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玄怪録岑順「小人の戦争」の日本伝来は何時(長さん)

本ブログでは、中国雲南の南詔国の将棋は、山の
中である事と、貴族しか指さず、棋士の頭数が少
なかったという理由で、西暦1015年まで、
日本へ情報は、全く入らなかったと推定している。
 つまり、インドの四人制チャトランガの第1波は、
持駒使用の謎で、将棋史研究家で将棋棋士の
木村義徳氏が述べているように、

西暦600年~650年頃発生して、西暦775
年頃には、南詔(中国雲南)までは届いた

と本ブログでも見る。が、直後に勃興した、
イスラムのアッバース朝の象棋、
イスラムシャトランジ(アラブシャトランジ)に
圧倒されて、ただちに波は、”腰砕け”になって
減衰し、辛くも北宋商人、(一例)周文裔の貿易
船に乗って、ゲーム具1組だけが、南詔到達に遅
れる事、約240年後の西暦1015年の年初に、

やっとこさで、日本に届いたというのが、本ブロ
グの見方

という事である。
 しかし、この将棋ゲームは、少なくとも本ブロ
グでは、唐代の政治家、牛僧儒作か、その時代作
とみられる、玄怪録岑順、イコール『小人の戦争』
の将棋、宝応将棋と同じ物と考えられている。
 従って雲南の将棋が、直接わが国に伝来しない
としても、今では東洋文庫蔵の、唐代伝奇集2収
録の玄怪録の岑順が、日本に伝来していれば、
将棋が伝来したのと、ほぼ同じと言っていいとは
考えられる。では、南詔~大理の将棋が直接では
なくて、玄怪録からの情報として、いつ日本に来
たのかを、ここでは問題とする。回答を先に書く。

陰陽寮に安倍晴明が居た頃、太平広記の中の記載
として伝来した。西暦1000年前後がよって初

とみられる。
 では、以下に説明を続ける。
 結局の所、これでは、
後一条天皇の玩具等として、雲南大理国の将棋が
伝来したのと、牛僧儒の怪奇小説、玄怪録岑順
「小人の戦争」の伝来とは、ほぼ同じと言って良
い程度だと言う事になる。
 玄怪録が、唐の時代に著作された頃、長安では
その小説は知られていたし、雲南に、金銅の立体
駒で将棋を指す、南詔の貴族が居る事は、中国の
中原の人間なら、たいていは、知っていたに違い
ない。
 しかしながら、それを遣唐使等を通じて、

日本へ情報として伝えなければならないほどの、
大げさな話では、特に無かった

のではあるまいか。山で金銀が取れて、そのへん
一帯を支配する国が有れば、金・銀で作ったゲー
ムで上流階級が遊ぶという話のは、自然といえば
自然であろう。それが隣接している国なら、その
国の中だけでは、話題になるかもしれない。つま
り隣国の、都市部の噂話としては成立するが、
”それだけのもの”なのではあるまいか。
 つまり、日本の陰陽寮へ、業務用の関連文献と
して、当時の稀少書『太平広記』が、中国の北宋
から贈られてから始めて、(伝)牛僧儒作の怪奇
小説も、日本に知れたという程度の、経緯なので
はないかと、今の所私は疑う。つまり、晩唐や、
五代十国の時代に、牛僧儒の怪奇小説が、日本に
伝来していたとは、私には余り考えられない。
 貴金属の立体駒で指す、中国山奥の将棋が有る
という事は、太平広記に関して、それを読んでい
たので、安倍晴明と繋がりの有った、藤原道長は
知っていたのだろう。だから彼は、火災で焼けた
大内裏の金銀飾りとして使える事と、孫の玩具に
なる事は、(一例)周文裔が、平安小将棋の道具
を、雲南から持ってくる前から、認識していた可
能性が有るとは、一応考えられる。
 しかし、安倍晴明や藤原道長より前の日本人が、

宝応将棋について、知っていた可能性はほぼ無い

のではないかと、今の所私は疑う。太平広記に、
たまたま入れるという以外に、日本に表題の怪奇
小説を、予め伝来させなければならない、強い動
機が、特に見当たらないように思えるからである。
 従って、たとえば藤原秀郷等も、西暦940年
に平将門を成敗して日本の朝廷に寄与し、言うな
らば”銀帯大将軍”であったのだろうが。それを
見習って、坂東の武者達が、宝応将棋を指すとい
う事は、原理的に不可能であっただろうと、今の
所、私は考えるのである。(2019/08/21)

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木村義徳氏指摘の千日手模様の平安小将棋が無い訳(長さん)

