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尊経閣文庫2巻物色葉字類抄の大将基馬名成飛車金の崩(長さん)

前に何回か述べたが、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の
(後期)大将棋とは異なり、表題の八木書店2000
年本、尊経閣文庫蔵の2巻物色葉字類抄の1冊/4分
冊の後部付帯、”大将基馬名”の香車、反車、猛牛、
飛車、仲人は、”裏金”と付記されていて、金成りの
ルールらしい事が判る。本ブログでは、二巻物色葉字
類抄の問題の”大将基馬名”の成立を、2巻物色葉字
類抄の4分冊化と同じ、西暦1565年頃と一応特定
している。
 所でこの、栃木県小山市出土の裏一文字金角行駒の
パータンや、摩訶大大将棋の、飛車、角行、竪行、横
行の金成りを連想させる、”金の多い後期大将棋”の
色葉字類抄2巻物、1565年直近書写本の書体をよ
く見ると、

飛車の1字だけ、”裏金”の崩し方が違う

事が判る。飛車裏金の書体は個人的に私には滋賀県の

観音寺城下町出土駒の”歩兵の裏の金”と類似に見る

ものである。なお、残りの香車、反車、猛牛、仲人の
”裏金”の金は、観音寺城下町遺跡出土駒の、桂馬の
成り金と同じく、ほとんど楷書に近い金に、私には見
える。
 前置きが長くなったが、今回はこの一字だけ書体が
斜めに曲がっている、飛車の字に付記された裏金の、

金の書体を別にした理由について

を論題とする。
 結論から書く。

色葉字類抄の大将基馬名は、聆涛閣集古帖と同類の、
美術品的な、後期大将棋の初期配列図のコピーである

とみられる。
 では、以下に説明を加える。いっけんして、将棋の
ルールという観点から、その時代に後期大将棋の飛車
が金成りで有る事を表すとして、書体を観音寺城下町
出土駒の歩兵の成りのように、敢えて他とは別にしな
ければならない理由が無いのは、明らかである。
 しかも、観音寺城下町出土駒は、日本将棋の駒と見
られるので、銀将、桂馬、香車、歩兵の順に、崩しを
強くしているようであるが、色葉字類抄の大将基馬名
の表現は、傾向が反対である。
 ところで、この飛車の金だけ崩すパターンは、手前
の駒の金の字は崩さず、上の方の段の成り金の金の字
を崩しているという点で、上に述べた聆涛閣集古帖の
摩訶大将棋図と、仲人の成りが崩れて居無いが比較的
似ている。そして本ブログでは、聆涛閣集古帖の成り
金の崩し方の段分けは、”見てくれの良さ”が理由だ
と、今のは所見ている。だから、初期配列図にはなっ
ていないが、二巻物色葉字類抄の、1565年直近書
写の、加賀前田家蔵本の著者は、掛け軸のような形で、
後期大将棋の初期配列の図が題材の、美術品を所持し
ており、それを写して二巻物色葉字類抄の第1分冊の
末備に加えたと見るのが、相当に尤もらしいと、少な
くとも私には思える。
 そう考えると美術品としては、反車だけでなく、
猛豹と猫刃も、猛牛だけでなく、悪狼と嗔猪も、成り
は普通の楷書の金であり、また、

飛車だけでなく、角行、竪行、横行、飛龍が、
観音寺城下町出土駒の、歩兵の成りの”傾き金”型に、
掛け軸がボロボロになる前には書かれていた

と考えた方が、美術的感覚からいえば、より尤もらし
いように、私には思える。やはり、

西暦1565年の色葉字類抄2巻物4冊本成立期の
後期大将棋と、16世紀末の水無瀬兼成の将棋纂図部
類抄の後期大将棋とではルールが、史料の見掛けより
も、更に差が有った

のであろう。
 つまり大将棋は、南北朝時代から後は、金成りと太
子、獅子、奔王成りだけだったが、金成り駒が、以上
のように、いろいろ有って一定しておらず、ルールが
不安定に推移した事を、示しているのだろう。

その結果南北朝時代末期頃に、嫌気がさして中将棋で
は、成りが新たに整備されたのかもしれない。

以上のような経緯と、私には想像されるようになった。
(2019/06/20)

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(続)鶴岡八幡宮境内遺跡奔王成鳳凰駒の朱点写真(長さん)

以前に、表題の鶴岡八幡宮境内遺跡にて西暦1980年
頃に出土した成り楷書奔王鳳凰駒の、駒の動かし方ルー
ル朱点は、今となっては明確な写真に、お目にかかれな
い旨述べた。そこでその後、昔の文献を調べ、”天童の
将棋駒と全国遺跡出土駒”の写真よりも、ルール打点が、
明確に写っているものが無いかどうか、徹底して捜索し
た。結果、

西暦1981年8月発行の、日本将棋連盟の月刊誌、
将棋世界8月号の裏表紙に、問題の朱色打点が写った、
成り楷書奔王鳳凰駒の、カラー写真がある

のを、最近本ブログの管理人も、ようやく発見した。

結果を言えば、写りが良くないが、モノクロの前記
天童市将棋資料館本の写真の様子が、基本的に正しい

事が判った。
 よって、有名な打点入りスケッチについては、近世的
な将棋駒の姿に、事実を歪ませて表現されていたため、

研究に支障が出ているという意味で、以下に苦言に近い
言い回しで状況を報告する

事にする。
 では、説明を続ける。
 つまり天童の将棋駒と全国遺跡出土駒のモノクロ写真
が示唆しているように、基本的に鳳凰の動く方向に、2
個朱色を並べるような、安土桃山時代の

