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麒麟抄にはどうして、将棋駒の書き方が有るのか(長さん)

”麒麟抄は南北朝時代の成立であり、藤原行成の著作
と、かつて偽装された”という説に、本ブログでは

賛成する。

群書解題に、内容から成立年代を割り出した旨の記載
も有るからである。
 この点については松岡信行氏が”解明:将棋伝来の
「謎」”で、反対意見を述べられている事で有名だ。

将棋駒の書き方の部分の記載は、藤原行成本人作

と言う説を述べている。
①将棋の棋が碁であるという点。
②書家は多いのに、個別藤原行成作と伝えた上で、
書の書き方書で、敢えて将棋の駒の書き方を、彼に
偽装させなければならない、動機付けが無いという点

を根拠にしているようだと、私は理解する。
 ここでは、彼の根拠には

(1)抜け穴が有るかどうかという事

と、

(2)藤原行成は、麒麟抄の将棋駒書き方部分の作者
で無いにしても五角形将棋駒の字を書いたのかどうか

と、

(3)伝・藤原行成著作書に、何故将棋駒の書き方の
記載を加えているのか

を論題にする。
 回答を先に書く。
(1)は、特に②について、藤原行成が西暦1019
年グレゴリオ暦5月の刀伊の入寇の後、翌1020年
年初に、大宰権帥になっている点を考慮に入れて居無
い点に、抜け穴がある。麒麟抄”将棋駒”は彼が著作
したものでは

無い。

(2)は大宰府長官時代に、藤原行成が五角形駒の
駒字を書いた

可能性がある。

(3)は、(2)の伝説が世尊寺家に伝えられれば、
麒麟抄、将棋駒字の著作は、彼に偽装される事は必然。
 ようするに、麒麟抄は別の後代の人間の作だが、

藤原行成が、五角形駒に係わっている可能性は高い

と言うことである。
 では、以下に説明を加える。
まず、(1)の麒麟抄の作者と将棋駒部分の著作だが。
①の将棋の字が碁という点については、

色葉字類抄、八木書店本、尊経閣文庫蔵2巻物の、上
の上の末備挿入文書の2番目、”小将碁馬名”の、
将碁が、

戦国時代作であると見られることから、松岡説は疑問

と思う。なお西暦1565年成立の根拠としては、
その年に写書した、①雪竹老人の奥付けの後にある
挿入文書である事。②玉駒が王将、小将棋が将碁で、
皇室・摂関ハイブリットであって、戦国時代の貴族の
衰退時代風。③酔象が無いので、朝倉小将棋の時代で
は無いという、本ブログでは指摘している3点の根拠
による。なお、この”小将碁馬名”には、飛車と角行
が記載されていて、西暦1500年以前のものだと、

当然大問題

になる。言うまでも無く、南北朝時代は平安時代より
後、戦国時代より前だから、麒麟抄の将碁は、貴族で
ある世尊寺家では”藤氏系は将棋を将碁と書く”事を、
松岡氏の説とは違って、中世の間中、記憶としてずっ
と残していたと考えたほうが、事実に合う。
 次に、より大事だが。②の藤原行成一人が”将棋駒
を書ける訳ではない”という旨だとみられる、松岡氏
の”指摘”は、
藤原行成は、実際に五角形駒を書く、草分けだったと、
中世まで思われていた。ので、さも彼が書いたように、

麒麟抄の将碁駒の書き方は、南北朝時代の世尊寺家の
何者かが、実際に見せかけた

と考える。つまり彼が将棋の歴史に絡んでいたという
重大な証拠が、むしろ偽者である根拠になるという点
を、問題の読み方の手順を間違えたために、松岡氏は
見落としていると私は思う。
 松岡信行氏は、
1)麒麟抄の将棋駒字書き方記載が、藤原行成作かど
うかに、こだわっているが、本当は

初期の五角形将棋駒の字書きに、藤原行成が係わって
いたかどうかの方が大切だ。

以上の点と、松岡氏は彼自身が、
2)将棋の国内起源説に、こだわる余り、仮に伝来だ
としたら、伝来品の複製を、何処でするのかという点
から見て明らかに、

最初の五角形駒の字書きは、九州の博多付近で行われ
るのが尤もらしいという、”場所の推定の見落とし”
がある

と私は考える。特に2)については、
藤原行成は、大宰権帥になった事があるため、それだ
けでも、能筆家として、駒書きとの関りが疑われる上
に、刀伊の入寇直後に西暦1020年1月、藤原隆家
と交代に、大宰権帥になっている。そのため、少なく
とも本ブログの見方を取る限り、

いよいよもって、五角形将棋駒成立と係わりがあると、
藤原行成は、むしろ疑われて当然

という事になるのである。つまり本ブログの見方とは、
西暦1020年に駒木地は、経帙牌の形で、原始平安
小将棋を大理国から運んだ、北宋交易商人の周文裔が
用意して再度来日したから存在するのだが、書き込む
駒字のフォントを用意したのは、京都から新たに大宰
府の長官に任命され、赴任して来た

他ならぬ藤原行成だった

という意味だ。
 そこで以下に、彼に関する情報から、尤もらしいと
思われる推論を列挙する。
イ)藤原頼通は、西暦1019年12月、藤原隆家を
世論に押されて凱旋京都入りさせると同時に、在来仏
教寺院の世尊寺を開くほど、仏教に熱心な藤原行成が、
後任として適切と判断して、翌西暦1020年1月
九州大宰府へ長官として送った。頼道の信頼が厚い上
に、在来仏教の戒律に厳しく、現地にて流行り出した、
賭博をするという仏教上の戒律違反に、行成がうるさ
かったのも有ったと私は考える。
 つまり将棋を賭博として指す、現地の風潮を一掃し、
あくまで武芸として、また戦争シミュレーションを
する事によって、国軍の強化を目的として、

