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宝応将棋立体駒天馬が桂馬動きで銀将成りの言い訳(長さん)

想像だが、(伝)牛僧儒の西暦825年頃作
の玄怪録”岑順”小人の戦争記載の宝応将棋
天馬が、銀将成りだと私が主張したら、持駒
使用の謎の木村義徳氏は、”立体駒なのに、
兵卒以外が成る訳が無い”と反論するだろう。
 持駒使用の謎には、馬の成りは五角形駒が
成立し、裏に成り駒の名称が書けるようにな
ったので、発生したと書いてあるようだから
である。
 今回は、玄怪録の将棋、宝応将棋の天馬が

桂馬動きで良いのか。銀将に成るのか

について、もう少し綿密に考えてみる。
 YES.&YES.が回答だが、根拠とな
るポイントは、次の通りである。
元駒のルールについて。
 イスラムシャトランジと宝応将棋は、いち
べつして差が無いと、牛僧儒には、題材とし
て使い辛かったとみられる。宝応将棋の馬駒
が八方桂だと、イスラムシャトランジと余り
差が無いように見えるが、

幸いに桂馬だったので、ざっとルールを書け
ば、当時長安在住の、イスラム教徒を不愉快
にしない状況だったので、採用した

と考えられる。
 成るかどうかについて。
”輜車が退けない”と記載してある点が大き
く、車と馬駒共に大臣成りする可能性が高い。

では、以下にもう少し詳しく述べる。
 木村義徳氏に限らず、現在の遊戯史学会は、
史料として無い将棋具は”そんなものは無い”
と、さしあたり仮定して論を進めている。

その点が、本ブログと大きく違う所

である。本ブログは、使った後直ぐに捨てて
しまう将棋具と、

棋士の死後、墓荒らしに盗まれてしまって、
出る事の期待できない将棋具は、有ったかも
しれないと仮定して良い

という前提で、論を進めて来ている。つまり、
墓荒らしが有れば当然盗む、金で出来た金将
立体駒や、銀で出来た銀将立体駒は、たくさ
ん有ったかもしれないと、考えてよいという
ルールに従って、ここでは、これまで論を
進めているのである。学会全体がそうなので、

この点を許容しないのが、持駒使用の謎の論

である。なので”兵の成り駒用として、ナマ
駒の立体駒である、斬られて捨てた後の金将
立体駒を使ってしまうと、桂馬立体駒の成り
金用の駒は無いから、銀将や桂馬や香車の成
りは無かったはずだ”というのが、

木村義徳氏に限らず、現在の将棋史界の
主要な論法

なのである。だから、
桂馬成り立体駒は、ナマ駒とは別に有ったで
あろうという本ブログの論は、現在の将棋史
界では、現物は確かに出土して居無いので、

”信じる者は救われるの世界”と見なされて
いる

と、私にも認識できる。
 だからとりあえずは、批判しあうのでは無
くて、

対応付けをはっきりさせる事が先

だと考えられるのである。
 そこで、宝応将棋の時代と場所を、時間と
空間から、まずは特定する。
 時代は西暦825年頃の事であり、それに
異存は無かろう。
 持駒使用の謎では、第2波が広がり、第3波
(”インド発の”第2波と持駒使用の謎では表現)
が、そろそろ出始めた頃と、主張しているべき
時代である。
 本ブログでは、第2波は中国内陸部で弧立し、
第3波が世界を制圧していた時代と見ている。

その点が、少し違う。

つまり、このブログの方が、持駒使用の謎より、
”より少し”早期伝来派なのである。ただ、
第4波よりは、前だったと見ている点で、
両者にはその点に共通性が、有るだろう。
 ただし、木村説では兵が歩兵だが、本ブログ
では、ポーンであり真逆だ。
 ここから、以下のような論法が、本ブログ
では可能になった。
 つまり、長安で大食人の指す将棋は、西暦
825年時点で、強いルール型である。
 そして、
牛僧儒は、囲碁文化圏の学者であって、近所
で指している将棋は、自分の頭の中に存在す
る、”出来の悪いゲームはしない”という内
容の、防波堤の外側の世界と見て、観戦記では、
金象将軍の将棋を、適当にオッチャラかす
つもりだった。そのため、近所の
イスラム過激派のテロ攻撃等に合う懸念があり、
怪奇小説内で書く将棋は、第3波の時代に
於いて、第2波までで取り残された、

近所の将棋とは違う”ドンキホーテのゲーム”
である必要があった。

 しかし、仮に宝応将棋が馬が八方桂で、象が
飛車だった場合、イスラムシャトランジでは、
馬が八方桂で、車が飛車のゲームであるため、
宝応将棋のルールを駒名2文字で、ボカシて
しまうと、はっきり区別できない、類似ゲーム
と見なされる懸念が、依然有ったとみられる。
 が幸いな事に、たまたまだったが、宝応将棋
の馬は桂馬、牛僧儒の家の近くの大食人の指
している、イスラムシャトランジは、八方桂
だったのであろう。また、玄怪録の読者の多
くは、輜車が香車動きだと書けば、山奥の
白衣蛮という人種の、中国人が発展途上国人
と呼んでいた者の仲間の将棋と、イメージ
できる程度の、当時は公知なゲームだったの
であろう。そこで牛僧儒は”小人の戦争”に、

