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本ブログで問題にする囲碁と恒星天文道との関係(長さん)

以下、中国古代の星座の認識を、
中国古代特有の恒星天文道とか恒星天文学等の
言い回しで表現する。今回は、本ブログでは、
囲碁と天文学との関係と言うときに、
碁盤を星占いに使用するといったカテゴリーの
内容を、

問題にしていない事

及び、

何と囲碁を関連付けているのかという事

と、

その理由

について以下解説する。
 後半の方の答えから先に書く。
 古代の中国の星座については、星の配列を、
囲碁の石の並びに関する、独特の囲碁用語を
転用すると、便利に表される。そのため、
少なくとも唐代頃には、囲碁の石の配列用語を
転用して、実際に中国星座の星配列は、把握・
表現されていたとみられる。そこで少なくとも
本ブログの解釈では、古代の日本や中国の

天文博士にとって、天文道の業務を遂行するた
めには、囲碁の石配列の表現に関する用語が、
全て理解できるというのが必須だった

と推定される。
だから、たとえば藤原京時代には事実上、

囲碁の棋士にしか、天文博士はなれなかったと
推定できる

という事になる。
 次に、前半の件だが、確かに漢代以前に、囲
碁が成立するとき、占いの道具である、碁盤を
囲碁に転用したいう事は、あったかもしれない。
しかし囲碁がゲームとして高度に確立されると、
占いとゲームとしての囲碁のお互いの間で、
必要な知識のカテゴリーに、さほどの共通性
が無くなったと、私には思える。
 だから、本ブログでは、占いとしての天文道
と、囲碁との関連は、かなり時代が下る将棋史
との関係に関連しては、余り問題にしなくて良
いと考えているのである。
 以上が結論だが、以下に論を続ける。
 本ブログの以上のような議論は、

残念ながら、隋唐時代の囲碁の史料等を使った
証拠として示せない。

日本の藤原京での囲碁の隆盛も、囲碁の石並び
の専門的な用語による表現が、月の位置を観測
するために、中国星座を把握しなければならず、
その能力の有る無しの証明になるため、人事評
価を上げるために、下級役人が都で囲碁を打っ
たのだろうとの旨、以前に本ブログで表明した。
がその証拠となる、日本の当時の史料が、特に
ある訳でもない。

全ては、もっともらしさが根拠なだけ

である。
 ただし傍証としては著名なものが、江戸時代
に下ると、わが国には存在する。幕府天文方の

渋川春海という個人の存在と、彼の作成した、
中国星図及びその拡張和星図

である。
 前世紀の天文学史の主流であった、渋川春海
という人物に関する、”囲碁棋士としての腕は、
さて置いて論”は、今では、増川宏一氏の著書、
”碁打ち将棋指しの江戸”で紹介された、江戸
時代の将棋家、大橋家の文書の発見で、文字通
り”こっぱ微塵に打ち砕かれ、覆された状態”
である。

渋川春海は、当時の囲碁界のトッププロ

だ。彼が幕府の天文方に抜擢されたのは、京都
の土御門家に、囲碁と天文道との関係に関して、
当時の中国星座の把握と、囲碁の局面石配列と
の関係が同じである旨の話が、私には

少なくとも、口伝として残っていたからだとし
か考えられない。

根拠としては、土御門家と渋川との関係は、暦
道の技術的な問題はさておいて、うまくつながっ
ていて、基本的な信頼関係がある点。および、
前段で述べたように、
碁石を並べたような、和製の中国星図を作って、
それがもはや江戸時代には形式的であるにせよ、

朝廷の御用学者である、土御門家にも、通用す
るような内容であった点。

以上の2点から見て明らかである。
 なお、渋川の星図が、囲碁の石の配列である
という点については、
天文学史家の間では、見れば一目瞭然のため、
恒星の対応付けという観点を除いて、真面目に
理由解明に取り組んだ先行研究例を、少なくと
も私は、余り聞かない。
 口頭での話でよければ、かつて”星空を守る
会の総会”で、変光星の観測者として著名な、
神奈川県の佐久間精一氏が、

”これじゃ、変光星の研究には、ほとんど役立
たないのだが”と、ため息を漏らした例がある

だけのように、私には認識される。
 前世紀の当時は、とっくに囲碁界から去った
渋川春海が、なぜ

未練がましく、それまでの中国の伝統星図の
方式よりも、更に環を掛けた形で、囲碁の碁石
を並べたような星図を作成したのかという点に
関しては、全く謎に包まれていた

ように、私には記憶される。
 ちなみに中国に、ギリシャの天文学者のヒッ
パルコス作とみられる、恒星の等級システムが、
イスラム世界から伝来したのは、遅くとも日本
の、南北朝時代以前である。西暦1384年成
立の明訳天文書に、30個の恒星の、ヒッパル
コス流(プトレマイオス転記の)星の等級表が、
中国には有るからだ。
 また、渋川春海が貞享の改暦に成功したのは、
実際には、彼には洋学の知識が有り、藤原京
時代の人間よりは現代人に近く、回帰年と
近点年とが、別物である事を知っていたから
だと、少なくとも私は理解している。
 しかし今や、
遊戯史自体が、当時とは比べ物にならないほど
進んだので、囲碁が藤原京時代に打たれた動機
という観点や、逆に晩唐の頃に、中国雲南省の
イ族の国家、南詔国では打たれなかった理由と
関連付けて、ずばり

囲碁の石を並べた形の、渋川星図の意図が、
次第に判るようになってきた

という事である。
 以上をまとめると。少なくとも、囲碁が発生
した経緯ではなくて、良く打たれる理由として
は、中国星座の抽象的な配列と、囲碁の石の配
列の独特の表現方法とが近似していると、ほぼ
断定可能であるという点が、

とても大事

だと見る事が出来る。なお、個別月の位置の観
測についてだけは、隋王朝時代に歩天歌が出来、
それ以来それも使えた。日本の藤原京時代より
は、少し前の事である。厳密には、星座の中の
サブドメインが、具体的にどう並んでいるのか
を、囲碁の石の配列の表現方法を借りて表した、
”専門家用の知識”だったのであろう。
 よって、囲碁の発生よりも後発の、日本の
将棋の発生要因を問題にしている本ブログでは、
議論が沸騰している囲碁前史の、天文占いとの
関連ではなくて、中国古代の星座の形の特徴に
関連する、中国古代の恒星天文学と、具体的な
囲碁ゲームの使用用語の特徴との関連が、論題
になっていると、いう事になるのである。
(2019/10/28)

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