現地の武官の職務として、ゲームをするように現地の
人間へ指導する事をも、狙った

人事によるものであったとみられる。
ロ)それに対して赴任した、藤原行成は、仏教戒律を
比較的良く守る人物だったので、前任の藤原隆家のよ
うに、自身が伝来したての将棋を道楽で、時間を割い
て指す事は、余りしなかった。
ハ)むしろ現地の駒字書きの僧侶等に、駒字の書き方
を、能筆家として指導する事によって、五角形駒の高
級化をもたらした。現地の下級官僚や武家に対する、
賭博の禁に、彼は、藤原頼通の期待通りうるさかった。
が、武芸を磨くための目的としての将棋はむしろ奨励
し、自分も

駒字を書いて支援

したと考えられる。なお当然の事ながら、行成の努力
を持ってしても、将棋で、物を賭ける習慣を、無くす
までには至らなかったとみられる。
ニ)藤原行成の大宰権帥の任務は、西暦1020年の
1年限りであった。が、五角形駒の普及への影響は大
きかった。他の代用品で将棋を指す可能性も無くなり、

ゲーム具の形態は、彼のおかげで一定の物へ安定収束

した。なぜなら、
ホ)更に、唐物商人が”博多土産”と称して、京都へ
五角形駒を売り歩くときに、藤原行成作だと書き駒を
しばしば偽装した。そのため、能筆家としての彼のネー
ムバリューが元々あり、益々、現在とほぼ同じ形の
将棋具が京都でも売れて、普及に拍車が掛かった。
 以上が尤もらしいと仮にすると。
藤原行成が、西暦1020年の大宰府長官時代に、将
棋駒の字書きをしたという話は、仮に風説だとしても、
伝説として残りやすいだろう。そうだとすれば、
南北朝時代に麒麟抄で、さも彼が記載したように、
”将棋駒の書き方”が、他人によって偽装記載される
というのは全く尤もな話だと、私には考えられる。
 なお、本当に字書きに係わって、将棋の流行に寄与
した可能性が有るのかどうかという事に関しては、次
のようになろう。
 五角形という形に、願掛けと、五行説対応という、
馴染みの意味が有る事。また矢印で向きを表している
という、ゲームデザイン上の機能に関する利点は元々
有る。しかしながら将棋駒については、元々は国内で
発生した、代用品にすぎなかったと、本ブログのよう
に見ると、他の代用品へ更に移行してしまう可能性も、
伝来からさほど経って居無い当時は、残っていたはず
である。にも関らず他のアイディアが全部淘汰されて、
日本の将棋道具は、安定して一定のものになったとい
う点から状況証拠として、

本当に藤原行成が、初期に将棋駒の書き駒を作って
その優秀さから、将棋具の他の変種を無くしてしまっ
た可能性を、完全には否定は出来ない

ように、本ブログでは考える。
 なお一般論として、本ブログような限定的な伝来説
を取らずに、外国からの将棋の輸入を、適宜考えたと
しても、”西暦1020年の藤原行成の、博多・大宰
府に残した作駒行為”の影響が、道具の形態を決める
という点で大きかったと仮定できるケースには、議論
はこの場合、大筋では変わりにくいような気がする。
 よって、冒頭に述べた結論になるのではないか。つ
まり麒麟抄の著者の説について、松岡信行氏の論に私
は賛成できないが。web上等で確認できる、大宰府
へのその年、西暦1020年一年限りである藤原行成
の係わりで見る限り、

松岡信行氏は、将棋の語の初出がどの文献かという、
従来の議論を超えて、更に踏み込んだ議論をしたとい
う点で西暦2014年当時、相当に良い線の論展開を
していた。

以上のように私は、充分結論出来ると考えるのである。
(2019/05/21)

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宝応将棋が中国象棋の始祖になったらどうだったか(長さん)

本ブログでは、中国シャンチーの成立は日本の原始平安
小将棋よりも遅く、11世紀の終わり頃、イスラムシャ
トランジの成立は8世紀後半とみる。そこで、11世紀
の初め頃に、中国の北宋の中原では、改善が試みられて
はいたものの、アッバース朝の流れをくむ、アラブから
の移住者による、イスラムシャトランジが、それまでは
主に指されていて、中国南西奥地の山岳地帯で、
宝応将棋の進化型、大理国原始平安小将棋が、健在だっ
たと見ている。
 9世紀の初頭でも、基本的に同じ状態であり、晩唐の
中国中原では、イスラムシャトランジ、南西奥地の雲南
で、宝応将棋だったとみる。ただし、宝応将棋は宝玉類
で将棋具を飾るという特徴があり、唐王朝の皇帝等は、
中国人の多くは、ゲーム性能が低いため相手にはしなかっ
たものの、王室に南詔国からの贈呈品として、道具を
所持していたのだろう。しかし実際には、所持はしても
持っているだけであり、囲碁が主流で、唐王朝の宮殿で
も、余り遊ばれ無い状態であったと考えられる。である
から、宮廷に出入りする高官の牛僧儒は、宝応将棋を
題材に、玄怪録岑順(小人の戦争)が、書けはしたのだ
ろうというのが、本ブログの見かただ。
 しかし現在の定説は、

今の説明とは、全く違う。

宝応将棋は、中国シャンチーの初期の姿だとの立場が、
遊戯史学会では、未だ圧倒的に強い。
 では、定説が正しく、本ブログの説が間違いだとした
ら、中国の象棋・将棋は、どんな姿だっただろうかを、
今回は、

宝応将棋に砲駒を入れて兵卒4段で一つ置き配列にして

仮想のゲームのチェックをしたので、結果を紹介する。
結論から述べよう。

 最下段が、宝応将棋型の今とは全く違うシャンチーが、
現在まで、問題なく切れずに指されて、残っていたはず

である。では、以下に説明を加える。
 宝応将棋の配列は、いわゆる11世紀の初めに、イス
ラム国家に居住していたアル=ビルーニーが、インドを
訪問中に、四人制チャトランガの駒の動かし方ルールが、

象・車に関して反対になっている

と評したのに、近い内容である。つまり、シャンチーで
は、帥・将(王)が偏の動きに調整されたのは別にして、
仕は猫叉、象は跳び飛龍、馬は八方桂馬、車は飛車になっ
ている。それに対して、宝応将棋は王駒は多分玉将であ
り、この違いは後の調節として、現代に移行すると偏の
動きに調整されるとしても、仕も金将のような近王型の
動きであり、移行するには、猫叉に進化する必要が有る。
その進化は、一応出来るとしよう。次に象は、
上将で飛車、馬は塞馬脚のある八方桂馬へ進化と仮定、
車は、香車の動きで、河を渡ると猫叉の動きに成るへ、
進化するだろうと、仮定しよう。兵卒は中国シャンチー
の動きとしよう。
 だから、上記で特に象と車とに着目すると、現代化し
た状態で、