水無瀬兼成の将棋纂図部類抄式の、打点方式で朱色の点
は書かれて居無い。サイコロの2の目を、2升目先に飛
ぶ方向については書いている

としか、鎌倉時代末期のこの駒に関しては、私には見え
ない。
 よって有名なこの駒の、駒の動かし方ルールを示す打
点の入ったスケッチは、実際と表現思想が根本的に違う
ので、

書き直すか、今時のPCソフトで適宜修正した方が良い

のではないかと、私には思える。
 結論を最初に述べてしまうと以上だが、以下に更に詳
しく、状況を書く。
 まず、斜め上方向に、朱色点は一つしか無い。2つ、
点が並んでいるように、スケッチでは書いてあるが、ど
ういうわけか、私には判らないが、左斜め上については
全く違う。天童市将棋資料館が集めた写真を、信用した
方が良いと考える。
 しかし更に大切なのは、左下の朱色の点についてであ
る。つまり、左斜め下は、斜めに2点書いてあるように、
スケッチ図では見えるが、実際には、上下に2点である。

鳳凰朱点.gif

サイコロの向きとは違うが、

朱色点はほぼ円形なので、雙六のルールで、サイコロの
目で2が出たときのように、斜め左下に進めと指示する

ように私には見える。つまり左下へは鳳凰飛角不如飛龍
という

ルールをきちんと表現していた

のではないかと、疑われるという事である。
なお、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒のモノクロ写真で
もそうであるが、左横の点と下の朱点は、やはり丸であっ
て、スケッチの特に、下の点のように水滴型ではない。
これらのケースも、サイコロの1の目を、鎌倉末期には
表現していたように私には見える。左上の点が2つ無い
のと、上の点が無いのは、書き忘れかもしれないし、擦
れて消えたのかもしれない。
 何れにしても以上の結果から、確かに、ルールを示す
点が有ると言う点で、有名な朱色打点入りの鎌倉鶴岡八
幡宮の成り楷書奔王鳳凰駒スケッチ図は合ってはいるが、

丸を水滴型に無理にしてしまったのと、位置や数を、実
際に合わせて居無いので、雑な範疇に入るのではないか

と他の、集成、鎌倉の墨書の遺物のスケッチを見ても、
私には疑われる。
 そしてその結果、鳳凰の2升目先動きが、

鎌倉時代末時点で跳びだという情報が、落ちてしまった

疑いが有ると思う。
 何れにしても、天童将棋資料館の写真が、モノクロで
見づらい事、よみがえる中世3武士の都鎌倉のカラー写
真に、問題の点が、良く写って居無い事から、

将棋世界1981年8月号裏表紙の写真は貴重

だった。なおこの写真には、たぶんだが、不成り香車の
裏の写真も、同写真の右の方に、より鮮明に撮影されて
おり、香車が不成りなのを、決定付けてもいるようだ。
 将棋世界の記事には、故大山康晴永世名人等が、見学
に現地を訪れた様子が記載されていた。誠にありがたい
事だったと、私は関係緒氏に感謝している。(2019/06/19)

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鶴岡八幡宮境内遺跡の奔王成鳳凰駒。朱点写真はレア物(長さん)

前にも言及した事が有ったかもしれないが。
表題の鶴岡八幡宮境内遺跡出土の楷書奔王成り鳳凰
駒には、鳳凰側に、駒の動かし方ルールを示す朱色
の点が書かれているとされる。が詳しい状況を示す、

証拠写真が見当たらない。

よみがえる中世3武士の都鎌倉(平凡社・1989)
本の写真に、問題の朱色のルールを示す点が写って
いるという

明確な証拠は無いと、私は今の所認識

している。カラー写真で、それ以上に鮮明な、この
出土駒の写真を、私は見た記憶が無かったので、
スケッチで有名だが、問題の朱色のルール表示点の
きちんと写っている写真が、仮にあるとすれば、

恐らく相当に貴重で、レアな写真

だ。言及する者が余り無いと見ていたので、本ブロ
グでは過去取り上げなかったが、集成、鎌倉の墨書
(2017年)に、宣伝がある。しかし、集成鎌倉
の墨書の写真から、合計で6つあるとされる、ルー
ル朱点を少なくとも私には確認できない。むろん、
集成鎌倉の墨書のスケッチは、有名なオリジナルス
ケッチのコピーであり、そこには鳳凰の字の左辺に、

液滴型の点が、合計で6個書き込まれている。

なお、この駒は割れていて、右側が4割ほど無い。
右上の2点、右の1点、右下の2点は、有ったかど
うか謎である。なお、進行方向の打点もスペースが
狭いので、駒の作者が鎌倉時代末に省略したのかど
うか良く判らないが、とにかく無い。
 前に、興福寺出土習字木簡で酔象酔像ではないか
という話をしたときに、ニンベンの実在性を問題に
した。がこのケースも、朱色の点であるという点を
除いて、意味はいっしょである。
 増川宏一氏も鎌倉鶴岡八幡宮境内遺跡の出土5駒
は、出土した当時に観察しているので、鳳凰のルー
ルを示す、打点については、彼がどこかの成書で、
言及している可能性が高いと思う。将棋Ⅰで、朝倉
駒の黒い打点については言及しているので、鶴岡八
幡宮の出土駒をどこかで紹介したときに、ルールの
朱点に言及しているに違いない。だからこの朱色の
墨跡の実在性は、かなり高いとは思える。よって、

鮮明性が高い”武士の都鎌倉”本の写真に、この点
が、写ら無いのが不思議

というのが、率直な気持ちである。なお、6点のう
ち、部分的にで良ければ、天童の将棋駒と全国遺跡
出土駒(2003)に、

液滴型ではなくて円形で、白点として写っている

ようにも見えている。ただし、斜め前の点が1点し
か見えないのが、私には確実に写っていると、自信
を持てない主な理由である。
 2017年に集成、鎌倉の墨書を出版し、鳳凰(
木製品No.134)の、朱色ルール打点に言及す
るのなら、それが写っている写真を、集成、鎌倉の
墨書自体に、出してほしかったように思う。

