か日本風かで、
囲碁盤の足の描き方が違うケースがある、疑い自
体が残っている事だけは、どうも確か

なようだと私は見る。(2019/03/18)

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1986年将棋探源執筆時点伊東倫厚氏は中国伝来派(長さん)

将棋史研究家として北大教授(当時)の(故)伊東倫厚
(ともあつ)氏は、よく知られている。
 将棋史の成書は発見されないが、将棋ジャーナル誌に、
3年位、将棋史の話を連載していたという話を、本ブロ
グのコメントや、論文を読んで、さすがの私も気がつい
ていた。
 調査してみると、日本への将棋伝来の元の国に関して
言及していて、西暦1986年頃には、

中国のプロトシャンチー系統の、日本への流入と考えて
いた

との記録が有った。今回はこの点につき、もう少し詳し
く以下に報告する。
 伊東倫厚氏が、将棋ジャーナル誌に、表題の内容で、
各国のチェス・象棋・将棋の歴史について述べていたの
は、将棋ジャーナル誌のバックナンバーで言うと、

西暦1984年6月号から西暦1987年6月号まで

で、途中跳びとびに休んで、22回連載の、各回2~数
ページ程度の文書である。運が良かったが、22回分の
全文につき、最近、私には見る機会に恵まれた。
 将棋ジャーナル誌の構成が、1987年秋に変化して、
”将棋大学”のセクションが消失したため、将棋ジャー
ナル誌上の伊東倫厚氏の史論は、残念ながら日本に将棋
が到達した所、そこで終わっていた。
よって、駒数多数将棋の”特定の種類の起源に関する論”
というカテゴリーのものは、余り見当たらない。本ブロ
グで論じた部分と、関連するのは、

何処から日本の将棋が来たかという伝来論に、絞られる

との心象を受けた。伝来論で、当時の伊東氏の立ち位置
は、比較的、はっきりしていたと私は考える。

伊東氏は当時、日本の将棋は、中国中原起源と見ていた

ようだ。
 増川宏一氏の将棋Ⅰが発行されて、間も無くのものな
ので、東南アジア起源説を、増川氏の将棋ⅠやⅡ、
大内延介氏の”将棋の来た道”に関連した論文等を
元文献として、批判されていた。
 伊東氏の論拠が、良く出ているのは22回の連載の
うちで、

第17回、1986年5月号の将棋ジャーナルの122
ページから123ページの所で、自身の主張をうまく、
単潔に、まとめられている。

①交点駒置きは、日本に象棋ゲーム系統を伝来させてか
ら、中国本国で、後変化したものである。
②飛車・角行の位置は、シャンチーの砲の位置に類似。
③筋が9筋なのは、中国シャンチーと日本将棋で一緒。

以上のようになっているようだ。
①については、本ブログも賛成するが、②と③には証拠
であるという主張に、賛成できない。①についても、
彼と本ブログとでは、見方が同じでは無い。後者につい
ての、彼と私の違いは、シャンチーが成立する以前には、
主力のゲームが

プロトシャンチーではなくて、イスラムシャトランジと
平安小将棋のルールにほど近い、雲南将棋であり、流行っ
ていたのではなくて、それらに関する情報(後者は遊具
が宝玉)が、中国中原の都市では、幅を、きかせていた
と、私の方は、見ているという点

である。伊東氏は”シャンチーが成立する以前の、中国
初期宋王朝時代には、プロトシャンチーが混乱した状態
で、立体駒や書き駒を、ローカルに混ざって指していた
と考えている”との旨を、将棋ジャーナル誌1986年
の3月号あたりで書いていたようだ。
 本ブログでは、少数のゲームデザイナーの作成した、
始原のゲームが、たまたま、記録として残っているだけ
で流行は無く、むしろ開封市や長安市は、唐宋時代の
当時、国際都市らしい、