シャンチーの車が、進化した宝応将棋の象

になる。シャンチーの象が飛ぶ飛龍であり、進化した
仮想の宝応将棋の車が香車(成りは猫叉)で少し違う。
が、シャンチーの象と仮想の現代化の宝応将棋の車は、

ほぼ強さは同じ

だ。ただし、仮想の現代化の宝応将棋の車には、シャン
チーの象と異なり、玉守りの能力がぐっと落ちる。
だから、仮想現代化、宝応シャンチーは、王が対面して
も反則ではないし、

たぶん、九宮は無しにするという、調節が必要

とみられる。
 そうしておいて、兵卒の数は同じで跳び跳び型に直し、
初期配列も4段目にして、砲駒を、今と全く同じ配列、
同じルールで加えた、

アバウト、象車のアベコベ・シャンチーを指す

と、以下のような、戦形になる。

宝応シャンチー.gif

違いは、前に述べたが、雀刺し戦法が主流になるため、
端列に攻め駒が集中する事だ。
 このゲームを試しにしてみると、

ほぼゲームとして成立している事

が判る。そもそも、北朝鮮の象棋が、象・車配列を交換
できるルールなので、宝応将棋最下段型から出発しても、

微調整でゲームが成立するのは、当たり前

だと、私には予想されてはいた。
 従って、
中世の宋代に、進んだイスラム文化を吸収するという空
気が、中国では卓越しており、シルクロードで情報が入
ったとみられる、イスラム社会のシャトランジが、イン
ドも含めた、東南アジア各国の象棋類のルールを決めて
いるのと同じように、中国シャンチーの最下段配列の
パターンに、実際にはグローバルスタンダードに合わせ
るという意味で、取り入れられていたと見られる。そこ
で仮想的に、それが行われない”仮想の情報の遮断され
た世界”が仮に有ると、宝応将棋の最下段のパターンが、

取り立てて、欠陥があるわけでもないために、現代にも
生き残る可能性が、かなり高い。

以上のような、

今とは全く景色の違う状態が出現する

と結論できるのである。
 だから、宝応将棋は、文化の開放系の中国文明のもと
では、特に地続きなため

国力のある別の大国を、ないがしろに出来ない

という現実から、11世紀のインド型を、山間部のみに
残して、中国の特に中原では、東南アジアと同様に、消
えてしまった。以上のように、当然推定できるように、
私には思えるのである。

日本は島国だったので、他では消えてしまった、インド
古将棋の原形が、持ち駒ルールと、入玉ルールでカバー
された結果残っている

のである。指す人間が多いので、議論が全く見当たらな
いが。日本将棋は本質的に見ると”希少な文化”である。
よって今の所、危機感もあまり無いようだが、万が一に
も切れないように、大事にしたいものだと私は考える。
(2019/05/20)

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2019年春栃木県小山市市役所前発掘の様子(長さん)

昨2018年後半、かなりの期間をかけて入念に、
小山市等が小山評定跡だとする、市役所前の敷地
の発掘調査を行っていた。昨年で終了せず、最近
追加の発掘が行われているというので、5月に、
様子を見に行った。
 前にも発掘現場の一部だったとみられる所と、
旧四号国道との境とみられる、昨年の発掘で縁に
当たるとみられる部分を再度掘っていた。以下の
写真は、北東側の現場の一部だったとみられる部
分である。

小山市役所前2019年.gif

写真の日は休みで、土嚢で止められた建築用の青
色のシートで覆われており、地面の様子は残念な
がら見えなかった。再調査の理由は恐らく何かが
出土した地点なのであろう。また国道との境の縁
は、前回の調査では、国道ぎりぎりまでは調べな
かったので、良く再調査する必要性があったと言
うことだと考えられる。今年の夏の頃までやるよ
うで、webのページには、別の前年調査の縁部
分も、再調査すると書いてあるようである。狭い
範囲なのが残念だが、何か、更に出てくる事に、
大いに期待したいものだ。
 なお、駅の近くで、市役所前の発掘現場の数倍
の広さの、マンション建築用地で、地均しをして
いる現場を見かけた。”小山市最大級、完売御礼、
全144戸”等と、看板が建っていた。が建築資
材はまだ搬入されていないし、昨年見たときも、
確か空地の状態になっていたように記憶する。な
おそのときには、土地は、放置されているような
感じで、警備員のような人間が一人、うろうろし
ていたような記憶が有る。
 だいぶんスローな、マンション建設が、小山市
の西口駅前では駅まで3分と称して、現在行われ
ているようだ。
 その建築現場は、ざっとで神鳥谷曲輪遺跡の、
西暦2007年当時の発掘現場に比べても、2倍
の広さはありそうである。中将棋の升目数と同じ
なので私には覚えやすい、”全144戸の小山市
最大級のマンション”と称して、土地の面積が、
小山朝政の方形館、全体位の広さがありそうな、
マンション建築現場が、現在小山市の駅近に出現
している。
 正直ここの古井戸を全部発掘してくれていたら、
どんなに遺物が増えただろうかと思う。よって、
”他でやったから、小山市でもやる。それが何が
悪い”という、宣伝イメージが有ると言う意味で、
”親会社は環境に優しい”と宣伝したとしても、
先祖伝来の文化にも優しいという思考は、余りな
い傾向が、少なくともこのマンションの建設事業
の、”中核企業体”には有るようだと疑われた。
 以上のような事がこのマンションの、通り一遍・
マスプロタイプの宣伝看板から薄々感じられるの
は、かなり遺憾な事だと私は思う。なお私は、経
緯に関わりが全く無いが。栃木県小山市では、前
世紀の末頃、

