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雲南省晋寧県石砦山に漢代の金製の騎士彫刻有り(長さん)

本ブログでは、中国雲南省大理市の三塔主塔の金・銀・
ネフライト製の小型仏像の彫刻は、日本将棋の金将・
銀将・玉将のモデルとの立場を取る。時代は、日本の
平安時代の11世紀頃のものであり、現地では大理国
が繁栄していた時代である。三塔主塔の仏像は、大理
の王侯が他界した後の姿であり、彼らは生前、現地で
将軍イメージの王と、見られていたと考えれば、仏は、
将と実質同じだろうと考えられる。
 ただし、大理市の三塔主塔に、大理国の前の、南詔
国の宝持が含んでいるかどうかは定かでない。だから、
従来は、本ブログの言う、玄怪録の”小人の戦争”の、
金象将軍も、モデルが大理市三塔主塔の、黄金、金銀
仏が元かどうかは、不明であった。つまり、
唐代に、吐蕃国対融和路線を取っていた、王朝高官の
牛僧儒が著作した、怪奇小説のモデルになっているよ
うにも見える、吐蕃と唐王朝間の緩衝国家としての、

雲南の南詔国の将棋駒前身宝物が、現在の大理市の
三塔主塔に含まれるとは、自明には言えなかった

のである。つまりはこれでは、本ブログのように、

宝応将棋は、プロト大理国原始平安小将棋とは、簡単
には断定できなかった

という事になる。むろん、大理市の三塔主塔の起源
については、諸説有り、南詔国と全く無関係とは、言
い切れないとは、聞いているのだが。
(参考)
大理国原始平安小将棋
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
口口口口口口口口口口口口口口口口
香車桂馬銀将玉将金将酔象桂馬香車
(但し、酔象は不成りで、現在の角行ルール)
宝応将棋(本ブログ)
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
口口口口口口口口口口口口口口口口
輜車天馬上将金将銀将上将天馬輜車
(輜車天馬は香車桂馬上将は飛車金将銀将は玉将金将)
 しかるに最近、雲南省昆明市にある雲南博物館に、
表題のように、金製の馬に乗った騎士、あるいは上将、
金象将軍のような人物造形物があると、聞き及んだ。
 すなわち昆明市は、11世紀には大理国の域内、唐
の時代には、南詔国の域内とみられるが、近くの漢代
とされる、雲南テン王朝時代の、富裕層の墓とされる
ものの中から、多数出土している動物闘争彫刻の類の
一つの造形物ではあるものの、一部に人間を表現した、
冶金製のパーツを含んでいるものがあるという、話を
聞き及んだのである。なお図の、平和そうな様子の牛
群は、実際には図で、下に切れた所に居る、どう猛な
虎、二匹に狙われている、雲南では名物の牛達である。

晋寧県石砦山.gif

 動物闘争造形物の全体像は青銅製で、前に、そういっ
たものが、雲南省博物館には、多数あると言う話を、
本ブログではした。問題の造形物も、同じ遺跡のもの
である。が、この闘争動物造形物に限って、動物であ
る牛群の所に、なぜか騎士の乗った馬が、一頭加わっ
ていて、その馬に乗った騎士ないし、金将軍、ある
いは、上将、象将を表しているようにも見える人物だ
け、銅製ではなくて、金メッキだというものである。
 ちなみに図で牛だが、雲南省は元王朝時代、豪族・
大名の名前の最初の一字が、猛である事が多かったと、
諸橋徹次の大漢和辞典に載っている。時代は下るが
鎌倉期に、”猛”を修飾詞とする将棋駒、猛牛が普通
唱導集時代の大将棋に加わったと本ブログで見るのは、
一つに雲南省の大名の苗字を、日本の大将棋のゲーム
デザイナーが、まさにこの、モンゴル帝国との戦争の
時代の、西暦1270年頃に、大陸からの戦略情報、
つまりは大理国の滅亡と、その後の状況として、知っ
ていて、上の図の雲南に多い牛を、修飾した猛牛とい
う駒名を作り出したからであろうと、見た為である。
 なお前に本ブログでは、この類の動物闘争造形物自
体が、後期大将棋の動物駒・摩訶大大将棋の動物駒・
中国現代ゲームの闘獣棋と全部、関連があるのではな
いかと、既に指摘した。騎士、ないし金将軍、上将、
象将の乗った、馬のある動物闘争造形物は、繰り返す
と、こうした他の雲南省博物館の、動物闘争造形物と
出土遺跡は同じで、遺跡の場所は、雲南省の昆明市に、
比較的近い、唐代には南詔国の域内の場所である。
つまり雲南には、中国の北宋や牛僧儒の唐代をはるか
に越えて

漢代から、上図のような”金の将軍”のような造形物
を含む、青銅彫刻を作る細工師がいた

との旨が、一般には中国では主張されているわけだ。
なお、年代で表記すると、遺物は紀元前2世紀と、
中国の美術史研究者には、考えられているそうだ。
 話が、余りに旨過ぎる感じだが、一応写真で見ると。
闘争している動物と、馬に乗った騎士は、互いに別時
代の事物ようにも私には見え、中国美術史家に騙され
た感じも多少しなくもない。ただ何分にも、外国の美
術品なため、このような造詣物が作られる、背景が私
には良く判らないし、確かに漢文化の影響のまだ少な
い時代のようにも見える。牛については日本の埴輪と、
カテゴリーが、類似かもしれない。ので、大理国の
遺物よりは古く、唐王朝期、南詔国以前の雲南省のも
のなのだろうとは思える。そもそも”テン国”という
国家が、本当に漢代にあり、出土物は、”そこの富裕
層の者の所有物で、その墓から出土した”という話で、

本当に合っているのだろうかについて、私は正直疑う。

 なお成書の説明によると、東アジア全体に、闘争動
物、つまり闘獣棋文化と言えるようなものは、元々広
がっていて、中国も、その文化圏の一部なのだと言う。
金のベルトのようなものに、戦う龍と熊の頭のような
彫り物が有る遺物が、中国国内の別の場所からも出て
いて、匈奴国が存在した時代のものだと、説明されて
いる。
 今の所、この金の騎士ないし、金象将軍ないし上将
像のようなものの存在からみて、

雲南には、ひよっとしたら、漢代ないし唐代から、
金将立体将棋駒前駆像を作り得る、金細工師が居た事
を示している

という事は、確かなのかもしれないという感じはする。
 ”東アジア全体に広がるはずの闘獣棋文化”を示す
彫刻・造形物が、雲南省博物館でしか大量には、日本
で出ている現代成書レベルで探しても、私には見当た
らないように見えるのも、変な話のように、私には
常々思えるのだが。
 一応、雲南省の昆明市付近から、牛僧儒の時代より
前から有るものだと言わんばかりに、動物闘争造形物
にくっついて、馬に乗った将棋の駒の金将、ないしは
小人の戦争の上将や金象将軍、東南アジアの、一部の
象駒の姿を連想させる、謎の

立体駒のようにも見える、金製の小型造形物体が出土

しているという事実自体は、どうやら確かである。
(2019/04/20)

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安土桃山時代の日葡辞典に中将棋が有る(長さん)

安土桃山時代最末期~江戸時代の最初期に、
ポルトガル人の宣教師の知識に基づいて作成された
とも聞く、日本語→ポルトガル語辞典に、将棋類の
うち、中将棋も”ちゅうしょうぎ”が読みとの旨で、
載っていると、最近詳しい辞書の幾つかで私は見た。

将棋のゲームバージョンの区分けがきちんとしたの
が、その数十年前であるという点から、驚くべき事

と思うので、その観点から今回は論じる。
 戦国時代まで、公家の日記に将棋とあっても、
日本将棋とは限らず、持ち駒タイプの平安小将棋か、
中将棋の可能性があり、最後の例が多いと聞く。
このような状態で中将棋という熟語を、外国人が
日本人から聞いて回るというのは、日本人にも確定
していない日本語を、発掘していると言う事だから