各国ゲームの”情報の坩堝”だった

と見ている。中国人はチェス系のゲームに対して当時は、
後の世に、この系統のゲームの”創始者の誉れ”など、
問題にされるようになる時代が、来るとは夢にも思わず、
もっぱら囲碁と比較し、傍観者の立場を取ったと、本ブ
ログでは見ているのだ。以上の点が違う。どちらが正し
いのかは、中国の都市史に詳しい学者に、逐次判断して
もらうしか無いように、私には思える。
 他方②・③については、唐物・中国びいきだった当時
の日本の知識人の仲間だったに違いない、将棋デザイナー
に、結局の所伝来した後に、ゲームを似せてもらえれば
良いだけの話なので、本ブログでは、中国中原が日本の
将棋の源という根拠に、なってはいないように思う。
何れにしても、興福寺で将棋駒が発掘されたのが、西暦
1993年だから、中国シャンチーの、交点駒置が完成
する前に、升目置き将棋が伝来したと考えれば、増川論
を回避できるという、①の理屈に関しては、

伊東倫厚氏は、1986年時点でよく気がついたものだ

と私は、彼の当時の日本の将棋の伝来経路推定論に関し
て、その点が一番関心させられている。(2019/03/17)

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大局将棋は荻生徂徠の広将棋より、駒を取り込んだか(長さん)

将棋者御三家大橋家に伝わっていた大局将棋は、水無瀬兼成
の将棋纂図部類抄の6種の将棋、江戸初期成立の天竺大将棋、
江戸時代成立の和将棋、一時期流行の七国将棋、禽将棋、
から、特に駒の種類を取り込んでいる事で知られる。が、
荻生徂徠の広将棋には、言及されない事が多い。大局将棋は、
正確な成立時期が不明だが、本ブログでは、奥御用を預かっ
た、徳川家治の治世に、水無瀬兼成が豊臣秀次との間で、深
い関係となった、最高権力者との関係の類似性に準えて、
泰将棋の発展形を作ろうとしたのが、大局将棋の作成動機で
あろうと見ている。つまり、荻生徂徠が広将棋を作成した、
数十年後、広将棋を再現しようとした時期が、大局将棋の
作成進行の時期なのではないかと、言う事である。従って、

大局将棋は荻生徂徠の広将棋の成立後に作成

されたと見られると言う事になる。従来は、大局将棋の内容
に関する研究も、跳びぬけて盛んとまでは行かなかったため、

大局将棋の元になった既存将棋種のリストアップが出来てい
るという所までは行かなかった

と、本ブログでは認識している。つまり、

大局将棋と広将棋の関係については、先行研究例は実質的に
無い未知領域だろう

と言う事である。では、実際にはどうだったのかを、今回は
論題にしよう。
 最初に結論から書く。
 中国の童蒙の軍伍の名を使うつもりは、大局将棋の作者は
無かった。そのため、取り入れる駒種は限られた。しかし、
必要に応じて、わずかだが広将棋の駒名を取り入れている。
他方、大局将棋では特に兵駒をたくさん作ったので、広将棋
に合わせて○兵を上段に持ってくるという事をした。つまり、

広将棋自体からは、駒を余り取り入れなかったが、初期配列
を作るとき、参考にするという影響を与えたと見られる。

 では以下に、以上の結論について、説明する。
 前に、第5代大橋宗桂が、荻生徂徠の自分に相談せずに、
広将棋を作成した事に対して、文句を言っていたという、
幸田露伴の研究結果を紹介した。しかし、本ブログでは、
大局将棋を作成したとき、大橋家は代替わりしたあとだった
と見ている。だから、大橋家と荻生徂徠の学派との軋轢は、

無かった

と見た方が自然だと思う。中国の軍伍の名を取り入れるので
はなく、小将棋から大大将棋、摩訶大大将棋を参照して、
泰将棋を作った水無瀬兼成の行為を、大局将棋として拡張し
ようとしたため、中国の軍隊流である駒名は、避けただけだ
ろうと見るのが、自然ではないかと思う。ただし、日本の
将棋の駒名に近い、

龍驤や鷹揚を大局将棋で入れなかった理由は謎

だ。なお、虎翼は、類似音の鴻翼(銀車の成り)の元なので
はないかと、個人的に疑う。弓兵、弩兵、砲兵は、七国将棋
が元なのか、広将棋が元なのか、判然としないが、時代が
近いので、七国将棋に軍配を上げておこう。
 では、広将棋の駒名は、法外に避けていたかと言うと、

