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太子成り酔象復活の兆しは源実朝の暗殺の頃か(長さん)

本ブログの見解によれば、大将棋で成太子酔象
が復活したのは、西暦1250年頃であり、
①皇族将軍摂関家将軍共に、飾り物であるとの
世論批判を下敷きにした、釈迦仏教の持ち上げ
によるものとの事であった。つまり、釈迦が
居れば、日本にその当時のような”将軍”が、
居なくなっても大丈夫という、皮肉の表現とい
う事である。
 が、そのアイディア一つだけで、平安大将棋
のデザイン時の批判の対象になった、酔象と
いう駒の、使い方の怪しさが、かわせたかどう
かは謎であった。尚本ブログの見解では、西暦
1250年当時実際、桂馬、金将、玉将、銀将、
酔象、香車という最下段配列の”怪しい将棋”
が存在しただろうと、考えられている。
 今回は、酔象に関してあった、そうした毛嫌
い感が、何時、何によって払拭されたのかを
論題にする。結論を書く。

②鎌倉三代将軍の源実朝に実子が無く、源頼朝
の直系が断絶して、鎌倉幕府が揺らいだ事が、
大きかった

のではないかと、本ブログでは考える。
では、以下に論を続ける。
 そもそも以上の推論からすると、西暦1110
年頃の平安大将棋のゲームデザイナーにも、
酔象を玉将の上に置く等して、使うつもりが有っ
たと推定される事になる。興福寺等で、酔象が
適当にいろいろな所に、配置される変則平安小
将棋が指されていて、酔象に対する批判が有っ
たので、平安大将棋のデザイナーは、太平広記
の玄怪録の象駒とみられる上将が、横行すると
表現されているのに引っ掛けて、横行という名
と内容に、変えただけだと、少なくとも本ブロ
グでは見るのである。
 ゲームデザイナーの正体である陰陽師が、
当時の北極星がこぐま座ベータで、今と違って、
こぐま座ガンマ星を太子(跡取り)に見立てて、
2星で、天の北極の中心を作って居たというの
が、当時の恒星天文学の歴史であるという事実
を、知らないはずが無いと見られる。
 しかしながら、いったん横行を玉将前に置い
たので、西暦1230年頃までは、平安大将棋
そのものを自陣4段化した後に、横行の前升目
に奔横を導入する形にする等、その考えで継続
的に、平安大将棋の変形が指されていたとみら
れる。
 ところが、その少し前の西暦1219年に、
源頼朝の子孫の断絶と、後鳥羽天皇の反乱が起
こった。そのため、

源実朝に子供が居れば、北条執権絶対視教育を
その嫡男に、きちんとしさえすれば、全ては
丸く収まっていたはずだという、平安大将棋を
指す識字層の世論が、当然発生していた

とみられる。
 北条氏には、政権奪取の野望が有ったのかも
知れないが。おもちゃを与えるなどして、
年若な源氏の子孫を、おだてながら手なずけれ
ば、頼朝の子孫が将軍で有った方が、同じく

野望を持つ後鳥羽天皇の、付け入るスキの入る
余地は少ないのに、皆が当然気がついていた

はずだからである。その論理は、大将棋を指す
ような、知識人の棋士には、西暦1220年代
には、当たり前の考えとして浸透していただろ
う。しかも実際、源氏が断絶してみると、

良い事は、さほど多く無かった

ようだ。時を進めるにつれて、実朝に嫡男が居
れば、かなり違ったという世論は、強くなった
のではあるまいか。そのため

②鎌倉三代将軍の源実朝に実子が無く、源頼朝
の直系が断絶して、鎌倉幕府が揺らいだ事にも
掛け合わせて、”太子が居れば、玉将が無くて
も負けにならない”から、北極星には添星が有
るという古来の恒星天文道の認識が、鎌倉時代
の西暦1200年代の半ば迄には復活

したとしても、おかしく無いように思える。
ようするに、酔象成りの太子は、①釈迦の意も
②跡取りの王子の意味も、両方だと言うのが自
然な解釈だと私は思うが、

最初からその通り、両方の引っ掛け

だったのだろう。
 鎌倉幕府のイビツさが、その時代に、太子成
り酔象を生んだのだろう。標準的な高校教科書
の解釈とは、以上は少し違うし、出土史料の出
現で、当否は当然、ひっくり変える可能性もあ
るのだが。
 今の所、本ブログでは、以上のように解釈す
る事にしたいと考えている。(2019/10/20)

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