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集成鎌倉の墨書に鶴岡八幡宮駒が14C初頭と記載無し(長さん)

恐らく、個別の発掘報告書からのまとめと推定されるが、
集成鎌倉の墨書(2017)に、鎌倉市の鶴岡八幡宮境内
遺跡出土駒の、成立年代の記載がある。
 出土層位・遺構に”第2面第1溝”と記載され、ついで
それが、年代が13世紀半頃~14世紀初頭と記載され
ている。つまり、

本ブログの記載から類推されるような、鎌倉時代末だけ
の旨の記載では無い。冒頭に、その点注記して置きたい。

本ブログでは、普通唱導集の大将棋が成立した時代の少
し前に、玉・金を除く将駒等1段目駒が金成りで無いと、

相手陣奥で、鉄将、桂馬、香車が行き止まりになるため、

鶴岡八幡宮境内出土駒の成りパターン(香車不成り)を、
大将棋の西暦2017年モデルに持ち込みたくない意図
が働き、多分に”実際は上限に近い”との”独自の予想”
で、下限(早い)の紹介を、抜いた結果がこうであった
のである。
 現実は上限に近い線だと、今でも思っているが、集成
鎌倉の墨書の記載を正しく紹介していない点については、

特にお詫びしておきたい。

 この点が問題と、最近感じられるようになったのは、
増川宏一氏が西暦2013年に著作した、”将棋の歴史”
(平凡社)で、鶴岡八幡宮境内出土駒が、大将棋の時代
であると述べる根拠として、

成立年代を、鎌倉時代13世紀末、つまりイメージとし
て、西暦1300年代の初め頃ではなくて西暦1200
年代の終わり頃と、見ている様子で書いている

からである。増川宏一氏も私も、中将棋の成立を14世
紀中旬と見ている点で一致している。のでこれが中将棋
の駒では無いという点に関して、結論が同じにはなる。
 だが、増川宏一氏は、鶴岡八幡宮境内遺跡駒の成立を
西暦1200年代の末、私は西暦1300年代の初頭と
見ているので、思考経過が微妙に違うのである。
 こう見える根拠は、成書”将棋の歴史”では、その前
段で、普通唱導集の説明をしている事から明らかである。
増川氏は鶴岡八幡宮境内遺跡出土の将棋駒の成立年代を、

普通唱導集の成立と同じか少し前、本ブログでは、10
年~20年程度で良いから後と見たいと希望している

という事である。
 しかしながら現実は発掘者により、年代が13世紀半
頃~14世紀初頭と記載され、

どちらの認識が、正しいとも取れないし、私の見方が
公平とは言えない状況

である事が判る。
 今後も、一段目が金成りの大将棋は”西暦1290年
モデル”、不成りなのは”鎌倉末型モデル”と本ブログ
では記載する。が層位の実測による精度が、本ブログの
論展開の過程つまり、”自明定跡が発生して、衰退する
過程での、ゲームルールの茫漠化が存在する”という
仮説が正しいと言えるほどには、現状無いという点につ
いて、以降誠にお手数ですが、シビヤに、その点が問題
になる局面では、読者諸氏の側で御注意頂きたいと、私
は今の所、希望している。(2019/07/04)

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