砲車を、走車の成りとして採用していたし、広将棋にだけ有
る、馬兵が大局将棋にも有るから、採用した種類数が少なかっ
ただけ

と見た方が、公平だと私は考える。走車成り砲車と、馬兵し
か無いので、

広将棋から大局将棋が、駒を取り入れているように見えなか
っただけ

と、本ブログでは見ると言う事である。
 他方、大局将棋の初期配列には、

兵駒が9段~10段目、つまり、歩兵下2段に集まっている
という、他の将棋種では広将棋以外には無い性質がある。

例外は8段目の騎兵と、5段目の羊兵だけである。

騎兵は、七国将棋で騎が下辺に居たから、そうしたと取れる
し、羊兵は泰将棋に合わせて中段にしただけであろう。

他の多くの兵駒は、広将棋に合わせて、歩兵下のすぐの列に
大局将棋でも、もって来た

ようにしか、私には見えない。つまり、水無瀬兼成とは違っ
て、荻生徂徠は、中国人の軍学の大家の駒名を、主な駒名と
する将棋を作成したために、ゲームデザインの主旨が水無瀬
兼成の継続行為であった、大橋家は、広将棋の駒名を、たま
たま使わなかったのだが、

兵の付く駒を、上段に持ってきたという点で、水無瀬兼成の
泰将棋には無かった、広将棋を真似たような性質が加わった

と考えられよう。
 よって、以上のような結論になると思う。大局将棋は、
室町時代作を装った、水無瀬兼成作と見られる泰将棋とは
異なり、鉄砲駒の砲車が入った将棋になった。
 恐らく天明の頃までに知られていた、既存の将棋種類は、
分け隔てなく、必要に応じて取り入れる方針で、大局将棋は、
少なくとも結果としては、作成されたのであろうと見られる。
(2019/03/15)

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普通唱導集大将棋に鼠と兎駒が無い訳は弱いだけか。(長さん)

本ブログのこれまでの見解によれば、普通唱導集時代
の大将棋に嗔猪と、猛虎、飛龍が有るのは、定説や
唱導唄の内容から証明済み。恐らく鬼門の守り神の
システムに合わせるため、牛、狼、猫、豹駒の中では
猛牛だけが存在。鼠と兎駒が無く、嗔猪と飛龍が脇固
めになっているのは、鼠や兎では、合戦のキャラとし
て小型で弱い動物に、なりすぎるために外した、との
論であった。
 今回はずばり、

これは間違いだった

という内容の話をする。鼠と兎駒が無い原因は、正確
には、本ブログの見解は理由のうちの一部でしか無く、

主力原因は、別に有った

というものである。回答から書いて、説明をいつもの
ように、その後で述べる。

風水の方角の文字記号で、丑寅の”艮”と、角度で、
75度離れていて、方位の円周360°のの1/5の
角度の72°に近いので、亥である猪と、辰である龍
を使い、途中の子である鼠駒と、卯である兎駒は入れ
なかった

のである。
 では、以下に説明を加える。
 ようするに、猛牛と猛虎は、もろに鬼門方向の守り
神。嗔猪は、それらの神を作り出す相生の元神。飛龍
は、丑寅駒によって作り出される、相生の後神といっ
たところなのであろう。五行説では、しばしば方位を
表すのに使われる図形の円を使って、その中に角度で
72度で、木火土金水を入れれば、五行説の相生を図
形として表す事ができる。特に、この表現は日本で流
行ったと、私は聞いている。そこで、
どれでも良いが、たとえば火の所が鬼門の艮だとする
と、そこから風水で表した、方位の円を、五行説の説
明図形の円と同一視すると、火を生じさせる木がある
点から、方位の円に見方を変えて角度の3度手前に、
亥の中心が有るし、同じく火から生まれるとされる、
土がある点から、方位の円に見方を変えて角度の3度
先に、辰の中心が来る。元々24方位の風水方位記号
で、艮なり亥なり辰の占める幅の角度は、角度で
±7.5度で角度の3度より大きいから、