今の所、見づらい写真との間に、整合性が無い
スケッチしか無いので、議論は避けている。

以上が、本ブログの基本スタンスである。スケッチ
が、丸い打点を液滴型に間違って写していたとする
と、サイコロの目を模倣したルール点である事が判
り、盤雙六のルールパターンからの類推で、2升目
動きは”跳び越えルール”であった事を、淡くは示
唆はしていたという意味で、意義が有ったに違いな
いのだが。
 なお、現物を鎌倉市役所で確認するには、かなり
の事務手続き上の手間と、長い猶予期間が掛かると
聞いている。仮に苦労して、ルール朱点が丸いのを
確認しても、厳密なルールについての証明としては
根拠が淡いので、現状は放置して、余り議論の対象
にし無い事にするという処理を、少なくとも本ブロ
グではするしかない状況で、あったという事である。
(2019/06/18)

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興福寺酔像木簡(1058)。”酔象酔像”では(長さん)

さいきん、集成鎌倉の墨書を見るのに少し慣れて
きたので、字が散乱している、将棋史料関連の
習字木簡の類を、一応見直してみた。
 スケッチが100%正しい訳ではないという点
を認識するようになると、元写真で確かめる癖が
付く結果、

興福寺出土で著名な、西暦1058年成立酔像
木簡の2字目に、にんべんが付いて居無いように、
本ブログの管理人には見えてきた

という点につき、以下報告する。
 従来、この木簡には複数の歩兵や、少なくとも
1つ金将と書いてあるだけでなく、

”酔像酔像”の文字がある

とされた。以前は、持駒使用の謎の

スケッチで、確かにそうだと私は確認したつもり

でいた。しかし最近、考古学報告書類を見慣れて
くると、正しくスケッチするのは、字がごちゃご
ちゃに、重ね書きされている習字木簡については、

極めて困難であり、報告書によってばらつきも出
来るのが、現実の姿という点に、私も気がついた。

 写真があれば、余り良いものとは限らなくても、
それも見るべきだというのが、私には常識と感じ
られるようになってきたという意味である。
 そこで、この件についても、せめて、”解明:
将棋伝来の「謎」”の又転載の写真で、スケッチ
が写真に対応しているかどうか、再度チェックす
る事にした。その結果、

”酔像酔像”の第2字目の”にんべん”が、解明:
将棋伝来の謎の写真では、明確に写って居無い

のに、遅ればせながら気がついた。
 以上の報告が、大切な点だが、以下に説明を続
ける。
 スケッチは実際に、誰が作成したのかは、私に
は判らないが、将棋史研究家で、中国伝来説で著
名な、清水康ニ氏著の”木簡研究16”の図の
転載が、持駒使用の謎のスケッチ図と、その成書
ではされている。
 そこで、木村義徳氏本の転載物のスケッチを見
ると、2字目の”ニンベン”と象の間に、かなり
大きな隙間があり、その点でも謎が有るようだ。
 そこで戻って、画像を公平に見ると、
醉口
口象
酔口
像口
と並んでいるようであり、2字目の象は右に寄っ
ており、ニンベンが有ると、考えたくなるような
配列ではあるようだ。しかし松岡本に、2字め象
の”にんべん”が有るように、どうしても私には
見えない。
 このケースは、少なくとも本ブログでは、
中国シャンチーの馬とニンベンの罵、車とニンベ
ンの荷車のパターンで、象を像と書いたのかもし
れないと主張して来たので、酔像酔像ではなくて、
酔象酔像等と書いてあった方が、正直ありがたい。
 少なくとも、松岡信行氏の”解明将棋伝来の謎”
本で、最初の酔像の像のニンベンが、写真の
コピーからは、私が個人的に確認できない点を、
良く覚えて置こうとは思う。
 なお、この木簡の裏側の右側は、写真を見ると

”まともな(改行)こた得”とカナで書いてある

ようにも、私には見えるようになった。曖昧なた
め、確かに主観で、いろいろに読める事が有るの
だろう。(2019/06/17)

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二中歴著者が興福寺11C酔象将棋を将棋とし無い根拠(長さん)

論文として出ているかどうか謎であるが。某大学の
学部学生への講義で”興福寺2013年出土の酔象
駒の発見以後、二中歴記載の将棋で、酔象が記載さ
れていないのは、誤記である。”と、教えている、
大学の文科系の学部があるらしい。特講の類であろ
う。そもそも将棋史が、通常の学部の教養課程の講
義で、教えられるはずはないと、考えられるからだ。
 今回はこれが、間違いの疑いの強い説であるとい
う根拠について、以下述べる。
 その根拠から、いつものように先に書く。

二中歴には、”相手陣の3段目で皆、金将に成る”
との旨が記載されている。が、興福寺出土酔象駒は
不成りであるし、磨耗して消えたとしても、酔象の
成りは概ね太子であって、金将で無い

からである。
 では、以下に説明を続ける。
 二中歴に酔象が書いていないのは、確かであり、
書き落としたと言う説に、これだけからは間違いで
あるという、積極的根拠は無い。
しかし、興福寺の小将棋用の出土駒が、二中歴とは
成りのパターンでも一致していない点には、二中歴
の将棋の記載を

全体的に良く見る事によって、特にこの説を論じる
側が、妙だと気がつく必要がある

と、私は思う。
 なお、玉将は相手陣の3段目で金将には成らない
ので、厳密には二中歴の将棋の部分の記載は曖昧だ
が。”相手玉を、その一枚にすれば勝ち”とも表現
する事によって、どこへ移動しても、玉将は玉将で
ある事を示唆しているとは、言えると思う。なお、
酔象のある将棋では、概ね太子は玉将と同格の玉駒
だから、