馬が桂馬の宝応将棋を採用した

と見なせるのではないか。以上のように、
ここでは推定しているのである。
 次に、場所について対応付けする。
 場所は両者で大きく違い、現場に関しては、
持駒使用の謎に限らず、現在の将棋史界は、
当然の事ながら、日本を問題にしている。
 持駒使用の謎では、第2波が伝来した時点
では少なくとも、日本に五角形駒は有ったと
考え、宝応将棋発生の西暦800年頃に、
桂馬駒の裏には金と書いてあったという、
タイミングに関する主張が有ったはずである。
なお、日本での独自の進化と主張され、これ
と宝応将棋は、関連付けされては居無い。
 そして、桂馬を仮に八方桂に変えるとすれ
ば、不成りが妥当であるため、支障をきたす
等で、第3波を受け入れられなかったと主張
していたはずである。
 それに対して本ブログでは、中国人と日本
人には、囲碁のイメージから、”出来の悪い
既存の将棋を指そうと思わない”との意識
が広がっており、西暦825年の時点で日本
には、将棋文化も、五角形駒も無かったと見
ている。つまり、日本の将棋へ進化する、元
の将棋の舞台は、

中国の山の奥地の雲南あたりらしい

としている。雲南には、鉱山で取れる、金銀
製の立体駒しかなく、だから雲南では五角形
駒が、発明されて居無いと、今の所本ブログ
では見る。しかも宝応将棋は、本ブログでは、

その今考えている舞台の雲南の将棋そのもの

としている。
 しかし、問題にしている怪奇小説には、
インド古形の車駒と見られる、輜車が、
”成らないと、横に行けない香車の動き”と
ほぼ間違い無いように書いてあるので、

兵以外に3段目成りを作ったのは、ほぼ確実

と、本ブログでは見る。なお、雲南は日本よ
りも、タイやミャンマーに近く、”タイ発
第2波”の到来は、自明だろう。

だから、馬駒が、

後退出来ない桂馬の疑いが強いのなら、相手
陣3段目で成れた可能性が高い

と考える。
 そして裏に字の書ける五角形駒が無い問題
については、五角形駒に色付けが無いのが
持ち駒ルールの発生原因であるから、この時
代の将棋に、持駒ルールが無いと見られる事
をも、考慮に入れた上で、雲南の将棋では、

金将動きの立体像の造形物は、2体では無く
て18体有り、初期配列で使用しない、16
体は、ミニチュアのコンテナ状のケースに置
いて保管し、成ったときに元駒立体駒と交換
して、その時点から使用したと仮定

して、この困難を切り抜けているのである。
 なお、宝応将棋の時代に、造形物は銀製で、
名称は当時は”成り銀将(金将動き)”と、
本ブログでは見ている。ちなみに玄怪録の
岑順(小人の戦争)では物語り上として、
金銅製の立体将棋駒との旨の記載が有る。
 冒頭で述べたように、そもそも”史料とし
て出土していない16本の、初期配列で盤面
に置かない、成ったときだけ使う立体駒の存
在は、現物が出土していない現状では、無い
としか見なせない”という、今の将棋史界の

オキテの縛りを前提としてしまうと、
本ブログの論に到達できない事は明らか

である。
 しかし、

単に駒のピースの数を増やすだけなのに、
出土するまで無いと仮定する事の不自然さ

に気がつくと、本ブログの論に耳を傾ける
準備までは出来るのではないか。以上のよ
うに、私には疑われるという事である。
(2019/09/20)

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8升目型原始平安小将棋は本当に点対称配列か(長さん)

今の所本ブログでは、金将1枚銀将2枚の
8×8升目原始平安小将棋や、金・銀・象
1枚づつの大理国原始平安小将棋は、玉左
金将右初期配列の、点対称将棋だとの見解
である。これが正しいかどうかが、今回の
論題である。

今の所、先後手で玉金等の配列が入れ替わ
るとは、考えにくい

とみられる。では、以下に理由を挙げる。

13升目の二中歴記載の平安大将棋に、
対称性を崩したように見える傾向が無い

からである。
 以前に述べたように、先手と後手とで、
玉・金を入れ替えるのは、真似将棋対応だ
と考えられる。
 ユーラシア大陸の西域では、イスラムアッ
バース朝の西暦775年頃に、ペルシャ伝来
のチャトランガ系のゲームが、改善された
ときに、順次、王と大臣が、先手後手で反対
配列になったと聞いている。イスラムシャト
ランジは、先手が左玉、西洋チェスは、先手
が右玉だと認識する。
 しかしながら、日本の場合、9升目型の
標準型平安小将棋で、余り左右が問題にされ
た気配が無いばかりでなく、陰陽寮や藤原氏
が、からんでいるとみられる、平安大将棋も
マネ将棋に対応しようとしている形跡は無い。