木の位置に猪の亥が有り、火の位置に艮が有って、艮
は丑寅に挟まれており、土の位置に龍の辰が有る

として、良い事になるという事だろう。つまり、

子の鼠と、卯の兎は、艮の位置からみて、五行の1コ
マ分の角度の72度に、まだ達しないので、普通唱導
集大将棋の2段目小駒に、加えなかったという理由付
けが成り立つ

というわけであろう。
 むろん、大大将棋を見ても判るが、鼠は弱そうなネー
ミングであり、成りを”古蜀国のホトトギス”と洒落
る事によって、ようやく入った駒であり、兎に至って
は、和将棋で、走兎が入るまでは、兎駒は作れなかっ
た事から見ても、

将棋の駒として作りにくい、弱すぎる動物ではあった。

だから、風水の方位と五行の配置から来る角度の72
度間隔を口実にして、虎と牛の他には、猪と龍が有れ
ば、普通唱導集時代の大将棋には、それで充分間に合っ
たというのは、鼠と兎が元々弱かったので、幸運だっ
た事も確かだろう。
 ただし、鼠と兎を入れなくても良いということに関
する

”理論付け”は、当時は陰陽道から持ってきた

と考えた方が自然だ。
 だから、それに気づかず、鼠と兎が入って居無いの
は、単にそれが弱い動物だったからだと考えていた、

本ブログには、基本的なミスが有ったと、言わざるを
得ないのも確か。

以上のように、結論できるように私は思う。(2019/03/15)

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飛龍。二中歴の超越は”跳”解釈として現行何故踊る(長さん)

前に述べた通り、二中歴と将棋纂図部類抄の間の時代に、
文章で大将棋のルールを記載した文献は、ほとんど無かっ
たはずである。とすれば、鎌倉時代から南北朝時代に掛
けてのゲームデザイナーにとって、拠り所は二中歴の大
将棋の記載しか、無かったと考えても良いはずである。
 ところで、二中歴には飛龍の駒の動かし方として、
”四隅超越”と記載されている。これは、

走りないし、跳びと解釈できるのに、現行は飛龍は踊り
として伝えられている。

この一見すると矛盾する、今に伝わるルールは、どうし
て受け入れられたのかを、今回は論題とする。
 最初に回答を、いつものように書く。

後期大将棋で歩兵下段に、飛龍を配列したときに、歩兵
下段には、正行度踊り駒か、走り駒を置くべきとの、ゲー
マーの認識から、飛龍の跳びが、踊りに切り替えられた

と考えられる。では、以下に説明を加える。
 まず、問題点の存在を、はっきりと認識する事が、こ
のケースは大切だ。
 飛龍のルールに関して、二中歴に”四隅超越”と書い
てあるから、鎌倉時代初期には、軽やかに遠くへ行くと
解釈されて、走りだが、近くでは止まれないようなニュ
アンスだっただろう。そして塞象眼ルールを、桂馬のルー
ルとの整合性を取るために止めたとすれば、3升目先か
らの動きは無くなって、跳び以外に、解釈しようが無かっ
たはずである。しかし、そうだとすれば、飛龍は、跳び
駒として、今に伝わるはずで、猛牛と前後左右が斜めに
置き換わった、踊りのイメージが、将棋纂図部類抄の、

鳳凰跳角不如飛龍

との旨の記載になって、現われるはずもない事だろう。
 何か理由があって、駒数多数将棋のゲーマーが、飛龍
駒の踊り化に、賛成したはずである。
 そこで大阪電気通信大学の踊りが、跳びも包含してい
るから、それで満足したという可能性が、まず浮かぶ。
 しかしながら、この諸将棋図式の踊りは、踊りという
日本語の自然な解釈とは、考えにくい。恐らくだが、
自駒は跳び越せない、広将棋や、本ブログが鎌倉時代
中期の踊りと表現する動きを、鎌倉時代末期の時点でも、
自然に認識したのではないか。

荻生徂徠の広将棋踊りは相手駒は跳び越せるので、その
点では踊りだが、自駒が跳び越せないため、自陣を脱出
しにくいと言う点で、今の踊り(大阪電気通信大学の踊
り)らしくはない。