”マンション建設による遺跡破壊”が大きく問題

になったという。その結果、市中心部の城跡が、
”全面保存を前提とした、国の指定遺跡になった”
という経緯が有るという事だ。
 このマンションについては、余り文句が出なかっ
たのだろう。基礎固めのため深堀して、水が出る
ところまで達したときに、出土してくる礫類を篩
で濾した後に、”化学の力”で劣化を防いでから、
栃木県小山市の市役所教育委員会遺跡発掘担当に、
遺物の処理代を請求した上で、譲り渡す位しても、
”事業主”は、建設が旨くいっている以上、その
位して、バチが当たらないのではないかと、私は
思うのだが、はたしてどうなのだろうか。
 なお栃木県小山市市役所前の発掘で発生した礫
は、そのまま駐車場前に野積みにされていた。
(2019/05/19)

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玄怪録”岑順”。語句付加でシャンチーになるのか(長さん)

前に述べたように、牛僧儒の玄怪録を収録した、北宋
の太平広記は、怪奇小説の枝葉は切り落として、現代
に伝えられているとされる。枝葉を切り落としたから、
本来シャンチーの先祖であるべき宝応将棋が、日本の
平安小将棋のプロトタイプのように見えているだけの
疑いも、否定できないと言う事であった。そこで、今
回は、玄怪録”岑順”に、砲駒の要素を足して、シャ
ンチーの先祖に出来ないのかどうか、考察した。
結論を先に述べる。

できない。

理由は、”砲の類、矢の類、石の類が飛び交った”と
いう一文の、

”砲の類”の語句が、ダブついてしまうから

である。
 では、以下に説明する。
 西暦2011年01月12日に、将棋史研究家の、
(故)溝口和彦氏が「北京国学時代文化伝播有限公司」
版の玄怪録”岑順”を、webに紹介している。これ
は、前野直彬氏の東洋文庫版(平凡社・1964)
唐代伝奇集2の玄怪録”岑順”(小人の戦争)の訳と、
良く対応している。ので、太平広記と、さほど違って
いないのだろうと推定できる。これを使って説明する
のが判りやすいので、以下使う事にする。
 天那軍と金象軍が登場してから、天那軍が潰走する
までの下りは、次のようになっている。

E③・・三奏金革,四門出兵,連旗万計,風馳云走,
両皆列陣。
E④ 其東壁下是天那軍,西壁下金象軍。
E⑤ 部后各定,軍師進曰:
F① 天馬斜飛度三止,上将横行系四方。
F② 輜車直入无回翔,六甲次第不乖行。
G① 王曰:“善。”
G② 于是鼓之,両軍倶有一騎,斜去三尺,止。
G③ 又鼓之,各有一歩卒,横行一尺。
G④ 又鼓之,進車。
H① 如是鼓漸急而各出,物包矢石乱交。
H② 須臾之間,天那軍大敗・・・

なお、記号は溝口氏による。これも使わせてもらうこ
とにする。
 そもそもE③で、2手に分かれて、それぞれ金象軍、
天那軍が出てくる点が、奇数列配列でないと、兵卒の、
トビトビ置きが出来ないので、跳び越え駒の砲が旨く
導入できず致命的ではある。が、その点はまずは置く
事にして、次に進む事にする。
 そしてそれでも何とか、シャンチーとツジツマ合わ
せをするために、砲のルールや、序盤での駒組表現を
追加するとすれば、だいたい次のようになるだろう。
・・・
E⑤ 部后各定,軍師進曰:
F① 天馬斜飛度三止,上将横行系四方。
F② 輜車直入无回翔,(砲は四方に任意に行き、相手
駒を取るときに一つ駒を跳び越えろ。)六甲次第不乖行。
G① 王曰:“善。”
(于是鼓之,砲を水平方向で王の前に進める。(挿入))
G②(于是→又)鼓之,両軍倶有一騎,斜去三尺,止。
G③ 又鼓之,各有一歩卒,横行一尺。
G④ 又鼓之,進車。
(又鼓之,それぞれの上将を水平に2尺動かし、輜車
の後ろの升目に移動させ、雀刺し戦法を狙う(推定)。)
H① 如是鼓漸急而各出,物(包←余計)矢石乱交。
H② 須臾之間,天那軍大敗・・・

 なお、しばしば本ブログで問題にした”横”は、
”いわゆるワルの動きで乱暴に”の意味だろう。2回
出てくる。原文にも、このような形で有ったのだろう。
チャンギが横動きになったのも、ひょっとしたら、
それが原因かもしれないが、”水平方向へ”は誤訳で、
前に一歩が正しいと、一応ここでは取ってみた。なお、
歩卒を横に動かしてから、輜車を前進させるのは、歩
卒トビトビ配列だったというのが、正しいとしても、
ほとんど意味不明手だ。
 ところでH①に有るように、それぞれの軍は各々駒
を繰り出して(而各出,)いるので、後半の記載は、
”矢の類、石の類が飛び交い”さえすれば良く、繰り
出しの部分に含まれている、”砲の類の飛び交い”は
余分である。
 つまり、もし砲について、記載するのが面倒で省略
したとするならば、”物包矢石乱交。”ではなくて、
太平広記には乱雑に、”物矢石乱交。”と書かれて、
残る程度の、はずだったと言う事である。
 しかし、たかが娯楽用の伝奇小説に、きちんと、飛
び兵器として、砲も入っているというのを、矛盾なく
説明している。という事は、歩卒等が弩・弓で弾いた
り、手で投げたりする石火矢が、矢や石と並立に、
唐代には武器の砲として、普通に存在する程度だった。
ので、3つ組で、最初から表現していただけであって、
駒としてやはり入っては、いなかったという事を、
示しているのではないのか。
 だから、弓や弩を駒に加えなかったのに加えて、砲
も、宝応将棋には、入っていなかったのではないか。
 よって、象の代わりに違いない上将が強すぎし、車
の一種に違いない輜車が、日本の香車型に弱体してい
るのに加えて、砲が無いのも、宝応将棋が中国シャン
チーとは、有意に大差があるという、証拠なのではな
いか。以上のように今の所、私は読んでいるのである。
それに引きかえ、宝応将棋から原始平安小将棋への変
化は、玉将を入れて金銀を一つづつ降格させ、上将
こと象を、削除するだけで、ほぼ移行できると私はみ
ているのである。(2019/05/18)

