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幸田露伴将棋雑話の”将棋と荻生徂徠”の広将棋情報(長さん)

以下、創樹社の塩谷賛氏の露伴と遊び(西暦1972年)
の幸田露伴の将棋雑話(原文西暦1901年)、
”将棋と荻生徂徠”の口語自由訳からの情報である。
 ここでは、
第5代大橋宗桂が、荻生徂徠の広将棋に関して、ようす
るに、「”(広将棋のルールに関して)つまらない”と
言ったと伝わる」という点につき、

大橋宗桂(第5代)の発言の真偽につき偽の疑いがある、

という観点について述べる。

近世の日本将棋名人の言う事だが、あてにならない

という意味である。
 まずは、塩谷賛氏の露伴と遊びの幸田露伴の将棋雑話
”将棋と荻生徂徠”には、箇条書きすると次の内容が、
文学的な感情表現をちりばめながら、述べられている。
①荻生徂徠には、日本将棋に関して、当時の初段の棋力
が有った。
②広将棋譜という書物という書があり、それは荻生徂徠
が著者である。
③広将棋譜に片山兼山が序文を書いている。ようするに、
指すと面白い、優秀なゲームであるという内容である。
④大橋宗桂(大橋家第5代、名人)が、
”ゲームをデザインするときに、私をデザイナーに加え
るべきだった”と、述べたと言う事である。
⑤④に加えて大橋宗桂(大橋家第5代)は、
”ゲームとして広将棋は出来が悪い。私が加わったら、
もう少し改善されただろう。(この将棋は、ゲーム性能
が悪いために流行って居無いようだが、)私をゲームデ
ザインに参画させていたら、私の力により、現行より流
行ったことだろう。”との旨、述べたと言うことである。
⑥天明・寛政の時代に、江戸の小網町に居した毛塚源助
(将棋棋士)の著書(不明)の巻末に、
荻生徂徠は広将棋を古川章甫に伝え、そこから息子の、
婿入りした市川章甫、市川章甫から、片瀬佐右衛門・
島田久兵衛・松屋源衛門以上3名には伝えたという。
毛塚源助は、島田久兵衛(将棋棋士)から情報を得た。
⑦広将棋をデザインするときに荻生徂徠は、童蒙の軍伍
名を主に使った。
⑧駒の種類としては、左右非対称駒が出てきたとき、
参謀と高道を落としているが、幸田露伴も駒名をほぼ
全て、将棋雑話で紹介している。ただし駒の動かし方
ルールや、成りについては、将棋雑話には記載が無い。
⑨伝えられたルールで、2回同じ動きを繰り返す系統の
駒と、霹靂の駒の動かし方のルールにミスが、近世ない
し近代になって発見され、指す事が不能になった。
 蛇足だが、西暦2027年年末の、著作権切れが、こ
の塩谷賛氏本についても、待ち遠しい所だ。
 以上の内容について以下議論するが、

ここで話題にするのは主に④⑤⑨である。

結論から述べると、

ゲームデザインの能力は、特定の隣接するゲームの棋力
とは、完全には相関しないだろう。だから、第5代大橋
宗桂の評は、あてにならないだろう。

確かに、ゲーム性能が悪いとしたら、ゲームは流行らな
い。しかし、ゲーム性能が良いとしたら、古文書で残し
ておけば、後世流行るだろうから、

名人の威光は後世については、ゲーム普及上、必須な事
とまでは、行か無いのではないか

と、少なくとも本ブログでは考える。
 また、

広将棋は、荻生徂徠がデザインした時点では、伝えられ
たルールよりは、ましだった可能性がある

とも、ここでは考える。
 では、以上の本ブログの考えについて、以下に少し述
べよう。
 まずもってだが、

この将棋は、弓・弩・砲・仏狼機駒の存在に特徴がある。

また、更に大切な事は、
元々、この系統の将棋は攻撃力過剰なのが常であるが、
戦闘が、弓等駒が歩み駒であり、歩みでは遅いために、
攻撃に手数がかかり、

将棋の局面の進行がスローである事によって、人間には
攻撃力過多な弱点が、余り見えないゲームになっている

という状況がある。
 この点で、攻守のバランスが取れる将棋を、デザイン
上自明で目指す、日本将棋とは、

大きな違い

がある。だから、
ゲームデザイナーとしての力は、日本将棋の名人と、こ
の種のゲームのゲームデザインに慣れている、荻生徂徠
のようなゲームデザイナーとの間で、

ほぼ、イーブンの疑いが強い

と私は思う。

だから、大橋宗桂(第5代)の言は、その点で、今紹介
した以上の、発言内容に関する記録が残っていないのな
ら、その言と称する話の内容は、あまりあてにならない
ようなものであろう

