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将棋ルール書は二中歴と将棋纂図部類抄間に余り無い(長さん)

将棋のルール情報書は、今の所まとまったものとして
は、表題のように、平安時代末の情報とみられる、貴
族用書、二中歴から、安土桃山時代末の水無瀬兼成著、
将棋纂図部類抄まで、400年位飛んでいるとみるの
が、一般的だ。その間は普通唱導集と、先だって本ブ
ログの見解では、確認と表現された、鎌倉市御成町の、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土の”中将棋木札”
の2情報に、駒に刻まれた打点、ルールの中に使われ
る熟語の一言だけが、出て来る文献等は除いて考える
と、まとまった物としては限られている。今回は特に、
冒頭の2書のような、成書の形の古文書が、間に多数
有ったが、失われた可能性が、どの程度有り得るのか
を、大胆だが推定する。
 結論から述べる。

余り無かったのではないか

と、本ブログでは見る。理由は、日本人には普通、

特定のゲーム種名という言語の意味を、同じ民族の他
人に伝える必要性が、鎌倉時代から戦国時代の、いわ
ゆる”南蛮人の渡来”の時代まで、ほぼ無かったため

というのが原因として有ったのではないかとみる。
 では、以下に説明を加える。
 まず、戦国時代の頃には、戦乱が続いていたから、
記録が失われたという可能性が、全く無かったとは言
えない。しかし、こうした文書の存在は、皆無とは証
明できないものの、ほとんど無かったのではないかと、
私は思う。

遊戯は、頭でルールや内容を覚えておき、歳取って、
明月記ではないが”ルールを忘れ、それで出来なくな
ればそれで終わりで良い”

というのが、日本人の感覚だったはずだ。たとえば、

”日本の辞書の歩み”辞書協会編”国語辞書の歩み”
金田一春彦著、1996年に、

国内の国語辞典の最初は、江戸時代の18世紀末に
成立した、太田全斉の著書(?)とされる俚言集覧
が最初で、それ以前に日本人が、
国語辞書(日日辞典)を作った記録が無い
とされるからである。
 上記の同じ文献によると、日日辞典ができたのは、
ポルトガル人により、日葡辞典が江戸初期にできたの
がきっかけとの事のようである。つまり、日本人は、

普段使っている日本語の熟語等の意味を、単一民族か
つ、戦国時代中期までは、交易範囲も限られていたの
で、他人に聞かれるケースが、余り無かった。

そのため、将棋等の遊戯については、ゲーム名と内容
を頭で理解していれば、本人にとっては、それで良く、
ゲームのルール等で、ゲーム名で示したゲームの内容
を、特に”文字で伝達する必要性”はほぼ無かったと
見られる。
 だから、ゲーム性能が低く、しかし教養として、
懐中の手帳には書いておかないと、まずいとみられた
二中歴のケースは別として、

将棋のルール本の著作は欧州人と接触するまでは不要

だったのだろう。だから、西暦1190年頃の平安大
将棋(二中歴大将棋)の時代から、西暦1590年頃
の将棋纂図部類抄の、六将棋の時代の約400年間に、

将棋のルール本の著作が多数有るとは、期待しにくい

と考えられる。
 以上の結論は、やはり辞書・辞典類の歴史に関する
一般向けの金田一春彦等著者の、前記文献の内容が、
今の所決め手のように思える。
 そもそも、平安時代末に自明だった、囲碁や盤双六
は、そのため、二中歴にはルールさえ、記載されなかっ
た。ゲーム性能に関して後発の日本の将棋が、かろう
じて二中歴に記載されたのは、例外的な幸運だった
と考えてもよさそうだ。
 水無瀬兼成の将棋纂図部類抄、中将棋後注釈部、
仲人の項目冒頭の、成りに関する一文が、二中歴記載
の大将棋の、判読困難な最後の十文字と内容的に、
類似の調子合わせに見えるのは、

水無瀬兼成も、文献で知っているのは、二中歴と、
他に僅かな情報だけでしか無い事を、やはり示唆

しているように、私には見えるのである。(2019/03/13)

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