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気楽に出来る無限大升目&駒数将棋の作成方法(長さん)

前に何度か、同じような題でゲームを紹介した。
が、人間にはゲームがしやすく、原理的に着手
空間が、無限に大きい事が、余り気にならない
将棋というのは、少なくとも、極めて簡単に作
るという所まではいかなかったかった。そこで

今回は、この難問に挑戦してみた。

 両軍の開始時の自陣同士の間隔が、今までの
例と違い、無限大で、配列がほぼ本ブログの西暦
1390年タイプの普通唱導集大将棋のパターンの
繰り返しで、覚えやすいゲームが出来たので報告
する。なお、繰り返しの基本単位が、普通唱導集の
大将棋というのは、やりやすい為以外に、理由は
無い。ポイントは、

走り方であり、別の駒の直前でしか止まれず、
かつ、間の升目数が気にならないように、縦横
走りだけにして、駒の個性は、付加的な小さな
升目数の動きに改変かつ限定すれば良という点

である。
 なお、普通唱導集大将棋の構成駒は、そのよう
な駒の動かし方ルールでは当然ない。そのため
玉将と太子を除いて、ほぼ全部、駒の動かし方
ルールも、系統的に変えてみた。
 では、以下に説明を続ける。
 以下の図が、初期配列図である。

無限普通唱導集初期.gif

 中間に:の升目が有るが、両軍で同じ数だけ
無限に升目が有るとする。エクセル表で示した
ので、番号をエクセル表の番号で言うと、16
列の所が、中央段になり、無限に大きな盤だが、
縦横奇数升目であると仮定する。図のように、
歩兵列から見て、3段下の中央に玉将が配列さ
れ、その下には、玉将が近王に、桂馬が八方桂
の騎兵に代わるだけで、同じパターンで、段が
配列される。横は、車列の外側から、龍馬列の
繰り返しとなる。ただし、龍馬はカッコ付けに
方行に変えてある。
 つまり、浅い所に玉駒が配列されている、無
限大升目、駒数将棋になっている。駒の名前は
普通唱導集大将棋の、類似の動かし方の駒名で、
代用してある。ただし、玉将と酔象の成ってで
きる太子を除いて、普通唱導集大将棋とは、
走り駒が3升目走りになるという点。
歩兵と仲人を除いて、縦横に停止点限定走りの
動きが加わるという点。
仲人は停止点限定走りが、後退する場合だけで
ある点。
歩兵と仲人は前方走りが出来るが、中段-1で、
一旦停止のある停止点限定走りである点。
かつ、仲人と歩兵は残りの縦横方向へは、走れ
ないという点。
以上が違う。

つまり元々の走りが3升目になった上で、
歩兵と仲人と玉将と太子以外は皆、飛車のよう
に走るが、止まれる升目が普通の走りとは違う

という意味である。

 本来の動きは、走り駒以外は同じ

としよう。
 そこで次に、新たに加わる、玉、太子、歩兵、
を除き、仲人については後ろ動きだけに限定さ
れる飛車状の走りについて、以下に説明する。
 ルールは以下のようになる。
 元々の動きの最大升目数を超えて、縦横に遠
くへ行くときには、走りの動きであるが、止ま
れる升目は、別の駒の直前か、一つ置いて手前
の升目のどちらかに、限定されるものとする。
つまり、別の駒が相手駒でも、その動きのとき
には取れない。ただし、元々行けない方向につ
いては、隣接升目動きには、このルールは適用
されず、隣接升目では止まるケースが無く、2
升目以上に関して、特殊な走りの対象とする。
 簡単な飛車について例として述べると、相手
の駒が、縦横6升目先に有るときには、飛車は

走りの動きでかつ、隣、2つ向こう、3つ向こ
う、4つ向こう、5つ向こうの何れへも走れる。
ただし、相手の駒は取れない。

次に、7升目先に相手駒があるときには、

走りの動きでかつ、隣、2つ向こう、3つ向こ
う、5つ向こう、6つ向こうへ走り、4つ目で
は止まれない。また、相手の駒は取れない

となる。ちなみに横走りの際問題になるが、別
の駒が無い場合には、今述べた特殊な走りが、
出来ないとする。つまり別の駒が無いと、全て
の駒は3升目を越えては、走れ無いものとする。
 なお、初期配列で、自陣の最前列から相手陣
の最前列まで、この将棋では無限升目有ると
考える。しかし、走りは無限升目でも走りきれ
るので、相手駒の手前まで、殺到できるルール
になっていて、無限大将棋に対応出来ているの
である。
 なお、仲人は普通の駒と異なり、この走り方
で前後しか走れない。歩兵は前しか走れない。
しかも、歩兵と仲人の前走りには、上に述べた、
止まりの制限に加えて、他に駒が無くても、
中央ラインより手前に、着手前に居る場合には