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そもそも平安大将棋の横行はなぜ玉将の前升目に在る(長さん)

平安大将棋の横行には、動きの特徴もあるし、何回か
本ブログでも取り上げてきた。しかし、そもそも後期
大将棋等での酔象の位置に、平安大将棋で横行を入れ
たのは何故なのかと言う論題は、立てたことが無かっ
たと記憶する。角行でも良さそうな、玉将の前升目に、
飛龍と奔車の動きを加えると、五亡星を象る結果にな
るとはいえ、横行という”名称の駒”が、唐突に、
平安大将棋では、王様を差し置くかのように入った経
緯を、今回は論題とする。
 まず回答を書く。

平安大将棋のゲームデザイナーが、太平広記で、
牛僧儒の玄怪録「岑順(小人の戦争)」の上将のルー
ルの部分を読んでいたとみられる。

では、説明を以下に書く。本ブログで前に述べたよう
に、横行の中国語の意味を、陰陽寮に居たと推定され
る、平安大将棋のゲームデザイナーは、知っていて、
平安大将棋に加えたと考えられる。その際本ブログ内
では、その情報の入手元について言及しなかったが、

平安大将棋のゲームデザイナーも、横行の意味を、
牛僧儒の玄怪録「岑順(小人の戦争)」から学んだ

と考えて、不思議は無いように思える。なぜなら、彼
には、将棋ゲームをデザインするように、本当の任務
の占いや、天体観測とは別に特務が、与えられた
からである。なお、横行の意味が一般人に明らかにな
るのは、さいきん私が調査した所では、南北朝時代の
庭訓往来からだ。しかも、

陰陽寮に、中国の希少書の”太平広記”が、たまたま
あったというのは、いかにも有りそうな話

だ。明らかに、本業で参考書として使用しそうな、
内容の本だからである。
 だから、陰陽五行説の影響で、初期配列からは、
五亡星型に駒が動くように設計されている、
その影響の大きな平安大将棋を作成したデザイナーが、
朝廷の陰陽寮の人間だとすれば、彼が、横行とい
う駒を導入するときに、そうすると良いのに気がつい
た文献が、太平広記の牛僧儒の玄怪録「岑順(小人の
戦争)」の中の、上将の動きのルールで、出てくる動
詞の横行であって、不思議だとは余り思えない。
 恐らく、デザイナーは、
上将という名から、玉将の前升目に置く駒を連想し、
玉将の前升目に、ずばり上将を置いたのでは、将とい
う名の駒が多くなりすぎて、

紛らわしいので、動詞の横行を、名詞と見方を変えて、
上将を入れるべきところに、横行を入れた

と見て、間違い無いように私には思える。
 逆に言うと、駒の動きや五種類将である点からみて、
ゲームデザイナーが、陰陽道関係者とは推定できたが、
太平広記の読者となれば、ますます、その可能性が高
くなるのだろう。
 ほとんど、答えに近い所まで到達していたが、今ま
で以上の指摘を、本ブログでは全くした事が無かった。
この点、むしろ不思議な位だったと思う。(2019/05/17)

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日本の小将棋を3段配列にしたそもそもはどこの国(長さん)

本ブログによれば、日本の将棋が3段配列なのは、
元々雲南の将棋だからで、そのままの継続の結果
という事である。では、そもそもの3段配列が、
インド原初将棋の2段配列から変化したとして、
そもそもの発明国、インベンターのデザイナーは
は、何処の国の者なのかを、今回は論題とする。
回答を書いて、更に説明する。

ミャンマーのシットゥインがオリジナルと見ると、
アジアの将棋は理解しやすい。

なお、発明は8世紀であり、理由は
(1)序盤の手数の短縮のため。

それが、歩兵列を上げる事により他の効果として、
次の別の2つの効果も持つため、そのうちの(2)
を、日本の小将棋では使用した。

(2)中盤、金塊が盤上に早く並ぶ。(雲南で、
9世紀に気がついた。なお(2)の用途が、雲南で
だけ活用できたのは、山間部まで、その前9世紀ま
でに、イスラムシャトランジが浸透せず、インド
チャトランガの”王に近い副官”が、残ったためで
ある。)
(3)砲の”横兵取り攻撃”を、馬で守りやすい。
(中国中原開封付近で、11世紀後半に気がつく。)

では、以下に説明を加える。
 ミャンマーが震源地と考えると判りやすいのは、
13世紀にモンゴル帝国に押されて、タイ人が、
雲南からタイへ南下したときに、

カンボジアでは4段配列を捨てたが、ミャンマー
のゲームデザイナーは、兵ラインの配列を変えな
かったとみられる事

が根拠だと考えると、正しいかどうか以前に、東南
アジアの象棋自体を理解しやすい。(1)が、兵段
を上げる動機として、最も始原的なので、オリジ
ナルが、どの国のゲームなのかを考えるときには、

ミャンマーのシットゥインとカンボジアの9路
シャッツロンの2托になる

と考えられる。どちらなのかの決め手になるのは、
タイ民族が、13世紀、モンゴル帝国の侵攻に押
されて、東南アジアに大量移動したとみられるとき
に、マークルック型の兵3段目配列に、歩兵列を
逆に、やや後退させたかどうかだと、私は思う。

変えて居無い、ミャンマーは、ナショナルオリジ
ナルの自負が、兵配列に有ったので、駒の動かし方
ルールは、タイの象棋をかなり取り入れたが、配列
は上げたままだった

と考えられる。それに対して、カンボジアの方は、
11世紀にシャンチーが成立して、ヴェトナムから
広がってくると、中国シャンチーは(3)の理由で、
兵を4段目にしたのだが、ミャンマー流に合わせて
(1)の理由で、シャッツロンの兵を4段目とし、
交点置きだけ、中国流を取り入れたと考えられる。
12世紀の頃の事だろう。
 ところが13世紀になって、タイ人が、元王朝
に圧迫等されて、それまで以上のペースで、大量に
民族移動してきた。そして彼らが(2)が元々で、
(1)に切り替わりつつあるという状況で、兵を
3段目に上げた、マークルックを持ち込むと、