以前に紹介した将棋世界の1994年11月号2
08ページ~には、モンゴルの古将棋だけでなく、
”平安小将棋が、千日手模様で勝負がつきにくい、
ゲーム性に難があるゲーム”との紹介が、将棋博
物館元館長で、日本将棋の棋士、将棋史研究家の
木村義徳氏により表明されている。標準型平安小
将棋に、旦代の難点があると、本ブログでも紹介
した当の旦代氏は、この将棋世界の記事が書かれ
た時点で、サイコロを使う平安小将棋を考えて
いたらしい。なお将棋世界では、この後、将棋史
関連の記事の件数の減少が顕著であった。今回は、
この平安小将棋の隆盛に関する謎が、謎のまま残っ
て、日本の将棋史の研究が、難攻不落と思われて
見捨てられてしまわないように、本ブログの見解
を、繰り返しになると見られるが、以下簡単に、
まとめて置く事にする。

(1)8×8升目の将棋を指していたのであり、
9×9升目の将棋では元々無い。そのため
9×9升目の81升より17升目少ない、64升
の中で、玉を追いかけるため、千日手は発生しに
くく、勝負がつきやすい。
(2)二中歴の”相手裸玉の勝ちルールの記載”
は、そのルール、そのものではなくて、

自殺手指し負けに対する、裸玉勝ちの優先

を記述したものである。その結果実質最後に、
劣勢な相手に残った、金将(成駒)と玉将は、

どちらかを取れば勝ちなので、相手のディフェン
スが、オフェンスに比べて大きく後退した状態

である。そのため従来の解釈より、平安小将棋は
ずっと、千日手で行き詰まらずに、勝負がつきや
すくなっていた。
 以上の2つの効果の合算で、木村氏の指摘は回
避されるというのが、本ブログの従来よりの見解
である。
 つまり、この将棋は、

味方が玉・金・金3枚、相手が玉・金2枚になる
ように、着手の方針を決めるというゲームに、
ほぼ指し始めからなっている。

だから、確かに持ち駒ルールが無くて、着手空間
は小さいが、
次ぎの一手をどう決めるかの、方針に関与する
要素が、日本将棋に比べて、ごく少数の要素しか
無い。だから次の一手は予め、ほぼ決まるのであり、
比較的容易に

局面の流れは直線的に、終局に向かって進行する

ゲームになる。つまり途中に、棋士が着手に迷っ
て、どっちつかずの手を指し、ループを作りやす
い要因は、従来のルールで予想するよりも、かな
り少ないと、考えられるのである。
 そもそも、次ぎの一手をどう決めるかの、方針
に関与する要素が、一つか二つしか無いというゲー
ムは、馬鹿馬鹿し過ぎて、

現代のプロの将棋棋士には指す気力も起こらない

もののはずである。しかしながら、少なくとも
本ブログでは、

千年程度前に、将棋が日本に伝来してから、最初
の250年強は、その程度で、結構将棋場は盛り
上がっていた

のではないかと、疑っているのである。
 むろん、木村義徳氏の示した平安小将棋の難点
は、普通に指したら発生するのは、その通りであ
る。そして解決方法は、幾通りか、当然考えられ
るのであろう。本ブログの解決策は、そのうちの
一つとみられるものであり、

古文書に全く記載されて居無い要素を、追加仮定
する必要が、特に無い

という点で、特長はそれなりにあるはずだと、本
ブログの管理人は、以前から考えているという事
になる訳である。(2019/08/20)

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将棋世界94-11弱シャタル(木村義徳)の確認(長さん)

以前に述べた、将棋世界1994年11月号208
ページより213ページ紹介の、木村義徳、元将棋
博物館館長聞き取りの、モンゴル古将棋弱シャタル
について、最近将棋世界を実際に確認して、内容を
チェックした。岡野伸氏の”世界の主な将棋”への
転載内容で、

概ね正しい事が判った。

 以下、もう少し詳細に述べる。
 なお、聞き取りは個人から、木村氏が当時得たも
のであった。つまり聞き取り元は、モンゴル将棋の
愛好家で、モンゴル語と日本語間の通訳を当時して
いた、モスクワ大学卒業のモンゴル人、

アルタンスク氏、一名からだけによるもの

であると記載されていた。木村氏は、アルタンスク
氏から、”兵駒の成り先を聞きそびれた”と、当時
の将棋世界の該記事で記載しており、この弱シャタ
ルについては、来日していた、アルタンスク氏の情
報以外に、関連情報が全く存在しないようであった。
聞き取り元のアルタンスク氏は、”(木村義徳氏
発掘)弱シャタルは、

現在(1994年)は、田舎でのみ指されている”