相手の駒を太子一枚にしてしまっても、勝ち

を、興福寺11世紀の小将棋状ゲームを、二中歴の
著者が将棋と意識しているとすれば、厳密には書き
加えなければならない。
 何れにしてもこれは、有名な幸田露伴の、
”日本将棋神代からの存在説”を思想的背景とする、
”龍王に成る飛車と、龍馬に成る角行が、二中歴の、
『将棋』に、記載されていないのは、二中歴の著者
が忘れたからだ”という主張の、亜流のようにも見
える説である。少なくとも二中歴の将棋の記載が、
別に間違っては居無いと仮にすると、草葉の陰で、
二中歴の著者は、そう思っているはずだ。つまり、
”不成りの興福寺酔象が、二中歴の『将棋』に記載
されていないのは、二中歴の著者が忘れたからだ”
という、”二中歴将棋、記載ミス説”は、

全部金に成るという点でも、間違えてしまうという、
よっぽどのマヌケなミスが、さらにこれに加えて、
何故起こったのかを説明し得ないと、少なくとも
説得力の有る説とまでは言えない

のではないかと、私は疑う。
 だから、本ブログでは、興福寺で西暦1058年
から西暦1098年頃に指された将棋を、二中歴の
著者は、最初から二中歴に、典型将棋だと記載すべ
き将棋とは、さいしょから見ていなかったと、見る
べきなのではないかとの、立場を依然取りたい。
 なお、二中歴だけなら二中歴固有に見えるが、実
際には、この間違いは、ほぼ同じパターンで、南北
朝時代の成立とみられる、麒麟抄にも見られる。
 さてそこで次ぎに、酔象が無い経緯について、
従来の本ブログの主張を、繰り返しになるが示す。
 つまり前に述べたが、本ブログでは興福寺は、摂
関派の影響力が平安時代後期には強いと考えている。
院政の時代にも、大江匡房の9升目平安小将棋(標
準型)ではなくて、藤原氏の意向で将棋が定義、指
されていた治外法権区だったのだろう。なお興福寺
の上層の僧は、将棋自体を賭博の道具として禁止し
ていた。下級僧が、摂関貴族を”我らが親分”と
見て、藤原摂関の言う、将棋を将棋として指してい
たと私は考える。
 他方、二中歴の著者は、院政派と摂関派の中間派
であり、

ニ者同士の間で対立する部分は、玉虫色の記載を
二中歴上ではした

と、ここでは見ている。
 摂関派は、西暦1110年まで、興福寺で指され
た将棋を、好ましい小将棋と、一応見ていた。元々
大理国の将棋を、伝来した将棋としてそのまま指す
のは、理にかなっていると見られたためである。
 しかし、摂関派は西暦1110年に平安大将棋を
創作した結果、以降は、平安大将棋を、日本の将棋
の代表として見、伝来時の後一条天皇の所持品で、
酔象の無い原始平安小将棋(8升目型)を、下世話
の小将棋と見るように、変化していた。他方院政派
は、西暦1110年以降も、西暦1080年頃から
に引き続いて、標準型平安小将棋(9升目型)を、
日本の標準将棋、つまり典型将棋と見続けた。
 ようするに、日本の小将棋がどうあるべきかとい
う点について、他の政治的な懸案同様、問題解決時
の主導権を取る事が、両派にとって大事なのであっ
て、酔象を標準将棋に入れるべきかどうかは、両派
の間の争点では元々無かった。ので、摂関派上層部
貴族は、興福寺の下級僧に、12世紀以降は酔象使
用を控えるように、指示したとみられると言う事で
あろう。
 そこで、12世紀の半ばに成立した二中歴では、
何れにしても、興福寺で11世紀の終わりまで指さ
れた、酔象将棋に、言及する必要が無くなっていた
と考えられる。そのために、二中歴では、

将棋については、玉虫色の8升目だか9升目だか、
良く判らない小将棋を、将棋と表現し、
摂関派の第2標準将棋である、平安大将棋を13升
目で、玉が一段目中央に有る、左右対称型の、
”大将棋”と表現した

という経緯だったと、少なくとも私は思う。なお、
二中歴の成立時、摂関派の頂点に立つ藤原頼長が、
第2標準将棋とは表現せずに、大将棋と表現してい
るから、二中歴の著者が、標準将棋の定義を巡る争
いの経緯を、二中歴内に、ことさら記載しなくても、
良い状態に、既に落ち着いていたとも推定される。
 だから興福寺では恐らく、1110年以降、12
00年までは少なくとも、平安大将棋を大将棋、
酔象を銀将に取り替えて、金が1枚だけで8升目だ
が、平安小将棋の配列の伝来小将棋(酔象脱落型)
を小将棋として、指すように変化していたのであろ
う。なお、同じ奈良県の、すこし後に賭博の禁止令
を出した、在来仏教寺院の海龍王寺等でも、将棋の
定義は、興福寺の1110年頃以降の定義と、ほぼ
等しかったとここでは見る。
 何れにしても”二中歴の将棋の記載に、飛車、角
行、酔象が、それぞれ無いのは、誤記のためだとい
うような”形式の説を特に、幸田露伴のような有名
人に言われると、何か尤もらしく、少なくとも私に
は聞こえてしまう。ではあるのだが、

”相手陣3段目で、皆金に成る”という文言が、
二中歴の将棋の説明に、入っているという事実を忘
れて、少なくとも、この系列の誤記説を、頭からは
信じ込まないように、くれぐれも注意したいものだ

