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本ブログの普通唱導集大将棋”終焉型”の名称を変える(長さん)

さいきん、神奈川県鎌倉市の鎌倉考古学研究所が2017年に
出版した、集成・鎌倉の墨書(出土品)の記載から、鎌倉市
鶴岡八幡宮境内出土駒の成立が、遅くとも、鎌倉時代末である
事が判った。お恥ずかしい事に、読み直してみると、本ブログ
のページによって、ばらばらなのだが、普通唱導集大将棋の、
①普通唱導集大将棋が唄われた時代、②成り金の少なかった時
代、③栃木県小山市出土の神鳥谷曲輪角行駒を根拠史料として、
金成りの多かった時代の普通唱導集大将棋、以上、成りだけが
違う、3種の普通唱導集大将棋の名称が、適切で無かったのに
気がついた。そこで今後は、成立時代の順序が、
①→②→③の順である事を、明確にした上で、①を1290年
型、②を鎌倉末型、③を南北朝型と、名称変更する事にした。
 要旨は以上だが、以下にもう少し、詳しく説明する。
すなわち、2年前の夏休み頃のページを再掲して、その事を
示すと、次の通りである。

”私説108枚制普通唱導集大将棋の成り規則変化”再掲載:

西暦1290年頃に、以下の普通唱導集大将棋(私説)が発生
したと考え、そのオモテ面は以下のようだったとみた。この
配列自体は、以後の普通唱導集大将棋については、変化しなか
った。なおここより、中将棋、後期大将棋が分岐したとみる。
だから、後で述べる成りそれぞれについて、オモテ面は以下の
配列で同じである。なお、猛虎が盲虎に変わったのは、本ブロ
グによると中将棋からである。以下は、相手側の駒を見ている
形に、たまたまこのとき書いたので、ここではそのままとする。

オモテ面(数字は段目)
①香車、桂馬、鉄将、銅将、銀将、金将、玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、桂馬、香車
②反車、飛龍、嗔猪、猛牛、猛虎、鳳凰、酔象、麒麟、猛虎、猛牛、嗔猪、飛龍、反車
③飛車、横行、竪行、角行、龍馬、龍王、奔王、龍王、龍馬、角行、竪行、横行、飛車
④歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
⑤空升、空升、空升、仲人、空升、空升、空升、空升、空升、仲人、空升、空升、空升

普通唱導集に唄われた、西暦1290年タイプの普通唱導集大
将棋の成りは、次のようなものとした。
 西暦2017年タイプでも、方行を不成りとする事にして、
このパターンの成りを推薦した。2017年型は、2~3段目
の駒が一部入れ替わるが、裏表とも、位置の変わる駒は、その
まま、移動させるという意味である。ちなみに、移動するのは、
猛牛、飛龍、竪行、横行の4枚。嗔猪が不成の、方行に置き換
わるとした。また、その後2019年に、部分持駒ルールバー
ジョンで横猪の使用も提案したが、この駒も不成で良いと見る。

成り面:西暦1290年タイプ(普通唱導集大将棋1290年型)
段目
①金将、金将、金将、金将、金将、不成、不成、不成、金将、金将、金将、金将、金将
②金将、不成、不成、不成、不成、奔王、太子、師子、不成、不成、不成、不成、金将
③不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成
④金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将
⑤空升、空升、空升、金将、空升、空升、空升、空升、空升、金将、空升、空升、空升

次に、将棋纂図部類抄の後期大将棋型の成りが、西暦1320
年ないし、西暦1350年まで、鎌倉の鶴岡八幡宮境内遺跡の
出土駒の成を根拠として、存在したとした。これを今後は以下
のように、名称を変える予定である。

成り面:(旧名称)1320年型または1350年タイプ
→(変更)普通唱導集大将棋鎌倉末型
段目
①不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成
②不成、不成、不成、不成、不成、奔王、太子、師子、不成、不成、不成、不成、不成
③不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成
④金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将
⑤空升、空升、空升、不成、空升、空升、空升、空升、空升、不成、空升、空升、空升

