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大理国の滅亡が無いなら大理国小将棋はどうなった(長さん)

本ブログによれば、日本の将棋は西暦1015年
まで中国雲南省の人間、それ以降、日本人によっ
て改良され、完成したものとされている。
 これにより”伝来前に日本人が、ゲームを調整
したかに見える”という矛盾が一応回避される。
つまり最近まで、これが全部、日本人によるもの
と誤解され、遅い伝来説の事実上のパラドックス
と考えられてきたというのが、ここでの考え方だ。
 繰り返すと、モンゴル帝国によって大理国の王
宮に居た貴族将棋棋士は没落させられ、西暦
1253年頃に、”日本の将棋を指す階層が、
日本人だけ”になって、大理国原始平安小将棋は、
立ち消えになったと見るのである。ここでは、
モンゴル帝国が存在せず、南宋の次ぎは明で、
清王朝も雲南は放置したとしたら、現代の
”人民共和国時代”の大理国を発掘すると、どん
な大理国王宮将棋が出土したはずなのかを、推定
してみる。結論から述べると、

持駒使用に進化したもしれない

と考えられる。
 では、更に論を続ける。
 8升目32枚制の大理国原始平安小将棋は、右
銀将が角行動きの象だったと、ここでは推定する。
が、それでも、終盤は詰むのに手間が掛かりすぎ
る事には、平安小将棋で8升目型のものと大差無
い。
 この欠点を除去する尤も良いとみられる方法は、
大理国で使用していたと推定される黄金の立体駒
にも、敵味方の区別が基本的に無い事を利用して、

持駒ルールを導入する事

だろう。
 ただし、大理国の将棋は升目置きだが、日本の
将棋と違い、玉・金・銀の塊を散りばめた、宝玉
・黄金”立体駒”将棋であるという点は、変えら
れないはずである。つまり、持駒ルールにしたと
きに、

オモテ駒と成り駒とを、同時に処理しにくい。

言うまでも無く、裏に字で成り駒名を書いたから、
日本将棋では、この弱点が無かったのである。
 そこで、大理国の将棋で、もし持駒ルールを導
入するとして、どうするかであるが、

取った駒を、そのまま打つ将棋にする

のではないかと、私は推測する。
 つまり、取った駒が元駒なら、日本将棋の持駒
ルールと同じになるが、

既に成った駒を取った場合は、オモテに戻さずに
そのまま成り金を打つような、特殊な持駒ルール
にすれば、立体駒で対応しにくい弱点は、一応回
避できる

と考えるのである。
 つまり、成ってしまうと元駒が何であっても構
わない、現行の日本将棋とは違う、別の持駒ルー
ルにすれば、立体駒で持駒ルールの将棋は、一応
可能なのではないか。
 この将棋は、取り捨ての大理国原始平安小将棋
と比べて、終盤、取って、ミニチュアコンテナに
返却しなかった、相手の成り金を、どんどん盤面
に打てるので、

華やかさと言う点で、日本に伝来した、
後一条天皇用の玩具の、原始平安小将棋(推定8
升目32枚制、金将1枚)と比べても、ひときわ
目立つゲーム

になっていたことだろう。
 考古学研究者によって、近世まで存在した仮想
の大理国王宮が発掘され、二中暦の標準的解釈と
しての9升目平安小将棋と、8升目である点等を
除いて、内容が近似している事が、明らかになっ
ていたとすれば、今と違って、

日本の将棋の伝来元が、大理国である事は、将棋
史家にとっては当たり前。

 以上のように、状況は大きく変化していただろ
うと、私は思うのである。(2019/09/26)

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