と私は思う。
 私は、以上の論を地道に確認する過程で、今回、
はっきりと、以上のよう事を、私自身自らが隗より
はじめるの立場で、肝に銘じるようになって来たの
だった。(2019/06/16)

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本ブログの普通唱導集大将棋”終焉型”の名称を変える(長さん)

さいきん、神奈川県鎌倉市の鎌倉考古学研究所が2017年に
出版した、集成・鎌倉の墨書(出土品)の記載から、鎌倉市
鶴岡八幡宮境内出土駒の成立が、遅くとも、鎌倉時代末である
事が判った。お恥ずかしい事に、読み直してみると、本ブログ
のページによって、ばらばらなのだが、普通唱導集大将棋の、
①普通唱導集大将棋が唄われた時代、②成り金の少なかった時
代、③栃木県小山市出土の神鳥谷曲輪角行駒を根拠史料として、
金成りの多かった時代の普通唱導集大将棋、以上、成りだけが
違う、3種の普通唱導集大将棋の名称が、適切で無かったのに
気がついた。そこで今後は、成立時代の順序が、
①→②→③の順である事を、明確にした上で、①を1290年
型、②を鎌倉末型、③を南北朝型と、名称変更する事にした。
 要旨は以上だが、以下にもう少し、詳しく説明する。
すなわち、2年前の夏休み頃のページを再掲して、その事を
示すと、次の通りである。

”私説108枚制普通唱導集大将棋の成り規則変化”再掲載:

西暦1290年頃に、以下の普通唱導集大将棋(私説)が発生
したと考え、そのオモテ面は以下のようだったとみた。この
配列自体は、以後の普通唱導集大将棋については、変化しなか
った。なおここより、中将棋、後期大将棋が分岐したとみる。
だから、後で述べる成りそれぞれについて、オモテ面は以下の
配列で同じである。なお、猛虎が盲虎に変わったのは、本ブロ
グによると中将棋からである。以下は、相手側の駒を見ている
形に、たまたまこのとき書いたので、ここではそのままとする。

オモテ面(数字は段目)
①香車、桂馬、鉄将、銅将、銀将、金将、玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、桂馬、香車
②反車、飛龍、嗔猪、猛牛、猛虎、鳳凰、酔象、麒麟、猛虎、猛牛、嗔猪、飛龍、反車
③飛車、横行、竪行、角行、龍馬、龍王、奔王、龍王、龍馬、角行、竪行、横行、飛車
④歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
⑤空升、空升、空升、仲人、空升、空升、空升、空升、空升、仲人、空升、空升、空升

普通唱導集に唄われた、西暦1290年タイプの普通唱導集大
将棋の成りは、次のようなものとした。
 西暦2017年タイプでも、方行を不成りとする事にして、
このパターンの成りを推薦した。2017年型は、2~3段目
の駒が一部入れ替わるが、裏表とも、位置の変わる駒は、その
まま、移動させるという意味である。ちなみに、移動するのは、
猛牛、飛龍、竪行、横行の4枚。嗔猪が不成の、方行に置き換
わるとした。また、その後2019年に、部分持駒ルールバー
ジョンで横猪の使用も提案したが、この駒も不成で良いと見る。

成り面:西暦1290年タイプ(普通唱導集大将棋1290年型)
段目
①金将、金将、金将、金将、金将、不成、不成、不成、金将、金将、金将、金将、金将
②金将、不成、不成、不成、不成、奔王、太子、師子、不成、不成、不成、不成、金将
③不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成
④金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将
⑤空升、空升、空升、金将、空升、空升、空升、空升、空升、金将、空升、空升、空升

次に、将棋纂図部類抄の後期大将棋型の成りが、西暦1320
年ないし、西暦1350年まで、鎌倉の鶴岡八幡宮境内遺跡の
出土駒の成を根拠として、存在したとした。これを今後は以下
のように、名称を変える予定である。

成り面:(旧名称)1320年型または1350年タイプ
→(変更)普通唱導集大将棋鎌倉末型
段目
①不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成
②不成、不成、不成、不成、不成、奔王、太子、師子、不成、不成、不成、不成、不成
③不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成
④金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将
⑤空升、空升、空升、不成、空升、空升、空升、空升、空升、不成、空升、空升、空升

なお、鶴岡八幡宮境内遺跡出土駒を見る限り、歩兵の成りは、
確定的でない。不成りの可能性が有る。
 次に、栃木県小山市神鳥谷曲輪遺跡の、成り一文字金角行駒
を根拠に、麒麟抄の記載の影響下南北朝時代には、
普通唱導集大将棋(1350年版または1320年版)が逆に、
金成が、一時的に増えたと考えていた。最近では、近衛文庫の
蔵書パターンから、近衛経忠等、特定の人物の横行の中国語の
意味が、擬人的である事が原因か、ともしている。つまり具体
的な増加は、近衛経忠等、小山駒の原作者が横行の中国語の意
味から人と見て、行駒を金成りにしたのが、原因だったと見る。
具体的には、次のような成りパターンの普通唱導集大将棋があっ
たとみられる。これも今後は以下のように、将棋タイプの名称
を変える。
成り面:(旧名称)1320年型または1333年~1350年頃の型
→(変更)普通唱導集大将棋南北朝型
段目
①金将、金将、金将、金将、金将、不成、不成、不成、金将、金将、金将、金将、金将
②金将、不成、不成、不成、不成、奔王、太子、師子、不成、不成、不成、不成、金将
③金将、金将、金将、金将、不成、不成、不成、不成、不成、金将、金将、金将、金将
④金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将
⑤空升、空升、空升、金将、空升、空升、空升、空升、空升、金将、空升、空升、空升