かなり異例だ。将棋という語を理解していれば良い

とみられるからだ。だから、
日本語→ポルトガル語辞書に、中将棋が載っている
のは、日本人の言葉を理解しようと言う意思とは別
の意図が有ると、私は思う。恐らく、

ゲーム具の外観に、欧州の来日者は皆驚いて、
”何だこれは”と思った

のであろうとしか、考えられない。
 何れにしても、辞書に書かれるほどであるから、
他に宣教師の旅行記も有ったに違いなく、その結果、

欧州人の多くは、日本の安土桃山時代に、中将棋の
姿を、ざっとはイメージ出来るようになった

と推定できると私は見る。日本人が、日本将棋と
中将棋を、分けて表現しなければマズイと考えるよ
うになったのも、以前に述べたように、”南蛮人の
渡来”以降に、間違いないと私は思う。
 そこで実際に、復刻書の一つである、岩波書店、
1980年発行の、”邦訳 日葡辞書”の中将棋
(CHUXOGUI)を見ると、”チェスに似た、
勝負事”の事との旨ある。ちなみに、将棋や将棋倒
しが別に有るが、日本将棋の方は、西洋チェスとは
比較していない。取捨てルールなのを、宣教師等が
実際に、日本人の中将棋棋士から聞き取って、確認
したのだろう。また、小将棋が(Xoxogui)
とされていて、”将棋に小将棋と中将棋が有る”と、
ポルトガルの宣教師は、説明されたのだろうと判る。
小将棋は将棋遊びの一種であると、解説されている。
ただし、小将棋は、”おしょうぎ”とは、江戸時代
草創期の西暦1609年頃には、呼ばれて居無い。

小将棋は、少なくとも近世には、”しょうしゃうぎ”
等と言われるようになっていたと、結論できる。

 なお、安土桃山時代に、西洋チェスと中国シャン
チーを、どの程度の日本人が、外見をイメージでき
たのか、史料が乏しい状態であると、今の所私は認
識している。特に、隣接する国のチェス型ゲームが、
ある程度、沖縄県以外で認知されていたとみられる
証拠が、余り見あたら無いのは、不思議と言えば不
思議な話だ。
 ちなみに、大将棋は日葡辞書には無いようだ。
近似する語としては、大将が”たいしょう”、
大将軍を”たいしょうぐん”と、たは”だ”と濁ら
ず、安土桃山時代の日本人は、発音していたらしい
ことが、日葡字典に載っているようだ。或いは、

大将棋も、”だいしょうぎ”ではなくて、
”たいしょうぎ”と、少なくとも濁らなかった

のかもしれない。ないしは安土桃山時代末には、

後期大将棋は廃れていたので、大は”たい”でも、
”おほ”でも、どうでも良かった可能性が高い

というのが、本ブログの見解だ。日葡字典にも、そ
の程度の物だったから、載せなかったのであろう。
つまり、大将棋は、

”タイシヤウギ”とカナがふられたり、
”オホシヤウギ”とカナがふられたり、
安土桃山時代末期の頃は、いろいろだった

のだろうという意味である。よって、

大将棋は事実として、一旦衰退したゲームの呼び
名なので、現代に蘇らせるとしても、現代人の都
合で読み方を、便利なように決めるべき

だと、私は見ている。
 蛇足だが、私には理由や規則が良く判らないが、
色葉字類抄は、どちらも”ヲ”とカナを振るので
あるが、大きいの大の時には、”うゐのおくやま”
の”お”に入れてカナは、何故か”ヲ”。小さい
の”小:読み『お』”のときには、”ちりぬるを”
の”を”に、必ず熟語を含めて漢字を入れて”ヲ”
と、こちらは正常にカナを振っている。大将棋は、
よって”おおしょうぎ”のケースでも、”ヲ”で
はなくて、当然”オ”の所に出現し、カナは、
これとは矛盾するが、”ヲヲシヤウギ”に、

仮想的に

なったはずだろう。
 また、日本語になったのが、より昔の単語に、
”おおきな”の形容詞の意味で”大”をフルとき
には”ヲヲ”とし、中国語から日本語に移行した
のが、平安時代以降の、”大きな”の意味をつけ
た熟語には、”タイ”と表記するという傾向も、
二巻物の色葉字類抄にはある。
 湯桶読みや、重箱読みは、やや少ないようだ。
ただし”ヲヲ”の割合は、中国語化が、明治時代
に進んだと聞く現代熟語よりも、割合として多い
と、私も認識する。よって、

ひょっとしたら、藤原頼長は”ヲヲシヤウギ”派
だった可能性が、否定はできない

と見る。しかし辞書の大象戯は、仮想的に、
色葉字類抄に存在したとすれば、象戯が平安時代
の新渡来の外来日本語であったため、音読みと解
釈されて、色葉字類抄では事務的に、

”タイシヤウギ”として、処理されてしまった

危険性も、結構有り得るように私は思う。
 元に戻るが、欧州人が、戦国時代中後期~安土桃
山時代前後に渡来したとき、中将棋に関心を向けた
のは、以上のようにほぼ確実と見る。だから、雪竹
老人西暦1565年写書の、二巻物、前田藩所蔵、
八木書店(2000)発行の、色葉字類抄”き”の
項目等に、中将棋最下段駒の一部が、雪竹老人によ
り、加筆されたのであろうと、私は考える。
(2019/04/19)

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色葉字類抄2巻物尊経閣文庫”牧”は鎌倉時代以降著作(長さん)

前に本ブログに於いて、尊経閣善本影印集成19、
八木書店西暦2000年復刻、色葉字類抄ニ(二巻本)
前田育徳会尊経閣文庫編の上/下冊(2冊目)の末備、
西暦1423年写書者の後書と書誌書きの間に挟まっ
た、”牧(甲斐・武蔵・信濃・上野)”記載部分の
成立年に関し、将棋史とは離れるのではあるが、

西暦1423年成立との説を、独自に提示

した。それに対してその後最近、大阪電気通信大学の

高見友幸氏により、平安時代末の成立

との旨の対立説が出された。”

延喜式が西暦900年前後に成立し、記載内容がそれ”

だというのが、根拠と私は認識している。そこで今回
は、以下に更にその

反論を書く

事にする。
 結論としては、

内容を仔細に見ると、平安時代の成立の文書にしては
矛盾する所がある

という点、室町時代足利義持~持氏対立の時代程度に
成立と考えたほうが、むしろ、つじつまが合うという
内容を以下に書く。
 結論となる根拠から最初に書く。
延喜式巻48の左右馬寮式御牧の内容に加えて、
武蔵牧に関して、それぞれは実在はしたが
”⑤小野牧、⑥秩父牧”が末備に加わっているが、

両方同時に書くのは、不自然な書き方だから

である。つまり、勅旨牧に西暦930年代に後追加さ
れた2つの牧は、”⑤小野牧、⑥’阿久原牧”等と、
本来なら記載されるべきである。

だから平安時代の文書としてはニセであり、鎌倉時代
以降成立したコンテンツである

と、本ブログでは結論する。
 では、以下に説明を加える。
 そもそも色葉字類抄2/4冊奥書途中に於いて、
こんな、おかしい書き方をする動機が、

私にはミエミエのように感じる

ので、それからとっとと書いてしまおう。
 コンテンツの作者は、武蔵武士の横山党、猪俣党、
秩父氏、江戸氏の歴史に興味が有ったので、鎌倉時代
以降に、既存の御牧に、小野牧と秩父牧という名称で、
西暦933年前後に、追加された牧名を、

加筆

したとみられる。さて、もう少し詳しく述べる。
 この既存の武蔵国の、西暦900年前後に成立し記
載された、延喜式巻48の左右馬寮式御牧
(西暦905年頃)の4つの牧に、”小野牧、秩父牧”
という組合せで、それぞれは実在の牧を名称として
加えると、論理的に、何がおかしいのかと言えば、

小野牧にも秩父牧にも入る、埼玉県児玉郡の個別牧場
が生じてしまう

からである。秩父牧が古代、漠然と大きな領域に広が
る御牧を指す言葉だったために、埼玉県児玉郡の特定
の個別牧場が、

両方に入ってしまう。

だから、平安時代に成立した官製の文書である延喜式
巻48の左右馬寮式御牧に、2つを加筆するにしても、

元文書が、朝廷の官僚作の正式文書では無い

と、ほぼ断定できると考えられる。
 こんないいかげんで、あいまいな文書を、わざわざ
書かなくても、web上の適当なページに有るように、
西暦930年代に追加した、武蔵国の2つ牧は、秩父
牧という、実在する日本語であっても、範囲が曖昧な
言葉は使わず、牧場や牧場郡を、より正確に特定でき
る、固有地名名をつけた牧名を使えば良いと、考えら
れるからである。
 しかし御牧が、正確にどれとどれを指すのではなく
て、牧に起因する歴史に興味がある人物が、延喜式巻
48の左右馬寮式御牧のリストに、武蔵国の2つの、
”追加牧”を、”小野牧、秩父牧”として加えたとす
れば、