と、発言していたそうだ。
 従って、ほかのモンゴル弱シャタル同様、

アルタンスク弱シャタルも残念ながら、何時頃から
のものなのかに関する、基本的な情報が無い

ようだ。
 なお、この弱シャタルについては、これだけのよ
うであった。が、ヒャーシャタルのヒャーについて、
木村氏は”モンゴル史研究家の吉田順一氏によると、
『ヒャー』という官職は、中国で言う清王朝の時代
の物”であるとされる”と紹介していた。ヒャーシャ
タルは、モンゴル象棋がチェス化してから、ヒャー
駒を導入した物と、木村氏自身が解釈して居る事も、
木村氏の、将棋世界1994年11月号の記載から、
私にも読み取れた。
 なお、木村氏の記述でも表が書かれていて、モン
ゴル強シャタルは、西洋チェス化型であると、木村
義徳氏は、はっきりと表現していた。
 木村義徳氏は弱シャタルを、日本で言えば平安小
将棋のような、伝来した始原将棋とのイメージで、
該雑誌では論じていた。が、それをサポートする情
報は、少なくとも雑誌のその記事を読む限り、元々
無いように、私には読み取れた。つまり、玉を除い
て、走り駒の走りを、歩みに変えただけの、西洋チェ
スの改造品だという疑いを、このゲーム種に関して
払拭する情報は、元々無いという事だと、私は認識
するようになったという事である。(2019/08/19)

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木村義徳将棋世界94-11弱シャタルは平安小将棋類(長さん)

以下、将棋史研究家で元将棋博物館館長、日本将棋
の将棋棋士、木村義徳氏発掘のモンゴル将棋、
弱シャタルが、他のシャタル、ヒャーシャタルとは、
系統が違うという、話題について述べる。結論から書く
と、本ブログの見解だが、

このシャタルは、モンゴル帝国が、己の征服した、
大理国の財宝を略奪等して、金塊銀塊盤盛将棋であ
る、大理国将棋をまねて作った、モンゴル帝国版、
原始平安小将棋や大理国将棋類の可能性がある

という事になる。
 なお別のシャタル等は、イスラムシャトランジの
変形であり、西洋チェス化したもの。特にヒャーシャ
タルは、西洋チェスに、隣接通過駒を四天王のよう
に凍らせる、白象駒、ヒャーを加えた、近世のモン
ゴルオリジナルゲームと考えられる。
 では、以下に論を続ける。
 木村義徳氏の紹介した、モンゴルの弱シャタルは、
将棋世界1994年の11月号に、西洋チェスと
ほぼ同じルールの、強シャタルと共に、紹介がある
と、岡野伸氏の”世界の主な将棋”に書かれている。
 本稿を書いている時点で、オリジナルの木村氏の、
将棋世界の記事を、本ブログの管理人は読んで居無
い。岡野氏からの紹介の、

又聞き状態である。

 何れにしても、

大切なのは、駒の動かし方ルールの内容と本ブログ
では見る。

 すると木村氏紹介の”弱シャタル”は、いわゆる
モンゴルの”シャタル”とはかなり、ルールが違っ
ていて、岡野氏の世界の主な将棋で、以下のように、
紹介されている。
 配列は西洋チェス型である。
玉は玉将、大臣が大大将棋の近王、象が駱駝という
名称に変わり、猫叉動き。馬が八方桂馬。車が後退
できる嗔猪。兵は西洋チェスのポーンと同じである。
大切な事は、

ポーンが段奥で、近王動きに成って、モンゴル帝国
が収奪した、黄金駒を使う将棋になっているらしい

という事である。
 以上の事から、

大臣が近王型であるから、日本の平安小将棋(特に
8升目型)の類

だと一応推定できる。ちなみに、歩み駒のうちの、
大臣、駱駝、車の各方向の歩みを、走りに変えると、
西洋チェスとも同じになる。だから、

このゲームは、モンゴル帝国とは関係の無い、近世
の作り物の話の可能性も、完全否定は出来ない。

 モンゴル帝国を持ち出す根拠としては、次の点が
挙げられる。すなわち象が角行ではなく猫叉、馬が
桂馬ではなくて八方桂なのは、

象よりモンゴル帝国では、騎馬隊が戦争で活躍した。

ので、イスラムの天文学思想も受け入れ、イスラム
世界そのものを飲み込んだ上で、元王朝は授時暦を
作り上げると共に、イスラムシャトランジの八方
桂馬を取り入れ、象と強弱を取り替えたと考えれば、
何故、こんなゲームが有るのかに関しては、

一応説明はつくという事

だ。そのようなゲームを発明したのが、元王朝内の、
被征服国から奪った財宝で、将棋を指す事ができた、
王朝内のゲーマーや、ゲームデザイナーだったとい
う事は、一応疑えるように、私は判断する。
 ポーン動きの兵駒が、少なくとも相手陣奥で近王
成りだとすれば、だいたいの所は、ゲームの流れは

平安小将棋と同じ感じになる

と言う点が、ミソである。つまりそうだとすれば、
木村義徳氏発掘、将棋世界1994年11月号の
モンゴル弱シャタルも、イスラムシャトランジ型と
言うよりは、日本の平安小将棋型の、発想のものと
いう事になるように思う。
 つまり、その弱シャタルは、次のような初期配列
だが、