ページによっては、進化が①→③→②のように書いてある場合
もあって徹底されていない。鎌倉市鶴岡八幡宮境内遺跡出土駒
の成立年代を、頭の中で新しく見積る傾向が、集成鎌倉の墨書
を読む前には、強かったためである。なお小山の成り一文字金
角行駒のオリジナル品の成立は、西暦1340年頃と、最近で
は私は見ていた。
 ちなみに栃木県小山市の出版した、発掘報告書”神鳥谷曲輪
遺跡Ⅰ(第1分冊)”には、”(荒くれ者の)小山氏の武士団
が、鎌倉時代中期に整備された鎌倉中路の道路を破壊して、
小山義政の館および井戸を成立させた”としており、道路の整
備年である、概ね西暦1270年の

63年後の西暦1333年より後の南北朝期が将棋駒の成立年

だと、実質的に表現されている。従って、

鶴岡八幡宮境内遺跡将棋駒成立が14C初なら明らかにその後

である。
 従って平安大将棋から、江戸時代の後期大将棋までの金成り
割合の挙動も、”減少して、増加して、減少して、増加して、
減少して、中将棋型化した”と、以前表現したが、史料と合わ
ない。つまり、

減少して、増加して、減少して、中将棋型化したと一山減らす

必要が有る。
室町時代初から戦国時代末までは、摩訶大大将棋のパターンに
近い金成りの増加した後期大将棋が、小山市神鳥谷曲輪角行型
から、二巻物色葉字類抄の1冊/4末尾の大将基馬名の時代ま
で連続して、多い時代が続いたと今後は主張するようにしたい。
 以上で、再掲載の内容は終わる。
 つまり1290年型と鎌倉鶴岡八幡宮境内駒型との間に、
金成りの多い普通唱導集大将棋が有ったという、客観的証拠は
無いし、小山市神鳥谷曲輪遺跡角行駒と、
二巻物色葉字類抄第1分冊末備大将基馬名の後期大将棋との間
に、金成りの少ない大将棋の時代が有ったという、確かな客観
的証拠も、実は両方共無かったのである。ちなみに、小山朝政
直系小山氏滅亡の、西暦1397年直後頃、普通唱導集大将棋
は後期大将棋へ、大将棋自体は完全移行したとみられる。
(2019/06/15)

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鎌倉市小町1984出土”絡ム・・口王馬馬仲”木札(長さん)

神奈川県鎌倉市より過去、大量の墨書史料が出土し、
将棋関係では、14枚を数える将棋駒と、中将棋の
ルール木札が有るとの旨、今まで本ブログでは紹介
した。
 今回は、誰でも持つ疑問だと思われるが、

何か他に無いのか

という点について、論じる。
 答えを先に書くと、ほとんど無いが、

強いて言えば普通唱導集に似た文句の細長い木札が
ある。

すなわち、
将棋の駒に出てくる文字が、1物品に3文字以上有
り、総文字数が10字未満の物としては、表題の
”(本当はてへんに弱の搦)絡・・・口王馬馬仲・・”
という木札が、かなり前に出土している。鎌倉駅の、
当時”国鉄による立替工事”のときの発掘によるも
ので、西暦1984年のものである。
 他でも、何処かで見たような気もするのだが、私
には集成鎌倉の墨書(2017)に載っているスケッ
チのみが、今の所しっかり確認できている。鎌倉市
鶴岡八幡宮境内遺跡出土の将棋駒群と同じ頃の、
鎌倉時代末成立と、集成鎌倉の墨書ではされている。
若宮大路周辺遺跡群(駅構内小町の当時の蔵屋敷跡
遺跡)とされ、鎌倉の墨書の整理番号で”木製品の
301番”となっている。
 なお、最後の字の”仲”は”猛”かもしれないし、
”人偏に車”かもしれないし、”佛”かもしれない
し、字ははっきりしない。以下の説明の都合上、
私が個人的に、”仲”と読んでみたものである。
 答えから書くと、非常に希望的に読むと、

普通唱導集大将棋の唄の戦略を述べた、将棋攻略本
の断片

とも取れる。レ点や一ニ点を付けると、こうだ。

絡(搦)メル(二)奔王馬馬ガ、仲人ヲ(一)。

以下、更に補足説明を加える。
 まず、馬が入っているし、最後の字も仲のような、
猛のような字なので、平安小将棋の持ち駒タイプの
将棋ゲームに、関連しない。残りは、普通唱導集時
代の大将棋しか、少なくとも私には考えられない。
集成鎌倉の遺跡には、王の上にも、不明の文字があ
るとされているので、この王は王将の王ではなくて、
奔王の王だと仮に考えてみる。
 すると、2枚の角行を相手右仲人にアテて、横行
を切り倒そうとしている所で、龍馬2枚と奔王にも
加勢ないし絡ませたと、(無理にだが)文を組み立
てる事も、この木製品については、理論上は出来る
のかもしれない。
 何れにしても、何が書いてあるのか、または棋譜
の一部なのかもしれないが、将棋と関連が、万が一
有るとすれば、

平安大将棋や後期大将棋に関連しており、龍馬の無
い平安小将棋には、概ね関連しないとみられる木札

である。
 ただし、将棋攻略本の一節では解釈が、苦しいと
見られる根拠がある。

絡(本当は”てへん弱”の搦)と口王の間が離れている

という点である。”その空白部分の『角行角行』が
消えて、見えなくなっている”と言われれば、もと
もこも無いが。
 ざっと見たが、集成・鎌倉の墨書で、将棋に関連
する疑いが、微かであっても感じられるのは、今の
所、以上の出土史料群だけである。
 今小路西鎌倉市福祉センター中将棋木札も、いっ
けんは和歌を、ひらがなを中心にして書いたように
見える札であった。だから、それと同類のフォーマッ
トの札はまだあり、私には全部が読み取れた訳では
ないのだが。少なくとも簡単に、将棋関連とわかる
遺物は、これら以外には鎌倉市内では今の所、余り
出土しては、居無いようである。(2019/06/14)

