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鶴岡八幡宮・二巻物色葉大将基・将棋纂図部類抄の不成歩兵(長さん)

表題のように、駒数多数将棋の一種とされる
鶴岡八幡宮境内遺跡出土の歩兵駒の一部墨跡の弱い物、
1565年写書、二巻物色葉字類抄の1冊/4冊末記載
の大将基馬名の歩兵駒、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の、
(後期)大将棋(130枚タイプ)の歩兵は、各々不成
りとされる。出土駒、文献共、これらの更に写しは別と
して、歩兵が”と金”等に成らないと主張する例は、
この程度だけであり、元来は少ない。
 そこで今回は、その発生のメカニズムを解明する事を、
論題とする。
 何時ものように回答から書く。

これらは全部、大将棋が指されなくなってからのもので、
二中歴の”如是一方如此行方准之”が、解読できる人間
による、ツジツマ合わせが原因である。

では、以下に解説を加える。
 まず、前提として、次のような事があると考えられる。
二中歴の将棋の最後に、相手陣三段目で、玉将と金将以
外が、金に成るとの旨あるが、この時代は

成りの条件則に関して相手陣に入った所でしか成れない

ルールだったと考えられる。

つまり、平安大将棋にしても平安小将棋にしても、相手
陣に入った所で、不成りは選択できたが、そうしてしま
うとそれ以降は、入り直さない限り、成れないルール

だったと、本ブログでは、先ずは考えるのである。
 しかも、このルールは、平安大将棋、1230年型
大将棋、1260年型大将棋、1290年型大将棋、
平安小将棋(持ち駒無し)型には適用され、
 西暦1320年以降の大将棋と、持ち駒ルールが発生
して以降の、西暦1300年以降の平安小将棋(持ち駒
ルール有り)には、適用されなかったと、ここでは見る。
西暦1320年頃を境に、成りの条件則は、

現在の日本将棋に近い形が大将棋と小将棋に適用された

と、簡単の為に考えよう。ただし、西暦1350年頃
発生した中将棋には、ここでは判りやすくするために、
今のべた旧大将棋の成り条件則に、更に相手陣内で相手
駒を取った時には、成れる、現代の中将棋の成り規則が
適用されたとする。
 次に、冒頭でツジツマ合わせが必要になった、
二中歴の平安大将棋項の”如是一方如此行方准之”に
関して、本ブログでは、以下の構成駒に関してだけ
適用されるという性質のものであると、考える。
平安大将棋、1230年型大将棋の奔車、注人。
1260年型、1290年型大将棋の反車、仲人。
なお1320年型、1350年型大将棋、その後の
後期大将棋の反車、仲人へは、二中歴の大将棋説明の、
末尾十文字は判読不能化して、適用困難となったと見る。
なお、平安小将棋(持ち駒有る無し)、朝倉小将棋、
日本将棋には反車、仲人が無い。また駒種ごとに個別に
どうするかを決める事にした、中将棋には本来は適用さ
れない。ただし、水無瀬兼成は、誤って中将棋と”如是一
方如此・・”に関連性が有るかのような、不可解な文書
を、実際には作成していると、後に述べるが我々は取る。
 なお、本ブログの以下独自の解釈だが、
”如是一方如此行方准之”とは、”初期配列に於いて、
該当する駒種が前後動き、その直ぐ後ろの升目に、前方
のみしか動けない駒があるケース、実際には

注人または仲人についての歩兵仲人等の列、
奔車または反車についての香車反車等の列の二通りしか
適用されるケースが無いのだが、

万が一、後方の駒が、不成りで相手陣に入った結果、
注人、仲人、奔車、反車、が後退できても、相手陣奥で、
後方駒(歩兵、香車)と道連れになって、身動きが出来
ないときには、注人や仲人は別として、奔車、反車は、
人間を表しているようには見えないのだが、その場合も
特別に、桂馬や香車のように、金成りとする”という旨
の内容とここでは見ている。
 つまり、そのような事は、
西暦1320年前後に、平安小将棋が持ち駒ルール化す
る以前に、いったん相手陣と中間段のラインを越えた所
で不成りで入ってしまうと、本当に2枚の自駒が、相手
陣奥で、固まってしまうという事が起こったために、
西暦1200年の二中歴大将棋には存在して、そのため
記載されたルールが、

