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二中歴著者が興福寺11C酔象将棋を将棋とし無い根拠(長さん)

論文として出ているかどうか謎であるが。某大学の
学部学生への講義で”興福寺2013年出土の酔象
駒の発見以後、二中歴記載の将棋で、酔象が記載さ
れていないのは、誤記である。”と、教えている、
大学の文科系の学部があるらしい。特講の類であろ
う。そもそも将棋史が、通常の学部の教養課程の講
義で、教えられるはずはないと、考えられるからだ。
 今回はこれが、間違いの疑いの強い説であるとい
う根拠について、以下述べる。
 その根拠から、いつものように先に書く。

二中歴には、”相手陣の3段目で皆、金将に成る”
との旨が記載されている。が、興福寺出土酔象駒は
不成りであるし、磨耗して消えたとしても、酔象の
成りは概ね太子であって、金将で無い

からである。
 では、以下に説明を続ける。
 二中歴に酔象が書いていないのは、確かであり、
書き落としたと言う説に、これだけからは間違いで
あるという、積極的根拠は無い。
しかし、興福寺の小将棋用の出土駒が、二中歴とは
成りのパターンでも一致していない点には、二中歴
の将棋の記載を

全体的に良く見る事によって、特にこの説を論じる
側が、妙だと気がつく必要がある

と、私は思う。
 なお、玉将は相手陣の3段目で金将には成らない
ので、厳密には二中歴の将棋の部分の記載は曖昧だ
が。”相手玉を、その一枚にすれば勝ち”とも表現
する事によって、どこへ移動しても、玉将は玉将で
ある事を示唆しているとは、言えると思う。なお、
酔象のある将棋では、概ね太子は玉将と同格の玉駒
だから、

相手の駒を太子一枚にしてしまっても、勝ち

を、興福寺11世紀の小将棋状ゲームを、二中歴の
著者が将棋と意識しているとすれば、厳密には書き
加えなければならない。
 何れにしてもこれは、有名な幸田露伴の、
”日本将棋神代からの存在説”を思想的背景とする、
”龍王に成る飛車と、龍馬に成る角行が、二中歴の、
『将棋』に、記載されていないのは、二中歴の著者
が忘れたからだ”という主張の、亜流のようにも見
える説である。少なくとも二中歴の将棋の記載が、
別に間違っては居無いと仮にすると、草葉の陰で、
二中歴の著者は、そう思っているはずだ。つまり、
”不成りの興福寺酔象が、二中歴の『将棋』に記載
されていないのは、二中歴の著者が忘れたからだ”
という、”二中歴将棋、記載ミス説”は、

全部金に成るという点でも、間違えてしまうという、
よっぽどのマヌケなミスが、さらにこれに加えて、
何故起こったのかを説明し得ないと、少なくとも
説得力の有る説とまでは言えない

のではないかと、私は疑う。
 だから、本ブログでは、興福寺で西暦1058年
から西暦1098年頃に指された将棋を、二中歴の
著者は、最初から二中歴に、典型将棋だと記載すべ
き将棋とは、さいしょから見ていなかったと、見る
べきなのではないかとの、立場を依然取りたい。
 なお、二中歴だけなら二中歴固有に見えるが、実
際には、この間違いは、ほぼ同じパターンで、南北
朝時代の成立とみられる、麒麟抄にも見られる。
 さてそこで次ぎに、酔象が無い経緯について、
従来の本ブログの主張を、繰り返しになるが示す。
 つまり前に述べたが、本ブログでは興福寺は、摂
関派の影響力が平安時代後期には強いと考えている。
院政の時代にも、大江匡房の9升目平安小将棋(標
準型)ではなくて、藤原氏の意向で将棋が定義、指
されていた治外法権区だったのだろう。なお興福寺
の上層の僧は、将棋自体を賭博の道具として禁止し
ていた。下級僧が、摂関貴族を”我らが親分”と
見て、藤原摂関の言う、将棋を将棋として指してい
たと私は考える。
 他方、二中歴の著者は、院政派と摂関派の中間派
であり、

ニ者同士の間で対立する部分は、玉虫色の記載を
二中歴上ではした

と、ここでは見ている。
 摂関派は、西暦1110年まで、興福寺で指され
た将棋を、好ましい小将棋と、一応見ていた。元々
大理国の将棋を、伝来した将棋としてそのまま指す
のは、理にかなっていると見られたためである。
 しかし、摂関派は西暦1110年に平安大将棋を
創作した結果、以降は、平安大将棋を、日本の将棋
の代表として見、伝来時の後一条天皇の所持品で、
酔象の無い原始平安小将棋(8升目型)を、下世話
の小将棋と見るように、変化していた。他方院政派
は、西暦1110年以降も、西暦1080年頃から
に引き続いて、標準型平安小将棋(9升目型)を、
日本の標準将棋、つまり典型将棋と見続けた。
 ようするに、日本の小将棋がどうあるべきかとい
う点について、他の政治的な懸案同様、問題解決時
の主導権を取る事が、両派にとって大事なのであっ
て、酔象を標準将棋に入れるべきかどうかは、両派
の間の争点では元々無かった。ので、摂関派上層部
貴族は、興福寺の下級僧に、12世紀以降は酔象使
用を控えるように、指示したとみられると言う事で
あろう。
 そこで、12世紀の半ばに成立した二中歴では、
何れにしても、興福寺で11世紀の終わりまで指さ
れた、酔象将棋に、言及する必要が無くなっていた
と考えられる。そのために、二中歴では、

将棋については、玉虫色の8升目だか9升目だか、
良く判らない小将棋を、将棋と表現し、
摂関派の第2標準将棋である、平安大将棋を13升
目で、玉が一段目中央に有る、左右対称型の、
”大将棋”と表現した

という経緯だったと、少なくとも私は思う。なお、
二中歴の成立時、摂関派の頂点に立つ藤原頼長が、
第2標準将棋とは表現せずに、大将棋と表現してい
るから、二中歴の著者が、標準将棋の定義を巡る争
いの経緯を、二中歴内に、ことさら記載しなくても、
良い状態に、既に落ち着いていたとも推定される。
 だから興福寺では恐らく、1110年以降、12
00年までは少なくとも、平安大将棋を大将棋、
酔象を銀将に取り替えて、金が1枚だけで8升目だ
が、平安小将棋の配列の伝来小将棋(酔象脱落型)
を小将棋として、指すように変化していたのであろ
う。なお、同じ奈良県の、すこし後に賭博の禁止令
を出した、在来仏教寺院の海龍王寺等でも、将棋の
定義は、興福寺の1110年頃以降の定義と、ほぼ
等しかったとここでは見る。
 何れにしても”二中歴の将棋の記載に、飛車、角
行、酔象が、それぞれ無いのは、誤記のためだとい
うような”形式の説を特に、幸田露伴のような有名
人に言われると、何か尤もらしく、少なくとも私に
は聞こえてしまう。ではあるのだが、

”相手陣3段目で、皆金に成る”という文言が、
二中歴の将棋の説明に、入っているという事実を忘
れて、少なくとも、この系列の誤記説を、頭からは
信じ込まないように、くれぐれも注意したいものだ

と私は思う。
 私は、以上の論を地道に確認する過程で、今回、
はっきりと、以上のよう事を、私自身自らが隗より
はじめるの立場で、肝に銘じるようになって来たの
だった。(2019/06/16)

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