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二巻物色葉字類抄に中将基無く大将基の成り独特な訳(長さん)

今回は表題のように、江戸時代の加賀前田藩の文庫、
尊経閣文庫蔵の二巻物(西暦1565年書写)
色葉字類抄の、伊(イ)よりも更に先に有るという、
さながら巻頭特別企画を連想させるような、大将基
1ページと、小将碁1ページの内容の特徴について、

一番大事な以下二点のみ、議論する。

どうみても、後期大将棋と日本将棋が書かれていて、

①中将棋が無いのはおかしい。これは何故か。

また、後期大将棋が書かれているが、水無瀬兼成の
将棋纂図部類抄の、15×15の後期大将棋とは異
なり、
成りは、麒麟が師子、鳳凰が奔王、”酔”が太子だ
けではなくて、

②香車、反車、飛車、猛牛、仲人が、”駒の裏が金”
との旨書かれている。これは何を意味するのか、

を論題とする。つまり、1565年書写の二巻物
色葉字類抄に中将基が無く大将基の成りが独特な訳
を考える。いつものように、答えから書く。

①は作成者が公家か、それと繋がりの強い僧侶で、
中将棋の駒を恒常的に保持していた。そのため、
中将棋は駒の字が判らなくなったら、将棋駒を引っ
張り出して見れば、それで良く、色葉字類抄(2巻
物)に中将基という文面を書き足す必要が無かった

ため。

②作成した時代の後期大将棋が、各段で、一番端の
駒種を、金成りにするルールだとの情報を、作者の
公家か準公家が得ていて、その通りに書いただけ

と今の所、本ブログでは考える。
 では、以下に説明を加える。
 ①については、水無瀬兼成の将棋馬日記に関する、
増川宏一氏の研究で、公家は将棋と言えば、中将棋
だけを、西暦1590年頃には購入していたという
事柄が、証拠史料として挙げられる。小将棋も公家
は知っているに、だいたい決まっているのだろうが、
日本将棋の道具は、敢えて収集しなかったように、
水無瀬兼成の文書からは、見て取れると聞く。
 元々加賀前田藩の文庫、尊経閣文庫蔵の二巻物
(西暦1565年書写)色葉字類抄は、京都の
公家か公家の家の出の在来仏教の僧侶かが、元巻物
を持っていて、それを西暦1565年に書写して、
尊経閣文庫蔵の二巻物色葉字類抄にしたのではなか
ろうか。
 僧侶になっていたとしても、かなり身分の高い者
だったのであろう。京都御所の儀式としての警護等
の名目で、大内離に出入りできる程度の人間が、書
写したのではなかろうか。大内離に出入りする身分
だから、自身はもともとは公家であり、小将棋は、
朝廷タイプの京都や滋賀で出土する、双王日本将棋
だったのだろう。小将碁と書きながら玉駒が王将な
のは、玉将に変えると豊臣秀吉に苦言を言うらしい、
後陽成天皇といっしょで、京都御所界隈が縄張りの
人物だった、証拠なのではないか。
 これは推定だが、公家が将棋と言うとき、遊具の
持ち物に関して中将棋なのは、将棋馬日記の時代の
±200年位で、いっしょなのではないかと、私は
疑う。
 だから、

例えば角鷹の字を忘れたら、中将棋の駒を持ってき
て確認するほうが、色葉字類抄新品自作4冊本の1
冊目を持ってくるより、彼や身内にとっては、速かっ
たはず

だ。そのため、

色葉字類抄尊経閣文庫蔵の二巻物(西暦1565年
書写)に、大将基と小将碁を足した人物は、中将基
等の項目は、自分と身内が不要なので作らなかった

のではないか。
 ちなみに、大将基の成りは、裏と書いてある。

1565年の書写者は、将棋には、さほど興味が無
く、成るというルールは知らない者に、読ませる文
書のつもりであった

可能性が高いと思う。それにも係わらずだが、想定
される、小将碁馬名等の読み手は、将棋の駒の字を
書く仕事に、何らかの関わりが有ったのだろう。
将棋駒の字を忘れたときには、中将棋についてだけ、
サンプルの駒で確かめる習慣が、元々頻繁に有った
ので、成りと書かずに”裏は金(と確認するんだよ
ね。”と、書いているのかもしれないと見る。

だからそれが”成”ではなくて”裏”という、将棋
駒を見て字を確認しているような、表現に出ている

のかもしれないと、私は疑う。
 更に、中将基等の旨の項目を作らなかったとして、
その理由には、
中将棋の駒名の漢字を書いてから、右下に、”裏□
△”等と書くと、そのケースばかりの中将棋の場合
には、他の色葉字類抄の、本物のページに比べて、
右下読み等を書いている注釈が、際立って目立つよ
うになり、