従って今の所、インド2人制古チャトランガ
の先手後手左玉が、8升目の平安小将棋でも
踏襲された

と仮定せざるを得ないように、私には思える。
 なお、左玉統一か、右玉統一かも確定とは
言えないと思うが、中将棋でも左玉になって
いるため、

暫定的に点対称の左玉を初期仮定

せざるを得ないという状況かと考えられる。
 従って将来、何らかの史料が出てくると、
ひっくり変える可能性もある。
 右から入ってくる相手の駒で、玉が逃げ遅
れるという展開が余り見当たらないため、

着手の大きな変化は、この将棋種では考えに
くい。

が、一応、チェスやシャトランジのような配
列の可能性もあると、頭に入れておく必要は、
有りそうである。(2019/09/19)

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世界チェス化仮想日本の将棋に持駒ルールは無いか(長さん)

以下は、持駒使用の謎の木村義徳氏も主張して
いない、たぶん架空の仰天早期持駒ルール導入説
の当否を推定する話である。

否だと結論

され、理由は、

多少の強ルールは、持駒ルール導入の防げには
なら無い

からだと以下記載する。
 さて、木村義徳氏の持駒使用の謎によれば、

持駒ルールの導入は、駒の色分けの無さが原因

であるとされている。だから、”桂馬が八方桂馬、
香車が飛車では無かったので、考え付いた”とは

持駒使用の謎には書いて無い。

 ここでは、木村義徳氏も仰天の、早期持駒ルー
ル存在説をチェックして見る事にする。つまり
発生源に関して木村氏が、”インド発の”として
いる桂馬・香車強化の非存在が、持駒使用の動機
であると、

無謀な理屈を付けた上で、

仮に真逆で、八方桂、飛車一段配列だったら、
攻守バランスが崩れて、持駒

使用ルールは、導入できないという結果に、本当
になるのかどうかについて、チェックした結果

を示す。なお前に書いたが、この”第3波”の
発生源はインドではなく、アラブであると、本ブ
ログでは、今の所見ている。
 結論を書く。
 イスラムシャトランジ型に標準化された、仮想
の日本将棋も、

持駒使用ルールに移行する可能性がある。

理由は、

酔象と猛豹(×2)を、飛車、角行の代わりに後
導入すれば良い

からである。
 以下、更に説明を続ける。
 以下は、日本将棋の初期配列である。

日本将棋初期配列.gif

上の日本将棋の、桂馬、香車を八方桂、飛車に取
替え、

歩兵は金将成り、飛車、八方桂馬、銀将は不成り
とすると、日本の将棋化したイスラムシャトラン
ジ、すなわち、木村義徳氏の持駒使用の謎記載の、
日本型世界チェスになると見られる。つまり、
木村氏の言う、実際には採用しなかった”第3波”
を採用した、

架空の日本の将棋

になる。これだと、攻守バランスは、オフェンス
が過剰である。しかしながら本来の日本の将棋は、
元々ディフェンス過剰の、9升目平安小将棋に、
攻撃駒としての飛車・角行を加えて、オフェンス
強化して成立している事を思い出すべきである。
つまり、

相当長い期間にわたり、守備が強すぎるのを我慢
して指していた

のである。この”我慢”の内容は、守備の強すぎ
から攻撃の強すぎに変えても、根本に、たいした
違いは無いのは明らかだ。だから、

後奈良天皇の詔とは逆の事を、大江匡房のような
(伝)”優れた”ゲームデザイナーがすれば良い
だけ

であると考えられる。つまり例えば以下のような、
不成りの酔象(この酔象は7方歩みとする)と、
猛豹を加えた42枚制の将棋は、

持駒ルール有りの状態で、攻守バランスは、現行
の日本将棋程度に取れている

と考えられる。

日本型世界チェス初期配列.gif

下記に、この将棋の終端局面の一例を示そう。

日本型世界チェス指終.gif

 持駒はたくさん有るのだが、以上の局面は、
後手が攻め倦んで、先手の勝ちを許したところで
ある。
 よって、国際標準化を(雲南で、結果としての)
日本の将棋が行わなかったのは、持駒ルールを
元から採用しようと、したためであるという
考えとは、いっけん

つながりそうだが”絶対つながる”と考えるのは
間違いだ

とみられる。つまり、持駒ルール導入の意図が、
弱ルールの固定の原因だとまでは、考えられない。
 なお、本ブログでは、成り金を増やし、かつ
殺さないようにする為に、弱ルールや、後退不能
な前後非対称ルールが、原産国(恐らく中国雲南
の南詔・大理)で採用、日本伝来前に、変成が
完了したとの見方を取る。
 何れにしても、ディフェンス過剰の弱ルールは、
持駒ルールで調整しやすい事自体は事実だが、

逆にオフェンスが強い場合のバランスの崩れは、
近王型の小駒を、増やせば良いだけだという点に、
注意が必要な事も確か

だと私は考えている。(2019/09/18)

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持駒使用の謎”アジア将棋”伝播波の本ブログ見解(長さん)

以下、木村義徳氏の持駒使用の謎の第2章象棋・
第3節アジア将棋に記載された、4種類の伝播波
に関する、本ブログの見解との比較について記載
する。
 ここでは、批判ではなくて、対応付けを目的と
している。

