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西暦1255年~1275年に猛牛が作れる物的証拠(長さん)

前に述べたが、本ブログでは、猛牛という駒は、西暦
1260年から1275年の間に成立し、大将棋に
取り入れられたと仮定されている。しかも、出所は、
中国雲南の大名名を、日本の大将棋デザイナーが見て、
雲南名物の牛と、大名の苗字の第一字目の”猛”を
組み合わせた、

中国雲南の文物に合わせた物

と、かなり限定する説を取る。
 今回は、西暦1253年の大理国の滅亡の後、元王
朝から、雲南通志等の情報が、西暦1273年程度ま
での20年間に、もたらされたと仮定できるかどうか
を、論題とする。
 回答を先に書いて、後で説明を加える。

できる。清王朝時代の雲南通志が日本にあり、鎌倉時
代にも、藤原五摂家のレベルで、中国渡来書籍の中の
元王朝発行の雲南通志が、読まれていたと推定できる

からである。なお、元王朝の出版活動については、
日本でも成書で紹介されている。縮尺の余り大きく無
い地図は残念ながら、成書に載っていなかったと思う。
 では、以下に説明を加える。
 江戸時代に、五摂家の近衛家が所蔵していた中国書
籍の中に、清王朝により製作されたとみられる、雲南
通志がある。その中の112ページに、雲南省付近の、

大名(豪族・名族)居住地地図が載っている。

雲南通志112.gif

 このような図は、大理国が元王朝によって征服され
た後に、元、明、清王朝で少なくとも作られたとみる
のが、自然である。
 他方、五摂家の近衛文庫に、清王朝時代の雲南の
大名・豪族居住図が有るという事は、元や明王朝作成
の通志も、藤原氏の上層部は、中国語で読んでいたと
見るのが、

そうでないと考えるよりは、ずっと自然

だと私は思う。今では残って居無いが、鎌倉時代の
近衛家文庫には、元王朝が征服したばかりの雲南の、
大名図を記した中国各地方通志が、当然有ったのでは
ないか。王朝が変わるたびに通志は出て、近衛家では、
それらの中国書籍を交易で入手したが、その時点で古
い王朝時代のものは、内容が古くなって役に立たなく
なったため、単に廃棄しただけなのではないかと私は
疑う。
 だから後は、雲南に牛が多い事が、何らかの読み物
で判れば、雲南の大名図に”猛”で始まる氏族が多い
事が判りさえすれば、

猛牛は作れる。

であれば、恐らく情報公開と交易に前向きな、元王朝
から、雲南通志がもたらされたのは、大理国が滅亡し
て、国内の通志として、雲南を元王朝が取り扱うよう
になってから、直ぐであろう。だから、

西暦1253年時点で、猛牛駒の出現は時間の問題

であったと、仮定できるように思う。
 しかも雲南通志は中国語で書かれていて、近衛文庫
が、他人への貸し出しを更にしていたとしても、借り
手も、言葉の判らないので借りなかった者も、日本に
は多かっただろうから、

猛牛を作ったのは、五摂家の長者格であって不思議は
無い

ようにも、私には思える。
 すこし時代は下るが、南北朝時代の南朝方の関白、
近衛経忠レベルの彼より少し時代の前の人間が、猛牛、
嗔猪駒の作成に、関与していたのだろうと思われる。
そして、

近衛経忠の方は独断で、角行の成りの取り替えをした

のではないかと本ブログでは疑われている。近衛文庫
の書籍の分野傾向が、戦国時代や室町時代、鎌倉時代
も、今の文庫の書籍の傾向といっしょなら、
近衛経忠には、横行に日葡辞書のように、中国語に、
人間のうちの品の悪い人種の表現との意味があるのは、
彼が、

近衛家の貴族らしく、中国語に強かったら知っていた

と考えて、間違いも無いような気がするからである。
 日本の貴族が、中国の書籍をどんどん高値で買って
くれさえすれば、元との間で関係が悪くても、通史の
情報は、惜しげもなく元王朝時代に入ってきていた。
 そのため”敵国を降伏させるため”の108枚制の
大将棋は、元王朝から買った書籍を見ながら駒名を決
めて作成できた。
 以上のような事が実際に有ったように、私には思え
るのである。(2019/05/13)

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