どうして、このような書き方をしてしまったのかは、
ほぼ自明

だと、少なくとも本ブログの管理人は思う。
 このコンテンツの作成は、武蔵武士が、鎌倉幕府を
成立させる上で、功績があったと言う史実が、著名に
なった

鎌倉時代以降

に武蔵武士の、横山党、猪俣党は、小野牧の牧場の
管理者として、中央から帰任した人物の子孫。
武蔵武士として中世を通じて著名で、江戸時代の江戸
の元になった、江戸氏、秩父氏は、秩父牧の牧場の管
理者として、中央から帰任した人物の子孫、
という事柄に関して、関心があった等の人物が、個人
で作成したものと、考えれば良いからである。
つまり”牧(甲斐・武蔵・信濃・上野)”記載部分で、
延喜式巻48の左右馬寮式御牧の記載(西暦905年
頃成立)に、小野牧、秩父牧を、この単語の組合せで
加えて、八木書店西暦2000年復刻、色葉字類抄ニ
(二巻本)前田育徳会尊経閣文庫編の上/下冊(2冊
目)の末備、西暦1423年写書者の後書と書誌書き
の間に挟まった、”牧”を完成させたのは、

鎌倉時代の、個人の特定歴史領域への興味が原因

と考えればよいという事である、すなわち、以上のよ
うに仮定すると、小野牧、秩父牧と追加の武蔵国御牧
2つを書いてしまうと、

どちらにもだぶって所属してしまう個別牧場があると
いう点でおかしな書き方だが、それを敢えてしている

訳が、簡単に説明できるという事だからである。
 よって、色葉字類抄ニ(二巻本)前田育徳会尊経閣
文庫編の上/下冊(2冊目)の末備、西暦1423年
写書者の後書と書誌書きの間に挟まった、”牧”は、

平安時代に成立したとは、私には考えられない。

西暦1423年の写書者が武蔵武士、横山党、猪俣党、
江戸氏、秩父氏に興味が有って、彼自身が作成したか、
鎌倉時代に、武蔵武士に興味があり、御牧のリストと
して元からある、延喜式巻48の左右馬寮式御牧(西
暦905年頃)に、自分が興味を持つ、小野と秩父と
いう単語に引きづられて、その2語を使って、

曖昧に、追加の武蔵の御牧、2つを表現してしまった

文書を、更に1423年に転写したかの、どちらかだ
と、私は思う。
 従って、
少なくとも本ブログの”牧(甲斐・武蔵・信濃・上野)”
記載部分の西暦1423年成立年説の批判として、

高見友幸氏の批判の根拠は、磐石な物とは言いがたい。

これだけは事実と、本ブログは考えるのである。
(2019/04/18)

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八木書店色葉字類抄二巻物大将基馬名に酔象が無い理由(長さん)

尊経閣文庫蔵の色葉字類抄2巻物、八木書店復刻
2000年発行には、第1冊/4冊の末尾に、
大将基馬名という付録文書がある。その中には、
後期大将棋の駒種名が、下段中央より袖に向かって、
次ぎ2段目という順序(但し、同率の時には左優先)
で並んでいる。ただし、本来酔象が有ると
将棋纂図部類抄や、江戸時代の将棋書から、ほぼ
自明に考えられる箇所には”酔(つぎに小さい字で)
裏太子”と書いてあって、象が抜けているように、
いっけんして見える。
 そこで今回はこの、酔象と書かれるべき部分に、
酔象と書かれず、酔と書かれていて、象が抜けて
いるように見える理由を論題とする。
 回答を先に書く。
1)大将棋に酔象は、この時代に有ったと見られる。
2)”基”付きで題字が書いてある点から見て、ど
こかの寺院に有ったと見られる、元史料としての
”後期大将基の史料”等が劣化していて、象の字が
判読困難だったので、正しく大将基馬名に転記記載
でき無かった為と考えられる。
 では、以上の結論について、以下に説明を加える。
本ブログでは、西暦2000年に復刻版を八木書店
が出版した、西暦1565年雪竹老人書写、
加賀前田藩の文庫、尊経閣文庫蔵の、2巻物の方の
色葉字類抄の5つの付録で
①大将基馬名と、②小将碁馬名は西暦1565年作。
③牧(甲斐・武蔵・信濃・上野)は西暦1423年。
④禅僧耆旧は、西暦1315年の作。
⑤異字は亀山天皇等の、敵国降伏を連想させるので、
仔細不明だが、西暦1315年作との立場を、2巻
物1565年書写、4冊本の構成の様子より、

独自に解釈

している。
 なお、これらはそれぞれ本文の中に無く、各写書
者の”後書き”の後に、配置されている。特に、第
1冊/4冊の、末尾の後書きおよび本の書誌を示し
た雪竹老人作の編年を書いた奥付と、①大将基馬名・
②小将碁馬名の間には、セパレータの意味だろうと
みられる、”遊紙”が一枚挟まれている。
 なお、西暦1315年の成立と見る④と⑤の、
禅僧耆旧は、”ぜんそうきじゅう”、異字は”いじ”
と読むと見る。また、そもそも色葉字類抄は、セク
ション名を、いろは順で並べた書籍ではなくて、個
別の漢字や熟語を、いろは順で並べている。そして、
付録①~⑤のようなセクション名は、本文中には、
ほぼ見当たらない。概ね、いろはにほへと・・それ
ぞれについて、セクションが、天象、地儀、植物、
動物、人倫、人体、人事、・・・・・疊字、諸社、
諸寺、国郡、官職、姓名、名字、というふうに、
47回繰り返すだけと、私は認識する。
 よって、大将基馬名はあくまで後付けの”付録”
の類であり、明らかに西暦1565年に雪竹老人の
手で、作成された文書とみなせる。

そこで本ブログでは、酔裏太子は、西暦1565年
と同年代の出土駒、一乗谷朝倉氏遺跡の成太子酔象
と同じ駒種で、象が抜けただけだと見なし、

ただし、用途は大将基馬名では、後期大将棋用、一
乗谷朝倉氏遺跡の酔象は、朝倉小将棋用と一応別々
だと考える。
 なおこの、色葉字類抄、付録①大将基馬名の酔の
記載については、大阪電気通信大学高見友幸氏の、
先行研究があり”酔という駒だ”と解釈されている。
どちらが正しいのかについては、
”酔と書いてあるので酔である”という説は、確か
にそう書いてはあるので、

高見説を完全に否定するのは難しい

と見る。これについての当否の決着は、今後、戦国
時代の、駒数多数将棋の文献が、更に出土するのを、
待つしかあるまいと、本ブログでは考える。
 ところで、本ブログのように、本来は酔象のはず
なのに、酔と書いてあると言う立場を、仮に取って
しまうと、

執筆者が錯誤した理由を、説明しなければならない

事になる。結論は冒頭に述べたように、原簿が劣化
して、字が消えたと考えたのは、以下の理由である。

日本の将棋の駒種に、一文字のものが、ほぼ無い。

だから、原著者が間違えるはずもないし、
大将基馬名執筆者が、間違えて象を抜かしてしまう
可能性も、余り無いと見る。実際、大将基馬名の駒
名の中で、一文字で書いてある駒は、ほかに無い。
 更に、たまたま幸運だったが、”酔”には成りが
太子と書いてある。だから元になった、寺等の文書
等には存在しない字を、西暦1565年の作成時に、
間違って入れたとも、このケースでは考えられない。
むろん、将棋纂図部類抄等、西暦1592年前後と、
比較的成立年が近い文献も、酔の所には、酔象を書
くべきである事を、明解に示している。
 だから残る理由は、虫食いか墨が擦れて来たかで、
1565年作成者の、恐らく何処かの寺院に有った
ものと”基”の漢字から判る、後期大将棋の元史料
の酔象の象の字が、良く見えなかったとみるしかな
い。字が見にくいので、書かなかったと見るのであ
る。つまり、色葉字類抄の第1冊/4冊で、後書き
をも書いた巻末付録作成者雪竹老人は、後期大将棋
に関する駒一覧を記載した、どこかの寺の文書を、
西暦1565年に写すときに、万が一の誤記を警戒
して、大将基馬名の中では、酔象の象の字を抜いた
のではないかと、私は考えるのである。
 逆に言うと、色葉字類抄二巻物(尊経閣文庫蔵)
の付録のうち、大将基馬名についてだけは、本来
あるべき字が、

