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興福寺2013年出土の酔象の裏が薄く金将の訳(長さん)

以前に述べたように、橿原考古学研究所
の発表と異なり、西暦2013年に、奈良県
興福寺で発掘された、西暦1098年物酔象
駒には、web上の新聞発表写真で見る限り、
楷書で

2文字”金将”と裏に薄く書かれている

ように見える。薄いため、画像処理の過程で
たまたま見える、幻影の疑いも依然残る。が、
今回は敢えて、

本当に裏二文字金将酔象駒であったとしたら、
何を意味するのか

を論題とする。なお、この出土駒はさいきん、
奈良で一般公開されたが、保存処理未完了だっ
たため、水面に裏面を水没させて展示されて
おり、仮にwebが正しかったとしても、気
づく者も、居なかったようだ。
 最初に回答を書く。

酔象を玉将の右隣に初期配列した、元駒とし
ての金将駒の無い、興福寺原始平安小将棋
(8升目、取捨て)の存在を意味している

可能性がある。
 では、説明を続ける。
 本ブログによれば、西暦1015年に日本
に伝来した原始平安小将棋は、以下の初期配
列であり、金将1・銀将2の構成であったと
見る。

8升原始平安小将棋.gif

 所で当時、興福寺にても、その後調査の結
果、伝来元国の、推定大理国の船出の将棋は、
以下の大理国原始平安小将棋の配列で、金将
1、銀将1、酔象(大理国では象)1の初期
配列であり、右銀の象置き換え型である事が、
寺で棋士には知られていたとみられる。

大理原始平安小将棋.gif

更に、この酔象は、角行動きで、後退できる
し、後方に退路を塞ぐ駒も、初期配置されて
いないので、不成りだったと、本ブログでは
見る。
 つまり興福寺でも、以上の事実を、西暦
1058年までに、掴んでいたと考える。
 この結果からは、興福寺の出土駒が、

裏が無地で、オモテに酔象と書かれている

はずであると、推定できる。
 しかしながら、実際には、裏に金将と書か
れていた訳である。だから、結論を言うと、

金将が元駒に無い、原始平安小将棋を、上記
の、大理国原始平安小将棋とは別に、興福寺
では特別に、指していた

としか、考えられない。ここで、金将が元駒
にあるケースは、酔象が金将成りであったと
して、”金く”等、金也に近い字が、裏に書
かれるはずである。並べるときに、元からの
金将と、紛らわしいので、区別するために、
そうすると考えられる。実際には、ゲーム
のときに、金将と入れ替えるのであろうが、
時々興福寺で西暦1098年に、金将の無
い、原始平安小将棋が指されたと仮定しよう。
そのため、補助駒から、作成したのであろう
が、成り裏二文字金将酔象駒が、実際に必要
になったのだろう。
 そのような将棋は、以下の図のような、

8×8升目32枚制興福寺原始平安小将棋
(取捨て型)だったとみられる。

興福寺原始平安小将棋.gif

 この配列では、酔象1、金将0、銀将2
となる。このような銀だけ将棋を、大規模に
指す国は、存在しなかったとみられる。しか
し興福寺だけでは、指されたのであろう。
 それは、以下のような事情に、よるものだっ
たと考えられる。すなわち当時、

イスラムシャトランジが知られていた中国か
ら、”象駒が、跳ぶ飛龍の動きである”との
情報が、中国から来た僧等を通じて等で、
興福寺のゲーマーに、追加で伝わった。

 元々、2つ前に示した、大理国原始平安小
将棋では、先手なら図のF6の位置の歩兵を
▲F5歩としてから、F8の位置の先手の、
酔象を一旦▲E7酔象と金前に寄せ、ついで
香車先H6の歩兵を▲H5に上げて、酔象で、

H4の地点を狙う、自分から見て右袖攻撃が
普通

である。所が、イスラムシャトランジの象の、
飛龍動きに、大理国(古代インド)型の、
角行動きから変えてしまうと、酔象を金前に
は出せなくなる。
 そこで、酔象を元の右銀の位置から、金将
を外して、玉右の、3番目の興福寺原始平安
小将棋配列のように、E8に、金に成る酔象
に変えたに違いない。銀将が有って、金将が
無いのはおかしいが、将棋史の研究で、彼ら
は将棋を指していたのではなくて、御遊び、
または賭け事で指していたので、多分に、御
ふざけ的な要素が、有ったに違い無い。彼ら
も、牛僧儒の玄怪録岑順(小人の戦争)の話
は、ひとづてに聞いて、知っていて、

”金象将軍将棋”とでも、この変形タイプの
将棋を呼んで、興福寺の将棋場では、盛り上
がっていた

のではなかろうかと思われる。すなわち、
3つ目、一番下の配列では、右袖からの攻
撃はできないが、玉将の頭を跳び越えて、

自分から見て左袖からの攻撃は可能

である。すなわち、▲C5歩~▲C5酔象~
▲A5歩で、今度はA4の地点を先手の酔象
で、狙うのであろう。
 この興福寺原始平安小将棋も、ふつうの
原始平安小将棋、大理国原始平安小将棋同様、
軽快に駒が捌けて、局面が先々へ進んでゆく
と考えられる。ただし、相手陣の最奥に、
酔象が入れないので、成りを不成りから、金
将成りに調整したと、考えられる。つまり、
本ブログでは、実際に西暦2013年に

出土した酔象駒は、興福寺の、全くのオリジ
ナル・ゲームに使用されたものと考える

と言う事である。ただし出土はしなかったが、

橿原考古学研究所の言うような、裏が無地の
酔象も、別に有るのだろう

と考える。象が後退できない歩みでも、角行
動きでもなく、”中国では、イスラムシャト
ランジの象の動きになっている”という情報
を得て、ツジツマをあわせるために、調整し
た新型ゲームに、たまたま使われた駒の、出
土であったという意味である。
 このように、南都北嶺と言われたとはいえ、
自分達で勝手に、本来皇族用に伝来したはず
の、原始平安小将棋(8升目、取捨て型)を
改変したため、朝廷では源隆国なり大江匡房
の、興福寺の下級僧のやり方に対する評判は、
さぞ良く無かった事であろう。
 それが、9升目型の標準的な平安小将棋の
設定の原因につながって行ったという事は、
充分に有り得る事だと、私には思われるので
ある。(2019/09/01)

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