そのためニセモノ感が、大将基に比べてひきたつ

という問題を、ニセモノ中将基ページ作りを目指し
た人物が、気がついたようにも私には見える。構成
の体裁上の問題もあり、中将棋という項目を作ろう
か、どうしようかと、迷ったのだろうが。結局、今
述べた思考が、

最終的に、”・中将基”等という項目作りを、断念
させたのではないかと、私には考えられる

という事である。ちなみに、内容が日本将棋である、
小将碁の項目では、成りを全部省略している。
 セクション中将基が、尊経閣文庫蔵の、
二巻物色葉字類抄の、第1冊に無い理由の説明につ
いては、今の所、情報を限定したので以上のように、

西暦1550年には、中将棋は当然有ったが、書か
なかっただけと推定される

と、結論して終わりたい。
 次に、後期大将棋の記載の成りの問題について、
説明する。
 冒頭で述べた結論は、

すなおに、書いて有る内容を理解すれば、そう結論
するしか、他に道はない

と私は思う。
 このような、

後期大将棋の成りルールは従来全く知られて居無い。

全く新しい知見に見える。経過は史料として”その
前”が、西暦1335~80年頃かもしれない
神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮境内出土駒であり、
”その後”が、西暦1590年頃の
将棋纂図部類抄を書いた水無瀬兼成の、大将棋に
対する認識のように、私には今の所イメージされる。
鶴岡八幡宮境内出土駒と、西暦1443年頃の、
曼特院の将棋図(水無瀬兼成将棋纂図部類抄大将棋
は、そのコピーと今の所考えられる)とは、整合性
が取れていた。

だから、西暦1335~1590年の途中に一回、
香車、反車、飛車、猛牛と仲人が金成りになってか
ら、また不成りにならないと、整合しない。

 先行研究としては、将棋史研究者としては恐らく
二巻物色葉字類抄、大将基、小将碁の第1発見者と
見られる、大阪電気通信大学の高見友幸氏が、

水無瀬兼成の将棋纂図部類抄が誤り

と、自身のブログ等で指摘した例が有る。
 なお以下、本ブログの見解だが、加賀前田藩の
二巻物色葉字類抄の大将基馬名は、セクション名の
将棋が将基になっている事から察して、

作成者は、情報をどこかの寺の記録から見て写して
いる感じ

である。目下の所、
二巻物色葉字類抄の大将基の時代には、各段の端列
駒が金成り、他不成りが事実と見て、
普通唱導集及び後期大将棋の金成りの範囲は、歴史
上、不安定に増減したと、漠然とイメージするしか
他に仕方が無いように私には思える。全体としては、

西暦1443年から戦国期に掛けては、後期大将棋
の金成りの駒種類は、少し増えるようにゆり戻した

と考えるしか無いと思う。なお、
水無瀬兼成は、西暦1443年頃の、曼殊院の将棋
図を受け売りにした。二巻物色葉字類抄の大将基の
記載は、西暦1550年時点の、従来空白期間であっ
た時代の状況を反映していると、上記の解釈では

とんでもなく貴重な、発見がなされた

と仮定している。
 こんな挙動の理由ははっきりしないが、

二中歴の大将棋の最後の十行の解釈が、時代により
変化すると、それによって、金成駒種類数が、増減
している

ように、私には思われるフシがある。この点につい
ては、後日別の所で、詳しく述べたい。何れにして
も、本ブログのように、

後期大将棋は、ゲームを実際にして、ルールを決め
たようなケースは、ほとんど無いと見なしての話

だが。
 まとめると、不確定性がとても大きいが、金成は、
1200年~1290年は減って。
1290年~1320年は増えて、小山市神鳥谷曲
輪駒ができて、50~60年位小山義政等が、小山
氏の城(祇園城か、小山義政館)等で保管。
1320年~1443年は減って。
1443年~1550年は増えて、二巻物色葉字類
抄に記載。
1550年~1590年は水無瀬兼成が、
曼特殊院将棋図を発掘し、その通りと主張したたた
めに減った。
1590年~は、中将棋の成りが導入される江戸時
代となり、流れが変わった。
近代になり、桂馬を兼用したいので、猛牛、飛龍等
も金成りになり、金成り自体は増えた。
 という感じか。
 何れにしても、二巻物色葉字類抄の大将基の発見
は大きかった。私は高見友幸氏からの情報は知って
おり、色葉字類抄に大将棋の情報が有るのを、疑っ
ていたので、象戯の字を探した時点で、実際には、
他に何か無いかどうか、注意していたが。普通なら、
三巻物に”象戯”が無いのに焦ってから、十巻物に、
それが有れば、やれやれと思ってしまい、それだけ
の状態で私なら、更に将棋の情報は探さず、二巻物
に重大な情報が残っているのに、気がつかず終わっ
ただろう。
 何年か前に、二巻物色葉字類抄に大将基馬名等が
あるのに気づいた将棋史研究者として第一発見者の

高見友幸氏は、全くたいしたものだ

と、私はとても感心している。(2019/03/29)

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