波の発生源について、本ブログは異論を持っている。
が、思考プロセスには学ぶべき事が多いと見ている。

結論から述べると、第1~4波の発生源がインド、
タイ、インド、インドと、持駒使用の謎には書いて
あるが、
 インド、ミャンマー、イスラムのアーバース朝、
中国と中国雲南の2箇所、というのが本ブログの
見解である。
 なお、ここで、持駒使用の謎とは、西暦2001
年に日本将棋連盟が発行した、将棋棋士で、元の
関西将棋会館の将棋博物館館長、木村義徳氏の
著書の事である。
 では、以下に論を続ける。
 まず第1波に関してであるが、以下の通りである。
象が飛車であると考えている本ブログでは、”弱い
動きの”と言う形容詞が、しっくりとこないのであ
るが、桂馬と弱い車駒の起源と伝播が、インド発で
あるという意見に、本ブログも賛成する。だから、

第1波の発生源は、インドであると考える。

 第2波は、タイ族が昔は中国の雲南省でムアンを
形勢していてタイ国内に居無いので、兵の3段目化
や成り規則の変化は、本ブログではタイではなくて、
ミャンマーが発生源との表現を現行取っている。な
お、持駒使用の謎にも、タイ族の歴史については、
記載されている
 第3波は、アル・ビールーニが”インドの象/車
は、イスラム・シャトランジとは逆”と記載してい
るという史料だけが唯一の根拠だが、本ブログでは、
発生源は、インドではなくて、イスラムのアッバー
ス朝だと考える。具体的な年期が少し前だと思うが、
ユーラシア大陸で、イスラム支配下のEU領域と、
中国とで、イスラム・シャトランジが、国内に居た、
アラブのアラブ人と、中国の大食人との間で、共通
に指されていたという意味での、木村義徳氏の”
世界チェス”という考えに、本ブログも同意する。
 第4波は、増川宏一氏の”ものと人間の文化史
110チェス”と、伊東倫厚氏の”将棋探源”の
記載から、前期インド2人制古チャトランガで、
兵駒はポーン動きと本ブログでは推定する。ので、
ポーンが原初、歩兵型が後と見る。そのため、中国・
朝鮮半島・ベトナム・カンボジアの直進兵が、
中国中原起源、

日本の前取り歩兵が、中国雲南起源である

と、本ブログでは考えている。
 以上のように4つの波のうち、インドで共通なの
は最初の波だけで、その他3波は、波が存在する事
に賛成するが、発生源が、持駒使用の謎と本ブログ
とでは、その見解が違っていることが判る。
 以下は今の所、本ブログ内だけでの言い回しだが、
3つもインドを作ってしまったので、木村将棋史観
では、”日本将棋が原始のインドのそれに近い”と
いうイメージが、

若干目立たなくなってしまった

ようだ。なお、持駒使用の謎を読む限り、原初の
日本の将棋は、木村義徳氏にも、”シーラカンス”
のイメージに、見えているらしいと読み取れる。
 このように発生源の推定がズレるが、思考プロセ
スが、持駒使用の謎と本ブログとで似ているのは、

ゲームのルールを重要視する点で、共通

だからである。
 なお本ブログでは、木村義徳氏が指摘しなかった、

囲碁の先行普及による、ゲームの良し悪しを見る目
の厳しさという、波伝播にとっての防波堤のごとき
の働き

を、中国中原、同ウィグル自治区方面、朝鮮半島、
日本について仮定している。その為、日本での
平安小将棋の立ち上がり時期に関する見解が、
防波堤の存在により、波が減衰して、広がらない
効果を新たに考えているために、

大きくヅレ、木村義徳氏の説よりも、増川宏一氏の
説に、本ブログでは良く合うようになっている。

 ただし、防波堤の向こうの国の普及を、特に中国
では、情報として古くから、良くつかんでいたと、
本ブログでは推定しているのである。
 以上が、ざっとした対応付けである。本ブログを
解析する際に、御参考願いたい。(2019/09/17)

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歩兵をチェスのポーンに変えると旦代問題は消える(長さん)

以下のような取捨て平安小将棋の序盤完了局面に、
攻め側から、有効な着手が無いという事を内容と
する、旦代の難点(旦代問題)は、歩兵が仮に、
チェスのポーンだとすれば、起こらないという
事実について、ここでは述べる。その結果、

ポーンから歩兵の進化は、日本国内では無い
可能性が出てきた

旨を結論する。
 旦代の難点とは、取捨て型9升目平安小将棋で
仕掛直前の以下のような、後手マネ将棋に於いて、
攻め側(通常は先手)に、有効な着手が無いとみ
られるという、標準型平安小将棋の行き詰まり問
題の事である。

標準平安旦代.gif

結論に向かって、とっとと進むが、上記の歩兵を
チェスの斜め前升目取り型の、チェスポーンで、
以下のように置き換えてみる。

標準平安旦代ポーン.gif

 ここからエクセル図で、▲H5ポーン(日本将棋
棋譜の▲2五ポーン)と指し出して進めると、たと
えばマネ将棋を続けると、以下のように変化する。

標準平安旦代指掛.gif

 この指掛け局面では、マネ将棋だったため、早晩
行き詰まるか、先手必勝になるとみられる。が、

とにかく旦代の難点は、解消している。

 つまり、兵駒が、歩兵ではなくてポーンだった、
伝来国時代の原始的な日本の将棋では、標準型の
9×9升目の平安小将棋(伝:大江匡房発明)に
変えても、旦代の難点が、起こらないのである。
 想像では有るが、もしポーンを歩兵に交換したの
が、11世紀の日本国内であったとすれば、ポーン
であった記憶は、残っていて、歩兵が歩兵動きから
ポーン動きに、院政期にゆり戻す可能性が、有るよ
うに思える。
 しかしながら、そのような変化を、日本の小将棋
は、実際にはしなかった。

