堅田Bの不成り(補)龍馬駒と将棋馬写の龍馬(長さん)
以前、石川県金沢市近郊の堅田B遺跡の西暦12
50年前後に成立の、不成り龍馬駒は、西暦12
60年型大将棋の駒であって、大将棋の鎌倉時代
の進化を知る上で、ポイントになる駒の旨を述べ
た。
ところで、だいぶん以前だが、この駒を龍馬と
本ブログが読んだときに、飛馬にも見え、不確定
性があるような書き方で、説明を終わった記憶が
ある。その時点から、どんな情報が新たに加わり、
龍馬に確定したのか、経過を以下述べる。
①天童の将棋駒と全国遺跡出土駒にて”裏に墨跡
の発見されない、口馬”と読みが公開されていた。
②京都曼殊院で、近年発掘された中将棋の駒の字
の写書”将棋馬写”の、中将棋の角行成り”龍馬”
の龍の字が、書き方のパターンで、堅田Bの龍馬
駒の龍の書き方と、同じだった。
以上が結論であり、①については、その通りと
いう以外に無いので、②について、もう少し以下
に説明する。
堅田B遺跡の龍馬駒と、曼殊院で成立が、江戸
草期とみられる、中将棋の駒に関する将棋馬写の
角行の成りの龍馬は、縦横比率をだいたい合うよ
うにして並べて見ると、以下のようになっている。
堅田Bの龍は、真ん中の縦棒が余計で、これが
あるせいで、飛にも見えてしまうのだが。仮に、
真ん中の棒が、汚れや傷だとすると、
将棋馬写の中将棋の龍馬と、筆運びが、ほぼ同じ
である。将棋駒の飛は、平泉の飛龍や、焼津の
飛鹿を見ても判るとおり、かなり特殊な書き方を
するケースが多く、金沢近郊の堅田Bの第1字目
とは、余り似て居無い。また、第1字目は、桂で
は、明らかに無い。近代に、この書き方の龍馬は
余り見かけないが、そう読むしか無いのである。
ただし、上記で傷とした真ん中の棒は、龍の字
のヘンに当たる部分により似せて、草書書きする
つもりが無い事を示すために、堅田Bの出土駒で
は加えられた可能性が有る。なお、堅田Bの龍馬
の裏に、角行と書いてあるとの情報は無い。成立
西暦1250年代なら、鎌倉時代中盤に中将棋が
有ると言う事になり、
たいへんな発見になる所
だが”大将棋の駒の出土”という、
より、おとなしい(?)結論
に今の所落ち着いているという事である。つまり、
どちらにしても際立った発見だ。
同時期に発見された、”正月飾りのお経の額”よ
り、現地金沢の注目度は、今の所低いようである。
ともかく②の項目、すなわち将棋馬写と堅田B
の龍らしき字が、筆使いといい、全体的な形のバ
ランスといい、良く似ていたので、
龍の字の雰囲気が、近代と、中世とでは、かなり
異なっていたため、本ブログに誤って、桂馬と読
まれていただけ
と、将棋馬写と堅田Bの龍馬通しの比較から、私
は考えるようになった。堅田B将棋駒のスケッチ
をした発掘担当者が、中世の書の書体に詳しく、
思い込みで、そう解釈できるように書いてしまっ
た可能性は、無いとは言えないのだが。今の所は、
以上のように、解釈する事にしたと言う事である。
そもそも、曼殊院の将棋馬写の字のうち、龍馬
だけ紹介したのは、現在の将棋駒の角行の裏の龍
馬の書体と、曼殊院の将棋馬写の龍馬が、かなり
字が違っていた為、この字だけに注目したという
経緯であった。”桂馬と間違える”と、自らが指
摘しながら、堅田Bの出土駒では、自分自身が
”桂馬”と間違えていたと言う点で、誠にお恥ず
かしい次第である。
以上の事から本ブログでは、天童の将棋駒と全
国遺跡出土駒にも出て、馴染のこの遺物について、
堅田B駒は、大将棋の不成り龍馬の駒である
との見解を、上記の経過から、その後継続して取
