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普通唱導集大将棋動物配列は曼荼羅集大威徳明王と同じ(長さん)

これまで本ブログに於いて、平安大将棋の2段目
猛虎・飛龍間2空升目に、普通唱導集時代大将棋
で加わる動物は、普通唱導集の大将棋の唱導唄か
ら嗔猪は既知として、もう一種は十二支の、
方位配列見立てで、鬼門に当たる虎とペアの牛の、
猛牛だとしてきた。
 根拠として、方位円環の一部を抜き出したよう
に、・・龍、猪、牛、虎、(龍・・)と、たとえ
ば、2段目袖の左辺が並ぶ事になるという、

図的な尤もらしさ

からであった。しかしながら、中世に、

猛牛と猛虎を中心に置いた、十二支円環図が、
大将棋の配置のモデルとして、別の史料として有っ
たかどうかは、これまで未調査

だった。
 しかし最近になって、本ブログは遂に、それも
見つけた。
 表題に述べた、京都の、真言密教の研究僧、
観修寺の事相僧の興然が作成した図像集本である、

西暦1233年成立とされる曼荼羅集に書かれた、
大威徳明王の周りの、十二支の配置図が、前方正
面が、丑寅になっている

というものだ。

大威徳明王.gif

 つまり、曼荼羅集に書かれた、大威徳明王の
周りの、十二支の配置図は、明王の頭の左右に、
未と申があり、明王が乗っている水牛の左右に、
寅と丑が居る。なお、正確に言うと、観修寺の
事相僧の興然は、絵ではなくて、漢字を並べた図
で、曼荼羅集の大威徳明王の周りの、十二支配を
示す文書を著作している。その図を元に、絵を描
いたのが、西暦1233年に定真という絵描きで、
彼が描いた大威徳明王曼荼羅の絵(西暦2009
年時点で、静岡県熱海市MOA美術館蔵とされる)
の一部が、上図のようなものであるという。
 今までこの絵の内容に、私が気がつかなかった
のは、この絵を見た事が無いからではなくて、実
は、十二支の周りの火炎のような線が、この絵に
関しては、ごちゃごちゃ並存していて、十二支動
物が見づらいためだった。
 なお”大威徳明王が西方の神だから、未申が頭
の近くにある”という説明が、美術史本、日本の
美術518十二支、至文社(2009)にあるが、

そんなはずはないと思う。西は酉のはずだ。

 明らかに、曼荼羅集の大威徳明王図では、水牛
に乗った明王が、鬼門の方向に向いている図で、
鬼門を、戦勝祈願の神が睨む形であるという点で、
普通唱導集大将棋の2段目袖、動物配列(推定)
とコンセプトが全く同じパターンである。すなわ
ち、大威徳明王は北東の敵と戦って、戦勝しよう
としているように、少なくとも私には見える。
 このパターンは、本ブログの独自”推定”とさ
れるものの具体的内容として、

普通唱導集大将棋に移行するように、猛牛と嗔猪
を平安大将棋に加えればよいと言う事と良く合う

という訳である。つまり、足りない駒もう一種は、

猛牛駒だ

という事である。
 今まで私は、この手の仏教画は、妙見菩薩の
12神将図が北の子が上で、菩薩の進んで行く
方向である前方(下)が南、その他の12支の動
物の付記された仏像は、大概上が午(南)で、
向かってゆく方向は、子すなわち、北というもの、
ばかりだと思って、普通唱導集大将棋との関係付
けを、半ば諦めかけていた。しかし探せば、鬼門
を睨む仏像というのが、有りそうだったが、本当
に有るものである。
 尤も、興然が作成した十二支入りの大威徳明王
図は、そうなっているが、同じ大威徳明王図で、
十二支の入っている、覚禅鈔の大威徳明王図は、
上が午で、向かってゆく方向は、丑寅ではなくて
北(子)だという事だ。なお覚禅鈔は、絵として、
曼荼羅集より成立が、遅いらしい。また、平安末
期のより早い、十二支入りの大威徳明王図では、
頭に子と丑が書いてあって、大威徳明王の向かい
先は、午と未の間になっているものも、あると言
う事だ。最後のは、北宋王朝から伝来した、オリ
ジナルの形だとも言われている。
 繰り返すが大事な点は、

大威徳明王は平安時代の末から、合戦の戦勝祈願
の神様となっている、五大明王である

という点である。これは普通唱導集時代の大将棋
が成立した時代に必要だったアイテムそのものだ。
だから、モンゴル帝国の来襲に合わせて、このよ
うな仏画が、実際には大量に作成され、それが、
大将棋の初期配列に取り入れられたと考えるのは、
全く自然な事だと、少なくとも私には思われる。
 以上の事から、西暦1233年より少したって
からモンゴル帝国来襲の頃に、興然作の曼荼羅集
の大威徳明王図(口伝とみられる密教儀軌を、根
拠にして作成)が、そのものずばり、
普通唱導集大将棋の、初期配列作成に影響したと
結論して、全くおかしくないように、私には思え
たのである。(2019/04/16)

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