中央段の一升目、自陣側の隣接段で、1回停止
してから、更に別の手で、他の駒のある升目の
手前ないし、一升目手前まで走らなければなら
ない

というルールが有るとする。ただし、現実には
有り得ないが中段までは、その先に、別の駒が
無くても歩兵、仲人は関係なく、中央一つ手前
升目まで行けるとする。
 次に、それぞれの駒の動きについて述べる。
今述べた特殊な飛車走りの他は、普通の走りが
3升目、限定走りに変わる点を除いて、それぞ
れの駒名で表せるルールで、動く。角行は斜め
に3升目走って、縦横に取れない無限走り飛車
動きが加わるという、感じにしよう。
 なお、飛龍と猛牛は2升目まで踊りとしたから、
この将棋ではかなり強い。特に猛牛は、元々の
普通唱導集では、唄われないほど地味だったが、
この無限大将棋では、重要な守り駒となる。
 成りは、酔象が太子で、太子は玉将と共に、
走ら無いとする。ので相手陣から、戻れない。
麒麟が獅子、鳳凰が奔王であるが、取れない十
字走りが加わり走れるので、全部ルールが変わ
る。歩兵と仲人と反車と一段目駒は、玉と金将
と近王、騎兵以外は基本的に金将に成る。
近王は、前旗が普通だが、結局奔王といっしょ
なので、この将棋では、奔王に成るものとする。
騎兵は騎総だが、不成で良いだろう。その他
は不成で、本ブログの言う、西暦1290年型
普通唱導集大将棋の、成りパターンとしよう。
なお、金将は縦横に、今述べた特殊な走りが加
わる。
 以下に、指し終わりの一例を示す。たぶん、
この局面で、先手玉が詰んでいるはずである。

無限普通唱導集指終.gif

 この将棋は、人間には、
後手陣について言うと、H11の位置の横行前
の歩兵の位置で、麒麟が成った獅子を作って、
相手陣を喰い荒らして勝つという、普通唱導集
の大将棋の唱導唄に、唄われているとみられる
定跡類似の戦法を、いかに取るかを考える将棋
に、しばしばなるようである。
 しかし、以下の理由でコンピュータには、予
め用意しなければならない、配列型の必要なメ
モリー数そのものの、把握の難しい、

演算の、土俵に乗るまでが、たいへんな将棋

のはずである。元々駒も升目数も無限に有るか
らである。つまり、たとえば右横行の頭攻めを
しようとして、遠くの方から方行を、幾つか中
央に寄せて置く事を考える際、人間ならどこか
ら持ってくるのかを、余り気にしないはずであ
る。

どこか、遠くの方からまたは、その辺の近くの、
どうでも良い所から、予め前出しして、J20
からJ19へ上げておいた仲人の横まで方行を
持ってくる手を、何回か指して・・

という感覚で処理するはずだ。しかし、コンピュ
ータは、モンテカルロなり、何処から持ってき
ても同じの同一視の概念を、予め導入するなり
して、

使用するメモリー容量を、気にしながらでない
と、ミニマックス等の演算作業に入れない

はずである。そこで、”ディープラ-ニング”
させるときに後々を考えて、意地悪く人間が、
攻め駒の方行を、近くから持ってきたり、遠く
から持ってきたり、取り混ぜたり、規則性や
不規則性が判りにくくしながら指せば、学習は
不能のはずだ。つまり、新聞等で話題の、G社
の量子コンピュータを用いたとしても、

プログラミング手法が、遠い未来型では無くて、
今の方式であるから、所詮、”必要な配列数”
を予め指定しなければ、プログラミングできず、

このゲームは、ゲームを定義する事自体が、
コンピュータには苦手なタイプなので、
人間の方が有利なのではないかと、私は思う

のである。
 だから、今回述べたゲームは、単純に演算が
早いコンピュータが出てきても、今のプログラ
ミング手法が続くうちは、将棋ソフトは

エラーを出しまくりながら、だましだまし着手
を出力してくるのが落ちと見る。ので人間には、
さほど難しいゲームではないが、コンピュータ
が、人間には勝ちにくいゲームの典型

なのではないかと、私は予想しているという事
なのである。(2019/10/21)

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太子成り酔象復活の兆しは源実朝の暗殺の頃か(長さん)

本ブログの見解によれば、大将棋で成太子酔象
が復活したのは、西暦1250年頃であり、
①皇族将軍摂関家将軍共に、飾り物であるとの
世論批判を下敷きにした、釈迦仏教の持ち上げ
によるものとの事であった。つまり、釈迦が
居れば、日本にその当時のような”将軍”が、
居なくなっても大丈夫という、皮肉の表現とい
う事である。
 が、そのアイディア一つだけで、平安大将棋
のデザイン時の批判の対象になった、酔象と
いう駒の、使い方の怪しさが、かわせたかどう
かは謎であった。尚本ブログの見解では、西暦
1250年当時実際、桂馬、金将、玉将、銀将、
酔象、香車という最下段配列の”怪しい将棋”
が存在しただろうと、考えられている。
 今回は、酔象に関してあった、そうした毛嫌
い感が、何時、何によって払拭されたのかを
論題にする。結論を書く。