当時は、踊りというと、素朴に2回繰り返しをイメージ
したのであろう。だから、当時の踊りは、二中歴の超越
を跳ぶと解釈した動きとは、

合わなかった

とみられる。では、どうして他のゲーマーを、
飛龍は踊りで、納得させられたのかと言うと、

歩兵下段には、普通唱導集大将棋の時代には、走り駒し
か置かなかったが、中将棋の時代になって、獅子が置か
れた

のと、繋がりがあるのではないかと、私は思う。つまり、
飛龍の現行残る踊りは、中将棋が成立し、実は後期大将
棋の元となる、大将棋の15升目化が始まったときに、
列の不足から、二中歴大将棋の時代の”歩兵列下の飛龍”
が復活した事と関連が有るように、私には思える。

飛龍を、奔王列に加えるために、大阪電気通信大学型の
踊り駒に、変える必要が有った

のではないか。
 中将棋には歩兵下段に獅子が居るが、普通唱導集大将
棋の時代には、獅子が居らず角行が2枚居て、より規則
性の有る、走り駒列だっただろうというのが、私の説だ。

逆に言うと、歩兵下列に大阪電気通信大学の踊り駒が居
るというのは、中将棋の成立期から、既成事実になった

とみられる。それどころか本ブログでは、
神奈川県鎌倉市御成町の遺跡から出土して、残念ながら
紛失、株式会社平凡社より1989年に発行された成書、
よみがえる中世(3)武士の都鎌倉”文字のある生活”
P221下に記載されている事だけが、記録として残る、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札に記載され
た、最初の部分から、狛犬中将棋と言うべき、中将棋の
変種も存在し、狛犬駒の位置は、現在の獅子の位置と、
入れ替えであると見ている。そのため、

歩兵下の段に、現在の飛龍動きに類似の、正行度踊りの
狛犬駒が有る、将棋種が有ったと、考えられるのである。

 つまり元々の、歩兵下段には、走り駒が有るべきと
いう、西暦1300年頃の考えから、西暦1375年頃
には、正行度踊りか、不正行度踊りか、走り駒のどれか
を置くべきであって、

単純跳び駒では、さすがに弱すぎるので不可

に、代わっていたのではないかと、推定されるのである。
 そのように考えると、飛龍が二中歴で、動きが超越に
なっており、近くで止まれない走りか、跳び越えと解釈
できるにしても、二中歴時代の位置に飛龍を戻して

前者の含みを持たせながら、歩兵下段に置くには、跳び
では駄目

だったと考えられるのである。そのため、

狛犬のような踊りに、飛龍を変えたら、デザイナーは他
のゲーマーに、変更が受け入れられた

のではあるまいか。
 この事から、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札に記載され
た、最初の部分から、狛犬中将棋と言うべきものは、
中将棋に於いて、

やはり狛犬が、獅子の位置に置き換わった物である可能
性が高い

という、重大な知見が内包されている事が明らかとなる。
 少なくとも、

狛犬駒が歩兵下列に存在する、駒数多数将棋は、ずっと
後代の泰将棋と大局将棋以外、現行は知られて居無いが、
南北朝時代には、実際にはそのような例が別に有った
疑いが有る

という興味深い情報を、現代に残る、水無瀬兼成の
将棋纂図部類抄の飛龍駒のルールは残しているのだろう。

鳳凰跳角不如飛龍

の水無瀬兼成の表現は、その点でかなり、重大な情報だっ
たように、私には思える。(2019/03/14)

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将棋ルール書は二中歴と将棋纂図部類抄間に余り無い(長さん)

将棋のルール情報書は、今の所まとまったものとして
は、表題のように、平安時代末の情報とみられる、貴
族用書、二中歴から、安土桃山時代末の水無瀬兼成著、
将棋纂図部類抄まで、400年位飛んでいるとみるの
が、一般的だ。その間は普通唱導集と、先だって本ブ
ログの見解では、確認と表現された、鎌倉市御成町の、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土の”中将棋木札”
の2情報に、駒に刻まれた打点、ルールの中に使われ
る熟語の一言だけが、出て来る文献等は除いて考える
と、まとまった物としては限られている。今回は特に、
冒頭の2書のような、成書の形の古文書が、間に多数
有ったが、失われた可能性が、どの程度有り得るのか
を、大胆だが推定する。
 結論から述べる。