カンボジアでは(2)の要素が入っている、混じ
り物”将"棋である事を余り気にせず、タイの
象棋の初期配列に、多勢に無勢で変えてしまった。

しかしながらミャンマーでは、タイ式の初期配列を
13世紀以降も真似なかったのは、ナショナルオリ
ジナルに対する自負と、(2)が混じりこんでいる
事に対する不快感が、強かった為だろうと見られる。
金の誘惑におぼれない、上座部仏教国の誇りも有っ
たのかもしれない。
 この事から考えて、兵の段数を上げていったのは、
ミャンマーがオリジナルだと考えると、判りやすい
ように、私には思える。

何れにしても、純粋の(2)を事実上維持したのは、
雲南の将棋の遺児である、日本の平安小将棋だけ

だったと、ここでは見る。
 ウェトナムは中国シャンチー型に、結果としてな
ったし、インドネシアの島嶼等では、イスラムシャト
ランジの初期配列そのものが、インドの古象棋の一
種同様残ったと、聞いている。
 なおこの論は、とてもアバウトなものである。
 たとえば今までの説明で、ラオスやマレーシア、
フィリピンが出てきて居無い。しかし、いわゆる東
南アジアの象棋類の内容を、大づかみで理解する上
では、大国のうちの一部が抜けているものの、上記
のように背景を認識すると、全体的内容は、割と
理解しやすいように、私には思える。(2019/05/16)

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玄怪録「岑順」平凡社東洋文庫本、前野直彬氏解題(長さん)

玄怪録「岑順」(小人の戦争)については、将棋が
加筆かどうかの判断をするに当たり今の所、出典原
書に関する、東洋文庫の解題位しか、少なくとも私
に判断材料の持ち合わせは無い。
 玄怪録については、成書が別にも出ているが、内
容の優劣についてしか、編訳者の解題には書かれて
居無いと言うのが、少なくとも私の心象である。
 そこで、以下は前野氏からの情報により、玄怪録
「岑順」における将棋情報は、後代の作り話なのか
どうかの可能性について論じる。
 結論から書く。

牛僧儒の生きた時代に、将棋という言葉が、中国に
有ったのは確かなようである。むしろ、砲駒が本当
にその時代に無く、これが、中国シャンチーに本当
に接続しないかどうか、今後細かく考える必要が有
ると考える。

 では、説明を以下に書く。
 中国では唐宋の時代、

漢詩に比べて怪奇小説を書く事に対する社会の評価
は低かった。

問題の、牛僧儒の玄怪録「岑順」(小人の戦争)に
ついては書写が、原書から、北宋の太平広記によっ
て、西暦980年前後に一回行われた。その際加筆
して、中国には古くから将棋が有るように見せかけ、
怪奇小説を”より面白く”して、太平広記がより、
売れるようにするような事が、行われたとは、考え
られていないという。太平広記自体、売れ残りの稀
少本だったとされる。むしろ前野直彬氏は、太平広
記の怪奇小説の記載群は、北宋初期に、ようするに、
王朝内では、形式的に完成させた全集本であって、
傾向としては”どうでもよい文書の類”とみなされ
たとの旨の印象の書き方をしていると、私は感じる。
その結果、

”書いてあったはずの内容が、一部削られたと見る
のが常識”だ

ともとれる内容を、東洋文庫”唐代伝奇集”の、
作品解題部で述べている。なお小人の戦争は、西暦
980年頃成立の太平広記の第369巻に、器物霊
の話を記載した、”空き家の怪”と共におさめられ
ているとされる。また、西暦1060年頃成立の、
”新唐書”の”唐書芸文志”に、玄怪録は”牛僧儒
の短編怪奇小説集として、十巻物の書籍が有った”
と記されているようである。
 ちなみに、1957年に中国人民文学出版社から
出た校訂本を使って、東洋文庫での内容を補正・加
筆したとは、この「岑順」物語りに関して、前野氏
は特に言及して居無い。
 また、実際に牛僧儒が生きた頃に、彼の著作の
怪奇小説を装って、政敵の李徳裕派の韋環が、
周泰行記を書いていると、前野氏は紹介している。
後者は、牛僧儒の生きた時代に、少なくとも彼を含
めて牛僧儒の派閥で、かなり多数の怪奇小説が、書
かれた事を示しているように、私には見える。
 つまり、少なくとも北宋の時代の初期には、北宋
時代にならないと成立しない、ニセの怪奇小説の内
容を、新たに作る空気が漢詩とは違って、ほとんど
無かったので、牛僧儒派著作が、政敵の李徳裕派の
装いであったとしても

紹介されている小説については、本当に晩唐の9世
紀に有った可能性が高い

ようである。また、むしろ本来有ったはずのものを、
形ばかりの紹介にとどめようとした空気が、北宋の
初期には強かったので、中身がどうでもよければ、
枝葉の表現は削ろうとしたようだ。そのため、

将棋が無かった事よりも、宝応将棋に本当に砲駒が
無かったのかどうか、表現の省略を心配したほうが
良い

という事らしい。砲が有りそうなのかどうか。有っ
たとしたら、宝応将棋はシャンチーの親に、本当に
ならないのかといった、ゲーム性についても、後で
詳しく調べてみようと思うが、

文の繋がりとして、砲の説明を加えると、矛盾が
起こらないのか、

については少なくとも、近々精密に、検討する必要
が有るとの印象を、前野氏の解題文の全体的な傾向
から、少なくとも私は受けた。
 残念ながら、問題の書の書誌論が書かれているの
は、ざっと見渡した所では今の所、玄怪録について
は、東洋文庫本しか無いように私には見える。別に
有効な、玄怪録「岑順」に関する解題情報が有れば、
更にそれも参考にしたいとは、当然私は考えている。
(2019/05/15)

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金将は中国語。宮廷に出仕するときの角帯の飾が金(長さん)

本ブログではこれまで金将、銀将、玉将は鎧の素材
とのイメージで、表現してきた。または他界した後
に作られた像の材質とも述べた。しかし元々の意味
は、別の可能性が有りそうだ。
 彼らが仕える宮廷に、武官が出仕するときに着る
礼服に付帯された、帯の”か”と言われる飾りが
金である、高級武官の事を、古代に中国文化圏では、
金帯の大将軍というイメージで、呼んだようである。