象とは別に、他にも抜けている可能性が有る

と私は思う。更に推測だが、やはり小さい字で書い
た部分は擦れて見えにくくなりやすいのではないか。
だから、

裏金は、もっと有るのに、書いて居無い疑いもある

と私は疑う。実際、裏金のパターンは、陣の袖の方
に偏りすぎており、中央筋にもっと寄った所の駒、

たとえば角行が、戦国時代に金成りではなかったと
いう確証は、無い

のではないか。つまり色葉字類抄、第1冊/4冊末
備の大将基馬名文書は、水無瀬兼成の時代の、
将棋纂図部類抄の大象戯として、文献に見えている

実質同種類の将棋よりも多い、金の数の差が有った
疑いも未だ有り得る

と疑われる。以上のように、私は現在、事実認識を
するように、なって来ている。この、付けたしで今
述べたつもりの、成り金の数問題に関しても、戦国
時代の大将棋の史料は、更にほしい所だ。
 女王が導入され、ゲーム性能の向上の著しいチェ
スに、常々祖国の、文化レベルの高さの象徴として
誇りを感じていた、フランシスコ=ザビエル等は、
日本の貴族が難なく京都で、盛んに中将棋を指して
いるのに驚愕して、自己の認識の甘さと世界の広さ
を思い知らされたという事は、起こらなかったのか。
結果、日本の駒数多数将棋に関して、執拗に朝廷等
等に、問い合わせを、繰り返していてくれていたと
したら、将棋の歴史の研究にとっては、さぞや助か
るのにと、私は思う。(2019/04/17)

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普通唱導集大将棋動物配列は曼荼羅集大威徳明王と同じ(長さん)

これまで本ブログに於いて、平安大将棋の2段目
猛虎・飛龍間2空升目に、普通唱導集時代大将棋
で加わる動物は、普通唱導集の大将棋の唱導唄か
ら嗔猪は既知として、もう一種は十二支の、
方位配列見立てで、鬼門に当たる虎とペアの牛の、
猛牛だとしてきた。
 根拠として、方位円環の一部を抜き出したよう
に、・・龍、猪、牛、虎、(龍・・)と、たとえ
ば、2段目袖の左辺が並ぶ事になるという、

図的な尤もらしさ

からであった。しかしながら、中世に、

猛牛と猛虎を中心に置いた、十二支円環図が、
大将棋の配置のモデルとして、別の史料として有っ
たかどうかは、これまで未調査

だった。
 しかし最近になって、本ブログは遂に、それも
見つけた。
 表題に述べた、京都の、真言密教の研究僧、
観修寺の事相僧の興然が作成した図像集本である、

西暦1233年成立とされる曼荼羅集に書かれた、
大威徳明王の周りの、十二支の配置図が、前方正
面が、丑寅になっている

というものだ。

大威徳明王.gif

 つまり、曼荼羅集に書かれた、大威徳明王の
周りの、十二支の配置図は、明王の頭の左右に、
未と申があり、明王が乗っている水牛の左右に、
寅と丑が居る。なお、正確に言うと、観修寺の
事相僧の興然は、絵ではなくて、漢字を並べた図
で、曼荼羅集の大威徳明王の周りの、十二支配を
示す文書を著作している。その図を元に、絵を描
いたのが、西暦1233年に定真という絵描きで、
彼が描いた大威徳明王曼荼羅の絵(西暦2009
年時点で、静岡県熱海市MOA美術館蔵とされる)
の一部が、上図のようなものであるという。
 今までこの絵の内容に、私が気がつかなかった
のは、この絵を見た事が無いからではなくて、実
は、十二支の周りの火炎のような線が、この絵に
関しては、ごちゃごちゃ並存していて、十二支動
物が見づらいためだった。
 なお”大威徳明王が西方の神だから、未申が頭
の近くにある”という説明が、美術史本、日本の
美術518十二支、至文社(2009)にあるが、

そんなはずはないと思う。西は酉のはずだ。

 明らかに、曼荼羅集の大威徳明王図では、水牛
に乗った明王が、鬼門の方向に向いている図で、
鬼門を、戦勝祈願の神が睨む形であるという点で、
普通唱導集大将棋の2段目袖、動物配列(推定)
とコンセプトが全く同じパターンである。すなわ
ち、大威徳明王は北東の敵と戦って、戦勝しよう
としているように、少なくとも私には見える。
 このパターンは、本ブログの独自”推定”とさ
れるものの具体的内容として、

普通唱導集大将棋に移行するように、猛牛と嗔猪
を平安大将棋に加えればよいと言う事と良く合う

という訳である。つまり、足りない駒もう一種は、

猛牛駒だ

という事である。
 今まで私は、この手の仏教画は、妙見菩薩の
12神将図が北の子が上で、菩薩の進んで行く
方向である前方(下)が南、その他の12支の動
物の付記された仏像は、大概上が午(南)で、
向かってゆく方向は、子すなわち、北というもの、
ばかりだと思って、普通唱導集大将棋との関係付
けを、半ば諦めかけていた。しかし探せば、鬼門
を睨む仏像というのが、有りそうだったが、本当
に有るものである。
 尤も、興然が作成した十二支入りの大威徳明王
図は、そうなっているが、同じ大威徳明王図で、
十二支の入っている、覚禅鈔の大威徳明王図は、
上が午で、向かってゆく方向は、丑寅ではなくて
北(子)だという事だ。なお覚禅鈔は、絵として、
曼荼羅集より成立が、遅いらしい。また、平安末
期のより早い、十二支入りの大威徳明王図では、
頭に子と丑が書いてあって、大威徳明王の向かい
先は、午と未の間になっているものも、あると言
う事だ。最後のは、北宋王朝から伝来した、オリ
ジナルの形だとも言われている。
 繰り返すが大事な点は、

大威徳明王は平安時代の末から、合戦の戦勝祈願
の神様となっている、五大明王である

という点である。これは普通唱導集時代の大将棋
が成立した時代に必要だったアイテムそのものだ。
だから、モンゴル帝国の来襲に合わせて、このよ
うな仏画が、実際には大量に作成され、それが、
大将棋の初期配列に取り入れられたと考えるのは、
全く自然な事だと、少なくとも私には思われる。
 以上の事から、西暦1233年より少したって
からモンゴル帝国来襲の頃に、興然作の曼荼羅集
の大威徳明王図(口伝とみられる密教儀軌を、根
拠にして作成)が、そのものずばり、
普通唱導集大将棋の、初期配列作成に影響したと
結論して、全くおかしくないように、私には思え
たのである。(2019/04/16)

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南北朝時代の小山義政が鎌倉期大将棋を所持の理由(長さん)

本ブログでは、実際に栃木県小山市神鳥谷曲輪から
出土した、裏一文字金角行駒は、江戸時代の(一例)
十代将軍徳川家治期の模写物と、今の所疑っている。
 数メートル以内の精度で共出土した、女物の下駄
と櫛の破片と共に、室町戦国時代の廃尼寺、栃木県
小山市の青蓮寺の、

観光客用の由緒説明の陳列品の一部のように、出土
将棋駒が見えるため

である。いわゆる下世話に言う、寺の”宝物”の類
という意味だ。つまり

現物自体は、摩訶大将棋の角行で合っている

のではないかと私見する。
 ただし、

西暦1382年頃まで、小山氏当主の小山義政が、
普通唱導集大将棋を所持していて、その駒と形態が
近いという事実が、背後に有る

のではないかとも、疑っても居る。
小山義政の乱のときに、小山義政軍と戦って、甚大
な犠牲者を出した、武蔵武士の猪俣党の本拠地、
埼玉県児玉郡美里町の猪俣館で夏休みに、
普通唱導集大将棋の駒数に等しいと見られる、