のちに、判読不能になったもの

とここでは考える。
 ところが、西暦1320年の新安沖沈没船出土駒の時
代の頃になると、平安小将棋に持ち駒ルールが導入され、

敵陣に持ち駒を打ち込んだときに、自駒が成れないと、
ゲームに面白みが無くなった

と考えられる。そのため、平安小将棋(持ち駒ルール有)
タイプは、

西暦1320年以降は早々と、現在の日本将棋の成り
条件則に近くなってしまったと、本ブログでは考える。
 そして、ちょうどその頃、

大将棋が衰退期に入った。

 そのため、指す棋士が少なくなって、

大将棋の成り条件則は不安定化して、平安小将棋のルー
ルに、引きずられるようになった

と考える。
 それに対して、西暦1350年程度に確立された
中将棋には、安定して”昔の大将棋の成り条件則を、
更に改良されたもの”が適用された。
 また、中将棋駒の成りについては、個別に決められる
ように進化を初めていたので、成りがどうなるのかにつ
いて、上位概念を立てて、適用する事自体が、そもそも
不要になった。
 だから、
水無瀬兼成が後に”中将棋の仲人は、傍らにゆけ無いの
で、相手の聖目ラインに到達すると、酔象に成る”とは
確かに書いているが、本ブログの見解では、中将棋の成
りは、繰り返すが個別に決められているので、こんな理
由付けは本来はそもそも不要である。従ってこの部分は、

水無瀬兼成が、調子のおかしい事を、散漫に書いただけ

だと、本ブログは独自解釈している。
 元に戻すと、大将棋に当時有った、仲人と反車は、
後続の歩兵と香車が、相手陣自由成りに、成り条件則が
西暦1320年頃に変化したために、
後続駒がうっかり、聖目ラインを不成りで入っても、
相手陣奥で、固まらなくなってしまった。
 そのため、これは本来良い事であり、その頃には、

大将棋の成り金の範囲が不安定化していたので、反車の
成りが金かどうかは、個別のバージョンで、規則を覚え
るシステムに、少なくとも西暦1350年タイプ以降は
変化

した。ところが、二中歴の大将棋の文書が、

仲人の成り規則についてだけ、ツジツマが合わなくなっ
た事が、西暦1320年タイプの大将棋の辺りから、
問題になったと見られる。

二中歴に合っているかどうかは、形として重要だった

のであろう。
 つまり、後方の歩兵は、相手陣内では動かすたびに
成れるので、”これまさに、動きが前方だけ”とは、
言えなくなってしまったのである。そこで、二中歴の
大将棋の文言に合わせるという、ほぼ、ただそれだけの
理由で、仲人をワザと身動きできなくするという、異常
た事が起こるようにした。すなわち、

ひょっとすると西暦1320年から、1350年の、
鎌倉鶴岡八幡宮境内出土駒から、大将棋の歩兵駒に不成
りのものが現われ、

1565年写書二巻物色葉字類抄の1冊/4冊末記載の、
大将基馬名の歩兵駒、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の、
(後期)大将棋(130枚タイプ)の歩兵は、各々不成
りと、表現されているのではないかと、私は考える。
 なお、二中歴の”如是一方如此行方准之”とは、最後
の”之”を歩兵と解釈すると、仲人も不成りになってし
まうので、そうしたとしても本当は意味不明である。之
が歩兵だと、二中歴に書いて無いので、どこぞ別の金成
りの駒といっしょで、仲人は金成りだと、解釈させよう
と強弁しているだけだと、私は理解する。
 繰り返すが、西暦1350年以降に、実際に大将棋が
指される事はほとんど無かった。そのために、出土駒と
しては、今の所、

鶴岡八幡宮境内から、消えかかった歩兵駒に、そのツジ
ツマ合わせの痕跡が反映されている程度

なのではないかと、私には疑われる。また、水無瀬兼成
の将棋纂図部類抄では、水無瀬兼成の”中将棋の仲人は、
傍らにゆけ無いので、相手の聖目ラインに到達すると、
酔象に成る”のパターンの調子で、”後期大将棋の仲人
は、歩兵を無理に不成りにしたので、傍らにゆけ無いの
で、相手の聖目ラインに到達すると、金将に成る”の
はずだが、実際には彼は、曼殊院の将棋図を写しただけ
だったので、後期大将棋では酔象、麒麟、鳳凰が成るだ
けの、かみ合わない文書を作成する事になったと見る。
 以上の論から、

二中歴の時代、平安大将棋の成りは、単純に1チャンス
で、相手陣3段目に到達したときに、成るだけだった

ようだ。本ブログの西暦2017年型大将棋では、
仲人、反車は金成り、成り条件則は、後代と同じく、
日本将棋と同じにして、各構成駒の、個別の成ルールの、
上位概念(一般論)システムの表現とみられる
”如是一方如此行方准之”との整合性は、現代的には
無視する事にした。
 そもそも1320年以降に廃れた後に導入したとみら
れる、不成り歩兵のようなツジツマあわせは、そうだと
すれば真似ても、意味はほとんどあるまい。
 なお、成り条件則の切り替えときは、繰り返すと西暦

1320年付近ではないか

と、本ブログは推定する。鶴岡八幡宮境内出土歩兵駒よ
りも、レトロな分、30年位タイプが古いと、本ブログ
では独自推定する、栃木県小山市の

小山義政の大将棋らしき駒が、更に栃木県小山市で発掘
され、出土駒として出現確率の高い、歩兵駒が、不成り
である事が将来判ったら、以上の仮説が証明されて、
おおいに興味深いと思うのだが

と、史料の更なる増加に期待をかけている。(2019/04/29)

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