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三条西実隆が山科言国に飛車を持たせた将棋種の謎(長さん)

 戦国時代の公家で将棋棋士の三条西実隆が、
彼の日記実隆公記に西暦1506年7月9日
に書いた、山科言国(?)と6番指した将棋は、
日本将棋に近いものであると見るのが、定説
である。が本ブログでは、平安小将棋の持駒
タイプで”次の回にそうすべきか”結んだ
予定の将棋が、言国側に不成りの飛車を加え
た、37枚制の持駒使用の小将棋(聖目越え
1発成り)と見る。
 なお覚勝院了淳に収めた三条西実隆の作駒、
”飛車、角行裏の成り名のミス”から察して、
三条西実隆が、仲間内ではだいぶん後代まで、
不成り飛車を使用していたのは、確かなので
はないかと私は疑う。
 一応当否はさておいて、本ブログの論での、
37枚制の持駒使用の小将棋(聖目越え1発
成り)の、言わば”三条西実隆小将棋”の特
徴を、先ずはチェックしてみたので、以下に
示す。結果を書く。

飛車に攻撃の多彩性は無く、詰みの手数を
短縮して、その分相手に有利なように、ハン
デをこちら持ちにした、古風な小将棋になる。

では、以下に説明を行う。
 以下に、先手番山科言国(?)対、後手番
三条西実隆で、三条西実隆が後手マネ将棋を
指して、旦代難点型の仕掛け直前局面に達し
た例を示す。

標準平安旦代実隆仕掛.gif

 言うまでも無く、平手では、この将棋は
駒組が、相手の出方次第で後手が有利なので、
上手側が後手番、下手側が先手番を持ち、
上手が駒を落すのではなくて、

下手である普通とは逆の先手が、不成り飛車
を持つ

のであろう。位置は現在と同じく、2八の位
置に飛車を置くのが、このケースは合理的だ。
 ここから、以前示した、”相手陣聖目一発
成り”のプロト中将棋成り条件則型で指すと、
以下のように、数手先で先手の後手左桂馬取
りに対し、尻歩で合わせた後に、歩兵-桂馬
交換をした局面に達する。

標準平安旦代実隆変化.gif

ここから、これも以前に述べたが、先手番
山科言国(?)が、▲G7金将寄り、後手番三条西
実隆が△G3金将寄り、以下▲F7桂馬(打
ち)、△F3桂馬(打ち)、▲G5歩兵と
進むと、

旦代の難点は解消され、

山科言国(?)の持つ飛車の、三条西陣内での移動
が早いため、三条西の玉が棋力にさほど差が
無ければ先に捕まって、以下のように詰むと
みられる。

標準平安旦代実隆指終.gif

これは、

日本将棋の類としては、すこぶる原始的

だ。
 だが、あくまで私見だが、西暦1450年
代の生まれである、この二人の対局者が、
西暦1500年より少し後の関西の棋士、
初代大橋宗桂のように、

飛車と角行の洗練された40枚制日本将棋を
指していたようには、とても思えない。

 飛車の威力に相応しい将棋ではなくて、
平安小将棋の、寄せスピード(”光”速か、
低速か)に関する棋力差を補うための、縦横
走り駒として、飛車を

ハンデの調整用に使った程度の、古風な小将棋
を指していた疑いが実際には、かなり有るの
ではないか。

 特に、中将棋が主流だった16世紀の貴族の
間では、小将棋には低級視するという意味で
の差別感が、かなり残っていた。ので、新作ゲー
ムである、今の日本将棋に直ぐに移行もしな
かったのであろう。
 西暦1520年代になって、日本将棋が、
実質的に完全に確立された頃になっても、晩年
の三条西実隆は、山科言国の孫の山科言継を
真似て、

山科言国(?)や貴族の子供とは、今述べた、37枚
制の、相手側に飛車一枚しかない、
”プロト日本将棋”を、相手の飛車を取らない
ように緩めて、手加減しながら指していた疑い
がある。

以上のように、私には依然疑われるのである。
(2019/10/07)

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