108騎の兵の霊を慰めているという感じの、燈火
台に火を灯して祭る、猪俣百八燈を、”何時始まっ
たのかもはっきりとは判らない、昔から続けている”
(web。wikipedia”猪俣小平六”より)

という事実があるからである。西暦1381年の
乱の直後に、敗軍の将の城の宝物等に関しては、
勝者側に管理が引き渡されたり、事情を説明した上
で、親類で乱に係わらなかったものに引き渡された
り、それなりの情報交換が当然、有ったとみられる。
 前に述べたように、大将棋の道具があるという、
小山氏の誉れについて、勝者である猪俣党の誉れと、
合戦の結果に応じて同一視され、勝利者側の戦死者
の弔いに生かされたと、推定できるのではないか。
 なお、美里町の広木上宿遺跡の宝山寺跡から、
五色宝塔という、普通唱導集大将棋の将駒の種類を
連想させる、仏具が出土している。ちなみに、戻っ
て猪俣百八燈の、中央の大きな2つの燈火台は、
五重塚と言われていて、出土遺物の五色宝塔に関連
が疑われる。
 更には、小山義政本人自体が、第2次小山義政
の乱の直後に出家しており、猪俣党の戦死者の弔い
に対して、将棋駒の所有者が、係われる状況に、少
なくとも一時期有ったとみられる。そのためか燈火
台群は、五重塚から左右に、将棋の両軍の如くに、
54基づつ配置されていて、一般的に見て、配置に
将棋との関連性が疑われる。なお、南北朝時代の、
異制庭訓往来には、将棋は合戦を模したものとある。
 次にその他の美里町の史蹟として、小山若犬丸の
乱等に対応のためか、小山義政の乱鎮圧の首領、
鎌倉公方の足利氏満が、戦死者で満杯になった廃寺
宝山寺のほかに、大興寺を新設したとみられる点が
ある。また同町広木地区に有る摩訶池が、将棋の
摩訶大将棋を連想させる事など、関連性を疑わせる
ものが、他にも有る。特に最後に述べたものについ
ても、話として変形はしているが、

小山義政の将棋駒と、埼玉県児玉郡美里町の事物の
関連として

挙げる事ができると見る。つまり最後の池の名の由
来は、摩訶般若経の摩訶と、猪俣百八燈が、後期大
将棋とは違うゲームである普通唱導集大将棋が、
元ネタなので、130枚制の後期大将棋ではなくて、
摩訶大将棋なのだろうと、室町時代に勝手に誤って、
猪俣百八燈元ゲームを解釈したための、命名だとと
れまいか。つまり、

猪俣百八燈というのはあるが、猪俣百九十二燈が無
いのが根拠

という意味だ。恐らく本当は、普通唱導集大将棋の
道具を、小山義政は持っていたのだが、江戸時代ま
でには、角行の裏表がいっしょの、摩訶大将棋を持っ
ていた事に、話がすり替わってしまったのであろう。
 なお鎌倉幕府成立時の、下野小山氏の活躍と対応
して、武蔵武士、猪俣党にも鎌倉時代草創期の、
猪俣小平六の伝説がある。小山三兄弟伝説で、下野
小山氏を持ち上げるのと同様の理屈で、武蔵猪俣党
を持ち上げるのは充分に可能だ。従って、

猪俣百八燈を見れば、普通唱導集大将棋が見えてく
るという仮説は、充分成り立ち得るのでは無いかと、
私は思っている。

 よって私は、栃木県小山市が拠点の小山義政は、
普通唱導集大将棋の自己の所持の証拠を、地理的に
隣接はしていないものの、埼玉県児玉郡美里町に、
残していると、今の所見なしている。
 所でそう考えても、次の2点が、小山義政関連、
角行駒には疑問として残る。
①なぜ一文字の”金”に成るのか。
②西暦1290年の大将棋具を、西暦1382年と
いう、百年近く後に、どうして小山義政は持ってい
たのか。
 ①についてはだいぶん前に述べた。それによると、
麒麟抄に見られるように、南北朝時代に、駒数多数
将棋の成りで、金に成るものの種類がたまたま増し
たために、

西暦1290年タイプと西暦1320年タイプで、
普通唱導集大将棋の成りのルールが違い、小山義政
は、後者のタイプを持参していた

と、本ブログでは説明している。金成り駒の流行の
原因は、京都及び吉野の公家の、たとえば堀河関白
と言われた近衛経忠が、横行の中国語の意味を知っ
て、角行、竪行、横行を、西暦1333年の

建武の新政の頃の前後に、不成りから金成りに変え、
彼が作った駒を、小山義政が持っていた事情が有る

のではないかと、金成り駒が増えるメカニズムに関
しても少し前に、本ブログでは述べた。
 以上のようにして、摩訶大将棋の駒に、栃木県
小山市神鳥谷曲輪の小山義政館駒が、すり替わって
しまった原因は、角行が両方にあり、かつもともと、
全く裏表とも同じパターンだったとして、説明でき
るのではあるまいかと、思われる。
 次に、物持ちが良いにしても、100年近くある、
実際に使われた時期との差について、今回の題名で
ある②を、ようやくで恐縮だが、以下に論じる。
答えを先に書くと、
1)小山義政は先代の相続品を預かっただけという
のが半分。
2)小山氏自体が、鎌倉時代の旧家なので、南北朝
時代には、鎌倉時代の装飾物を家に置くのを好んで
いたとみられるのが半分である。
 以下に委細に説明する。すなわち1)から入ると、

将棋道具を贈答されるような動機付けの有る、小山
氏の南北朝期の殿様は、小山義政ではなくて、彼の
2代前の、数十年差が有る小山朝氏である

という点を、まず述べる必要がある。簡単に言うと、
小山義政は、完全に室町幕府派だったので、他の政
治勢力、たとえば南北朝時代の南朝方から、働きか
けを受ける動機が、基本的に無かった。その状況は、
彼の父の、小山氏政についても同じである。蛇足だ
が、彼の息子の小山若犬丸は、自身の勢力が衰退し
たので、自分の方から南朝残党を利用した。
 それに対して、小山義政の叔父で2代前の、小山
氏の当主で、中先代の乱の直後から、建武の新政
(西暦1333年)頃に、既に小山の殿様であった、

小山朝氏は、政治的立場が不安定で、転び易かった。

だから、たとえば南朝方の、先の関白近衛経忠から、

贈り物攻めに、されただろうと見るのは自然

だったのである。だから、小山義政の所持していた、
普通唱導集大将棋の道具は、西暦1381年時点で、
小山氏の手元に有った事は確かだが、

作られたのは、西暦1340年代頃とみた方が自然

だと私は思っている。つまり、

小山義政の持っていた普通唱導集大将棋は、不成り
駒の多い西暦1350年タイプではなくて、金成り
の多い西暦1320年型なのは、元々前の代の殿様
の所持品を、相続しただけだから

という事である。
 よって西暦1320年タイプのこの、かつては有
り、神鳥谷曲輪角行出土駒の元になったとみられる
普通唱導集大将棋駒は、西暦1340年代に、京都
及び吉野の公家で関白の南朝方、近衛経忠作の疑い
も、かなりあると言うことである。
 しかし、それでも、次の疑問が残る。
西暦1340年には、普通唱導集大将棋は廃れてい
たのに、なぜ喜ばれるだろうと思って、レトロな、
西暦1290年の記憶を散りばめたそれを、京都及
び吉野の公家の堀河関白、近衛経忠らしき人物は、
小山朝氏に贈答したと考えられるのかだ。つまり、

それでもまだ、だいたい50年位遅い

という意味だ。
 これについては、私はこう考える。
小山氏は鎌倉時代に源頼朝に早々に加担して、のし
上った、鎌倉時代の旧家だと、南北朝時代には見ら
れていた。
 だから京都及び吉野の関白、近衛経忠は、館の飾
り物として使用できる