②鎌倉三代将軍の源実朝に実子が無く、源頼朝
の直系が断絶して、鎌倉幕府が揺らいだ事が、
大きかった

のではないかと、本ブログでは考える。
では、以下に論を続ける。
 そもそも以上の推論からすると、西暦1110
年頃の平安大将棋のゲームデザイナーにも、
酔象を玉将の上に置く等して、使うつもりが有っ
たと推定される事になる。興福寺等で、酔象が
適当にいろいろな所に、配置される変則平安小
将棋が指されていて、酔象に対する批判が有っ
たので、平安大将棋のデザイナーは、太平広記
の玄怪録の象駒とみられる上将が、横行すると
表現されているのに引っ掛けて、横行という名
と内容に、変えただけだと、少なくとも本ブロ
グでは見るのである。
 ゲームデザイナーの正体である陰陽師が、
当時の北極星がこぐま座ベータで、今と違って、
こぐま座ガンマ星を太子(跡取り)に見立てて、
2星で、天の北極の中心を作って居たというの
が、当時の恒星天文学の歴史であるという事実
を、知らないはずが無いと見られる。
 しかしながら、いったん横行を玉将前に置い
たので、西暦1230年頃までは、平安大将棋
そのものを自陣4段化した後に、横行の前升目
に奔横を導入する形にする等、その考えで継続
的に、平安大将棋の変形が指されていたとみら
れる。
 ところが、その少し前の西暦1219年に、
源頼朝の子孫の断絶と、後鳥羽天皇の反乱が起
こった。そのため、

源実朝に子供が居れば、北条執権絶対視教育を
その嫡男に、きちんとしさえすれば、全ては
丸く収まっていたはずだという、平安大将棋を
指す識字層の世論が、当然発生していた

とみられる。
 北条氏には、政権奪取の野望が有ったのかも
知れないが。おもちゃを与えるなどして、
年若な源氏の子孫を、おだてながら手なずけれ
ば、頼朝の子孫が将軍で有った方が、同じく

野望を持つ後鳥羽天皇の、付け入るスキの入る
余地は少ないのに、皆が当然気がついていた

はずだからである。その論理は、大将棋を指す
ような、知識人の棋士には、西暦1220年代
には、当たり前の考えとして浸透していただろ
う。しかも実際、源氏が断絶してみると、

良い事は、さほど多く無かった

ようだ。時を進めるにつれて、実朝に嫡男が居
れば、かなり違ったという世論は、強くなった
のではあるまいか。そのため

②鎌倉三代将軍の源実朝に実子が無く、源頼朝
の直系が断絶して、鎌倉幕府が揺らいだ事にも
掛け合わせて、”太子が居れば、玉将が無くて
も負けにならない”から、北極星には添星が有
るという古来の恒星天文道の認識が、鎌倉時代
の西暦1200年代の半ば迄には復活

したとしても、おかしく無いように思える。
ようするに、酔象成りの太子は、①釈迦の意も
②跡取りの王子の意味も、両方だと言うのが自
然な解釈だと私は思うが、

最初からその通り、両方の引っ掛け

だったのだろう。
 鎌倉幕府のイビツさが、その時代に、太子成
り酔象を生んだのだろう。標準的な高校教科書
の解釈とは、以上は少し違うし、出土史料の出
現で、当否は当然、ひっくり変える可能性もあ
るのだが。
 今の所、本ブログでは、以上のように解釈す
る事にしたいと考えている。(2019/10/20)

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チェス盤の市松模様は角行動き駒の導入より早い(長さん)

チェス盤が市松模様の理由については、遊戯史
上先行研究があるが、斜め走り駒があるゲーム
で、無地の日本の将棋盤より、便利な事は確か
だ。だから個人的には、イスラムシャトランジ
からチェスへ変化したときに、僧侶を飛龍から
角行動きに変えたのが、発端だろうと、個人的
に漠然とだが、最近まで私は考えてきた。

今回は、その私の論の反例を示す。結局私には、
わけが判らなくなった。

 すなわちものと人間の文化史110”チェス”
に、イスラムシャトランジルー時代のイタリア
で、市松模様のチェス盤が有ったとの旨の話を
発見した。言うまでも無く、この著書は法政大
学出版局で、2003年に出版した、増川宏一
氏の著書である。
 第3章のアラブのチェスの所で、イタリアの
エミリア=ロマーニャ州ピアチェンツァにある
サン・サピーノ教会の床面のモザイク造形物が
あり、12世紀の成立だという。遊戯史研究者
のA・Kピンスキーの
”ザリシャー時代の中世の遊びと歓びの証明”
が出典だという事である。
 特徴は、イスラムシャトランジ風の駒を、
西洋チェスの盤に置いた途中局面のような挿絵
で、椅子に座っている棋士から、右下隅を白地
とする、普通のチェス盤である事が判る。なお、
イスラムシャトランジの、王と大臣の左右は、
西洋チェスとは逆だと、webには載っている。
王と大臣が、ひっくり返された時代は、12世
紀である事を、示唆しているのであろう。黒が
昔は、先手だったのかもしれないが。
 個人的に、象がどれなのか良く判らないが、