なお、このイメージで金将と表現したとき、その単
語は、飛鳥時代末の日本でも通用した

ようだ。この事から、東南アジアのゲームの要素が
大いに有ったとしても、

日本の将棋の直接の伝来元は、中国文化圏の可能性
がかなり高そう

である。
 結論は以上のようであるが、以下に説明を加える。
 web上の、幾つかのサイトに紹介されているが、
雲南に南詔国が出来た西暦738年頃のものと見ら
れる、南詔徳化碑という遺物が存在する。南詔国は、
中央集権制の高い軍事国家なため、建国に功績の有っ
た武将が、武家の高官として、支配階層に多数含ま
れる国である。南詔徳化碑から、多民族国家とみら
れる南詔国の、支配層の人種が割り出せるので、
岩手大学の藤沢義美氏により、1970年頃書かれ
た論文”南詔国の支配階層について”にも、詳しく
紹介されている。その論文の33ページによると、
碑文に、将軍の具体的な名前や、役職に続いて、
”大軍將。大金告身賞『錦袍金帶』”等で、
”武勲章位階(建国に対して功績のあったため冠位
が付き、国王より、宮廷に出仕するときの礼服と帯
を賜った事を示すもの)”が示されているという。
藤沢義美氏は西暦1970年当時、”金賞大将軍”
のイメージに読める、褒章名を、中国文化圏では
当たり前の、国王からの贈呈品として、詳しく論じ
て居無い。が、

将棋史にとっては、金将が何処から来るのかを示し
ているので”金賞大将軍”等は、とても大切だ。
 碑文には、

(上闕)帶段忠國  清平官大軍將大金告身賞錦袍金帶
□□□(下闕)

(上闕)?皮衣楊傍?  清平官小頗弥告身賞錦袍金帶
(下闕)

(上闕)頗弥告身賞二色綾袍金帶爨守□  清平官大金
告(下闕)

(上闕)李〔買〕□  大軍將開南城大軍將大□告身
(下闕)

(上闕)大大?皮衣趙眉丘  大軍將士曹長大頗弥□□
賞紫袍金(下闕)

(上闕)□衣揚細□  大軍將賞二色綾袍金帶王琮羅鐸


だいたい以上のようなイメージで、まだたくさん
続いているようだ。
 どうやら鉱山地帯のイメージのある雲南だが、
さすがに、大将軍でも”鎧が全部金製”という
事では無かったようだ。ベルトに金の飾りを多数
付け、祭典のとき、堂々と天子の前に現われるのが、
金将の事らしい。つまりこの史料から中国古代王朝
の儀式に習い、雲南の南詔国でも、

功績をたたえられ天子にお目通りするときに、金の
ベルトをはめて出てくる武官がいて、後の金将の事

らしいと判る。また、これはどう見ても、南詔国の
勲章贈呈行為は、西暦738年頃にした、唐王朝の
マネのようである。だから、これは中国文化圏では
良く知られており、飛鳥時代から、日本でも知られ
ていた、ありきたりの概念と、明らかに推定できる。
つまり、

金将は、中国文化圏の概念のよう

だと言う事である。
 だから、日本の将棋自体が、金将や銀将や玉将と、
ともにやって来たとすれば、ゲームとしては東南ア
ジア的であったも、

伝来元は、中国文化圏内の北宋王朝の近くの国

であると言う事だろう。そして駒の名前の意味は、
当時の日本人にも、良く判るものだったと、ほぼ
断定できるように、私には思える。なお、金将・・
等が、”ゆっくりとした日本での発明”という仮説
には、興福寺出土駒以前の先駆体が発見されない事。
文献の初出が、出土駒の後である等から、松岡信行
氏によって、従来から疑いの目を向けられている。
 しかも日本の将棋の伝来は、記録が10世紀に
無いので11世紀だとすれば、将棋史にとっても
重要な史料である、

”南詔徳化碑”の成立より伝来は250年以上も後

だ。つまりは、金将と銀将のある原始的な将棋が、
ほぼ西暦750年から、そう後でない頃には雲南に
有ったとすれば、将駒に現地で、金将、銀将と名前
を付け、

最大約250年間、将棋ゲームを雲南で育ててから
日本に持って来る事が、原理的に可能

という事なのではないかと、私には思えるのである。
よって、雲南の南詔徳化碑は、武勲章位階が記載さ
れており、その内容が、いかにも日本の将棋の金将
を連想させるので、将棋史家は当然注意すべきだろ
うと思う。(2019/05/14)

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西暦1255年~1275年に猛牛が作れる物的証拠(長さん)

前に述べたが、本ブログでは、猛牛という駒は、西暦
1260年から1275年の間に成立し、大将棋に
取り入れられたと仮定されている。しかも、出所は、
中国雲南の大名名を、日本の大将棋デザイナーが見て、
雲南名物の牛と、大名の苗字の第一字目の”猛”を
組み合わせた、

中国雲南の文物に合わせた物

と、かなり限定する説を取る。
 今回は、西暦1253年の大理国の滅亡の後、元王
朝から、雲南通志等の情報が、西暦1273年程度ま
での20年間に、もたらされたと仮定できるかどうか
を、論題とする。
 回答を先に書いて、後で説明を加える。

できる。清王朝時代の雲南通志が日本にあり、鎌倉時
代にも、藤原五摂家のレベルで、中国渡来書籍の中の
元王朝発行の雲南通志が、読まれていたと推定できる

からである。なお、元王朝の出版活動については、
日本でも成書で紹介されている。縮尺の余り大きく無
い地図は残念ながら、成書に載っていなかったと思う。
 では、以下に説明を加える。
 江戸時代に、五摂家の近衛家が所蔵していた中国書
籍の中に、清王朝により製作されたとみられる、雲南
通志がある。その中の112ページに、雲南省付近の、