鎌倉時代の栄華を象徴する物品を小山朝氏に送れば、
実用性が乏しくても、小山朝氏が喜ぶだろうと予想

してプレゼントした。
 以上のように考えると、西暦1381~2年頃に、
小山義政の館等に、西暦1290年頃最盛であった、
普通唱導集大将棋、ただし西暦1320年タイプが、
有ったとしても、矛盾がない事になるのではあるま
いか。
 つまりこれは先に述べた、武蔵武士、猪俣党にも
合戦後に写し変えられた”下野小山氏の、鎌倉時代
初期よりの栄光の歴史”から来ると言う事である。
だから今後、出土駒を探しても、普通唱導集大将棋
の遺物に関しては、

南北朝時代の遺跡からは、鎌倉時代から続いていた、
旧家のような所からしか出てくる事は期待できない

と、一応予想はされる。以上のように結論できると、
私は考えているのである。(2019/04/15)

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熊澤良尊普通唱導集大将棋のチェック結果(長さん)

前に述べたように、桂馬列を鉄将と香車列の間に置く
のではなくて、銀将列と銅将列の間に置く将棋駒作家
熊澤良尊氏が、前世紀に提示したとみられる、桂馬が
銀と銅の間に移動する平安大将棋は、下記のように、
飛龍と猛牛を交換、鳳凰と麒麟を交換した、熊澤良尊
型普通唱導集大将棋(仮説の変形)を生むとみられる。
この形は、飛龍が、仲人に押さえられた、角行後ろの
歩兵に、通常のようには当たらないため、序盤の攻撃
に、大きく参画し出す点が、スタンダード平安大将棋
から出発した、本ブログ仮説の、13升目108枚制
普通唱導集大将棋とは異なっていると考えられる。
熊澤良尊普通唱導集大将棋の初期配列は、以下の通り。

香車鉄将銅将桂馬銀将金将玉将金将銀将桂馬銅将鉄将香車
反車猛牛嗔猪飛龍猛虎麒麟酔象鳳凰猛虎飛龍嗔猪猛牛反車
飛車横行竪行角行龍馬龍王奔王龍王龍馬角行竪行横行飛車
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
口口口口口口仲人口口口口口口口口口口仲人口口口口口口
口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口
口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口
口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口
口口口口口口仲人口口口口口口口口口口仲人口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
飛車横行竪行角行龍馬龍王奔王龍王龍馬角行竪行横行飛車
反車猛牛嗔猪飛龍猛虎鳳凰酔象麒麟猛虎飛龍嗔猪猛牛反車
香車鉄将銅将桂馬銀将金将玉将金将銀将桂馬銅将鉄将香車

そこで、さっそく今回は、実際にテスト指しして、

仲人と嗔猪が腹を合わせ桂馬を登せても支えられない

のを確認してみた。
 一例として、例えば下記のような展開になるようだ。

熊澤普通唱導集.gif

 この局面では、両方の陣とも左辺が破られ、成り麒
麟をお互いに作るか、その寸前の所である。なお、
この局面では、3十一位置の竪行が、壁駒になってい
て、先手の守備力を低下させており、先手が苦戦だ。
 すなわち実際に指してみると、相手左横行先の歩兵
を取った駒は、相手の左横行でとられ、その相手の、
左横行を取った別の攻撃駒は、猛牛で取り返されるの
で、標準的な、仮説普通唱導集大将棋と違い、猛牛の
防御力が、有る程度有るのは確かだ。しかし、角行に
しても飛龍にしても、自分の駒同士は筋が合っている
ので、左右2枚ずつで攻撃でき、従って、上の局面
もそうだが、お互いの左袖は、比較的簡単に破れる。
 つまり、

序盤から、斜め走り駒をお互いに使って、攻め合うし
か無い、将棋になる。

これは、少なくとも普通唱導集の大将棋の唱導唄で、
仲人位置を、嗔猪と桂馬で固めて、局面を一旦収める
という主旨の内容とは、明らかに

合って居無い。

だから、熊澤良尊氏の平安大将棋から、普通唱導集大
将棋へ変化するには、自陣四段化した後に単に、空い
ている所に

新たな駒種を入れ込む程度では、だめ

との、前に述べた事が正しいと言えるようである。
(2019/04/14)

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平安大将棋初期配列の熊澤良尊説は妥当か(長さん)

平安大将棋は、左右対称なので、中央列から袖に向かって
初期配列を書くと、普通は4段目から下が次のようになる。
注人口口口口口口口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
横行口口猛虎口口口口飛龍奔車
玉将金将銀将銅将鉄将桂馬香車
それに対して、前世紀の後期に、現在も書き駒師として著
名な熊澤良尊氏が、二中歴の大将棋の記載の誤記から、平
安大将棋は、以下のような初期配列と解釈できるという説
を、出典は将棋雑誌とみられるものに、掲載したと、私は
聞いている。
注人口口口口口口口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
横行口口猛虎飛龍口口口口奔車
玉将金将銀将桂馬銅将鉄将香車
本人のブログがweb上に公開されているので、ひょっと
すると、探せばそこにも書いてあるかもしれない。
今回は、その熊澤説の妥当性を論題とする。
 先に結論を書く。
従来の説が勝ると見る。ただし、

完全否定は無理だ。

ちなみに、上記結論を本ブログが出した根拠だが、確かに
二中歴の大将棋の初期配列の記載には、誤記がある。
そこで、著者の立場に立って、執筆時に誤記する過程での

心理分析をしてみると、熊澤氏の言うような真配列から、
間違えたと見るには、無理な所があると本ブログは考える。

以上が理由である。
 では、以下に説明を加える。
 まず事実認識として、二中歴の大将棋の記載の間違いと
いうのは、内容を羅列すると以下のような3点である。
1)桂馬が書いてない。そのかわりに2回銀将が出てくる。
2)鉄将の横の動きは、銅将や桂馬、香車のルールから
見て、本当は無いのではないかと、少なくとも本ブログで
は疑っている。
3)最後の十文字の内容が不明で、誤記のように見える。
ここで問題にするのは、初期配列に係わる、

1)の桂馬と銀将の位置の記載の問題だけ

である。
 次に、この1)の点に着目しながら眺めると、二中歴の
記載内容は、およそ次のようなものである。
①最初に玉将を真ん中に置くと書き、次に金将と銀将の
位置を、その前に記載の駒に関して”隣に何を置くのか”
という回答として述べている。
②次に、”ついで”という接続詞を使って”銀将、銅将
鉄将が並んでいる”との旨述べている。結果、銀将が、
続けて2回書かれている。

③桂馬が書いてない。

④”次ぎに鉄将”に続けて、”次に香車を置く”との旨を
書いている。
⑤以下、銅将と鉄将の駒の動かし方のルールが書いてあり、
ここにも間違いが有るが、初期配列ではなくて駒の動かし
方ルールのカテコリーなので、⑤からしばらくは、ここで
の議論に関係が無い。
⑥横行の位置と駒の動かし方ルールが書いてあるが、⑥も
変わらないので、ここでの議論に無関係。
⑦猛虎の位置と駒の動かし方ルールが書いてあるが、⑦も
変わらないので、ここでの議論に無関係。

⑧飛龍の位置が桂馬の前の升目らしい事が書いてある。

⑧は桂馬の位置に関する事なので、ここの議論にきく。
動きのルールは、ここでの議論に無関係。
⑨以下に、奔車と注人の位置、駒の動かし方ルールがある。
ここでの議論に無関係。本ブログの解釈では、以下に注人
を例に引いて、成りに関するルールが書いてあると見る。
それで終了と見るが、ここでの議論に関係ない。
以上である。
 単刀直入に言うと、
 熊澤説を取るとするならば、
A)①で玉将と金将と銀将と桂馬の位置を書くつもりで、
桂馬を落としたか、または、
B)②で桂馬、銅将、鉄将が並んでいると述べるつもりで、
桂馬の代わりに銀将と書いたか
のどちらが間違いのパターンとしか、私には考えられない。
そこでA)だとすると、その場合だと、
②はもとのままで、銅将から始まり、単純に1枚駒種が足
りなくなるだけのはずなので、A)では無い。つまり、