日本将棋の将棋盤より、僧侶筋が判り易いから
市松模様にしたとは言えない感じ

だ。
 では、なぜ市松模様なのかだが。

今の所、私には良く判らない。

イタリア語とスペイン語は、似ているし、地理
的にさほど離れていないし、場所がイタリアの
北西なようなので、イスラムシャトランジの
変種である、

スペインのグランド・アセドレフの類が、既に
この頃には、イタリアにも入っていて、ワニや
一角獣が角行類似動きなので、利便性から欧州
で変えた

位しか思いつかない。なお、サン・サピーノ協
会の造形物は、情報通りだとすると、日本では、
平安大将棋の時代だし、グランド・アセドレフ
は、アルフォンソ10世エルサビオの遊戯書に
あるもので、13世紀の頃に存在したとされる、
大将棋状のチェスであるから、日本の大将棋の
進化の時代と、ほぼ重なる頃の話だ。ただし、
12世紀にも、角行動きのチェス変種が、欧州
に有ったかどうかは、私には良く判らない。
 恐らく欧州の遊戯史界で、研究がある程度進
んでいるだろうとは考えられるが。

斜めに走る駒が出来てから、チェス盤が
市松模様になったと決め付けるのは間違い

である事だけは、どうも確かなようだ。
(2019/10/19)

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隋書倭国伝の倭人囲碁打ちは六詔の誤りの疑い(長さん)

鳥越憲三郎氏(中央公論、2004年)に
よれば、正史の隋書の倭国伝の時代には、
中国での日本の地理の推定が、不安定であっ
たという。そのため正史といえども、以下
本ブログの解釈であるが、
中国雲南の今で言う少数民族の習慣が、日
本人のそれと混同されている可能性がある。
そのため

”日本人が囲碁を指す”との旨の記載は、
実際には雲南に有った、六詔時代に、
南詔国とは違って、そこで囲碁が指された
という意味である、疑いがある

との旨、取れるような内容が書かれている
という話を、以下に述べる。
なお、冒頭の鳥越憲三郎氏(中央公論)の
成書は、”中国正史 倭人・倭国伝全釈”
2004年である。
ようするに以降、本ブログでは、
日本での囲碁の伝来は、恐らく飛鳥時代。

その頃中国雲南省の六詔時代には、恐らく
そこでも囲碁、盤双六、博打が行われてい
た疑いが有る

との解釈を取る事にしたい。
 では、以下に論を続ける。
本ブログでは、このブログにとって、最も
厳しい解釈として、

隋書の倭国伝は、日本と雲南と両方で、
7世紀半ば以前に囲碁、盤双六、博打が行
われていた

疑いがあるとの、解釈を取るということで
ある。なお両者に、間の中国を抜きにした
直接的な

伝来元、伝来先の関係は無いと今の所見る

事にする。
 冒頭で紹介した成書を読む限り、
中国で、日本の地理等について、ほぼ正確
な把握ができたのは、唐王朝の時代と理解
できる。それまでは、

元々”倭”は周辺民族を、”ひとからげ”
で、漢民族が蔑称していた名称だった。

つまり、日本が韓国の東に有っても、雲南
省に有っても、どちらでも良かったのであ
る。遣隋使を派遣して、挨拶をして来た事
だけが、重要なような書き方だ。日本人の
性格等の記載は、雲南の倭族のコピー・ペー
ストのような挿入の仕方だと、見ようと思
えば、確かに隋書の、問題の部分の記載は
見える。
 なので、隋書が”倭”と称したときには、
余り個別の民族を、正確に把握しようと言
う、気持ちの無い言い方であると、理解で
きるように、私には読み取れる。
 特に隋代以前は、中国人が雲南の異民族
を”倭人”と称して居た事が多いという。
だから近世まで、雲南の少数民族で残って
いたとされている刑罰の仕方や、暑いので
裸になると、こんどは殺風景なので、体に
刺青を入れていた等が、倭人の習慣として、
書かれているように見える。そこで文脈の
その記載の周辺では”ひとからげ”で、
記載のコンタミが起こっている疑いがある
と、強いて読めば読めるようである。
 実は、”日本人が囲碁を指す”との旨の
隋書の記載には、文書の段落構成からみて、

雲南の少数民族の習慣と合う、習慣部分の
近くに書かれている。

だから、記載のごちゃごちゃ化が、一層疑
われるようである。
 よって、定説では確かに、相当前に出て
くる、朝鮮半島の向こうにある、国の固有
名詞としての”倭国”に掛かるように見え、
囲碁、盤双六、博打が日本で行われている
ように、確かに隋書に記載されてはいるが、
前段の文と刺青の紹介部分が、