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神奈川県鎌倉市二階堂荏柄遺跡木片の字は異字の水(長さん)

以前に、今回取り上げる神奈川県鎌倉市の鎌倉市教
育委員会の遺跡発掘担当者が、大倉幕府周辺遺跡と
呼んでいる、鎌倉市二階堂荏柄の将棋駒状の大き目
の木片を字を、本ブログでは”氷”(?)と読んだ
旨を述べた。が、

氷ではなくて、水と書いてあるようだ

という話を以下する。

どちらにしても、将棋駒では無い

というのが、本ブログの見解ではある。
 この遺物は、前記の鎌倉市教育委員会の発掘担当
者が西暦2002年に掘り出したもので、大倉幕府
というのは、複数の成書で、源頼朝時代からの、
鎌倉幕府の場所の事とさる。問題の出土品は、西暦
1185年~1233年程度に成立したものと、さ
れるようである。長さが5センチ巾が2.7センチ
程度あるように目視され、将棋駒より有意に大きく
”にすい”状の墨跡が、表面にだけ有ると集成鎌倉
の墨書には、表現されている。書き字の内容だけか
ら言えば、今小路西御成小学校遺跡金将駒と共出土
の五角形木片が無地なので、一覧の中では2枚とも
疑われる。が、今小路のは大きさが、長さ3センチ、
巾2センチ程度な為、こちらは字が無くても将棋駒
だと判る。
 そこで板の大きさからみて、氷のありかを知らせ
る等、別の用途の札なのではないかと、本ブログで
は、鎌倉市二階堂荏柄の”駒”(木製品No139)
だけ、”集成鎌倉の墨書”の中で将棋駒に分類され
る遺物としたものについて、疑がっている。
 ところでさいきん㈱遊子館が、西暦2012年に
発行した、井上辰雄監修の”日本難字異体字大字典
-解読編-”で、問題の出土品の墨跡に似た物を探
していたところ、

漢字の”水”で、左側が”にすい”になる異字が載っ
ていた。

 国語の漢字の得意な人だったら、常識だとして知っ
ていたのかもしれないが。私は知らなかったので、
この小学校1年生用の漢字の、異字の存在には正直
驚いた。

二階堂荏柄.gif

 ”にすい”状の部分のある別の漢字は、水より
ツクリの部分の割合が大きいので、墨跡に一番近い
のは、他の”にすい”の漢字を全部見なくても、
これだろうと、私にも察しが着いた。従って単純に、
この字の一部が書かれたとも、スケッチからは取れ
る、問題の鎌倉市の大倉幕府周辺遺跡の木製遺物は、

源頼朝の居所の近くの場所で、水場を表示する為の
札のようなもの

と見なしても、説明が出来そうだと、よって私には
結論された。
 氷の保管庫は、建設がたいへんなので、そうした
特殊なものが有った訳ではなくて、単に水場に近い
所に有った木製遺物なので、腐らずに800年後に
出土しただけだったのかも、しれないようである。
そしてこれは、この時代の荷札等の形と少し違うが、
札の形の範囲内であり、たまたま将棋駒の形に近かっ
ただけだったのではないかと、この遺物については
今の所、私は見ている。
 ちなみに私には、この”異字体の水”の書き順が、
良く判らない。この木札状遺物で、書く途中で止め
たとすれば、普通の漢字の水とは、書き順が違うよ
うにも見える。(2019/06/13)

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今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋時代成未成立(長さん)

再三述べたが、神奈川県鎌倉市御成町の、鎌倉の
遺跡発掘報告書保管場所、鎌倉市立図書館の隣、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土の中将棋木札
には、狛犬、猛豹、中将棋型の盲虎駒の三種の記載
があり、その木片を個別の中将棋の12升目盤卓に
セットする事によって、南北朝時代に、該当将棋盤
卓での、ゲームバージョンが、”狛犬中将棋”であ
る事を示していたと見られる。
 このうち猛豹は、”もう(し/ひ)や(う)”
(ただし、”し/ひ”は、”し”と”ひ”の中間音で
発音する事を意味しているらしい)の意と表現され、
猛豹が”まうへう”ではなく、”もうしやう”と、
歴史的カナ使いで表現される、”猛将”に近い事が、
強調されている。つまり豹駒を、将駒の仲間として、
最下段に配置すべき事をも、指示していると見ている。
 今回は、”もう(し/ひ)や(う)”である事から、
別の意味で、この木札の成立時点には、いわゆる、
”中将棋らしい『成り規則』”が、不安定だったと
結論できる点について述べる。つまり、この木札と
白駒成り香車駒等が、一例として同一時代には共出土
する事は無いと、一応考えられるという意味である。
ちなみに、本ブログでは、神奈川県鎌倉市の、
鎌倉鶴岡八幡宮境内出土駒群の成立を、今小路西
鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札成立の、約30年
程度前と見ている。つまり鎌倉鶴岡八幡宮境内出土駒に、

典型中将棋駒は無いと見られる

という意味である。
 では、以上の結論について、以下に補足する。
 重要な点は、
猛豹は猛将に近いと、21世紀の今と違って、当時は
主張しなければならなかったという事は、

中将棋では、猛豹が準将のランク付けであり、銅将の
袖隣に配置していることが、特におかしいわけでは無
いと言う事を、将棋棋士の誰もが、認めたわけでは、
無かったという事を示している