B)の場合だけ精査すれば良い

という事である。
 大事な点は、B)だとすると二中歴の著者が、

現実として、桂馬と書くつもりで、銀将と今まさに書き
出していると言う事

である。
 心理的に見て、間違って桂馬と書くつもりが、銀将と書
けば、二中歴の大将棋の著者が少なくとも、正しい配列を
頭に入れて、その後に書いているとすれば、また桂馬と、
頭の中に、又思い浮かべるのが、普通なのではないかと、
私は疑う。

だから、桂馬と書くつもりが、銀将と書いてしまえば、
また桂馬と書こうとして、はたと自分の間違いに、気が
つくのが常

なのではないか。
 だから、B)のような事は、現実には起こるとは考え
にくいのではないかと、私は疑う。
 つまり、熊澤氏の言う配列が、真配列のケースは、二
中歴のような実際の配列混乱のパターンとは、別の記載

A)のように誤って、銀将がだぶって、2回にはならず
に1回になる”単純桂馬落し”のパターンになる

のではないかと、私は疑うのである。
 それに対して、従来のように、
①を書いてから、何処まで書いたのか忘れて、銀将を
ダブらせて②を書いてしまい、袖の2種類の駒は、筆者
の、存在に対する意識が、将型の駒に比べて低かったので、
桂馬は忘れたと考える、という間違いの原因推定の方が、
説得力の点で、

熊澤説よりは、相対的に勝っている

と私は評価する。
 だだし、古文書が間違えているから、その心やホント
の内容に関して、複数の説を比べるという議論に関して、

さほどの精度が出るとは、私にも思えない。

だから、

熊澤説を否定するのは困難で、せいぜい”2番手である”
と順位付けできる程度

だと考える。
 ちなみに、熊澤説が正しい場合には、その熊澤型二中
歴大将棋は、次のような、熊澤型普通唱導集大将棋へ移
行するだろうと、本ブログでは予想する。

香車鉄将銅将桂馬銀将金将玉将金将銀将桂馬銅将鉄将香車
反車猛牛嗔猪飛龍猛虎麒麟酔象鳳凰猛虎飛龍嗔猪猛牛反車
飛車横行竪行角行龍馬龍王奔王龍王龍馬角行竪行横行飛車
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
口口口口口口仲人口口口口口口口口口口仲人口口口口口口
口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口
口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口
口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口
口口口口口口仲人口口口口口口口口口口仲人口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
飛車横行竪行角行龍馬龍王奔王龍王龍馬角行竪行横行飛車
反車猛牛嗔猪飛龍猛虎鳳凰酔象麒麟猛虎飛龍嗔猪猛牛反車
香車鉄将銅将桂馬銀将金将玉将金将銀将桂馬銅将鉄将香車

一段目が違うが2段目も、右辺猛虎飛龍嗔猪猛牛の方が、
”地”に変わるので、

麒麟と鳳凰の位置が、逆転するはず

だ。再度、カンマを付けると下のようになる。

香車,鉄将,銅将,桂馬,銀将,金将,玉将,金将,銀将,桂馬,銅将,鉄将,香車
反車,猛牛,嗔猪,飛龍,猛虎,麒麟,酔象,鳳凰,猛虎,飛龍,嗔猪,猛牛,反車
飛車,横行,竪行,角行,龍馬,龍王,奔王,龍王,龍馬,角行,竪行,横行,飛車
歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵
口口,口口,口口,仲人,口口,口口,口口,口口,口口,仲人,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,仲人,口口,口口,口口,口口,口口,仲人,口口,口口,口口
歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵
飛車,横行,竪行,角行,龍馬,龍王,奔王,龍王,龍馬,角行,竪行,横行,飛車
反車,猛牛,嗔猪,飛龍,猛虎,鳳凰,酔象,麒麟,猛虎,飛龍,嗔猪,猛牛,反車
香車,鉄将,銅将,桂馬,銀将,金将,玉将,金将,銀将,桂馬,銅将,鉄将,香車

 上の配列をエクセルに、コピー読み込みして、チェックして
みてもらいたいが、右袖への攻めが、左袖に変わる点に
注意が要るが、猛牛は塞象眼がある2升目先制限走りと
仮定するので、飛龍と交換しても、守り方のパターンは、
普通唱導集大将棋第2節のままであって、変化が無い事
に注意すると、
”仲人と嗔猪が腹を合わせ、桂馬を飛ばして角アタリは
防御して、支え”ようとするだろうが、飛龍と龍馬が、
共同で、相手左飛車に当たるようになるので、2枚の

飛龍が、初期攻撃に加わる効果は甚大だろう。

そのために、猛牛が袖に来る事により、防御力は多少は
増すものの、唱導唄のようには”支えられない”
のではないかと、私には疑われる。つまり、

元が熊澤配列で、そこに駒を足したのでは、普通唱導集
に唄われている普通唱導集大将棋(仮説)とは合わない

とみられると、言う事である。
 ただし繰り返すが、熊澤説は、②で桂馬と書くべき所
を銀将と書いたら、

気がつくはずだ

という、筋の細い推定によって、かろうじて疑われてい
る程度だ。
 このような議論には一般に、閉塞感が充満しているの
は当然であり、将来なんとか、別の根拠が見つかるのを
期待するのが当然だと、私も当たり前だが思っている。
(2019/04/13)

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仮説普通唱導集大将棋で角行竪行横行と並んだ配列の訳(長さん)

少なくとも本ブログでは、鎌倉時代の大将棋、すなわち
本ブログの108枚制普通唱導集大将棋は、13升目
で、飛龍列がまだ無く、第3段目の袖からは、飛車・
横行・竪行・角行と配列されていると考えている。
つまり、後期大将棋で3段目が中央から、
奔王・龍王・龍馬・角行・竪行・横行・飛龍・飛車と
配列されたのは、15升目にしたため、1列不足で、
飛龍列が出来たという解釈だ。なお、中将棋で、
獅/奔、龍王、龍馬、飛車、竪行、横行としたのは、
斜め走り駒の先制攻撃が、強力すぎないように、角行を
下げて、普通唱導集の言う”飛車が無くなっただけで、
勝負が決まる”という難点を避けるつもりで、飛車と
竪行と横行の場所を交換したためとも考えている。
つまり、

奔王・龍王・龍馬・角行・竪行・横行・飛車という配列
が、オリジナルだというのが、本ブログの主張

だ。今回は、飛龍列が余分に入って、後期大将棋では
不規則化しているものの、大将棋で、角行・竪行・横行・
飛車という袖配列を、

何を考えて、デザイナーが作ったのか

を論題とする。回答を書いて、ついで説明する。

平安大将棋で、横行と奔車は、動きが不規則

で、速度ベクトルの方向はもちろんの事、加速度まで
不定な、動きをする事物を指すと、普通唱導集時代の
大将棋のデザイナーは考えた。どちらも、規則的な名称
の駒が有ると見えるように整理して、

揃って3つ組

で、駒の動かし方ルールの、判りやすい名称の駒だけに
しようとして、香車・反車・飛車の端列と、
角行・竪行・横行の3段目袖配列を作ったと考えられる。
 では、以下に説明を加える。
 諸橋徹次の大漢和辞典等にあるように、平安大将棋の
奔車は、著名な熟語であり、向かう向きだけでなくて、
加速の仕方を含めて、不規則な動きをするため”孔子も
乗り物として使用しない車の事”であるとされる。
つまり、速度のベクトル方向はもちろんの事、加速度の
ベクトルも不規則な車である。

本来このような熟語を、前後走りの駒に充てるのはおか
しい。

 他方、色葉字類抄のニ巻物(前田本)によると、横は
ヨコサ(?)マ、十巻物によると、横は、ヨコシマ(等)
の意味なので、横行とは、悪意の有る走り方、つまり
方向について単純でなく、その方向の変化も、気まぐれ
である走りの事とも取れる。つまり、顔の向きと直角に、
几帳面に走る訳でも、必ずしもないと言う事である。