弱シャタル初期.gif

 指し進めると、次のような指し掛けの図になって、
図で成ポーンと表示した、近王残りの、金塊盤盛り
将棋になるのではないか、という意味である。

弱シャタル指掛.gif

 なおこの局面では、裸王にされたら負けとすれば、
後手(金色の側)の勝勢の局面である。
 よってモンゴルのシャタルは、聞き取り相手にとっ
て、内容が一定でないばかりか、

素性そのものに、別々のものが入り混じっている。

そんな可能性も、一応疑うべきかも知れないと、私
は、木村義徳氏の弱シャタルの紹介の話を聞いて、
一応考えるようになったのである。(2019/08/18)

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マークルックは金一枚の原始平安小将棋と似ているのか(長さん)

口頭で発言したのを、誰かがコピーしたのだ
ろうが、将棋の高段者の羽生善治氏が”世界
の主なチェス・象棋・将棋類で、日本将棋に
近いのは、マークルックである”と発言され
た事があるようだ。同じく日本将棋の高段者
の大内延介氏が、”将棋の来た道”を著作さ
れて、大きく時間が経つ前の話だったと記憶
する。
 日本将棋とマークルックの類似性は、日本
将棋連盟の見解に任せる事にして、ここでは、
金が双方に1枚タイプの、原始的な8×8升
目32枚制平安小将棋、取り捨て型(聖目超
え成り一発)型と、マークルックとの類似性
について議論する。答えを先に書く。

基本戦法が、余り似ているように見えない。

では、議論を続ける。
 マークルックで終盤、駒枯れ模様ないしは、
双方飛車による、玉の追い掛け、千日手模様
の局面にならないようにするには、

1)玉自体が、序盤から攻めに加わるように
駒組をする事が必須

だと、私は認識する。そのような指し方は、

8升目タイプの原始平安小将棋はしない。

8升目タイプの原始平安小将棋は、金で玉を
守りながら、右銀、右桂馬、右香車で、相手
左袖を破ってゆくような、

”守り駒は金気。攻め駒は銀、桂、香”とい
う、日本将棋的な指し方をする

からである。玉が攻め駒の一枚だと、強く意
識されないので、マークルックとは、

かなり趣が違う

と私には思える。
 なお、玉損の攻めをして、ようやく引き分
けではなくて、勝負がついた、マークルック
の指し終わり図の例を、下記に示す。

マークルック終.gif

上の例では、先手玉は入玉しているが、手前
先手の勝ちである。
 また、

2)兵が歩兵ではなくてポーンなので、香車
先の歩兵を突き捨てるような、日本将棋流の
戦法は踏襲できない。

この点でも、序盤の戦法は、マークルックと、
8升目型の取り捨て平安小将棋とは違ってい
て、似ているとは私には思えない。
 似ているのは、

a)根駒が銀型なので攻めに加わってくれる。

という点と、
b)終盤、余り勝負に関係するように私には
見えないのだが、成りポーンの猫叉駒が、幾
つも現われて、

原始平安小将棋が金将将棋だったのを、マー
クルックを指す事により思い出させてくれる。

という2点位である。

 たしかに、大理国の将棋の”香り”はする

のだが。
 基本的に現代マークルックは、中世のイス
ラムシャトランジの方に、日本の原始的な
平安小将棋よりは近いゲームなのではないか。
 以上のように、やはり私は結論したいと思
う。(2019/08/17)

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タイのマークルックは何故滅びなかったのか(長さん)

本ブログによれば、日本に7世紀~10世紀の間
将棋文化が無いのは、イスラムシャトランジ及び、
象の飛龍動きを銀に替えた、東南アジア系古将棋
が、それとは別に有ったとしても、何れの場合も
単調に、終盤に玉を飛車で追うゲームとなると、
日本人が中国人知識人に聞き、また少数の者が、
自ら体験して知っていて、

ゲーム性に難があると理解して、流行らなかった
からだ

という事になっている。
 ところで、ミャンマーのシットゥインは、両陣
の配列が自由なため、飛車駒が最後に残りにくい
陣を、指し始め前に選択して、上記問題が解決さ
れているとみられる。しかし、表題のタイのマー
クルックには、イスラムシャトランジ等と違い、
兵が3段目であるため、条件が全く同じとは言え
ないが、日本人が、

駄目なゲームと烙印を押した、性質は残っている

とみられる。仮に、日本人に比べて、タイの人間
が、ゲーム性能に関する、選択感覚に於いて、劣
る事が無いとして、日本人が、駄目だと判定する
ゲームが、何故タイでは、現在まで滅びずに残っ
ているのか。本ブログの論に、論理矛盾が無いの
かどうかを、今回は論題とする。
 回答を先ず書く。

タイのゲーマーによって、陣固めをしたゲームだ
けを指すように後進が教育されたため、ゲームの
難点が出やすいマークルックが、指されにくい状
態になった事によって、現在まで滅びずに残った