と、私は思う。
 ただし、大橋宗桂(第5代)の活躍した時代に於いて、

名人の威光でその時代に広将棋を指す棋士の数は増えた

という事は確かかもしれない。だから18世紀初頭につ
いては、大橋宗桂(第5代)作だと表したら、荻生徂徠
だけよりは、流行ったというのは、正しいかもしれない。
 次に、荻生徂徠オリジナルの広将棋については、定か
ではないと認識するが、

ひとまず、車が1歩後退配列で2走、砲でもそれは取れ
ずにした上で、更に小駒による取って成りルールについ
て、徂徠も、生前色々検討してはいた

程度のものだと仮定しよう。すると、この広将棋のゲー
ム性能については、

オフェンス大過剰だが、手数が掛かって、進行がスロー
なので、人間には尤もらしく見える、良い出来だった

という状況なのではないか。つまり、

弓・弩駒のルールを複雑にした分の見返りが、完全にあ
るのかどうか、までは謎

だと私も思う。が、摩訶大大将棋より、大きく上品とも
言えないが、劣るとも言えないのではないか。つまり、

記録が完璧であれば、幸田露伴の紹介した広将棋は、
恐らく完全消滅は免れた状態

だったのではないかと、本ブログでは考える。
 次に、幸田露伴が、今述べた記録(広将棋譜愚解)で、
”2回同じ動きを繰り返す系統の駒と、霹靂の駒の動か
し方のルールにミスが、近世ないし近代になって発見さ
れ、指す事が不能になった。”という内容を、将棋雑話
に書いているようだが、

幸田露伴は、ガセネタをつかまされた

と、本ブログでは考える。内容から見て、
自分の駒を1回目に跳び越せないという、広将棋特有の
2回繰り返し駒のルールは、それの出来る、大阪電気通
信大学の踊りルールと違うという”エラー”とかつて認
識された内容が、恐らく”難”に関する、言いがかりの
内容であろう。そしてそれが口実で、皆が指さなくなっ
たと言う意味に、私はこの露伴文を読む。しかしこれは、
露伴が他人の情報から、得て書いたものだとすれば、

いっぱい食わされたのであり、滅亡に関する言いがかり

だ。実際には、自駒第1歩目通過が出来るかどうかで、
攻守バランスが、大きく変わらない。むしろ、騎総の
現行の”鎌倉時代踊りルール(本ブログ推定)”とほぼ
同じとみられる、”踊り”の言葉の日本語の、自然な意
味から来る、広将棋の2回繰り返し駒のルールは、間違っ
たと指摘した場合に、20世紀初頭に考えられた正しい
とされた踊り、すなわち、大阪電気通信大学踊りよりは、
自陣から出にくくなるだけ、生き残った

広将棋の踊りの方が、よりまし

だと私は思う。つまり、
幸田露伴は、将棋雑話を執筆する時点で”広将棋譜愚解
には、ゲームルールの伝来ミスがあるようだ”との情報
を掴んだものの、

理由に関する内容が、間違い

だった。その為に、正確な滅亡原因がつかめなかったと、
考えられると言う事である。
 しかも、広将棋譜愚解のルール内容と、荻生徂徠オリ
ジナルな消失したルールを、ごちゃ混ぜに論じているし、
恐らく、我々には既に謎で当否不明な、オリジナルルー
ルを評していると見られる、第5代大橋宗桂のコメント
を、今では誰も判らない事に気がつきにくい、読者が読
む文面に、注釈無く挟んでしまったために、

荻生徂徠には、将棋のゲームデザイン能力に限界がある

という印象を、将棋雑話の読者に、強く与える結果だけ
に終わってしまったようだ。
 しかしながら岡野伸氏の”中国の諸象棋”を読む限り、
近年では荻生徂徠の広将棋は、荻生徂徠没後、数十年経っ
た頃の再現品と見られている。だから、

荻生徂徠のゲームデザイン力が、実際にはどの程度であっ
たかは、完全に判る史料は無い。

以上の点に、少なくとも注意する必要が有るという点が
大事なように、やはり私には、思えるようになったので
ある。(2019/03/12)

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