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大局将棋は荻生徂徠の広将棋より、駒を取り込んだか(長さん)

将棋者御三家大橋家に伝わっていた大局将棋は、水無瀬兼成
の将棋纂図部類抄の6種の将棋、江戸初期成立の天竺大将棋、
江戸時代成立の和将棋、一時期流行の七国将棋、禽将棋、
から、特に駒の種類を取り込んでいる事で知られる。が、
荻生徂徠の広将棋には、言及されない事が多い。大局将棋は、
正確な成立時期が不明だが、本ブログでは、奥御用を預かっ
た、徳川家治の治世に、水無瀬兼成が豊臣秀次との間で、深
い関係となった、最高権力者との関係の類似性に準えて、
泰将棋の発展形を作ろうとしたのが、大局将棋の作成動機で
あろうと見ている。つまり、荻生徂徠が広将棋を作成した、
数十年後、広将棋を再現しようとした時期が、大局将棋の
作成進行の時期なのではないかと、言う事である。従って、

大局将棋は荻生徂徠の広将棋の成立後に作成

されたと見られると言う事になる。従来は、大局将棋の内容
に関する研究も、跳びぬけて盛んとまでは行かなかったため、

大局将棋の元になった既存将棋種のリストアップが出来てい
るという所までは行かなかった

と、本ブログでは認識している。つまり、

大局将棋と広将棋の関係については、先行研究例は実質的に
無い未知領域だろう

と言う事である。では、実際にはどうだったのかを、今回は
論題にしよう。
 最初に結論から書く。
 中国の童蒙の軍伍の名を使うつもりは、大局将棋の作者は
無かった。そのため、取り入れる駒種は限られた。しかし、
必要に応じて、わずかだが広将棋の駒名を取り入れている。
他方、大局将棋では特に兵駒をたくさん作ったので、広将棋
に合わせて○兵を上段に持ってくるという事をした。つまり、

広将棋自体からは、駒を余り取り入れなかったが、初期配列
を作るとき、参考にするという影響を与えたと見られる。

 では以下に、以上の結論について、説明する。
 前に、第5代大橋宗桂が、荻生徂徠の自分に相談せずに、
広将棋を作成した事に対して、文句を言っていたという、
幸田露伴の研究結果を紹介した。しかし、本ブログでは、
大局将棋を作成したとき、大橋家は代替わりしたあとだった
と見ている。だから、大橋家と荻生徂徠の学派との軋轢は、

無かった

と見た方が自然だと思う。中国の軍伍の名を取り入れるので
はなく、小将棋から大大将棋、摩訶大大将棋を参照して、
泰将棋を作った水無瀬兼成の行為を、大局将棋として拡張し
ようとしたため、中国の軍隊流である駒名は、避けただけだ
ろうと見るのが、自然ではないかと思う。ただし、日本の
将棋の駒名に近い、

龍驤や鷹揚を大局将棋で入れなかった理由は謎

だ。なお、虎翼は、類似音の鴻翼(銀車の成り)の元なので
はないかと、個人的に疑う。弓兵、弩兵、砲兵は、七国将棋
が元なのか、広将棋が元なのか、判然としないが、時代が
近いので、七国将棋に軍配を上げておこう。
 では、広将棋の駒名は、法外に避けていたかと言うと、

砲車を、走車の成りとして採用していたし、広将棋にだけ有
る、馬兵が大局将棋にも有るから、採用した種類数が少なかっ
ただけ

と見た方が、公平だと私は考える。走車成り砲車と、馬兵し
か無いので、

広将棋から大局将棋が、駒を取り入れているように見えなか
っただけ

と、本ブログでは見ると言う事である。
 他方、大局将棋の初期配列には、

兵駒が9段~10段目、つまり、歩兵下2段に集まっている
という、他の将棋種では広将棋以外には無い性質がある。

例外は8段目の騎兵と、5段目の羊兵だけである。

騎兵は、七国将棋で騎が下辺に居たから、そうしたと取れる
し、羊兵は泰将棋に合わせて中段にしただけであろう。

他の多くの兵駒は、広将棋に合わせて、歩兵下のすぐの列に
大局将棋でも、もって来た

ようにしか、私には見えない。つまり、水無瀬兼成とは違っ
て、荻生徂徠は、中国人の軍学の大家の駒名を、主な駒名と
する将棋を作成したために、ゲームデザインの主旨が水無瀬
兼成の継続行為であった、大橋家は、広将棋の駒名を、たま
たま使わなかったのだが、

兵の付く駒を、上段に持ってきたという点で、水無瀬兼成の
泰将棋には無かった、広将棋を真似たような性質が加わった

と考えられよう。
 よって、以上のような結論になると思う。大局将棋は、
室町時代作を装った、水無瀬兼成作と見られる泰将棋とは
異なり、鉄砲駒の砲車が入った将棋になった。
 恐らく天明の頃までに知られていた、既存の将棋種類は、
分け隔てなく、必要に応じて取り入れる方針で、大局将棋は、
少なくとも結果としては、作成されたのであろうと見られる。
(2019/03/15)

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