るようになっていたのである。(2019/08/10)
50年前後に成立の、不成り龍馬駒は、西暦12
60年型大将棋の駒であって、大将棋の鎌倉時代
の進化を知る上で、ポイントになる駒の旨を述べ
た。
ところで、だいぶん以前だが、この駒を龍馬と
本ブログが読んだときに、飛馬にも見え、不確定
性があるような書き方で、説明を終わった記憶が
ある。その時点から、どんな情報が新たに加わり、
龍馬に確定したのか、経過を以下述べる。
①天童の将棋駒と全国遺跡出土駒にて”裏に墨跡
の発見されない、口馬”と読みが公開されていた。
②京都曼殊院で、近年発掘された中将棋の駒の字
の写書”将棋馬写”の、中将棋の角行成り”龍馬”
の龍の字が、書き方のパターンで、堅田Bの龍馬
駒の龍の書き方と、同じだった。
以上が結論であり、①については、その通りと
いう以外に無いので、②について、もう少し以下
に説明する。
堅田B遺跡の龍馬駒と、曼殊院で成立が、江戸
草期とみられる、中将棋の駒に関する将棋馬写の
角行の成りの龍馬は、縦横比率をだいたい合うよ
うにして並べて見ると、以下のようになっている。
堅田Bの龍は、真ん中の縦棒が余計で、これが
あるせいで、飛にも見えてしまうのだが。仮に、
真ん中の棒が、汚れや傷だとすると、
将棋馬写の中将棋の龍馬と、筆運びが、ほぼ同じ
である。将棋駒の飛は、平泉の飛龍や、焼津の
飛鹿を見ても判るとおり、かなり特殊な書き方を
するケースが多く、金沢近郊の堅田Bの第1字目
とは、余り似て居無い。また、第1字目は、桂で
は、明らかに無い。近代に、この書き方の龍馬は
余り見かけないが、そう読むしか無いのである。
ただし、上記で傷とした真ん中の棒は、龍の字
のヘンに当たる部分により似せて、草書書きする
つもりが無い事を示すために、堅田Bの出土駒で
は加えられた可能性が有る。なお、堅田Bの龍馬
の裏に、角行と書いてあるとの情報は無い。成立
西暦1250年代なら、鎌倉時代中盤に中将棋が
有ると言う事になり、
たいへんな発見になる所
だが”大将棋の駒の出土”という、
より、おとなしい(?)結論
に今の所落ち着いているという事である。つまり、
どちらにしても際立った発見だ。
同時期に発見された、”正月飾りのお経の額”よ
り、現地金沢の注目度は、今の所低いようである。
ともかく②の項目、すなわち将棋馬写と堅田B
の龍らしき字が、筆使いといい、全体的な形のバ
ランスといい、良く似ていたので、
龍の字の雰囲気が、近代と、中世とでは、かなり
異なっていたため、本ブログに誤って、桂馬と読
まれていただけ
と、将棋馬写と堅田Bの龍馬通しの比較から、私
は考えるようになった。堅田B将棋駒のスケッチ
をした発掘担当者が、中世の書の書体に詳しく、
思い込みで、そう解釈できるように書いてしまっ
た可能性は、無いとは言えないのだが。今の所は、
以上のように、解釈する事にしたと言う事である。
そもそも、曼殊院の将棋馬写の字のうち、龍馬
だけ紹介したのは、現在の将棋駒の角行の裏の龍
馬の書体と、曼殊院の将棋馬写の龍馬が、かなり
字が違っていた為、この字だけに注目したという
経緯であった。”桂馬と間違える”と、自らが指
摘しながら、堅田Bの出土駒では、自分自身が
”桂馬”と間違えていたと言う点で、誠にお恥ず
かしい次第である。
以上の事から本ブログでは、天童の将棋駒と全
国遺跡出土駒にも出て、馴染のこの遺物について、
堅田B駒は、大将棋の不成り龍馬の駒である
との見解を、上記の経過から、その後継続して取
るようになっていたのである。(2019/08/10)