だから、伝来したときに、歩兵は歩兵だったため、
日本人にポーンの知識は無かった可能性が高いと
した方が、説明としては自然

のように、感じられる。
 以上の報告は、今までの本ブログの論とは、

矛盾している。

しかし、やってみるとそうだったので、これからは、
伝来したときには、たぶん既に、歩兵は歩兵の可能
性が高いとの説に、変えようと思う。(2019/09/16)

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雲南・南詔国では何故囲碁が流行らなかったのか(長さん)

あくまで以下本ブログの見解であるが、中国雲南
の方が、実際に将棋類が指された時期は、中原よ
り早く9世紀、中国シャンチーや日本での将棋の
発生は、それより遅く中国が12世紀、日本が
11世紀としている。
 原因は、囲碁が盛んな国では、ゲームの性能に
関する評価がうるさく、

つまらないと見られると、指されないからだ

と見る。つまり遅いほど、ゲームの質に関して、
うるさい国だという意味である。もう少し判りや
すく言うと、現在では、どちらのゲームも盛んで
ある訳だから、囲碁をするので暇が無く、将棋等
を指さないという意味では無くて、

囲碁で目が肥えていると、ルールに難のあるゲー
ムは、流行らなくなる

と考えていると言う事である。
 逆に言うと、現在の中華人民共和国でも、雲南
省では9世紀頃、日本や中国の唐ほど、囲碁が盛
んでは無かったと推定されるという事になる。
 問題は民間ではなくて、暇をもてあましている
上流貴族に関してであり、モンゴル帝国に滅ぼさ
れてしまったので、記録は断片的であるが、仏教
は盛んだが、囲碁が雲南にあったという証拠は、
簡単には探せないようだ。
 そこで、とりあえずは、それが正しいとして、
南詔国なり大理国で囲碁は流行らず、つまらなく
ても、インドの将棋の”幾つもの波”が、そこま
では届いた理由、つまり囲碁文化に阻まれなかっ
た理由を、ここでは論題とする。
 結論を先に書く。

雲南大理市等の緯度が、北緯25°程度と、中国
中原の40°や日本の35°より低く、星空の
北天の周極星が少ない為、中国流の星座感が育た
なかったため

だと見られる。
 では、以下に説明を続ける。史実は以下の通り
である。
 すなわち中国で囲碁が何時から指されていたの
かは、私にはよく判らない。中国の南北朝時代の
小説に出てくるし、六博と比較した文書もあるか
ら、相当に前だ。日本に関しては、藤原京から、
7世紀の碁石が多量に出てくる事が判っている。
唐代伝奇集には、”日本の王子”という、囲碁を
題材とした小説があるし、倭人伝に、囲碁を好ん
でする民族との、紹介もある。
 最初に指されたのは、より前かもしれないが。
この点に関して本ブログでは、囲碁は藤原京頃の
時代から、日本では盛んになった事。原因は、最
も初期の暦法の、平朔式を定朔式に改める為の、
月の位置に対する恒星の配列に関する観察技術を、
宮勤めの役人が習得するよう、朝廷から強いられ
たときに、

中国星座や、囲碁に詳しい下級役人の、上役から
の評価が高かったため

ではないかとの旨の説明を、前にしている。
 ところで、中国の宋代までの星座観は、三垣と
言われる天球上の領域のうちの一つに、

”紫微垣”と称する、日本や中国中原での北天の
周極星の領域があり、それを天の王宮とみて、あ
の世の王国がある

という恒星天文学だったと、私は認識している。
平凡社(1969年発行)の薮内清氏著の、
中国の天文暦法”宋代の星宿”によると、王宮の
範囲は、北緯50°付近の、うしかい座λ星付近
が南限のようである。これは長安が、北緯40°
内外で有る事と、良くあっているようである。
 常識的に考えて、北斗七星とカシオペア座が、
概ね周極星に見える事が、中国古代の星空王国観
を信じられる、前提だったのだろう。そして、
こうした恒星天文学観は、当然だが、北天の周極
星領域が、中国の都の長安で見たのと、だいたい
同じ国でないと、成立しない。だから、日本の
近畿内を都としていた、大和朝廷では、唐代中国
の天文観を共有し、ツイタチを月齢1にするよう
な歴法に、唐王朝が変えれば、

天体観測を熱心にして、月の星座上の位置を良く
観測して、それに習うという事

を、単に”唐からそのうち、暦が届けばよい”と
いう程度以上に熱心にしたのであろう。なお、
推定だとみられるが、日本に関しては、その頃
百済国が滅亡して、暦の輸入が途絶えたと、考え
られているようである。
 しかしながら、現在は中華人民共和国の領土内
であるが、緯度が15°程度南の、北緯25°内
外の雲南では、北天の周極星領域が、長安での見
え方よりも狭く、天の王宮のイメージが、かなり
ヅレていた。そのため、