と考えられる。
 では、以下に論を続ける。
 とりあえず、この問題を考える際、岡野伸氏の
マークルックに関する情報が正しいと仮定しよう。
 彼の著作物によると、問題の点と関連すると見
られる情報については、以下の旨が、記載されて
いる。

1)マークルックのゲーマーは、棋力の違う人間
とは、余り指したがらない。
2)序盤で駒組がしっかりしていれば、難の出な
いマークルックになる。
3)駒が減りすぎると、ジリ貧という一方的な
状態で無ければ、だいたい引き分けになる。

1)は、棋力というよりも、急戦を好む棋士を、
マークルックの棋士は、だいたい嫌っていると、
一応疑える

ように、少なくとも私は考える。
どんなマークルックを指しても良いのなら、指す
相手の選択というのは、余りしないように思う。
よほどの初心者を問題するので無ければ、途中で
強い側が緩めて、ゲームを面白くすれば、済むだ
けのはずだからだ。

マークルック初期.gif

 マークルックというゲームには難が有り、

兵が高配列されている特性をきちんと生かすよう
な指し方を、マナーとして、出来ない相手と余り
ゲームは、しないしきたり

が何時の時代にもあった。それで、ゲームの弱点
がカバーされた結果、皆に呆れられて、指されな
くなるような結果に至らなかったと、私は今の所
考える。そうすれば、本ブログの、日本に7世紀~
10世紀に将棋が無い理由の論に、

致命的な難点は、一応生じ無い

ように、私には思えるからである。
 なお、シャトランジ自体が完全に滅んだわけで
は無いが、インドではインドの今に残るチャトラ
ンガおよび、インドのシャトランジは、西洋チェ
スに押されている事。インドネシアのチャトルは、
元々はインドの今に残るチャトランガと、類似の
ゲームだったが、今や西洋チェスの、現地用語に
なっていると、少なくとも私は聞いている。ので、
インドとインドネシアについては、本ブログの、
日本に7世紀~10世紀に将棋が無かったと同じ
理由で、今に残るチャトランガ系は、衰退してい
ると見れば、これらの民族は、日本人のゲーム性
認識のレベルと同等と仮定できて、本ブログの仮
説には、矛盾がないと言えると考える。
 また、エチオピアのセヌテレジは、イスラムシャ
トランジの生き残りである。が、陣を組みきるまで、
交互に着手せずに、自由にシットゥインのように
組み替えられるルールである。だから、車余りの
終盤になるようなゲームは、ミャンマーのシットゥ
インと同様なやり方で、避けられると見られる。
ので、エチオピアのチェス類ゲームに関しても、
矛盾は起こらない。
 以上の結果から今の所、タイのマークルック
についてだけ、ゲーム性のチェックに関して、
公平性を疑うという、やや無理な議論をしなけれ
ばならないだけである。他の地域の古典的チェス
ゲームの残存状況と、日本の将棋の隆盛時期に関
する仮説との間に、大きな矛盾は一応無いように、
私には思える。(2019/08/16)

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web上インドチャトランガルールと本ブログが違う訳(長さん)

 現在web上では、インドチャトランガの説明として、
アラブまたはイスラムシャトランジの駒の動かし方で、
兵の成りが、相手の一段目初期位置対応駒のバージョン
との記載が多い。wikipediaには、その
ルールをも紹介した上で、”『時代によりルールは異な
り、今のは一例』との説がある”と断り書きがある。
インド・チャトランガのルールを、紹介しているサイト
は現行数箇所あるが、wikipediaの、今述べた
シャトランジ型のルールと同じ物を書いた上で、出所を
きちんと示したものは、今の所見当たらない。なお、
浅学の私には、今述べたweb上の、数箇所の日本の
サイトの

彼らの記載のゲームの、元文献に心当たりは無い。

本ブログでは、岡野伸氏の”世界の主な将棋”の表現に
合わせて、今述べた、日本の一般サイトの、”インド・
チャトランガ”を、

インドのシャトランジ

と表現している。この表現は、大内延介氏の、”将棋の
来た道”の巻末一覧表とも同じものである。
 次に、日本のサイトでは余り見かけないが、wiki-
pedia(日本)の、象を飛龍型ではなくて、銀将で
示したバージョンを、

インドの今に残るチャトランガ

と本ブログでは表現している。
 つまり本ブログの言う、”インドの古型チャトランガ”
は、玉、猫叉、銀、八方桂、飛車一段型の”インドの今
に残るチャトランガ”とは全く別の物である。なお、や
やこしいが、大内延介氏は、”将棋の来た道”で、
本ブログの言う上記の”インドの今に残るチャトランガ”
を、”古代インドチャトランガ”と、巻末一覧表で記載
している。つまり大内氏は、古代のゲームだと思って
いるようだが、