と考えられるという点である。つまり、

猛豹の成りは角行だという主張について、違和感を
唱える、当時の古参の棋士が居たと考えられる

という事である。ところで中将棋の成りは、元々、
太子、獅子、奔王に成る事が確定していた、酔象、
麒麟、鳳凰以外は、次のように、駒の強さの序列を
イメージした上で、成りを割り当てて行った結果、
成立したと自明に考えられる。
 すなわち、その序列では、次のように元駒が並ぶと
みられる。
龍王、龍馬、飛車、角行、堅行、横行、反車、香車、
盲虎、金将、猛豹、銀将、銅将、仲人、歩兵。
 結果としては、これらに次のように、成りを対応
させた。
飛鷲、角鷹、龍王、龍馬、飛牛、奔猪、鯨鯢、白駒、
飛鹿、飛車、角行、竪行、横行、酔象、金将。
 明らかに、この対応付けは、猛豹を将位同等駒と
認めるかどうかが問題であり、

バタついていたとしたら、銀将の成りが竪行か角行
かでフレが生じるために、確定できない。

 だから、皆が猛豹は、将の類の居る1段目にある
のが普通で、将の仲間に入れても良いと感じるよう
になってから、成り規則が完成したと明らかに、推
定できるはずだ。
 つまり、今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋
木札のような文言が、ゲームバージョン指定札とし
て残っているような局面では、

中将棋の成りは、誰にも当たり前の物として受け入
れられるほどには未だ、確定はしてはいなかった

とみなせるのではないか。恐らく、この木札を使っ
たころの中将棋に、成りは後期大将棋の3枚程度し
か無かった疑いが強い。つまり中将棋木札の将棋は、

鶴岡八幡宮境内出土駒のたとえば、不成り香車等が、
しばしば兼用使用されるような、黎明期の中将棋

だった。
 以上のように特定できるのではないかと、私には
現時点でより明確に言えると、考えられるようになっ
て来たと思われるのである。
 この木札の存在は、以上のように、たいへん大き
いものがある。紛失したそうだが、早く見つかって
ほしいものである。(2019/06/12)

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鎌倉市御成町今小路西鎌倉市福祉センター遺跡現地確認(長さん)

2019年の6月に入って直ぐ、神奈川県鎌倉市
御成町の今小路西鎌倉市福祉センター遺跡
の場所を確認しに、現地を訪問した。
 御成小学校との境目に、現在小路が有って、
どうやらそこに、5号井戸跡があり、墨書”大佛”
等の折敷に関連して、本ブログで再三問題にした、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札が、
30年ほど前に、出土したらしい。なお、”川底”
と、発掘場所が表示されている集成鎌倉の墨書で、
文字”え”付き渥美片口鉢と表現された、約80
年早い墨書有りの遺物は、鎌倉市福祉センター敷
地の、東側のヘイの近くにあるとみられる、小さ
な水路に有ったようである。
 以下、もう少し詳しく説明しよう。
 今小路西遺跡で有名な、鎌倉市の御成小学校は、
JR鎌倉駅西口から歩いて、せいぜい4~5分程
度の場所である。駅西口から直ぐのスクランブル
交差点を左折して、50m位で校門である。
 ちなみにスクランブル交差点で直進すると、交
差点の向こう側が鎌倉市の市役所である。奥で、
市役所と御成小学校は敷地が繋がっているようだ。
 御成小学校の向かい側に、コンビニが有るが、
コンビニの店員は小学校の位置を知らない。寺子
屋風の校門になっているので、知らない人間は、
小学校だと気がつかないためである。
 小学校の敷地はかなり広く、ここ全体で、屋敷
が2軒分だとしたら、相当に大きな武家屋敷だと
実感できる。小学校の敷地が切れる所に交差点が
あり、右へ曲がって100m位で、現地、鎌倉市
福祉センターに着く。駅から歩いて7~8分程度
の場所である。敷地の南から向かって右の、東の
塀の所に、”旧佐助川”という小さな用水川が、
あったらしいが、暗渠にしたためか良く見えない。
 昔は、塀の所を北から南に流れてきて、鎌倉市
社会福祉センターの玄関で切れるとみられていた
らしいが、よみがえる中世3武士の都鎌倉の河川
の発掘によると、ここから蛇行して、玄関先を東
から西へ流れ、鎌倉市福祉センターに隣接する、
鎌倉市の図書館を超えて、佐助が谷の方向に、昔
は流れていた事が、発見されたという。13世紀
後半の品と聞く、墨文字”え”付き渥美片口鉢は、
この消えた川底から、西暦1990年前後に見つ
かったと聞いている。
 鎌倉市福祉センターと鎌倉市図書館の間は繋がっ
ているので、図書館の玄関前を通りすぎてから、
西端に小路が有るので、そこをもう一度右に曲がっ
て、北方向に歩くと、小学校との境目を通って、
元の御成小学校の、南東端に出る。
 恐らく、この小路の辺りに井戸5があり、前記
の墨書”大佛”等の折敷が、出土したのだろうと、
想像された。息抜きの竹が刺さっていたと、評さ
れた井戸のことだろう。そこは福祉センターや、
市立図書館との境目だが、御成小学校の敷地内な
のであろう。従って確認していないが、10m以
内で、5号井戸跡のどこからか極近くで、

今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札は
出土したようだ

と、今回場所を推定できた。なお繰り返すと、
社会福祉センターと図書館は、隣接しているので、
図書館の敷地から、どうみても50m以内の所に、
中将棋木札は有ったようである。
 なお、図書館には発掘報告書が有ると、聞いて
いる。が私の訪問した日は、あいにくと、図書館
自体が閉館日で、確認不能であった。訪問する際
には、鎌倉市立図書館が開いている日を、確認し
てから行った方が良いだろう。なお当日は市役所
も閉庁日であった。(2019/06/11)

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