雲南民族の習慣のように読めるため、
本ブログでは、囲碁は六詔時代には、
南詔時代と違って、雲南ではまだ、打たれ
ていた疑いがある事を、意味している

と、以降は取る事にしたい。
 出土史料としては、藤原京の碁石が著名
だが。六詔時代には、日本と雲南省とで、
どちらも碁を打ったので、釜湯での中に手
を入れて、やけどしなければ、無罪という
刑法や、刺青をしているという、雲南の
少数民族の習慣の記載を、余り注意せずに、
間違えて持ってきた後に、囲碁の習慣を記
載している疑いを、本ブログでは一応持っ
ておくという、以上は結論である。
(2019/10/18)

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四人制チャトランガに先手勝防止の兵は本来不要(長さん)

現在存在する将棋類はほとんど全てそうだが、
必ず日本将棋の、歩兵に類似の駒が存在する。
今回は何のために歩兵があるのか。また、
サイコロで手を制限する偶然ゲームでは、不要
と見られる事について、論じる。
 では以下に論を続ける。
 将棋類の歩兵を恣意的に抜いたゲームとして
は、太閤(豊臣秀吉)将棋が有名である。この
将棋は、偽の上手を豊臣秀吉が持ち、上手なの
で先手となって、初手に▲2三飛車成と指す、
将棋であるとみられる。
 これは極端な例であるが、歩兵を抜くと、だ
いたい先攻め側に、妙手が発生して、以降の展
開が一方的になるとみられる。例外は、駒を取
り合ってから、後手の有利な局面だけが残る、
”どうぶつ将棋”のように、極端に駒数の少な
く、手が限られる将棋類だけのようだ。なお、
この点は取捨ての将棋でも、同じと思われる。
それを防止するには、取り合い開始までに、別
に手数が掛かるように、ゲームを調整する必要
があり、その対応策の代表が、歩兵を間を少し
空けて最前列に配置する事だったとみられる。
 ただし、完全に歩兵で、”初っ端先攻め”を
防止してしまうと、逆に後手必勝の将棋になっ
てしまうようである。そのため、斜め走り駒を
発明して、斜め走り駒の攻撃については、斜め
前の歩だけ上げれば、走り駒が敵陣に殺到でき
たり、桂馬のような、歩兵の存在に係わらずに、
跳び越えられる駒を作って、ゲームを複雑化さ
せた。つまりこうして、先後手どちらが有利か、
判りにくいようにしたようである。
 特に、日本将棋では、歩兵が3段目配列だ
ったため、馬駒は兵を跳び越えられず、角行の
出現で始めて、先手、後手どちらかに必勝が、
偏りにくくなったようである。
 以上の点を踏まえて、王、大臣、象、馬、車
兵が、玉将、近王(熊目等)、角行、桂馬、
走る飛龍、ポーンの動きと見られる、11世紀
(後期)インド2人制古チャトランガと、その
派生サイコロ賭博ゲーム、インド四人制チャト
ランガについて、ここでは考えてみる。

この将棋・チェス型ゲームは、縦横型の走り駒
が無いので、兵の効果は、他の同類ゲームに比
べて、元々比較的低い。

 2人制チャトランガは西暦600年、4人制
チャトランガは西暦900年以降と、今の所、
本ブログでは成立年を見る。インドの2人制古
チャトランガには、2つの時代があり、
600年~900年ころまでは、第1期の、
象が飛車動きの時代。900年から1050年
頃は第2期の象が角行の時代。それ以降が、
象が銀将の動き、車が飛車の時代と、本ブログ
では見ている。よって、

兵は、第1期の象が飛車時代からあり、当時の
象の直射を避けるため

だったと、ここでは考える。角行に代わった
第2期でも、兵が無いと、先手だけ王手を掛け
続けて、しばしば千日手になるので、一応継続
して、兵が存在したのであろう。
 逆に言うと、

四人制チャトランガのように、着手がサイコロ
で制限されているゲームの場合、王手までの手
数も実際には少ないから、兵が存在する意味は
余り無い

事が推定できる。19世紀の頃から、世界最古
のチェス・象棋・将棋類である、インドチャト
ランガが、発生時に二人制だったか、四人制が
先に有ったかで論争があったが、四人制を先と
すると、今述べた”兵が存在する事のおかしさ”
が、一つは有ったものと見られる。
 バールフートの彫刻が無ければ、最初から”
インドチャトランガは2人制から出発した”と
いうのが、20世紀の将棋史学会の、大勢になっ
ていたのかも、しれないようである。(2019/10/17)

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”打歩詰”の禁手は織田信長の上洛期から有る?(長さん)

初代大橋宗桂の設定とも古文書によって
は言われる、将棋の打ち駒に関するルー
ルのうち、新しいと推定されているのが、
打ち歩詰めの禁手である。最近本ブログ
の管理人は、江戸初期の選と言われる、
和歌集の一種で狂歌を集めた、

