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南詔国の王族の民族、雲南イ族は太陽暦使用(長さん)

中国華南民族史の研究家である、(故)白鳥芳郎
氏によれば、南詔国と六詔国のうちの5国の王族
の出身は、(現)イ族とされる。この中国の少数
民族は、民族暦として、太陽暦を”古くから”使
用していたという事である。1年を、10カ月に
分ける方式と、18カ月に分ける方式が有るとい
う内容の説明が、以下の成書に載っている。

岡田芳朗編”暦の大事典”、朝倉書店(2014)

以下の別の成書を見た限り、現地では、10カ月
分解方式の方が、いくぶん有名なようだ。

張松泉他著”雲嶺之華”、㈱新評論(1997)

この暦法から察するに、結論から書くと、

南詔国が唐代に、”唐王朝の恒星天文学を、意識
的に使わなかった”という、本のブロクの仮説の
別の根拠

になるのではないかと疑われる。そこでその議論
を、以下更に続ける事にする。
 ただし残念ながら、この

イ族の固有の暦法の成立年代が、良く判らない。

 しかしながら、太陽暦採用の時代以降に、わざ
わざ別の太陽暦を、少数民族が、国家中央とは別
に使い始める根拠が有るとは、少なくとも私には
思えない。中国の歴代王朝で、言うまでも無く
太陰太陽暦を使っていた時代に、イ族がよりシン
プルな、太陽暦を使っていたという話の方が、よ
ほど尤もらしい事だけは、確かだと私は思う。
 次に内容だが、このイ族太陽暦は、レベルが

古代エジプト暦とほぼ同じ

である。つまり、極く原始的だ。

本格的な太陰太陽暦の作成・使用が、めんどうだ
から、別に太陽暦を作った位にしか、私には作成
の理由が思いつけない程度のものである。

なお今では、1年10カ月暦の一月が、36日に
なっているとの事だが。大方、唐代程度まで遡る
と最初は30日にしておいて、2月強休みという、
四大文明方式だったのだろう。
 その日の何時何分に、形を見るのか明らかでな
い為詳しい事は良く判らないが、イ族も季節を知
る目安にしていると言う北斗七星が、雲南で周極
星だった時代には、中国中原の暦に、何とかつい
ていったのだろう。が定朔の暦にする等の目的で、
中国古代の、中国王朝モデルの恒星天文学を取り
入れ、月の位置観測をし無ければならなくなった、
唐暦への中国中原での改暦あたりで、南詔と六詔
国中の五国は、太陰太陽暦の

中国方式から、離脱したと考えると、よく合う話

のように、私には思える。
 なお今日のイ族の10カ月方式太陽暦は、月名
を5行、日名を12支を使って表す、”もっとも
らしい方式”として、完成しているとの事である。
なお一年が366日の閏年には、夏に閏日を入れ
るらしい。回帰一年の長さはユリウス暦とおなじ
にしているようだ。
 何れにしてもつまりは、中国古代イ族の先祖は、

”そこまでして、月の満ち欠けに合せる事は無い”

と考えたのだろうという事を、本ブログのこのペー
ジでは指摘しているのである。
 よって、以上の事から
イ族(ロロ族)が王だったという、六詔国のうち
の5国と南詔国は、六朝から唐代に、ハニ族(倭
を当てる場合の、雲南の民)や極東の倭国とは違っ
て、囲碁、盤双六、中国式サイコロ賭博等につい
ては、

特にそれと関連する、囲碁について、唐代に、
中国恒星天文学に関心が薄れたために、しなくなっ
ていったと考えても、さほどおかしくない。

以上のように推論できる根拠の一つように、この
情報は、読み取れると、私は考えているのである。
(2019/10/27)

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