本ブログの管理人は、そう思って居無い

という意味である。
 更に本ブログでは、インドの今に残るチャトランガは、
日本の小将棋が痕跡として残す、インドの古いルールの
ゲームの事だと、ここでは思って居無い。

何故なら”インドの今に残るチャトランガ”は、平安小
将棋より新しいと、本ブログでは認識

しているからである。
 そこで、我々の言う”インドの古型チャトランガ”と
は何物なのかであるが、ものと人間の文化史110チェ
スで、増川宏一氏が紹介している、

”ユディヒシュティラとヴィアーサの38条”から解読
される、ニ人制チャトランガのルールを指す

という事である。これは、一段目が玉将、近王、角行、
桂馬、飛龍のルールになっている、2段組8×8升目、
32枚制のチェス類のゲームの事である。
 なお、解読結果は、本ブログの2017年09月09
日から10日の所に示した。が、ものと人間の文化史
23-1、将棋Ⅰ、34ページの、増川宏一氏の解読と、
駒の動かし方ルールに関して、本ブログの解は一応一致
している。この2人制チャトランガは、幾つかある、
アラブ・コラズムの天才科学者、アル=ビルーニー
(970-1038)のインド旅行記に書かれたルール
と、桂馬部分以外一致している。
 増川宏一氏は、将棋Ⅰを書いた時点で、バールフート
の彫刻を紀元前2世紀の、四人制チャトランガの絵とし
ていたので、象が角行のチャトランガは、紀元前のもの、
飛車が9世紀初、銀将がより新しい11世紀の物と、
将棋Ⅰの72ページ付近で記載している。
 本ブログでは、”ユディヒシュティラとヴィアーサの
38条”ルールは、アル=ビルーニー(970-103
8)のインド旅行記の頃のものだと、今の所見なして、
11世紀。更に、象が飛車の動きは、南詔の始原原始
平安小将棋と同じ、宝応将棋の時代のものであるとして
9世紀初。象が銀将は、これら2タイプより、より新し
いものだと、考えている。つまり、インドに於いて、

象は飛車(西暦800年頃)→角行(1000年頃)→
銀将(それ以降。含今に残るインドチャトランガルール)

と変化した、本ブログではみているのである。
 本ブログの言葉の使い方は、以上のように増川宏一氏
の成書に大きく依存しており、電子媒体で主流の、
web版”インドチャトランガ”の言葉使いを、今の所
していない。以上の点に注意が必要である。
 そして以下のように、インドのシャトランジを、あた
かも日本の平安時代程度のものであるかのように、誤解
してしまうと、

本ブログで言う”インドの古型チャトランガの大臣駒は
金将動きであって、猫叉では無い”という議論を理解し
ようとする局面で、大きな障害を生み出す。

言葉の定義が違う事が判らないと、この議論が、全く判
らないはずである。つまり、大臣は

猫叉ではなくて、インドで11世紀には金将に近かった

のである。日本の将棋が、インド古型を宿すという言い
方をするとき、今の事柄がわからないと、本ブログが何
を言っているのか、

全く理解できないので、注意が必要

と考える。
実は、”ユディヒシュティラとヴィアーサの38条”の
解読で、西暦2017年09月09~10日の本ブログ
で、14条と19条から、

大臣駒は、金将や酔象や熊目の動きの類の、近王型の駒
であると導かれる

と解したのであるが、増川宏一氏の将棋Ⅰの34ページ
には、この事が露に書いてないので、注意が要る。
 ユディヒシュティラとヴィアーサ・チャトランガでは、
”相手王位置に達した兵は不成り”と、第14条に記載
され更に、”相手大臣駒位置に達した兵は、成りとして
王に成って、第5の王が発生する事”が、暗に第19条
に記載されている。以上の点の理解が、

日本の将棋の将系列駒の発生の起源を読み解くのに必要

なのである。つまり、中世にグローバル標準化した、
他の国のチェス・象棋では、イスラムシャトランジに習
い、大臣は、インドの古型の金将から猫叉駒化して、

玉将、金将、銀将系列という、駒系列を作るという考え
方自体が、ほぼ消失していて、存在し無いという理解が、
日本の将棋の特質(中国雲南省で発明)の理解にとって、
とても大事

だというのが、本ブログの主張となっている。
 本ブログの、増川宏一成書を使って作った、本ブログ
内特有の言葉の定義に関しては、今回述べた事柄が、今
の所、

最重要なポイント

であるように、私には見える。(2019/08/15)

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”搦・口王馬馬仲”木片出土小町一103駅ロータリ(長さん)

表題の神奈川県鎌倉市小町一丁目103番7(地番)
出土の木片は、鎌倉時代の風俗営業店の、諸芸・
博打の手ほどき文句を散りばめた、豪華な飾り扇子
の群の一本の、更に骨1本の破片というのが、今の
所の本ブログの見かたである。
 そこで”搦・・・口王馬馬仲(人)”と、骨の一
本に書かれていた、扇子ともみられる物品の落ちて
いた場所、つまりは、神奈川県鎌倉市小町と御成町
の境付近の、小町一丁目103番7号という地番の
場所は、