新選狂歌集で、選者により西暦1569
年の、織田信長の上洛の時代成立とされ
る落書和歌に、将棋の打ち歩詰の禁手を
読んだものがあるとの話に接した。

 なお、初代の大橋宗桂は、このとき
10代の若者だったが、生存していたと
見られる。句は以下のようなものらしい。

金銀を持ちたる王は詰めもせで、歩にて
京者(香車)を詰むるものかな(201)

金銀を持ちたる王のそばへ行き、香車
(京者)の成りは歩詰にぞ合ふ(203)

なお、歩兵の”歩(ふ)”は夫役の”夫”、
”詰める”は”責める”と、引っ掛けた
ものだと言うことだ。以下の成書に出て
いる。
(文献)
岩波書店発行(1993年)新古典文学
大系61、”七十一番職人歌合・新撰狂
歌集・古今夷曲集”、(校注)岩崎佳枝、
網野善彦他2名。新撰狂歌集、雑201、
雑203、203ページ。
 なお200には、打歩詰めを”迷惑手”
と表現している。禁手の疑いが強い。ま
た、200~203の4句は、同系統の
歌である。前段に、”むかし(1569~
1572)禁中の御普請に、京都中から
人夫を毎日出させ・・”との旨の記載が
あり、京都大内裏の、織田信長による修
築が行われた時代の落書きを、コピーし
たものと、称しているとの説明が、岩波
書店の成書の注釈部に有る。
 問題の撰集の成立が、江戸初期なので、
落書きの存在に関する

信憑性は、かなり怪しい。

同一タッチの”有名人が喧嘩で亡くなっ
た”との旨の、将棋駒種を掛け合わせて
作った歌が、この文献の、もっと前のペー
ジにもあり、それも落書だと称するが、
時代が少し違う点等が、疑わしい理由と
して挙げられる。
 しかし仮に本当だとすれば、

日本将棋の歩打ちに関する打ち歩詰めの
禁手は、西暦1560年代には成立

していたと、言う事になる。
 一般には、詰め将棋で対応する着手が
現われた、江戸早期程度に打ち歩詰めの
禁手は成立したと、考えられていたので
はないかと私は思う。
 ただし、若い頃から初代の大橋宗桂が、
このルールで日本将棋を指して居無いと
すると、

残存する彼の棋譜に影響が出るはずだか
ら、その痕跡が無いところを見ると、持
駒ルールに関する細則の完全成立は、
西暦1560年の末

と見た方が、尤もらしい事は、元々確か
だったのではなかろうかと、私は疑う。
打ち歩詰めの禁手の為に、日本将棋で
終盤、主導権を取った攻め側が、間違え
て切れ負けしてしまう事は、結構有ると
私は思うからだ。
 今までこの細則に関して、和歌類をチェッ
クしたという話は、余り聞かなかったが。
よく調べてみると、今回紹介したような
例が、たまたまだったのだろうが、有る
ようだった。(2019/10/16)

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摩訶大大将棋成作時。文禄本幸若(舞)信太参照(長さん)

以前に述べたように、文禄本、幸若(舞)信太
記載の太子を含む取捨てと見られる将棋の作者
は、天台宗や仏教寺院に関連した人物が疑われ
る。ところで、将棋六種之図式に記載されてい
るように、僧侶関係者作成の疑いが持たれる
日本の将棋として、摩訶大大将棋または、
摩訶大将棋が著名である。
 本ブログでは、当時仏教の経典で書かれ、一
般に知られて居無い”驢馬”が、駒に入ってい
るという点を、以前根拠に挙げた。が、驢馬は
2巻物の色葉字類抄に記載さされている。その
他の点を挙げる必要が有り、羅刹、夜叉、摩羯、
提婆、無明等の駒がある点で、その疑いは、充
分に持てると言う事になるのだろう。
 今回は王行を加えた、文禄本幸若(舞)信太
の、その王行の成りが奔王と推定される点から、
摩訶大大将棋等では、奔駒への成りが考え出さ
れたのではないかという点について論じる。
 では、以下に本論に入る。
 平安大将棋に、奔車があるのが奔駒の初出で
あり、元駒同士の比較として、後ろの駒を奔を
付けて、強くし、直ぐ前の升目に配置したとい
うのが、元々の奔駒の起こりだったと、本ブロ
グでは見ている。そして事実として、

元駒通りの奔成りは、中将棋には無く、
摩訶大大将棋に特有である。

一般には摩訶大大将棋のゲームデザイナーが、
中将棋の成りを、更に強力にしてゲーム性能を
上げ、かつルールを覚えやすくした、より後の
作であるとも、増川宏一氏の将棋Ⅰで言われて
いる。

しかし仮に曲舞の表題の史料が、摩訶大大将棋
の少なくとも、成り規則の確立よりも前だとす
ると、文禄本、幸若(舞)信太の奔成り方式を
参照して、成りの確立していなかった摩訶大大
将棋の奔成りが発生した可能性も、理屈の上か
らは、考えられる

