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中将棋デザイナー二中歴大将棋①桂馬抜②鉄将誤記利用(長さん)

実は本ブログでは、中将棋のゲームデザイナーが、
二中歴の大将棋記載で、うっかり写書のときに、
桂馬を落としたのを悪用して、桂馬の無い将棋を
定着させたと見ている。
 今回はその続きで、二中歴の大将棋で、鉄将の
駒の動かし方ルールで、下3方と横に行けないと
の旨の中で、”と横”を落としたのを利用して、
猛豹を1段移動させたという話をする。結論と
しては、従って、西暦1200年に二中歴が成立
して、更に写書の誤写があって更にしばらくした、
二中歴成立より150年前後以降の、

西暦1350年付近の、遊学往来での中将棋記載
少し前時期が、中将棋の成立時期と結論できる

と、以下結ぶ予定である。
 では、以下に説明を加えるが、次のような観点
について、この話には準備が要る。すなわち、
二中歴の大将棋の写書には、次ぎの3点の不備が
有ったと、本ブログでは独自に見る。

①鉄将の駒の動かし方のルールは、”玉将と違い、
後ろ3方と横に行けない。”との旨を記載しなけ
ればならない。にもかかわらず、ほぼ最初の著者
が”玉将と違い、後ろ3方に行けない。”という
ふうに、横へ行けないのに、行けるように間違え
て、記載した。
②桂馬が有るのに、飛ばして、鉄将の隣を香車に
した。
③”かくのごとく、仲人の行き方、後ろの歩兵も
そうなので、それに邪魔まされ一方、つまり前だ
け、よってかくのごとく、その成り方、歩兵に準
ずべし”などと、かっこつけて、
”如是(A)此是(B)”といった、奇をてらっ
たの英語で言う慣用句・熟語のような、凝った言
い回しをした結果、後世の写書者に、内容を間違
えられてしまい、

何が書いてあるのか、判らなくなった結果、

各駒の平安大将棋以降の、大将棋の金成りの範囲
が不安定化して、かつ定着しなかった。
 大切な事は、①と②は、単なる二中歴の著者や、
写書者の間違いで、将棋指しの間では”笑って済
まされた”事である。それに対して、実は
③はそうではなかった。しかし、そもそも中将棋
では、平安大将棋の駒の成り様のパターンについ
て、平安大将棋のパターンを結果として継承しな
かったので、③の影響は無かったのである。
 ところが、①と②についても、

中将棋のゲームデザイナーは、間違えた内容の方
が正しいと、強弁する事が可能になった。なぜか
といえば、問題が発生してから、150年経った
後なので、口伝派よりも古文書研究派の方が、
より優位になる状態だったから

である。以上の認識が以下の議論には必要になる。
 そこで、中将棋デザイナーのした事を説明する
以前に、①と②がなぜ単なる間違いとしか、13
世紀等の大将棋棋士には見なされなかったのかを、
簡単に説明しよう。
①は”平安大将棋は最下段がサイコロの目の形の
順序で、駒の動かし方ルールが決まっている”と
いうのが、口伝として正しかった。
②は、”小将棋と大将棋とで、袖の馬と車の存在
は同じ”と、伝えればよかった。
 以上の

簡単なセリフを暗記すればそれで良いだけだった

から、二中歴、口伝ダブルで伝承できたのである。
それに対して、
③は、”明らかに人間である駒は金成り。その他
の人間以外の動物か、良く判らないか、無生物を
意味する駒は、相手陣奥の段に到達した時に、動
きが取れないか、または、
後方に配置された駒が、前方一方向動きである為
に、奥の段で、問題の駒と後方に配置された駒が、
共に後退できなくなるときには、例外的に金成り、
そうでない場合には、不成り”と、かなり

長い語句で表現しないと、説明できないルール

が、口伝としては正しいルールだったとみられる。
そのため棋士が代替わりすると、③のルールだけ、

文書が間違えると伝承させる事が、相当に難しい

と、本ブログでは推定しているのである。
 ③のルールに関する事項が、大将棋に関して、
江戸時代の初期まで、周期変動していたとみられ
るのは、主としてそのためと本ブログでは考える。
 何れにしても、多彩な成りという手法を導入し
た中将棋は、室町時代初期以降、③の問題からは、
解放されたと、ここでは見る。
 それに対して①と②については、棋士仲間には、
神奈川県鎌倉市の今小路西鎌倉市福祉センター
遺跡出土の中将棋木札(現物紛失)の”もうしひゃ
(う)”という、”しひ”は、”し”と”ひ”の
中間音で発音するのだろうが、面白がって棋士が、
デザイナーの言い草を真似て居るような、猛豹を
”まうへう”と正しく書かない、木札の字の書き
方から見ても、デザイナーのバレバレなウソを、
棋士が面白がっているらしい事が判る。つまり、
中将棋のゲームデザイナーが、