中国王朝の天文星座思想観を、余り真に受けては
い無かった

のではないかと、私には疑われる。中国で平朔か
ら定朔の暦になっても、南詔の王室は、下級役人
に星空の恒星の配置を熱心に記憶させたり、その
結果、囲碁を指す棋士に対する、評価を上げたり
はしなかったのではないか。
 雲南は稲作の発生地だと言われ、現在でも田が
あり、また陰陽道の風習が残り、仏教も盛ん等、
インドシナの人種と中国系の混血である日本人と
共通の点があると、古くから言われている。最近
では、夢枕獏氏等も、その説に賛成する成書を、
出しているようだ。
 しかし囲碁についてだけは、星空の違いの関係
で、両者に違いが有った疑いが、濃いように私に
は思える。すなわち以上のように、雲南では王室
の中でも、囲碁は、日本の朝廷ほどには熱心では
なく、非常に強い棋士が、雲南域に誕生する事も、
雲南では、南詔・大理の時代には、無かったの
ではないか。そのため、ゲームの出来に対する見
かたも、良い出来のゲームを具体的に、目の当た
りにする事が少なかった為に、あまり厳しくは、
なかったのではないかと、私には疑われる。
 以上の事から、途中から将棋盤の上に、銀製の
駒が並んで豪華であれば、飛車で、王を終盤追い
回すだけで、ゲーム性能が低い宝応将棋も、中国
中原の長安や開封とは違って、雲南の南詔国では、
受け入れられたのではないかと、考えられる。
 つまり、インド・マウカリ→・・・→ペグー→
バガン→ピュー→雲南の”インド原始将棋の波”
は、”囲碁によって肥えた目”に阻まれる事なく、
中国雲南省の、南詔・大理国までは到達し、たと
えば、その先の、中国南西→中国東北の間の矢印
の所で9~10世紀に、それに阻まれて、博多に
到達しなかったのではないかと、私には疑えると
言う事になるのである。(2019/09/15)

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馬が桂馬で車最弱インド古チャトランガのチェック(長さん)

以前に引き続いて、日本将棋が単なる変り種
(八方桂チャトランガ)なのか、シーラカンス
の類(桂馬チャトランガ)なのかの分かれ目
になる、西暦775年頃までの、象が飛車型の
前期インド二人制古チャトランガの、馬の
ルールをチェックする話題を続ける。
 今回は船/車駒の動きが最弱でも、馬が桂馬
の仮想の弱初期古チャトランガが、ゲームとし
て問題が無いのかどうかを考察した。

飛龍型とされる、インド古チャトランガの端筋
船/車駒を、塞象眼のある、中国シャンチーの
象駒と同じルールとした。

このケースは、跳び越え飛龍および、1または、
2升まで走り飛龍が、何れも中国シャンチーの
象の動きを包含する。だから、馬が桂馬として

これでも大丈夫なら、馬が桂馬では、絶対無い
と、言うわけには行かないと考えられる。

結論を先に書く。

動きが相当窮屈だが、指しようが無くなるとま
では行かず、やはり二人制古チャトランガの馬
が、桂馬動きで無いとまでは言えない

事が判った。
 では、以下論を続ける。
 下の局面は、そのようなルールで指した、イ
ンド2人制古チャトランガの駒組の例を、動き
が判るように、別の駒名で表現して、示した一
例である。

弱二人制チャトランガ駒組.gif

8升目の場合、上のような陣形は、先後手同形
にならず、たとえば上の例では、F筋かG筋
のポーンを先手が突いて、仕掛となる。ここか
ら指し進むと、たとえば以下のようになる。

弱二人制チャトランガ途中.gif

上の局面では、動かして意味のある駒が、いっ
けんして余り無い事が判る。
 後手が△F3大臣と指した所であり、
次ぎは先手番だとすれば、後手の△E4大臣(
大臣は動きは八方歩み)で王手を掛けて来るの
は見えているから、▲G5ポーンだろうか。
 その後は、△E4大臣▲G6王△F4大臣
▲H5王△G5馬(桂馬)▲H3ポーンという
展開は、有り得るだろう。かなり狭苦しい将棋
ではある。一応後手が少し有利で、攻めは続き
そうだ。
 だから、ようするに”王か大臣を使って、浮
いた相手の駒を取りに行けば良い”と言えば、
そんな将棋なので、

着手は、完全には無くなりにくい

とみられる。
 なお、別の局だが、一応以下のような形で、
正常に勝負が付く事も、ときにありそうだ。

弱二人制チャトランガ指終.gif

 よって、

このようなゲームも、西暦775年までインド
では、絶対にやら無いとまでは言えない

ように、私は思う。
 むろん、そもそも船/車が正しい名前である、
局面中の”飛龍”と表示された駒が、隣接升目
へも行ければ、指せる手は目に見えて増える。
間に別の駒が有っても、跳び越えられる場合も、
同様である。
 だから、そのケースは益々”馬が桂馬の2人
制古チャトランガは有り得無い”とは言えなく
なるだろう。
 以上の事から、
大臣が近王動きの8方向歩みというのは、イン
ド2人制古チャトランガでは、ほぼ確実なため、

