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”打歩詰”の禁手は織田信長の上洛期から有る?(長さん)

初代大橋宗桂の設定とも古文書によって
は言われる、将棋の打ち駒に関するルー
ルのうち、新しいと推定されているのが、
打ち歩詰めの禁手である。最近本ブログ
の管理人は、江戸初期の選と言われる、
和歌集の一種で狂歌を集めた、

新選狂歌集で、選者により西暦1569
年の、織田信長の上洛の時代成立とされ
る落書和歌に、将棋の打ち歩詰の禁手を
読んだものがあるとの話に接した。

 なお、初代の大橋宗桂は、このとき
10代の若者だったが、生存していたと
見られる。句は以下のようなものらしい。

金銀を持ちたる王は詰めもせで、歩にて
京者(香車)を詰むるものかな(201)

金銀を持ちたる王のそばへ行き、香車
(京者)の成りは歩詰にぞ合ふ(203)

なお、歩兵の”歩(ふ)”は夫役の”夫”、
”詰める”は”責める”と、引っ掛けた
ものだと言うことだ。以下の成書に出て
いる。
(文献)
岩波書店発行(1993年)新古典文学
大系61、”七十一番職人歌合・新撰狂
歌集・古今夷曲集”、(校注)岩崎佳枝、
網野善彦他2名。新撰狂歌集、雑201、
雑203、203ページ。
 なお200には、打歩詰めを”迷惑手”
と表現している。禁手の疑いが強い。ま
た、200~203の4句は、同系統の
歌である。前段に、”むかし(1569~
1572)禁中の御普請に、京都中から
人夫を毎日出させ・・”との旨の記載が
あり、京都大内裏の、織田信長による修
築が行われた時代の落書きを、コピーし
たものと、称しているとの説明が、岩波
書店の成書の注釈部に有る。
 問題の撰集の成立が、江戸初期なので、
落書きの存在に関する

信憑性は、かなり怪しい。

同一タッチの”有名人が喧嘩で亡くなっ
た”との旨の、将棋駒種を掛け合わせて
作った歌が、この文献の、もっと前のペー
ジにもあり、それも落書だと称するが、
時代が少し違う点等が、疑わしい理由と
して挙げられる。
 しかし仮に本当だとすれば、

日本将棋の歩打ちに関する打ち歩詰めの
禁手は、西暦1560年代には成立

していたと、言う事になる。
 一般には、詰め将棋で対応する着手が
現われた、江戸早期程度に打ち歩詰めの
禁手は成立したと、考えられていたので
はないかと私は思う。
 ただし、若い頃から初代の大橋宗桂が、
このルールで日本将棋を指して居無いと
すると、

残存する彼の棋譜に影響が出るはずだか
ら、その痕跡が無いところを見ると、持
駒ルールに関する細則の完全成立は、
西暦1560年の末

と見た方が、尤もらしい事は、元々確か
だったのではなかろうかと、私は疑う。
打ち歩詰めの禁手の為に、日本将棋で
終盤、主導権を取った攻め側が、間違え
て切れ負けしてしまう事は、結構有ると
私は思うからだ。
 今までこの細則に関して、和歌類をチェッ
クしたという話は、余り聞かなかったが。
よく調べてみると、今回紹介したような
例が、たまたまだったのだろうが、有る
ようだった。(2019/10/16)

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