余り無かったのではないか

と、本ブログでは見る。理由は、日本人には普通、

特定のゲーム種名という言語の意味を、同じ民族の他
人に伝える必要性が、鎌倉時代から戦国時代の、いわ
ゆる”南蛮人の渡来”の時代まで、ほぼ無かったため

というのが原因として有ったのではないかとみる。
 では、以下に説明を加える。
 まず、戦国時代の頃には、戦乱が続いていたから、
記録が失われたという可能性が、全く無かったとは言
えない。しかし、こうした文書の存在は、皆無とは証
明できないものの、ほとんど無かったのではないかと、
私は思う。

遊戯は、頭でルールや内容を覚えておき、歳取って、
明月記ではないが”ルールを忘れ、それで出来なくな
ればそれで終わりで良い”

というのが、日本人の感覚だったはずだ。たとえば、

”日本の辞書の歩み”辞書協会編”国語辞書の歩み”
金田一春彦著、1996年に、

国内の国語辞典の最初は、江戸時代の18世紀末に
成立した、太田全斉の著書(?)とされる俚言集覧
が最初で、それ以前に日本人が、
国語辞書(日日辞典)を作った記録が無い
とされるからである。
 上記の同じ文献によると、日日辞典ができたのは、
ポルトガル人により、日葡辞典が江戸初期にできたの
がきっかけとの事のようである。つまり、日本人は、

普段使っている日本語の熟語等の意味を、単一民族か
つ、戦国時代中期までは、交易範囲も限られていたの
で、他人に聞かれるケースが、余り無かった。

そのため、将棋等の遊戯については、ゲーム名と内容
を頭で理解していれば、本人にとっては、それで良く、
ゲームのルール等で、ゲーム名で示したゲームの内容
を、特に”文字で伝達する必要性”はほぼ無かったと
見られる。
 だから、ゲーム性能が低く、しかし教養として、
懐中の手帳には書いておかないと、まずいとみられた
二中歴のケースは別として、

将棋のルール本の著作は欧州人と接触するまでは不要

だったのだろう。だから、西暦1190年頃の平安大
将棋(二中歴大将棋)の時代から、西暦1590年頃
の将棋纂図部類抄の、六将棋の時代の約400年間に、

将棋のルール本の著作が多数有るとは、期待しにくい

と考えられる。
 以上の結論は、やはり辞書・辞典類の歴史に関する
一般向けの金田一春彦等著者の、前記文献の内容が、
今の所決め手のように思える。
 そもそも、平安時代末に自明だった、囲碁や盤双六
は、そのため、二中歴にはルールさえ、記載されなかっ
た。ゲーム性能に関して後発の日本の将棋が、かろう
じて二中歴に記載されたのは、例外的な幸運だった
と考えてもよさそうだ。
 水無瀬兼成の将棋纂図部類抄、中将棋後注釈部、
仲人の項目冒頭の、成りに関する一文が、二中歴記載
の大将棋の、判読困難な最後の十文字と内容的に、
類似の調子合わせに見えるのは、

水無瀬兼成も、文献で知っているのは、二中歴と、
他に僅かな情報だけでしか無い事を、やはり示唆

しているように、私には見えるのである。(2019/03/13)

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幸田露伴将棋雑話の”将棋と荻生徂徠”の広将棋情報(長さん)

以下、創樹社の塩谷賛氏の露伴と遊び(西暦1972年)
の幸田露伴の将棋雑話(原文西暦1901年)、
”将棋と荻生徂徠”の口語自由訳からの情報である。
 ここでは、
第5代大橋宗桂が、荻生徂徠の広将棋に関して、ようす
るに、「”(広将棋のルールに関して)つまらない”と
言ったと伝わる」という点につき、