JR鎌倉駅の構内である

と、前に本ブログでは報告した。西暦1984年に、
当時の国鉄鎌倉駅を整備する工事があり、そのため
の発掘調査であるとの旨が、”集成鎌倉の墨書”の、
遺物の説明の中に、記載されていたからである。
 しかるに最近web上で、”西暦2019年にも
JR鎌倉駅の東口の駅前ロータリーの工事があ”り、
市役所の文書で、地番が出ていて、小町一丁目
103番になっているのを、私は発見した。
 つまり、

駅構内ではなくて、玄関の外か、東口の駅前ロータ
リーの場所のどこかが、地番で小町103番7号

らしい。問題の鎌倉時代の風俗営業店は、いっけん
すると、立派な土蔵のある武家屋敷だったようなの
で、広い敷地で場所を特定して、意味があるかどう
かまでは謎だが。問題の7号がどこなのか、判るか
どうか、鎌倉市の”都市整備部道路課”に、聞いて、
より正確に、場所を特定してみようかと思ったので
ある。
 問い合わせた所、JRの鎌倉駅前東口ロータリー
の所が確かに、神奈川県鎌倉市小町一丁目地番で、
103番であり、枝番の幾つかの合算で、ロータリー
の場所が被覆される事は、ほぼ確かだと判った。
1984年の整備も、駅の改装も有ったのだろうが。
東口駅前も整備しており、そのための遺跡の破壊に
備えて、事前の発掘調査が行われたという、経緯な
のであろうと、ほぼ特定された。(2019/08/14)

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徳島川西大将棋のデザイナーは何故え奔横を先ず入れた(長さん)

本ブログでは、徳島県徳島市上八万町川西の、
川西遺跡の奔横は、平安大将棋4段段上げ型の、
横行前升目に、横行が存在したまま、奔王動きの
奔横を加えたものと、今の所見ている。では、
この奔横を入れた将棋から、平安大将棋の進化が、
特に始まった訳は何なのかを、今回は論題とする。
 回答を書いて、説明を加える。

奔横が最初と解釈しない方が良い。飛車と奔横が、
同時に入ったと考えた方が、判りやすい。

実体は次のとおりと、考えられるからである。

飛車が最も強い駒のときに発生する、終盤”玉追
いの飛車将棋”になるのを避けるには、飛車より
強い駒を、飛車と同時に入れればよい。以上のよ
うに、徳島川西大将棋(大将棋1230年型)の、
ゲームデザイナーが気がついたためそうした

のである。
 では、以下に説明を加える。
 そもそも、ここで論じようとしている、徳島
川西大将棋(大将棋1230年型)は、以下のよ
うな、初期配列の将棋だと本ブログでは見ている。

大将棋1230.gif

スカスカなため、慣れないと把握し辛いが、一言
で言うと、

1~2段目を玉将だけ残して他の駒は全部取り去
り、ついで八方桂馬を2枚加えて、盤を13×
13から8×8に変えると、西洋チェスになる

と表現できる。つまり、
”大臣の猫叉を、奔王の女王に変えて、飛車動き
の城より強い駒を作り、終盤『玉追いの飛車チェ
ス』になるのを避ける”というアイディアは、
15世紀の後半以降に成立した西洋チェスの成立
よりも

250年程度前に日本の徳島県では知られていた

という事である。なお、飛車については、日本人
は知らなかったのではなくて、うかつにゲームに
加えると、難の有るゲームになると認識して、
西暦1110年頃に成立した平安大将棋には、
敢えて入れなかったというのが、本ブログの見解
である。
つまりは、

同じ事を、チェスの成立よりも250年前に、日
本人の、恐らく僧侶が発見した

という事であろう。
 むろん、徳島川西大将棋にナイトが無かったし、
横行や香車、反車、あるいは金・銀・銅・鉄将、
猛虎、桂馬が有って注人があるから、小駒が余分
で、チェスよりディフェンスが強すぎ、また升目
が多いから、チェスの方が、玉を仕留めやすいゲー
ムで、より優秀である。しかし、ゲームとしては、

この1230年型大将棋が、日本の将棋の中では
西洋チェスに、一番近かったはず

だ。持ち駒法でも九宮+王同士対面不可法でもな
く、追加であって入れ替えでは無いものの、大駒
の割合を増やして、オフェンス強化側に傾かせる
という意味で、西洋チェスの改善方式と、同じ
パターンのやり方が、西暦1260年までの大将
棋では、コンセプトの中心に採用されていたので
ある。ただし1290年型普通唱導集大将棋では、
大駒としての獅子の加入の効果が増え、中将棋型
の、中心駒として獅子を導入するという、ゲーム
改良の考え方が混在する時代になって来た。
 しかしながら、