のかもしれない。
 なお王行が、単なる曲舞作者の認識不足だと
したら、それまでだが、王行や玉行で間違い無
いとしたら、成りを奔王にする為だという以外、
動機付けを、考える事自体が難しい事だけは、
どうみても確かだ。
 特に将棋纂図部類抄の元文献である、曼殊院
将棋図の出所である曼殊院は、

天台宗の寺であるから、文禄本幸若(舞)信太
の”天台衆”と合っている。

 つまりは摩訶大大将棋を改善したのも、
文禄本幸若(舞)信太の将棋を指したのも、ど
ちらも、曼殊院内であるという疑いが、有ると
言う事だと私は思う。摩訶大大将棋のルールに
関して、細部の項目は、曼殊院内作である事を、
示唆しているのではあるまいか。
 何れにしても文禄本幸若(舞)信太の将棋の
記載は、

普通唱導集小将棋の唱導唄と、情報量において
同等の最重要史料であると見て、間違い無い

事だけは、まず確かだと私は考える。(2019/10/15)

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一乗谷朝倉氏遺跡で遊戯盤(?)が出土か。(長さん)

さいきん気がついたのだが、一乗谷朝倉氏遺跡資料館
から、考古学史料のweb上への公開が行われている。
将棋駒もスケッチではなくて、写真が掲載され貴重だ。
 その中に、表題のように10個ほど升目の書かれた、
墨書木製品(用途不明)も載っている。以下のように、

囲碁盤や将棋盤の破片のようにも見える。

残念ながら、原寸がどの程度かの記載等は無い。

一乗谷朝倉氏遊戯盤破片.gif

また、具体的な発掘現場の開示は無い。
 少なくとも、盤を横には見て居無いようであり、ひ
ょっとすると、将棋盤の破片で、細長い香車や歩兵に
対応するため、升目は長方形なのかもしれないと、一
応期待に、胸が膨らむ感じである。
 線が曲がっているのも、将棋駒といっしょで、手作
りの感じがして良い調子である。
 断片なのと、仔細が判らないのが残念だが、かなり
貴重な遺物に、間違いないと考える。(2019/10/14)

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文禄本、幸若(舞)信太の将棋を推定する(長さん)

表題の将棋について本ブログではこれまで、
①王行または玉行は、飛車のミス、
②太子は太子成り酔象のミス
であり、取捨ての朝倉小将棋であろうとの
見解を取ってきた。今回は、

それを否定する

内容について記載する。
 実際には、これだけの情報で、説の良否
を判断するのは、困難と見られる。
①’王行または玉行は横行動きだが、奔王
成りなので、改称した。
②’太子という表現なのは、不成太子とい
う将棋が指された事が、本当に有ったから
として、どんなゲームだったかを、推定し
てみる。なお文禄元年は、西暦1592年、
初演は1555年前後と聞いているので、

この将棋は戦国時代の頃のものだろう

と推定する事にする。
 では、論を続ける。
 少なくとも室町時代のレベルで、曲舞に
書かれた、将棋の手数の長さから小将棋類
と推定されるこの将棋は、

取捨てルールと見られる点で、異形

だったと本ブログでは考える。
 天台衆のとか、天竺衆のという出だしで
始まっている事から察するに、

仏教寺院で、教義を広めるために、特別に
戦国時代に作成されたもの

だろう。

取捨てにしたのは、玉将が取られても負け
にならない、太子が必須だったから、玉将
の持駒化という、矛盾を避けるため

だったと考えられる。
 王行は、横行とルールが同じだが、奔猪
ではなくて、より人間に近い奔王成りとし、
行者への、”ありがたい阿弥陀如来等の御
利益の話”と、したかったから等かもしれ
ない。
 横(王)行と角行があるのは、煩悩に囚
われながら修行する、落第生の行者を、ゲー
ムキャラに入れたかったので、

中将棋から、選択的に選んだ

と考えられる。
 この将棋は、仕掛け局面から逆算してみ
ると、以下の初期配列なら、取り捨てルー
ルのまま、旦代の難点は回避される。

幸若舞信太将棋初期.gif

 すなわち、ここからは、端攻め作戦で指
した後手は、旦代難点模様で、駒組をし出
した先手に対し、以下の初期の変化局面で、
優位に立てるはずである。

幸若舞信太将棋変化.gif

 よって、互いに端攻めをするので、取り
捨て将棋でも、仕掛局面で、”固まってし
まう”という事は無い。

幸若舞信太将棋駒組.gif

 以上の局面からの攻め合いを、実際の史
料、文禄本、幸若(舞)信太の記載内容と
比較してみると、

おかしいのは、銀将が比較的早く、攻めに
加わる点だけ

である。
 残りの点では、史料で唄われているよう
な展開になっているように、私には思える。
特に、角行と王行は、確かにねじりあいに
なっている。
 一例では次のような、指終局面になる
はずである。