大橋宗桂(第5代)の発言の真偽につき偽の疑いがある、

という観点について述べる。

近世の日本将棋名人の言う事だが、あてにならない

という意味である。
 まずは、塩谷賛氏の露伴と遊びの幸田露伴の将棋雑話
”将棋と荻生徂徠”には、箇条書きすると次の内容が、
文学的な感情表現をちりばめながら、述べられている。
①荻生徂徠には、日本将棋に関して、当時の初段の棋力
が有った。
②広将棋譜という書物という書があり、それは荻生徂徠
が著者である。
③広将棋譜に片山兼山が序文を書いている。ようするに、
指すと面白い、優秀なゲームであるという内容である。
④大橋宗桂(大橋家第5代、名人)が、
”ゲームをデザインするときに、私をデザイナーに加え
るべきだった”と、述べたと言う事である。
⑤④に加えて大橋宗桂(大橋家第5代)は、
”ゲームとして広将棋は出来が悪い。私が加わったら、
もう少し改善されただろう。(この将棋は、ゲーム性能
が悪いために流行って居無いようだが、)私をゲームデ
ザインに参画させていたら、私の力により、現行より流
行ったことだろう。”との旨、述べたと言うことである。
⑥天明・寛政の時代に、江戸の小網町に居した毛塚源助
(将棋棋士)の著書(不明)の巻末に、
荻生徂徠は広将棋を古川章甫に伝え、そこから息子の、
婿入りした市川章甫、市川章甫から、片瀬佐右衛門・
島田久兵衛・松屋源衛門以上3名には伝えたという。
毛塚源助は、島田久兵衛(将棋棋士)から情報を得た。
⑦広将棋をデザインするときに荻生徂徠は、童蒙の軍伍
名を主に使った。
⑧駒の種類としては、左右非対称駒が出てきたとき、
参謀と高道を落としているが、幸田露伴も駒名をほぼ
全て、将棋雑話で紹介している。ただし駒の動かし方
ルールや、成りについては、将棋雑話には記載が無い。
⑨伝えられたルールで、2回同じ動きを繰り返す系統の
駒と、霹靂の駒の動かし方のルールにミスが、近世ない
し近代になって発見され、指す事が不能になった。
 蛇足だが、西暦2027年年末の、著作権切れが、こ
の塩谷賛氏本についても、待ち遠しい所だ。
 以上の内容について以下議論するが、

ここで話題にするのは主に④⑤⑨である。

結論から述べると、

ゲームデザインの能力は、特定の隣接するゲームの棋力
とは、完全には相関しないだろう。だから、第5代大橋
宗桂の評は、あてにならないだろう。

確かに、ゲーム性能が悪いとしたら、ゲームは流行らな
い。しかし、ゲーム性能が良いとしたら、古文書で残し
ておけば、後世流行るだろうから、

名人の威光は後世については、ゲーム普及上、必須な事
とまでは、行か無いのではないか

と、少なくとも本ブログでは考える。
 また、

広将棋は、荻生徂徠がデザインした時点では、伝えられ
たルールよりは、ましだった可能性がある

とも、ここでは考える。
 では、以上の本ブログの考えについて、以下に少し述
べよう。
 まずもってだが、

この将棋は、弓・弩・砲・仏狼機駒の存在に特徴がある。

また、更に大切な事は、
元々、この系統の将棋は攻撃力過剰なのが常であるが、
戦闘が、弓等駒が歩み駒であり、歩みでは遅いために、
攻撃に手数がかかり、

将棋の局面の進行がスローである事によって、人間には
攻撃力過多な弱点が、余り見えないゲームになっている

という状況がある。
 この点で、攻守のバランスが取れる将棋を、デザイン
上自明で目指す、日本将棋とは、

大きな違い

がある。だから、
ゲームデザイナーとしての力は、日本将棋の名人と、こ
の種のゲームのゲームデザインに慣れている、荻生徂徠
のようなゲームデザイナーとの間で、

ほぼ、イーブンの疑いが強い

と私は思う。

だから、大橋宗桂(第5代)の言は、その点で、今紹介
した以上の、発言内容に関する記録が残っていないのな
ら、その言と称する話の内容は、あまりあてにならない
ようなものであろう