大臣で相手の遊び駒を、追いかけて行けば手は
簡単には無くならず、馬が桂馬でも、ゲームと
しては貧弱だが成立する

と、私はこのゲームに関しては、考えるように
なったのである。(2019/09/14)

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シャッツロンの斜め取りしない兵は何処から来たか(長さん)

カンボジアでは、シャッツロンという象棋類
が指されている。9路型が近世には8路型に
なったと聞いている。ルールは独自性がやや
強く、イスラムシャトランジ群のひとつだが、
大臣駒の動かし方が、微妙に違う。また、
表題にあるように、

兵が日本の将棋の歩兵型の動きをする。

今回は、最後の点を論題とし、

恐らく、中国シャンチーの影響だろう

と結論する。
 カンボジアのシャッツロンのルールについ
ては、web上に余り無く、将棋天国社の
改定世界の将棋(梅林勲、岡野伸)が、今の
所唯一の情報源である。
 王と大臣駒、象、馬、車駒一段配列。
3段目が兵で、兵は中央ライン越えで相手陣
四段目(恐らく)大臣成りだという点は、
マークルックや日本の原始平安小将棋と
類似であるとみられる。成りが更に1段早い
が、シャンチーと関連性が有りそうだ。
 駒の動かし方ルールは、世界の将棋による
と次の通りとなっている。
 王は八方歩み、馬は八方桂馬、車は飛車な
ので、シャトランジ型だ。兵は日本の歩兵で
あり、相手駒を前1升目で取るのが、特徴的
である。
 大臣と象は変わっていて、次の通り。
 大臣駒は猫叉の斜め歩みの動きだが、後方
で相手駒が取れないという。
 象は八方歩みで、前方計3升でだけ、相手
駒が取れる。

理由を推定するのは困難であるが、象は銀将
動きが元で、引き分けを少なくするため、
やや強く、カンボジア内で調整した

との心象を持つ。猫叉の後方取りは、実戦で
は余り出てこないので、これも、単なるカン
ボジアでの調整と考えて、矛盾はあるまい。
 そこで、本題の兵の歩兵化の理由を考える。
本ブログでは、日本の平安小将棋の歩兵の
非ポーン化は、

どこで起こったのか、はっきりしない

と今の所見ている。カンボジアシャッツロン
に関しても、だから確定は困難だろう。
 ただし、シャッツロンの場合、明らかに、
中国シャンチーの影響で一時、兵が4段目化、
線置き化しているので、斜め動きが、その時
代に消失したと考えても、今の所大きな矛盾
は無いと見られる。

 この程度の理由だが、今の所、9路化した
ときに、シャッツロンのポーン型の兵が、
タイのマークルックと違って、歩兵型に変化
した

のかもしれない。なお、兵のルールが変わる
と、序盤の攻め筋は大きく変わるが、それだ
けの理由で、変化の経緯を特定するのも、困
難だろう。なぜなら元々、小型の将棋類は、
さほど複雑なゲームという訳でもないので、
プレーヤーの世代が代われば、流行り廃れで
比較的容易に、ひっくり返る程度のものだっ
ただろうからだ。
 そもそも、シャッツロンの場合、

動かすときと、相手駒を取る時とで、動きを
同じにしようとしていない。

つまり、兵は同じになったが、別の国の象棋・
将棋と違い、大臣と象は、むしろ、独自に差
を付けるようになっているのである。
全体としてカンボジアのシャッツロンと、
タイのマークルック等との差が、近世の調整
のためであるように、少なくとも見えるのは、
その為のような気がする。
 よって、カンボジアのシャッツロンの兵の
非ポーン化は、恐らく中国起源で、時期は比
較的最近。日本の平安小将棋の非ポーン化は、
原産地での調整または、日本国内の調整であっ
てかなり古く、起源は

別々である

と、今の所私は考えている。(2019/09/13)

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西洋チェスの王と女王はなぜ白黒逆か(長さん)

以前、インドの古将棋である二人制古インド
チャトランガをチェックしていて気がついた
事がある。このゲームは、真似将棋を指すと、
引き分け必然であるにしても、先手必勝であ
るにしても、

先が見えてしまう

という問題が有る事である。これは、序盤に
八方桂馬がニ枚づつ有る、ゲームである事が
大きい。
 web上に明確な回答は見当たらないが、
西洋チェスの初期配列で、白黒のキングと
クイーンが逆配列なのは、

マネチェスを、最初から拒否しているから

に違いない。
 もう少し、先に進もう。西洋チェスでは、
後手の黒番はチャトランガ等と同じく、王が
左、大臣から進化した女王が右である。しか
し、先手の白番は、これとは逆で、王が右、
女王が左である。チェス盤はチェッカー模様
になっていて、王を同じ色の升目に置く習慣
に、なっているようだ。
 事実は以上である。
 これは、簡単に先行研究は探せるであろう。
多分、日本のゲーム史研究者の、旦代晃一氏
が、三元社(2002)が出版した、