大名(豪族・名族)居住地地図が載っている。

雲南通志112.gif

 このような図は、大理国が元王朝によって征服され
た後に、元、明、清王朝で少なくとも作られたとみる
のが、自然である。
 他方、五摂家の近衛文庫に、清王朝時代の雲南の
大名・豪族居住図が有るという事は、元や明王朝作成
の通志も、藤原氏の上層部は、中国語で読んでいたと
見るのが、

そうでないと考えるよりは、ずっと自然

だと私は思う。今では残って居無いが、鎌倉時代の
近衛家文庫には、元王朝が征服したばかりの雲南の、
大名図を記した中国各地方通志が、当然有ったのでは
ないか。王朝が変わるたびに通志は出て、近衛家では、
それらの中国書籍を交易で入手したが、その時点で古
い王朝時代のものは、内容が古くなって役に立たなく
なったため、単に廃棄しただけなのではないかと私は
疑う。
 だから後は、雲南に牛が多い事が、何らかの読み物
で判れば、雲南の大名図に”猛”で始まる氏族が多い
事が判りさえすれば、

猛牛は作れる。

であれば、恐らく情報公開と交易に前向きな、元王朝
から、雲南通志がもたらされたのは、大理国が滅亡し
て、国内の通志として、雲南を元王朝が取り扱うよう
になってから、直ぐであろう。だから、

西暦1253年時点で、猛牛駒の出現は時間の問題

であったと、仮定できるように思う。
 しかも雲南通志は中国語で書かれていて、近衛文庫
が、他人への貸し出しを更にしていたとしても、借り
手も、言葉の判らないので借りなかった者も、日本に
は多かっただろうから、

猛牛を作ったのは、五摂家の長者格であって不思議は
無い

ようにも、私には思える。
 すこし時代は下るが、南北朝時代の南朝方の関白、
近衛経忠レベルの彼より少し時代の前の人間が、猛牛、
嗔猪駒の作成に、関与していたのだろうと思われる。
そして、

近衛経忠の方は独断で、角行の成りの取り替えをした

のではないかと本ブログでは疑われている。近衛文庫
の書籍の分野傾向が、戦国時代や室町時代、鎌倉時代
も、今の文庫の書籍の傾向といっしょなら、
近衛経忠には、横行に日葡辞書のように、中国語に、
人間のうちの品の悪い人種の表現との意味があるのは、
彼が、

近衛家の貴族らしく、中国語に強かったら知っていた

と考えて、間違いも無いような気がするからである。
 日本の貴族が、中国の書籍をどんどん高値で買って
くれさえすれば、元との間で関係が悪くても、通史の
情報は、惜しげもなく元王朝時代に入ってきていた。
 そのため”敵国を降伏させるため”の108枚制の
大将棋は、元王朝から買った書籍を見ながら駒名を決
めて作成できた。
 以上のような事が実際に有ったように、私には思え
るのである。(2019/05/13)

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小野塚先生の第三次小山義政の乱知見は塚原熊吉起源(長さん)

小山氏の乱をwebで調べてみると判ると思うが、
西暦1382年に、一旦鎌倉公方の足利氏満に降伏
した小山義政が、三度目の乱を起こしたのは、結城
家の結城基光の次男の小山泰朝に、女系相続で財産
を乗っ取られた恨みだとも、当然考える事が出来る。
 本ブログでは近々、それを小野塚先生が、某女子
学院大学時代の論文で下敷きにして、第二次世界大
戦直後の、日本の相続制度の急変を論じているのか
どうか、

小野塚先生の先祖が、西暦1381年に埼玉県児玉
郡等からやってきて、小山市天神町に居た証拠を探
すために、大学の図書館等で調査しようとしていた。

 しかしその前に、小野塚先生が最近送ってくれた
史料から、

親戚に聞けば、先祖が南北朝時代に、小山市天神町
に居なくても、小山義政の怒りの原因は、判ってし
まう

事が判明した。つまり、GHQが第二次世界大戦後
に日本でした事と、足利氏満が西暦1381年に、
栃木県小山市でした事が、良く似ているという事は、

小野塚先生の、先祖の系列の一部部分が、結城氏の
家臣なら、小野塚先生の他の祖先の系列が、現場つ
まり、小山市に居なくても知っていて当然だ

という事である。
 その為天神町付近に居たと考えて、小野塚先生の
大学教員時代の論文をチェックして、何が書いてあ
るかを調べたとしても、論文の内容から論を展開す
る事は、残念ながら、出来ないようだと結論された。
 以上で結論の概要は書いたので、次にもう少し、
説明する。
 小野塚先生が送ってくれた、旧小野塚家・・の学
術調査報告書(西暦2007年6月)によると、

昭和の初年時点で、小山町の12代目の町長だった
小野塚久平こと塚原熊吉氏は、結城基光時代からの、
下総結城氏の家臣、結城・塚原氏の子孫(web記
載の”諸国の塚原氏”)

だと言う事である。なお小野塚先生は、熊吉の子孫
である。小野塚家は、塚原熊吉を大正時代に婿に迎
えているのである。この小野塚(塚原)熊吉は、

歴史の研究家としても、地元で有名

との事だ。当然、小山朝政の直系が、小山義政の代
まで小山氏の当主で、その次、小山若犬丸だったは
ずなのを、小山義政の乱の結果、恐らくは足利氏満
の裁定で、小山義政の姉つまり結城基光の妻経由で、
小山泰朝が、重興小山氏として相続して、若犬丸が
追い出され、結局相続の経路が、女系で繋ぎ代わっ
た事位、釈迦に説法のはずだろう。何故なら、そも
そも、婿の小野塚(旧姓・塚原)熊吉氏にとって、
自分の先祖は、その下総結城氏の家臣だからだ。
 だから、その直系子孫の小野塚先生は、

先祖が、小山義政の乱の当時、結城城に居たので、
1382年と1945年をダブらせて、相続制度の
変遷論を展開できるのは、別の祖先が小山市天神町
に居なくても、もともと出来て当たり前

だったという事になる。
 とんだ落とし穴にハマリ掛けた所を、当の本人か
ら、調査寸前で助けられたという感じだ。
 やはり、お礼は情報をタンマリと送っておくとい
う形で、しておかねばなるまいと思った。
(2019/05/12)

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