幸若舞信太将棋指終.gif

 この将棋は、

南北朝時代時点での、持駒有の平安小将棋
に比べて、レベルがかなり劣る。

たぶん終盤の形勢判断は、持駒有の平安小
将棋の方が、かなり難しいはずである。

寄せは簡単すぎるだろう。

だから、戦国時代に、この将棋が指された
期間が有っても、かなり短かっただろう。
 しかし、宗教上の理由で酔象や太子を
小将棋に加えたため、

朝倉小将棋の発生に、なんらかの寄与をし
た可能性は、否定できない

ように、私には思える。
 またこの将棋は、元々

小型の中将棋を作りたいという発想のもの

である。だから、中将棋が好きな僧侶が、
取捨て型のこの、文禄本、幸若(舞)信太
の将棋を作成したのだろう。そして曲舞を
作った作者に知られる程度に、その作者の
近辺で、戦国時代の西暦1500年前後頃
に、たまたま幾らかは、指された将棋だっ
たに違いない。(2019/10/13)

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自陣四段型藤原頼長/源師仲の大将棋のチェック(長さん)

西暦1142年時点で、西暦1110年程度
の当初に自陣3段配列で出発した平安大将棋
は、飛龍の消耗を避けるために、桂馬の頂で
一歩配置を前進させ互いの直射を避け、猛虎
を上げれば受ける事の出来る、自陣4段配列
に変わっていたと推定される。そこでこの考
えに基づき、台記、宣明暦9月12日の、
藤原頼長/源師仲の大将棋の将棋を再度検討
してみた。結論として、

観戦者には駒の動きが大きく、より尤もらし
く見えるようになったが、自陣三段配列のケー
スに比べて、飛龍の守りにより、勝負は着き
難くなった

と結論される。
 では、以下に説明を続ける。

実際の棋譜の再現は無理だが、藤原頼長負け
で、勝負が着くように、頼長が手加減した

と仮定して同様な傾向の将棋を指す。前に述
べたが、それは、

源師仲(仮に後手)が、中央押し戦法、
藤原頼長が、”見かけは尤もらしく、”
端攻め戦法をとり、後者が空振りになれば
可能

である。
このゲームでは、初期配列で、横行と猛虎と
奔車が2段目、飛龍が3段目、歩兵が4段目
に一列13枚づつ、注人が5段目中央で出発
する。以前述べたが、
 少なくとも飛龍と横行は不成りであり、
恐らく猛虎や奔車不成りであったとみられる。
その他、注人も含めて金成の駒は、相手陣
4段目越えの1発成りとし、成らないと、
相手陣奥で、行き止まりになるとした。金自
体と玉は成らない。
 駒の動かし方のルールは、飛龍について、

本ブログの論は通説と違い、角行の動きだが
隣接升目で止まれない(跳び越えもできない)

とする。その他鉄将は、二中歴のミスであり、
ここでは、横にはゆけ無いとしてみた。その
他は、通説のほぼ通りであり、桂馬は前の字
を、”前に一歩行く”と解釈して、通常の
桂馬跳びに、一応ここではしてみた。
言うまでも無く、取り捨てで、持駒は無い。
 実際にやってみると、飛龍は終盤まで残る
ようである。
 真面目に指せば、飛龍での守りの効果も大
きい。このケースも自陣3段型同様、先手
藤原頼長の攻めは、平安小将棋のケースとは
異なり平安大将棋では、ほぼ有効でなくなり、

先手は、かっこだけの攻めのため、後手が
ゆっくりと繰り出してきた駒に、押しつぶ
される展開になる。

途中の駒捌きは、自陣三段型に比べて、飛龍
の活躍が大きく、観戦者にとっては、はるか
に面白く感じられただろう。
 しかし展開は一方的で、終盤は、後手の
源師仲の玉に詰みは無くなったと見られる。
 終盤は、玉も攻めに加えながら、先手の
藤原頼長陣に、数枚の後手駒が、なだれ込む
だけだったとみられる。
 しかしながら、真面目に指せば、頼長陣に、
守り駒の飛龍、横行が残り、なかなか詰まな
い。

頼長は、わざと自分の玉を、上段に逃がすよ
うな手を指さず、手を緩めて、相手に玉を
捕まえさせて投了したとしか、考えられない
ようだ。

 このゲームはそもそも、藤原頼長が、平安
大将棋を、崇徳天皇等にアピールするのが
狙いだったとみられる。ので、前に述べたが、

万が一にも、千日手になったり、局面が硬直
して終わらないように、藤原頼長が注意

したのであろう。しかも、最後は普通の寄せ
なので、この形の将棋は、傍から、一応尤も
らしく見えたように、私には思える。
 自陣3段大将棋では絶対無いと言うのは、
すこぶる困難だが。

自陣4段配列にすると、実際にはそうではな
いのだが。最初から自分が、負けるつもりで
指すなら、平安小将棋に劣らない平安大将棋
が、あたかも指せているかのように、いっけ
んすると、見えるようにできる。

以上のような事に、なるようである。
(2019/10/12)

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