①の鉄将の件については、猛豹を鉄将の所に移す
とともに、角行成りと決定するときに、この錯誤
を逆用して、中将棋の、一義化と発展を誘導した。
②の桂馬件については、桂馬列を除いて、14升
目を12升目に直す、絶好の口実として使った。

以上のような事が存在すると、本ブログでは推定
できると見ている。そして、

②については、既に本ブログでは述べている

という事である。
 だいぶん前置き説明が長くなったが、次に、①で

鉄将が横に動けるように間違えると何が良いのか

について、説明する。
 答えを書くと、

鉄将が、銅将より強く、銀将程度の駒と見なせる

からである。
 これについては、平安大将棋、中将棋の駒の構
成と、駒の動かし方ルールを知らない方に言って
も、残念ながら、ただちにピンとは、来ないかも
しれない。とにかく駒の強さが、中将棋について、
金将>銀将>銅将>鉄将という、五宝の普通の
イメージではなくて、鉄将が横に動けると、その
分価値が上がるので、そのように、間違えてくれ
ると、駒の現実の価値は、

金将>鉄将≒銀将>銅将

になると言う事だけ、そういうものだと今の所し
て以下を読んでほしい。そこで、この状態で、

駒の価値が、鉄将≒銀将≒猛豹になっている

と説明すると後は話が見えるだろう。
つまりだから、

鉄将の所に猛豹を入れても良い

わけだし、成りの駒の価値が、

飛車>角行>竪行>横行

であるから、中将棋で金将の成りは飛車、猛豹の
成りは角行、銀将の成りは竪行、銅将の成りを横
行にできたというわけだ。
 それが、元々鉄将の駒の動かし方ルールが、
正しく二中歴に記載されていたとしたら、
猛豹という、銀将格の駒を、鉄将の位置に配置で
きなかっただろうし、鉄将の成りは盲虎の成りの
飛鹿と対の、”走兎”程度にしなければならなかっ
たはずだ。そのため、

横行の使い所が無くて、中将棋というゲームが、
亜流がたくさん発生して、不安定化してしまう

はずだったのである。つまり、中将棋の成立にとっ
て、ちょうど良く、二中歴の大将棋の

著作者や写書者は、ルールの記載を間違えてくれ
ていた。

のでたまたま、中将棋のゲームルールの、統一化
におおいに役立ったという、わけなのであろう。
 逆に言えば、

中将棋の確立にとって、それ以前の西暦1200
年頃に、二中歴の大将棋が公開されている事

と、二中歴の鉄将の駒の動かし方ルールを、西暦
1200年に著作者が間違え、桂馬を、たとえば
西暦1250年頃の写書のとき、写書者が、うっ
かり飛ばしてしまってから、

ほど良く、ほとぼりが冷める100年程度経った
ときに、中将棋は成立していなければ、つじつま
が合わない

事になる。
 よって本ブログでは今の所、自費出版された、
岡野伸氏の中将棋の記録(一)に記載等されてい
るように、

中将棋の成立は、西暦1372年の遊学往来の頃
より、幾分前の1350年頃

という説を変えて居無いのである。
 むろんこの、岡野伸氏も表している説は、二中
歴と、西暦1300年成立の普通唱導集にともに、

中将棋が記載されていない

という事実とも、良く一致する。以下メモ書き程
度に記載すると、海龍王寺の将棋禁止令に中将棋
が無いのと一致、中将棋出土駒の初出が、京都市
上久世の大きな酔象駒程度と見られ、それは南北
朝時代なので一致する。なお、神奈川県鎌倉市の
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土中将棋木札
(現物紛失)の推定年代には、30年程度の不確
実性が有る。上記の西暦約1350年という値の
エラーバーも、その程度と見る。
 ようするに簡単に言うと、”大将棋は、
鎌倉時代に指されて、概ね南北朝時代に衰退。
中将棋が、それに取って代わられた。”とする、
現在の定説と、上の年代推定は良く合うという事
である。(2019/04/09)

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