SSブログ

神奈川県鎌倉市より、土将と淮鶏は出土したのか(長さん)

前に紹介した、神奈川県鎌倉市の鎌倉考古学研究所
が西暦2017年に発行した、”集成鎌倉の墨書”
には、天童市将棋資料館が西暦2003年に発行し
た、”天童の将棋駒と全国遺跡出土駒”には無い、
鎌倉市若宮大路の鎌倉駅駅前小町出土の王将駒が載っ
ている。その他に3例記載が有るが、将棋駒では無
いと結論される2例について今回は述べる。残りの
”本当の将棋駒”は(2)西暦2002年に鎌倉市
扇ガ谷ニ丁目出土、裏今崩し字”と金”香車駒(南
北朝期)である。さて、将棋駒では無いとみられる
方について述べると、このカタログ書により、

鶴岡八幡宮に近い、雙六盤が出土した事で著名な、
①北条時房・顕時邸跡から、西暦2005年発掘時、
”土口”木片(木のNo.280)が、
②西暦2002年発掘時に、鎌倉市二階堂荏柄で、
第1字さんずい?将棋駒(?)(木のNo.139)
が、出土

していると見て取れる。
 何れも本ブログでは将棋駒では無いと考えるので、
以下に説明を加える。
 なおその結果、前回述べた、(1)1999年出土
の若宮大路鎌倉駅東口駅前(小町)出土の王将駒、
(2)西暦2002年の扇ガ谷ニ丁目出土、
”裏今崩し字『と金』香車駒”(南北朝期)が、成書
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒(2003)に、書か
れて居無い出土駒であると、本ブログは認識する。
 では、以下にもう少し詳しく書く。
 まず、北条時房・顕時邸跡出土の土口木片は、五角
形であり、口が鎌倉考古学研究所”鎌倉の墨書”によ
ると、”門”だが、写真が載って居無い。だから、

門は将と解釈すると、摩訶大大将棋の土将にも見える。

ただし、荷札だと疑われるのは、

上部に穴が開いているから

である。また大きさも、やや将棋駒にしては大きく、
裏は無地で奔土に成らない。出土地点が雙六盤の出土
場所で、おまけに五角形なのが悩ましいが、これは、
鎌倉考古学研究所の説の通り

荷札だと、私も思う。

 次に、②大蔵幕府跡の近くの二階堂荏柄で、僅かに
”にすい”のような、”さんずい”のような墨跡の残
る、五角形の将棋駒状の木片が出土している。これに
ついてであるが、

”集成鎌倉の墨書”では、将棋駒に入れている。

”さんずい”として将棋駒をあてれば、摩訶大大将棋
の、”成り仙鶴の淮鶏”駒しか、私には考えられない。
しかし、これについても、

駒の大きさが、将棋駒にしては大きいし、スケッチが
正しいとして、さんずいが、やや巾が広すぎる感じだ。

個人的見解で、正直当てずっぽうであるが、”土口”
木片が、”土門”が土だったのに対し、こちらは”水”
系であって

一文字で”氷”と書いてあった

のではないかという気が私にはする。大蔵幕府跡の近
くの二階堂荏柄で、氷を貯蔵する倉庫のような物が、
鎌倉時代の初期に、ひょっとしら有ったのかもしれな
いと思う。何れにしても、スケッチを素直に読むと、
”さんずい”や”にすい”では、強い駒名のイメージ
が作りにくいので、これが、かなり大振りの将棋駒の
可能性は少ないのではないかと、本ブログでは考える。
こちらも、

上部に穴は無いが、将棋駒では無くて、何かの表示用
の木札だったのではないか。

よって、冒頭に述べた通り、鎌倉考古学研究所、
鎌倉市教育委員会、その他、大学の先生等が発掘した
将棋駒のうち、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒に無い
ものは、2枚だろうと、私は考えている。
 ちなみに天童の将棋駒と全国遺跡出土駒にも書いて
ある出土駒だが、スケッチが、別々の2人の研究者に
書かれて、相互間に、かなりの個人差があるらしく、
今小路西御成小学校遺跡1988年出土の、
不成り金将駒の字の捉え方が、天童市将棋資料館
と、鎌倉市考古学研究所の書籍の両者の間で、同じ出
土駒史料に関して、かなりの差が付いている。
前者の方には写真があり、今の所、天童市将棋資料館
の言い分を取って”将も明確に見える”不成り金将駒
としておくしか、本ブログでは仕方が無いと、これに
ついては考える。(2019/06/08)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー