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八木書店色葉字類抄二巻物大将基馬名に酔象が無い理由(長さん)

尊経閣文庫蔵の色葉字類抄2巻物、八木書店復刻
2000年発行には、第1冊/4冊の末尾に、
大将基馬名という付録文書がある。その中には、
後期大将棋の駒種名が、下段中央より袖に向かって、
次ぎ2段目という順序(但し、同率の時には左優先)
で並んでいる。ただし、本来酔象が有ると
将棋纂図部類抄や、江戸時代の将棋書から、ほぼ
自明に考えられる箇所には”酔(つぎに小さい字で)
裏太子”と書いてあって、象が抜けているように、
いっけんして見える。
 そこで今回はこの、酔象と書かれるべき部分に、
酔象と書かれず、酔と書かれていて、象が抜けて
いるように見える理由を論題とする。
 回答を先に書く。
1)大将棋に酔象は、この時代に有ったと見られる。
2)”基”付きで題字が書いてある点から見て、ど
こかの寺院に有ったと見られる、元史料としての
”後期大将基の史料”等が劣化していて、象の字が
判読困難だったので、正しく大将基馬名に転記記載
でき無かった為と考えられる。
 では、以上の結論について、以下に説明を加える。
本ブログでは、西暦2000年に復刻版を八木書店
が出版した、西暦1565年雪竹老人書写、
加賀前田藩の文庫、尊経閣文庫蔵の、2巻物の方の
色葉字類抄の5つの付録で
①大将基馬名と、②小将碁馬名は西暦1565年作。
③牧(甲斐・武蔵・信濃・上野)は西暦1423年。
④禅僧耆旧は、西暦1315年の作。
⑤異字は亀山天皇等の、敵国降伏を連想させるので、
仔細不明だが、西暦1315年作との立場を、2巻
物1565年書写、4冊本の構成の様子より、

独自に解釈

している。
 なお、これらはそれぞれ本文の中に無く、各写書
者の”後書き”の後に、配置されている。特に、第
1冊/4冊の、末尾の後書きおよび本の書誌を示し
た雪竹老人作の編年を書いた奥付と、①大将基馬名・
②小将碁馬名の間には、セパレータの意味だろうと
みられる、”遊紙”が一枚挟まれている。
 なお、西暦1315年の成立と見る④と⑤の、
禅僧耆旧は、”ぜんそうきじゅう”、異字は”いじ”
と読むと見る。また、そもそも色葉字類抄は、セク
ション名を、いろは順で並べた書籍ではなくて、個
別の漢字や熟語を、いろは順で並べている。そして、
付録①~⑤のようなセクション名は、本文中には、
ほぼ見当たらない。概ね、いろはにほへと・・それ
ぞれについて、セクションが、天象、地儀、植物、
動物、人倫、人体、人事、・・・・・疊字、諸社、
諸寺、国郡、官職、姓名、名字、というふうに、
47回繰り返すだけと、私は認識する。
 よって、大将基馬名はあくまで後付けの”付録”
の類であり、明らかに西暦1565年に雪竹老人の
手で、作成された文書とみなせる。

そこで本ブログでは、酔裏太子は、西暦1565年
と同年代の出土駒、一乗谷朝倉氏遺跡の成太子酔象
と同じ駒種で、象が抜けただけだと見なし、

ただし、用途は大将基馬名では、後期大将棋用、一
乗谷朝倉氏遺跡の酔象は、朝倉小将棋用と一応別々
だと考える。
 なおこの、色葉字類抄、付録①大将基馬名の酔の
記載については、大阪電気通信大学高見友幸氏の、
先行研究があり”酔という駒だ”と解釈されている。
どちらが正しいのかについては、
”酔と書いてあるので酔である”という説は、確か
にそう書いてはあるので、

高見説を完全に否定するのは難しい

と見る。これについての当否の決着は、今後、戦国
時代の、駒数多数将棋の文献が、更に出土するのを、
待つしかあるまいと、本ブログでは考える。
 ところで、本ブログのように、本来は酔象のはず
なのに、酔と書いてあると言う立場を、仮に取って
しまうと、

執筆者が錯誤した理由を、説明しなければならない

事になる。結論は冒頭に述べたように、原簿が劣化
して、字が消えたと考えたのは、以下の理由である。

日本の将棋の駒種に、一文字のものが、ほぼ無い。

だから、原著者が間違えるはずもないし、
大将基馬名執筆者が、間違えて象を抜かしてしまう
可能性も、余り無いと見る。実際、大将基馬名の駒
名の中で、一文字で書いてある駒は、ほかに無い。
 更に、たまたま幸運だったが、”酔”には成りが
太子と書いてある。だから元になった、寺等の文書
等には存在しない字を、西暦1565年の作成時に、
間違って入れたとも、このケースでは考えられない。
むろん、将棋纂図部類抄等、西暦1592年前後と、
比較的成立年が近い文献も、酔の所には、酔象を書
くべきである事を、明解に示している。
 だから残る理由は、虫食いか墨が擦れて来たかで、
1565年作成者の、恐らく何処かの寺院に有った
ものと”基”の漢字から判る、後期大将棋の元史料
の酔象の象の字が、良く見えなかったとみるしかな
い。字が見にくいので、書かなかったと見るのであ
る。つまり、色葉字類抄の第1冊/4冊で、後書き
をも書いた巻末付録作成者雪竹老人は、後期大将棋
に関する駒一覧を記載した、どこかの寺の文書を、
西暦1565年に写すときに、万が一の誤記を警戒
して、大将基馬名の中では、酔象の象の字を抜いた
のではないかと、私は考えるのである。
 逆に言うと、色葉字類抄二巻物(尊経閣文庫蔵)
の付録のうち、大将基馬名についてだけは、本来
あるべき字が、

象とは別に、他にも抜けている可能性が有る

と私は思う。更に推測だが、やはり小さい字で書い
た部分は擦れて見えにくくなりやすいのではないか。
だから、

裏金は、もっと有るのに、書いて居無い疑いもある

と私は疑う。実際、裏金のパターンは、陣の袖の方
に偏りすぎており、中央筋にもっと寄った所の駒、

たとえば角行が、戦国時代に金成りではなかったと
いう確証は、無い

のではないか。つまり色葉字類抄、第1冊/4冊末
備の大将基馬名文書は、水無瀬兼成の時代の、
将棋纂図部類抄の大象戯として、文献に見えている

実質同種類の将棋よりも多い、金の数の差が有った
疑いも未だ有り得る

と疑われる。以上のように、私は現在、事実認識を
するように、なって来ている。この、付けたしで今
述べたつもりの、成り金の数問題に関しても、戦国
時代の大将棋の史料は、更にほしい所だ。
 女王が導入され、ゲーム性能の向上の著しいチェ
スに、常々祖国の、文化レベルの高さの象徴として
誇りを感じていた、フランシスコ=ザビエル等は、
日本の貴族が難なく京都で、盛んに中将棋を指して
いるのに驚愕して、自己の認識の甘さと世界の広さ
を思い知らされたという事は、起こらなかったのか。
結果、日本の駒数多数将棋に関して、執拗に朝廷等
等に、問い合わせを、繰り返していてくれていたと
したら、将棋の歴史の研究にとっては、さぞや助か
るのにと、私は思う。(2019/04/17)

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