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1986年将棋探源執筆時点伊東倫厚氏は中国伝来派(長さん)

将棋史研究家として北大教授(当時)の(故)伊東倫厚
(ともあつ)氏は、よく知られている。
 将棋史の成書は発見されないが、将棋ジャーナル誌に、
3年位、将棋史の話を連載していたという話を、本ブロ
グのコメントや、論文を読んで、さすがの私も気がつい
ていた。
 調査してみると、日本への将棋伝来の元の国に関して
言及していて、西暦1986年頃には、

中国のプロトシャンチー系統の、日本への流入と考えて
いた

との記録が有った。今回はこの点につき、もう少し詳し
く以下に報告する。
 伊東倫厚氏が、将棋ジャーナル誌に、表題の内容で、
各国のチェス・象棋・将棋の歴史について述べていたの
は、将棋ジャーナル誌のバックナンバーで言うと、

西暦1984年6月号から西暦1987年6月号まで

で、途中跳びとびに休んで、22回連載の、各回2~数
ページ程度の文書である。運が良かったが、22回分の
全文につき、最近、私には見る機会に恵まれた。
 将棋ジャーナル誌の構成が、1987年秋に変化して、
”将棋大学”のセクションが消失したため、将棋ジャー
ナル誌上の伊東倫厚氏の史論は、残念ながら日本に将棋
が到達した所、そこで終わっていた。
よって、駒数多数将棋の”特定の種類の起源に関する論”
というカテゴリーのものは、余り見当たらない。本ブロ
グで論じた部分と、関連するのは、

何処から日本の将棋が来たかという伝来論に、絞られる

との心象を受けた。伝来論で、当時の伊東氏の立ち位置
は、比較的、はっきりしていたと私は考える。

伊東氏は当時、日本の将棋は、中国中原起源と見ていた

ようだ。
 増川宏一氏の将棋Ⅰが発行されて、間も無くのものな
ので、東南アジア起源説を、増川氏の将棋ⅠやⅡ、
大内延介氏の”将棋の来た道”に関連した論文等を
元文献として、批判されていた。
 伊東氏の論拠が、良く出ているのは22回の連載の
うちで、

第17回、1986年5月号の将棋ジャーナルの122
ページから123ページの所で、自身の主張をうまく、
単潔に、まとめられている。

①交点駒置きは、日本に象棋ゲーム系統を伝来させてか
ら、中国本国で、後変化したものである。
②飛車・角行の位置は、シャンチーの砲の位置に類似。
③筋が9筋なのは、中国シャンチーと日本将棋で一緒。

以上のようになっているようだ。
①については、本ブログも賛成するが、②と③には証拠
であるという主張に、賛成できない。①についても、
彼と本ブログとでは、見方が同じでは無い。後者につい
ての、彼と私の違いは、シャンチーが成立する以前には、
主力のゲームが

プロトシャンチーではなくて、イスラムシャトランジと
平安小将棋のルールにほど近い、雲南将棋であり、流行っ
ていたのではなくて、それらに関する情報(後者は遊具
が宝玉)が、中国中原の都市では、幅を、きかせていた
と、私の方は、見ているという点

である。伊東氏は”シャンチーが成立する以前の、中国
初期宋王朝時代には、プロトシャンチーが混乱した状態
で、立体駒や書き駒を、ローカルに混ざって指していた
と考えている”との旨を、将棋ジャーナル誌1986年
の3月号あたりで書いていたようだ。
 本ブログでは、少数のゲームデザイナーの作成した、
始原のゲームが、たまたま、記録として残っているだけ
で流行は無く、むしろ開封市や長安市は、唐宋時代の
当時、国際都市らしい、

各国ゲームの”情報の坩堝”だった

と見ている。中国人はチェス系のゲームに対して当時は、
後の世に、この系統のゲームの”創始者の誉れ”など、
問題にされるようになる時代が、来るとは夢にも思わず、
もっぱら囲碁と比較し、傍観者の立場を取ったと、本ブ
ログでは見ているのだ。以上の点が違う。どちらが正し
いのかは、中国の都市史に詳しい学者に、逐次判断して
もらうしか無いように、私には思える。
 他方②・③については、唐物・中国びいきだった当時
の日本の知識人の仲間だったに違いない、将棋デザイナー
に、結局の所伝来した後に、ゲームを似せてもらえれば
良いだけの話なので、本ブログでは、中国中原が日本の
将棋の源という根拠に、なってはいないように思う。
何れにしても、興福寺で将棋駒が発掘されたのが、西暦
1993年だから、中国シャンチーの、交点駒置が完成
する前に、升目置き将棋が伝来したと考えれば、増川論
を回避できるという、①の理屈に関しては、

伊東倫厚氏は、1986年時点でよく気がついたものだ

と私は、彼の当時の日本の将棋の伝来経路推定論に関し
て、その点が一番関心させられている。(2019/03/17)

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