宝応将棋の兵卒。ポーンは行き詰まり歩兵は良好(長さん)
前に述べたが、本ブログでは、これまで西暦
825年時点の、”中国山奥の将棋”である、
(伝)牛僧儒が玄怪録岑順(小人の戦争)に
記載の、宝応将棋の一段目配列は、以下の通
りと見てきた。
一段目配列駒名(現地、西暦825年):
輜車、天馬、上将、金将、銀将、上将、天馬、輜車。
これと、動きが等価な日本の将棋駒名は、以
下の通りである。ゲームの出来のチェックに
は、便宜上、こちらで表現するものとする。
一段目等価駒名:
香車、桂馬、飛車、玉将、金将、飛車、桂馬、香車。
2段目は空き。3段目に配列駒名で、兵卒が
配置され、
等価駒は、西洋チェスのポーンだとしてきた。
なお、成り条件則は、相手陣3段目突入の
一発成り。兵卒、輜車、天馬が、初期配列駒
名の銀将、動きとしての等価駒で言えば、
金将に成るとした。この将棋に持駒ルールは
無く、取り捨てである。
また、この将棋は8×8升目で、金銅の立体
駒を少なくとも一部に用い、よって升目置き
とみられる。
結論から述べると、
この将棋は、仕掛ようとしている時点で、後
手が先手のマネ将棋を指すと、行き詰まる
事がありそうだ。
だから、兵卒がポーンではだめであり、
第4波のポーンの歩兵化は、早期に起こりそ
うだという事が、実際にゲームをチェックし
て判った。
結論は以上だが、論を続ける。
以下は、上に述べた、この将棋の初期配列
である。
指し始めから以下のように、駒を先手後手
で同形に組むと、以下の仕掛局面で
先手に有効な攻めの手が、恐らく無い。
日本の将棋で、9×9升目の標準型平安
小将棋で、マネ将棋の仕掛直前局面で起こっ
た、旦代の難点と、
効果が類似の物
である。
この原因は、桂馬が相手陣2段目突入で成
れるようになったため、行き止まり駒で無く
なり、高飛びを許せなくなった効果が大きい。
桂馬の高飛びを許さないようにするためには
言うまでも無いが、高く飛んだ桂馬を”餌食”
にする
”歩兵”が必要だ。
だから、ポーンでは駄目なのである。
試しに、ポーンを全部、日本の将棋の歩兵
に交換すると、この問題は
たちまち消える。
よって、前に本ブログで紹介した、
宝応将棋のモデルは間違い
であり、たとえ最初に、”中国山奥”の将棋
の兵がポーンで有ったとしても、
第4波である、兵卒のポーン→歩兵化は、
早期に起こった
と、考えざるを得なくなった。
尤も、本ブログの論が、元々間違いで、
木村義徳氏の持駒使用の謎に書いてあるよう
に、第4波が、歩兵→ポーンであって、
中国山奥では、それが無かったと考えれば、
問題は、最初から無かったのではないかと言
うと、その通りである。
以上の結果から、恐らく西暦825年時点
でも、中国ではまだ、シャンチーが無かった
ので、第4の波の、発生源にすらならなかっ
たとして、
別の第4波は”中国山奥”では、将棋ゲーム
の微調整の必要性から、その約200年前に
発生し、その”中国山奥”だけで、”弧立波
として留まった”
と考えざるを得なくなったと思われる。
本ブログでは冒頭で書いた等価駒名:
ポーン×8
(空き)
香車、桂馬、飛車、玉将、金将、飛車、桂馬、香車。
の宝応将棋が、海端なら”海の家”のはずで
あるから、山荘という表現なら、山奥に違い
ない場所で、
歩兵×8
(空き)
香車、桂馬、銀将、玉将、金将、銀将、桂馬、香車。
と変性して、西暦1015年推定1月に日本
に伝来し、五角形の木片群に置き換える事に
よって、原始平安小将棋になったと、当然
見ている。
よって、日本の将棋にとっての、第4波は、
西暦825年にほど近い頃に、中国の山奥で
発生し、ただちに”自己到達”したから、
切り替わったと、今後は見なす必要が、当然