実に平安大将棋から西暦1230年型への改善は、
加える駒種まで、西洋チェスとほぼ同じパターン

だったのである。
 思考の内容も、私が見る限りは、日本人も欧州
人も、どちらもいっしょだったと思える。
 約250年日本の方が欧州より早いので、模倣
の可能性が当然考えられるが、チムールチェスの
全体形が1260年の大将棋に、むしろ似ている
ので、たぶん偶然の一致なのではないかと思う。
 ただし、欧州で、イスラムシャトランジをチェ
スに、大臣を女王に変えて切り替えるときに、
チムール帝国関係者から、日本人がモンゴル帝国
の侵略を免れたのは、”我々には大将棋が有った
のも一因だ”と自慢していたと聞くとの”風説”
が、奔王駒と共に紹介され、それが、キャスティ
ングボードの働きをして、西洋ボードゲームの、
副官猫叉動きを、奔王動きに、最終的に力で変え
させた可能性が、全く無いとまでは、言えないの
かもしれない。
 つまり、川西遺跡の出土駒のイメージから、
奔横が第1番目とイメージしやすいが、

オフェンスをUPする為、飛車を入れたいと考え
たのが最初で、その解決策が奔横(動き奔王、
クイーン)の発明だったと考えれば、飛車と奔横
は、導入時期の早さでは同率1位のはずである

と考えれば、つじつまが合う。少なくとも本ブロ
グでは、そのように見ていると、言う事である。
(2019/08/13)

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江戸時代の将棋三家は、日本将棋の作者を源隆国と報告(長さん)

日本将棋の作者として、江戸時代には、本朝俗諺志や、
象棋図式百番奇巧が、大江匡房(1041-1111)
を挙げている。「広象戯図序」を著し、中国の象棋の
デザイナーでもあった、晁無咎または晁補之(ちょう
ほし、1052-1110)とほぼ同年代で、その時
代には、中国シャンチーが、欧州の研究家によっても、
縦11列の奇数筋になった時代とされると聞く。
 日宋間で交易は継続していたと見られ、よって本ブ
ログでは大江匡房を、奇数筋の、標準的平安小将棋、
9×9升目36枚制平安小将棋(取り捨て、双王型)
の、標準化上奏者と目している。
 しかし江戸時代、誰もが日本将棋と標準型平安小将
棋を混同した上で、大江匡房を発明者と、みなしてい
た訳では無かったらしい。
 具体的には将棋三家の、大橋宗与、伊藤宗看、
大橋宗寿は連名で、江戸時代の八代将軍の、徳川吉宗
から、将棋の歴史について下問され、当時の学者と共
にまとめた回答書(口上)を、西暦1727年頃に提
出している。それには、日本将棋は大江匡房ではなく
て、それよりやや前の、

”源隆国(西暦1004~1077)が、その他の点
で日本将棋と同一内容だった、当時の古小将棋から、
玉前配置の酔象と金前配置の猛豹を除いて、日本将棋
とした”

と、書いているとの事である。なお”口上”は、東洋
文庫に収められた、次の囲碁の歴史に関する、江戸時
代の古文書に、漢文ではなくて文語体で載っている。

爛柯堂棋話(Ⅰ)、東洋文庫(平凡社)、林元美(西
暦1778~1861)著、西暦1849年本。
東洋文庫による出版、西暦1978年、校注者は林裕。

 問題の文は、この文書の最初の方、1巻目の8ペー
ジ付近から後の、3ページ前後に出ている。
 なお源隆国は、宇治拾遺物語に出てくる実在公爵で、
宇治大納言と、上記文書では表現されているようであ
る。今昔物語の編者との説も昔はあったらしい。摂関
家に比較的近く、藤原頼通の側近の人物とも言われる。
 本ブログでは、今の所、この御三家の説は、別の文
献では見かけないので、読み飛ばしにする事にした。
私には真面目に書いているように見えるが、山本亨介
氏には、”かなり杜撰な文書”と酷評されている。
 なお、玉前配置の酔象と金前配置の猛豹のある小将
棋(持ち駒型)は、平安時代の古将棋ではなくて、

安土桃山時代の末期に、初代大橋宗桂が作った当時の
新作小将棋である

というのが、今の所の本ブログの見かたである。口上
の三人の説は、初代の大橋宗桂がそもそもり情報の出
所だと、私は思う。
 そして、どういう経緯で源隆国(西暦1004~
1077)が出てくるのか、今の所、少なくとも私に
は、さっぱり判らない。
 大江匡房は、後三条天皇の時代にも、失脚せず健在
だったと言われる源隆国から、”銀が一枚しかなく、
他方が酔象になっている、興福寺等の小将棋は変だ”
と聞いて、酔象を取るアイディアに、気がついたのか
もしれない。が、そこの所が今、どうもモヤモヤとし
た感じにしか、私には見て取れない。(2019/08/12)

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