本来、このような熟語を付けてしまっては、厳密には駒
のルールは決まらない。

 つまり、将棋駒の動き方のルールとして、明解性を欠
いたという点で共通な駒が、平安大将棋の2段目の中央
と端列に、ペアで存在したと言う事である。
 そこで、普通唱導集に唄われた大将棋が成立した時代
より40年位前に、大将棋のゲームデザイナーは逐次、
奔車を反車に名称変更し、飛車という著名な熟語を付け
た駒種を、新たに加えて、従来からあった香車・反車・
飛車で、車の列を作って、大陸のチャンギやシャンチー
と、象は無いものの、桂馬の馬と香車の車で形式を揃え
た。そうした上で、今度は横行に関して、整理を試みた
とみられる。時代はモンゴル帝国の来襲間近で、玉将の
前升目に、釈迦としての太子に成る、酔象を配置する機
は熟していた。そこで、横行を袖に移動させて2枚化し
て、対比駒として横行から竪行を派生させ、更に角行を
派生させて、飛車の横に、車列に合わせて3つ揃えで置
いて、竪と角との言葉の対比で、横行のルールを明確化
させた。13升目96枚制になったとみられる、西暦
1260年タイプの大将棋作成のデザイナーは、左右計
6対6で、駒バランスが取れたと、この時点では満足した
ことだろう。
 こうして、動かし方のルールに見合った、名称の駒だ
けに、揃えたつもりだったのであろう。なお以前に述べ
たが、この時点で、当時の中国語学者では無かったので、
ゲームデザイナーには、横行する人間を指す、今の我々
の横行に関する語彙の知識は恐らく無かったとみられる。
 ようするに、3つ揃えにするには、平安大将棋の自陣
3段配列を4段に増やす必要が、車列、行駒並びについ
て、どちらにしても必要だったし、行駒並びについては、
袖に寄せる必要もあったのであろう。それはそのとき
奔王に変化した、奔横を発明した事で、西暦1230年
には、4段化の路が既に開かれていた。
 そして空いてしまう升目には、蒙古来襲対応のために、
龍駒を作り、龍王と龍馬は、龍駒は龍の頭や蛇のような
体の形から、駒の動かし方ルールを、名称の影絵に見立
てて4方走りに、できる”根拠”があった。かつ、”王”
や”馬”という字で2字駒にしたので、玉将の動きや、
金将の動きをひっかける事ができたので、本来行けない
残りの4方向を、歩みに出来た。
 以上をまとめた結果、新たに出来た3段目走り駒列の
駒を、8方走り、4方走り4方歩み、4方走り4方歩み、
4方走り、2方走り2方歩み、2方走り2方歩み、4方
走りと規則的に並べる事もできた。以上により、3段目
の配列が、きれいな形で、確定もしたという事である。
 つまり、たまたまだったが、

平安大将棋のデザイナーが、動きがめちゃくちゃという
意味で共通性のある、横行と奔車を作っており、

香車は元から有った事が、3種類の行駒が3段目袖に置
かれる事を、決定付けたと、本ブログでははっきり推定
する。つまり実際には、現存する史料が有るかと言う意
味での証拠は、ほとんど見つかって居無いのだが、

飛龍列こそが、後から出来たものに間違いない

という事である。(2019/04/12)

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中世大将棋類の金成りのフレ。”最初の一揺らし”は何(長さん)

古典物理学の話では無いが。波動現象は量子論の世界
ではなくて、通常のスケールの世界では、最初に、
ブランコを揺らすように、何らかの作用が無ければ、
現象が発生しない。普通唱導集~後期大将棋の金成り
駒の数の変遷も、その意味では、機械論的な原因が無
ければ、生じない現象とみられる。
 今回は、結論から書くと、横行から竪行、角行が
発生した時点と、

横行の辞書的意味が、将棋棋士の社会に広まるまでの
タイムラグが、その”最初の一揺らし”だったのでは
ないか

という、本ブログの解釈について述べる事にする。
 ようするに、
角行と竪行は、発生した時点では、当初抽象的物体を
意味したが、

横行が野蛮な蛮行を続ける横暴人の増加であるという
中国語の意味が、日本語化する事によって、人間化

し、金将、銀将、銅将と同類となって、金成りとの説
が出てきてしまったための、

混乱の結果と見る

という結論を、述べると言う事である。
 では、以下に実際に少し詳しく説明しよう。
 本ブログでは、平安大将棋は、陰陽寮の学者が作っ
たゲームと、今の所考えている。だから、

平安大将棋のゲームデザイナーは、中国語で元から
存在した、横行の意味を、現代の我々が普通にイメー
ジするのと、同じように知っていた

と、推定する。しかしながら、既に前に述べたように、

色葉字類抄の二巻物にも十巻物にも、横行を見出し語
にしている形跡が無い。

だから、横行は、平安時代末期から鎌倉時代前期に、
中国語として有るが、日本語の熟語としては一般には
無く、漢字一文字の横に、”ヨコシマ”といった、
否定的な意味が、一部有る程度だったと私は見る。
 それだからこそ、”ヨコハシリ”という抽象概念に
過ぎなかった、横行という平安大将棋の駒から、鎌倉
時代の真ん中までには、簡単に

角行と竪行が作れた

のだろうと見たわけである。当然だがまだ、当時は、
淡い記憶であっても、成りの規則として、

はっきりとした人間駒以外は、相手陣奥から後退でき
る場合は不成りとする

という記憶が鎌倉時代中期には残っていただろうから、

西暦1260年型大将棋のゲームデザイナーは、角行
と竪行と横行を不成りにした

というのが、オリジナルだったろうと、私は見る。
 ところが、鎌倉時代末期から遅くとも西暦1320
年までには、

横行が、野蛮な蛮行を続ける横暴人の増加の意味であ
るという事が、将棋棋士程度の中級文化レベルの人間
の間にも、次第に定着してきた

のであろう。

横行は、人間と見なせるから、成りは不成りではなく
て、金将成りではないか

という議論が、当然西暦1300年を過ぎた頃には、
起こってきたに違いない。
 それだけでなく、”良く判らないが、

横行の仲間であるから、竪行と角行も金成りではない
か”という説も、将棋仲間の間では強くなってきた

のではあるまいか。そのため、金成りの駒が多い説と、
少なく見る説が並立し、時代によって、どちらかが、

強くなったり弱くなったりしている姿が今見えている

のではあるまいか。
 以上のように、原因は、横行の辞書的意味が、朝廷
の高級学者たちだけの間で理解されているときに、
角行と竪行が、”無知”から、むしろ簡単に、作られ
てしまったために、そのかなり後で、

②横行が人間駒だという説が、出てきた

のが、金成り駒の数のふらつきの最初に、少なくとも
絡んでいるのではないかとも疑われる。
 特に鎌倉後期になると、人間駒は金成りにするとか、
相手陣奥段で、身動きが出来ないか、後ろに前方だけ
に直進する駒が有って、ダブルで、身動きできない可
能性がある場合は、例外の金成りで、他は不成りだと
いう、

基本法則そのものの記憶が、二中歴の記載の誤写と
ともに希薄化

した。その結果更に、大将棋は③小将棋と同じく
全金成りだとか、
成りについて、二中歴平安大将棋は不明だから、
④全不成りにすべきだ、とかいう新説も加わって、

4つ程度の説のバトルになり、いっそうふらつきの
振幅を増大させた

のではないかと、本ブログでは思考する。
 更には、どのみち成り麒麟の獅子に荒らされて、
崩れて勝負が決まるような展開の将棋だったので、
陣は駒がほぐれないまま、塊になった状態で、相手の
走り駒に攻められる状況になり、そのような将棋では、
走り駒の成りが金でも不成りでも、実は局面評価に両
者で差が余り出ない事も、混乱に拍車を掛けたとみら
れる。
 何れにしても、①横行、竪行、角行は、

元来は不成り

だった疑いも有りそうだ。なお本ブログの言う、金成
りの多い麒麟抄時代、つまり南北朝時代ちょい前の、
西暦1320年タイプ説の元になった、

栃木県小山市神鳥谷曲輪の(一文字)金成り角行は、
教養の中程度以上には高い、南北朝時代の知識人、
堀河関白こと近衛経忠といった人間の作駒が、たとえ
ば元になっている

のではないか。つまり、元々西暦1300年以降は、
大将棋は下降線を辿って継承する者が少なかったため、

近衛経忠という特定個人が、たまたま横行の意味を知っ
ていたので、金成りの駒数を増やして、不確定性を増
大させている

といった”個人起源説”の可能性も、完全には否定で
きないような事さえ、有るように、私は更に疑うとい
う事である。(2019/04/11)

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