の事ながら、有る事になったのである。
(2019/09/21)
825年時点の、”中国山奥の将棋”である、
(伝)牛僧儒が玄怪録岑順(小人の戦争)に
記載の、宝応将棋の一段目配列は、以下の通
りと見てきた。
一段目配列駒名(現地、西暦825年):
輜車、天馬、上将、金将、銀将、上将、天馬、輜車。
これと、動きが等価な日本の将棋駒名は、以
下の通りである。ゲームの出来のチェックに
は、便宜上、こちらで表現するものとする。
一段目等価駒名:
香車、桂馬、飛車、玉将、金将、飛車、桂馬、香車。
2段目は空き。3段目に配列駒名で、兵卒が
配置され、
等価駒は、西洋チェスのポーンだとしてきた。
なお、成り条件則は、相手陣3段目突入の
一発成り。兵卒、輜車、天馬が、初期配列駒
名の銀将、動きとしての等価駒で言えば、
金将に成るとした。この将棋に持駒ルールは
無く、取り捨てである。
また、この将棋は8×8升目で、金銅の立体
駒を少なくとも一部に用い、よって升目置き
とみられる。
結論から述べると、
この将棋は、仕掛ようとしている時点で、後
手が先手のマネ将棋を指すと、行き詰まる
事がありそうだ。
だから、兵卒がポーンではだめであり、
第4波のポーンの歩兵化は、早期に起こりそ
うだという事が、実際にゲームをチェックし
て判った。
結論は以上だが、論を続ける。
以下は、上に述べた、この将棋の初期配列
である。
指し始めから以下のように、駒を先手後手
で同形に組むと、以下の仕掛局面で
先手に有効な攻めの手が、恐らく無い。
日本の将棋で、9×9升目の標準型平安
小将棋で、マネ将棋の仕掛直前局面で起こっ
た、旦代の難点と、
効果が類似の物
である。
この原因は、桂馬が相手陣2段目突入で成
れるようになったため、行き止まり駒で無く
なり、高飛びを許せなくなった効果が大きい。
桂馬の高飛びを許さないようにするためには
言うまでも無いが、高く飛んだ桂馬を”餌食”
にする
”歩兵”が必要だ。
だから、ポーンでは駄目なのである。
試しに、ポーンを全部、日本の将棋の歩兵
に交換すると、この問題は
たちまち消える。
よって、前に本ブログで紹介した、
宝応将棋のモデルは間違い
であり、たとえ最初に、”中国山奥”の将棋
の兵がポーンで有ったとしても、
第4波である、兵卒のポーン→歩兵化は、
早期に起こった
と、考えざるを得なくなった。
尤も、本ブログの論が、元々間違いで、
木村義徳氏の持駒使用の謎に書いてあるよう
に、第4波が、歩兵→ポーンであって、
中国山奥では、それが無かったと考えれば、
問題は、最初から無かったのではないかと言
うと、その通りである。
以上の結果から、恐らく西暦825年時点
でも、中国ではまだ、シャンチーが無かった
ので、第4の波の、発生源にすらならなかっ
たとして、
別の第4波は”中国山奥”では、将棋ゲーム
の微調整の必要性から、その約200年前に
発生し、その”中国山奥”だけで、”弧立波
として留まった”
と考えざるを得なくなったと思われる。
本ブログでは冒頭で書いた等価駒名:
ポーン×8
(空き)
香車、桂馬、飛車、玉将、金将、飛車、桂馬、香車。
の宝応将棋が、海端なら”海の家”のはずで
あるから、山荘という表現なら、山奥に違い
ない場所で、
歩兵×8
(空き)
香車、桂馬、銀将、玉将、金将、銀将、桂馬、香車。
と変性して、西暦1015年推定1月に日本
に伝来し、五角形の木片群に置き換える事に
よって、原始平安小将棋になったと、当然
見ている。
よって、日本の将棋にとっての、第4波は、
西暦825年にほど近い頃に、中国の山奥で
発生し、ただちに”自己到達”したから、
切り替わったと、今後は見なす必要が、当然
の事ながら、有る事になったのである。
(2019/09/21)