と、私は思う。
 ただし、大橋宗桂(第5代)の活躍した時代に於いて、

名人の威光でその時代に広将棋を指す棋士の数は増えた

という事は確かかもしれない。だから18世紀初頭につ
いては、大橋宗桂(第5代)作だと表したら、荻生徂徠
だけよりは、流行ったというのは、正しいかもしれない。
 次に、荻生徂徠オリジナルの広将棋については、定か
ではないと認識するが、

ひとまず、車が1歩後退配列で2走、砲でもそれは取れ
ずにした上で、更に小駒による取って成りルールについ
て、徂徠も、生前色々検討してはいた

程度のものだと仮定しよう。すると、この広将棋のゲー
ム性能については、

オフェンス大過剰だが、手数が掛かって、進行がスロー
なので、人間には尤もらしく見える、良い出来だった

という状況なのではないか。つまり、

弓・弩駒のルールを複雑にした分の見返りが、完全にあ
るのかどうか、までは謎

だと私も思う。が、摩訶大大将棋より、大きく上品とも
言えないが、劣るとも言えないのではないか。つまり、

記録が完璧であれば、幸田露伴の紹介した広将棋は、
恐らく完全消滅は免れた状態

だったのではないかと、本ブログでは考える。
 次に、幸田露伴が、今述べた記録(広将棋譜愚解)で、
”2回同じ動きを繰り返す系統の駒と、霹靂の駒の動か
し方のルールにミスが、近世ないし近代になって発見さ
れ、指す事が不能になった。”という内容を、将棋雑話
に書いているようだが、

幸田露伴は、ガセネタをつかまされた

と、本ブログでは考える。内容から見て、
自分の駒を1回目に跳び越せないという、広将棋特有の
2回繰り返し駒のルールは、それの出来る、大阪電気通
信大学の踊りルールと違うという”エラー”とかつて認
識された内容が、恐らく”難”に関する、言いがかりの
内容であろう。そしてそれが口実で、皆が指さなくなっ
たと言う意味に、私はこの露伴文を読む。しかしこれは、
露伴が他人の情報から、得て書いたものだとすれば、

いっぱい食わされたのであり、滅亡に関する言いがかり

だ。実際には、自駒第1歩目通過が出来るかどうかで、
攻守バランスが、大きく変わらない。むしろ、騎総の
現行の”鎌倉時代踊りルール(本ブログ推定)”とほぼ
同じとみられる、”踊り”の言葉の日本語の、自然な意
味から来る、広将棋の2回繰り返し駒のルールは、間違っ
たと指摘した場合に、20世紀初頭に考えられた正しい
とされた踊り、すなわち、大阪電気通信大学踊りよりは、
自陣から出にくくなるだけ、生き残った

広将棋の踊りの方が、よりまし

だと私は思う。つまり、
幸田露伴は、将棋雑話を執筆する時点で”広将棋譜愚解
には、ゲームルールの伝来ミスがあるようだ”との情報
を掴んだものの、

理由に関する内容が、間違い

だった。その為に、正確な滅亡原因がつかめなかったと、
考えられると言う事である。
 しかも、広将棋譜愚解のルール内容と、荻生徂徠オリ
ジナルな消失したルールを、ごちゃ混ぜに論じているし、
恐らく、我々には既に謎で当否不明な、オリジナルルー
ルを評していると見られる、第5代大橋宗桂のコメント
を、今では誰も判らない事に気がつきにくい、読者が読
む文面に、注釈無く挟んでしまったために、

荻生徂徠には、将棋のゲームデザイン能力に限界がある

という印象を、将棋雑話の読者に、強く与える結果だけ
に終わってしまったようだ。
 しかしながら岡野伸氏の”中国の諸象棋”を読む限り、
近年では荻生徂徠の広将棋は、荻生徂徠没後、数十年経っ
た頃の再現品と見られている。だから、

荻生徂徠のゲームデザイン力が、実際にはどの程度であっ
たかは、完全に判る史料は無い。

以上の点に、少なくとも注意する必要が有るという点が
大事なように、やはり私には、思えるようになったので
ある。(2019/03/12)

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