日本文化としての将棋

あたりでも、言及しているに違いない。
 残念ながら、前に見かけたとき、佐伯真一
氏の普通唱導集の将棋唱導唄の分析部分を、
私は集中して読んだ結果、旦代氏の将棋の
起源絡みの執筆部分を、うっかりして読み
飛ばしたようで、無念である。
 何れにしても本ブログでは、

西洋チェスの先後手逆配列(線対称型)は、
マネチェスの事前防止

との見かたを、今の所支持したいと考えてい
る。(2019/09/12)

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八方桂型インド二人制古チャトランガは先手有利(長さん)

欧米の遊戯史界で、現在は、インド2人
制古チャトランガは、下段が飛龍、八方桂、
飛車、玉将、大臣、飛車、八方桂、飛龍
動きだというのが、定説だろう。実際に
指してみると、八方桂が序盤に活躍するし、
兵が、相手の駒を取る時2方向のポーンな
ため、働きが日本の将棋の歩兵に比べて
大きく、いかにも、旨く行っていそうに、

序盤だけ見える。

しかし、馬が強いので、玉将、大臣、飛車
の配列は、イスラムシャトランジの、
飛車、八方桂、飛龍、玉将、猫叉、飛龍、
八方桂、飛車の、象/車逆転配列よりも、

王手飛車を食いやすい。

1300年以上も前のゲームにしては、
いっけんマトモだが、本当に王手飛車が
簡単にできるゲームが、古代インドで指さ
れたのかどうか、若干の疑念も有る。
 ただし、以前の例では、後手が悪手を
指した場合に、序盤で先手から王手飛車を
喰らった場合であった。実際には序盤の悪
手は、何回か経験すると、指さなくなると
考えられる。そこで、今回は、もっと良い
例が無いかどうか、探してみた。
 結論を書く。

先手が飛龍を、盤面中央ではなくて、端で
切る手の方が、より判り易すそうである。

この例から、

日本の将棋のように、インドの2人制古
チャトランガも、馬が桂馬だったのではな
いかと、より強く本ブログの管理人には疑
われ出した。

では、説明を続ける。
 インドで西暦600年から775年まで
は、少なくとも指されたとみられる、象が
飛車動きの、初期インド2人制古チャトラ
ンガの馬が桂馬であるか、八方桂であるか
どうかは、

日本の将棋、特に平安小将棋系のゲームの
系統樹上の、位置付けを決定するのに重要

である。つまり、弧立型(八方桂の場合)
か、生きている化石類としてのインド古形
型(桂馬の場合)かを決める、分かれ目に
なるからである。つまり、玉と金将の他に、
もう一種類、最下段に動きが両者で、共通
の駒種が、あった方が良いという意味であ
る。そこで、初期インド2人制古チャトラ
ンガの駒構成については、入念に検討する
事が、特に日本の将棋史家にとって重要と
考えられる。
 そこで、もっと判りやすい、インド2人
制古チャトランガの序盤の王手飛車局面を
探したところ、以下のような例を見出した。
 以下の局面は、以前示した陣形に似てい
るが、以前の陣形とは袖のポーンが更に、
上がっている点で違っている。すなわち、

以前の陣形から、仕掛けずに、もう少し、
先後手同形に、互いに駒を組んだ所である。

2人制チャトランガ仕掛2.gif

 ここから、先手が先攻めするのだが、
前と違って、左飛龍は陣の中央で捨てずに、
端筋の方で捨てる。
 すなわち、上の図のエクセル記号のまま
で、着手を表すと、以下のように表現され
る。
 ▲B4ポーン△(A3から)B4同ポー
ン、▲A4飛龍、△(B3から)A4同ポー
ン、▲(A5から)B4ポーン、△A1右
の飛龍、▲C6八方桂馬、△G5ポーン、
▲B3ポーン△(C2から)B3同ポーン、
▲E5八方桂馬、△(G5から)H6ポー
ン、▲B4八方桂馬で、以下の局面になり、
王手飛車が成立する。

2人制チャトランガ成立2.gif

 ここでも厳密に言うと、後手は悪手を
指している。すなわち先手の、端の捌きに
関して、

相手にしないという方法がある

のである。
 本当なら、先手の手を、後手は完全に、
マネた方が良かったに違いない。しかし、
強いられて、マネ将棋を指した場合には、
たいがい先攻め側が、勝つ場合が多い。

以上の例から見て、このゲームは、先手
がかなり、有利なのではいかと、私は疑う

ようになった。
 1300年前とはいえ、インドでは、序
盤の駒の捌きは、確かに華麗とはいえ、

本当に、極端に先攻め側が有利な将棋を、
指していたのだろうか

という疑問は、少なくとも無視は、し得な
いように思う。
 1300年も前の事だからと言ってしま
えばそれまでだが。やはり、

インドの2人制古チャトランガの馬駒は、
序盤に大駒の交換が余り起こらない、桂馬
型だった疑いも、欧米の研究者の現行の多
くとは違って、無視は、し得ないのではな
いのか。

以上のようにして、日本の将棋が、シーラ
カンスのように、古代の記憶を残したゲー
ムである可能性は、全く無いとまでは言え
ないような気が、私には以前に増して、か
なり強く、するようになって来たのである。
(2019/09/11)

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