なお、鶴岡八幡宮境内遺跡出土駒を見る限り、歩兵の成りは、
確定的でない。不成りの可能性が有る。
 次に、栃木県小山市神鳥谷曲輪遺跡の、成り一文字金角行駒
を根拠に、麒麟抄の記載の影響下南北朝時代には、
普通唱導集大将棋(1350年版または1320年版)が逆に、
金成が、一時的に増えたと考えていた。最近では、近衛文庫の
蔵書パターンから、近衛経忠等、特定の人物の横行の中国語の
意味が、擬人的である事が原因か、ともしている。つまり具体
的な増加は、近衛経忠等、小山駒の原作者が横行の中国語の意
味から人と見て、行駒を金成りにしたのが、原因だったと見る。
具体的には、次のような成りパターンの普通唱導集大将棋があっ
たとみられる。これも今後は以下のように、将棋タイプの名称
を変える。
成り面:(旧名称)1320年型または1333年~1350年頃の型
→(変更)普通唱導集大将棋南北朝型
段目
①金将、金将、金将、金将、金将、不成、不成、不成、金将、金将、金将、金将、金将
②金将、不成、不成、不成、不成、奔王、太子、師子、不成、不成、不成、不成、金将
③金将、金将、金将、金将、不成、不成、不成、不成、不成、金将、金将、金将、金将
④金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将
⑤空升、空升、空升、金将、空升、空升、空升、空升、空升、金将、空升、空升、空升

ページによっては、進化が①→③→②のように書いてある場合
もあって徹底されていない。鎌倉市鶴岡八幡宮境内遺跡出土駒
の成立年代を、頭の中で新しく見積る傾向が、集成鎌倉の墨書
を読む前には、強かったためである。なお小山の成り一文字金
角行駒のオリジナル品の成立は、西暦1340年頃と、最近で
は私は見ていた。
 ちなみに栃木県小山市の出版した、発掘報告書”神鳥谷曲輪
遺跡Ⅰ(第1分冊)”には、”(荒くれ者の)小山氏の武士団
が、鎌倉時代中期に整備された鎌倉中路の道路を破壊して、
小山義政の館および井戸を成立させた”としており、道路の整
備年である、概ね西暦1270年の

63年後の西暦1333年より後の南北朝期が将棋駒の成立年

だと、実質的に表現されている。従って、

鶴岡八幡宮境内遺跡将棋駒成立が14C初なら明らかにその後

である。
 従って平安大将棋から、江戸時代の後期大将棋までの金成り
割合の挙動も、”減少して、増加して、減少して、増加して、
減少して、中将棋型化した”と、以前表現したが、史料と合わ
ない。つまり、

減少して、増加して、減少して、中将棋型化したと一山減らす

必要が有る。
室町時代初から戦国時代末までは、摩訶大大将棋のパターンに
近い金成りの増加した後期大将棋が、小山市神鳥谷曲輪角行型
から、二巻物色葉字類抄の1冊/4末尾の大将基馬名の時代ま
で連続して、多い時代が続いたと今後は主張するようにしたい。
 以上で、再掲載の内容は終わる。
 つまり1290年型と鎌倉鶴岡八幡宮境内駒型との間に、
金成りの多い普通唱導集大将棋が有ったという、客観的証拠は
無いし、小山市神鳥谷曲輪遺跡角行駒と、
二巻物色葉字類抄第1分冊末備大将基馬名の後期大将棋との間
に、金成りの少ない大将棋の時代が有ったという、確かな客観
的証拠も、実は両方共無かったのである。ちなみに、小山朝政
直系小山氏滅亡の、西暦1397年直後頃、普通唱導集大将棋
は後期大将棋へ、大将棋自体は完全移行したとみられる。
(2019/06/15)

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