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鶴岡八幡宮出土駒には複製作成紹介サイト有り(長さん)

神奈川県川崎市に、文化財等の造形物(レ
プリカと見られる)の作成会社があり、
今年の7月のその会社のブログのページで、

鶴岡八幡宮境内出土駒の、レプリカ作成を
依頼されたので最近作成し、神社に納付した

との旨の紹介があるようだ。
 サイトは、
エイチテイテイピー://makotodo.sblo.jp/
とあり、リンク先に、その会社のホームペー
ジがある。またssブログ同様、ブログサイ
ト内検索機能がついていて、”出土駒”等の
検索キーワードで、今年2019年の7月の、
問題のページに飛ぶはずである。
 該当ページには

出土物の表面のみの写真

と、その会社の作成した、鶴岡八幡宮境内出
土駒5枚の、将棋駒のレプリカの対応面の写
真が、下図のような感じで載っていて、

裏の(一説)”飛車(?)”で本ブログの言
う、”汚れた歩兵駒”が左から2番目に掲載

されている。

誠堂だより.gif

 とりあえず、そのブログのコメント欄で、

その駒の、写真の裏面に関して、

”スケッチに対応する、写真を公開した成書
が、皆写真を、間違えている本ないし、写真
が無いのを、気にしていない本ばかりな為に、
見当たらず”との旨の、

”窮状”を、私が訴えてはおいた。

追加で問題の駒のレプリカ写真の裏を掲載し
て貰えれば、正しい裏面駒名の内容が、明ら
かになるので、ありがたいところだが。
 なお、私の自宅から見ると、この会社は
かなり遠いので、

神奈川県の川崎駅で下車して、この会社に
レプリカを見に行くのと、鶴岡八幡宮に行く
手間は、私に関しては、ほぼいっしょ

である。だから私に関しては、この会社の見
学をする予定等は今の所は無い。(2019/11/20)

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将棋伝来元ドヴァーラヴァティーでは無い理由(長さん)

大阪商業大学、大学出版書2014年の、
解明将棋伝来の謎の松岡信行氏と違い、本ブロ
グでは、将棋伝来元が

存在する

という論を取っている。ただし、松岡氏の言う、
将棋伝来元がドヴァーラヴァティー国アユタヤ
から、11世紀では無いと言う点については、
本ブログでも

賛成である。

 先行研究として、上記成書で松岡氏は、この
点を詳しく論じ、
交易力が足りないため、シュリーヴィジャヤ国
のイスラムシャトランジ系が、日本に伝来する
はずで矛盾との旨を述べている。この考えには、

本ブログには異論がある。

今回は、なら、どうして日本の将棋がドヴァー
ラヴァティー国でないのかを、論題とする。
回答から先に書く。
ドヴァーラヴァティー国は、西暦900年頃、
クメール国の、ヤショヴァルマン一世等に
侵略された結果、

将棋文化が、仮に存在しても消滅し、西暦
1015年頃には無かったと考えられる

からである。
 では、以下にもう少し詳しく説明する。
 本ブログでは、松岡信行氏の少なくとも前記
成書と同じく、中国唐の時代の対吐蕃融和路線
の政治家、

牛僧儒の著作したとされる、玄怪録、岑順(
小人の戦争)の将棋は、日本の将棋の先駆体

と見ている。ただし、松岡氏が日本の朝廷で、
それを読んで、自作したと見ているのに対し、
我々の方は、伝来元国のゲームであり、後に
それが、酔象が一つ残っていた点を除いて、

実際に、日本の博多に西暦1015年1月伝来、
すぐさま京都に、そのゲーム器具が届けられた

と見ている。日本の将棋の

九州・京都の二極発生説

である。
 まず、岑順(小人の戦争)の舞台設定が、
呂氏の

山荘になっているから、ドヴァーラヴァティー
国アユタヤとは、合って居無い

と、私は思う。また松岡氏の論法は、中小企業
で開発したゲームでも、面白ければ流行る可能
性もあると例えられると言う点で、

論拠が弱い

とも考えている。
 将棋が松岡氏の論と違って、伝来元国が有る
としての話だが、玄怪録では山荘になっていて、
アユタヤのように、中国中原の人間の感覚で、
海端の、海の家等の表現では無いのだから、
日本の将棋の伝来は、

ドヴァーラヴァティーでは無いと、説明した方
が判りやすい

事だけは、確かだと私は思う。
 それに加えて、冒頭の結論で述べたように、
西暦775年に、ペグー(パゴー)やタトン
のモン族仲間から、銀貨を鋳造する力は持つ
ドヴァーラヴァティー王が、仮に前駆ミャンマー
シットゥインゲームの話を聞き、
反骨精神がたくましくて、イスラムシャトラン
ジ化には対応せずに、ドヴァーラヴァティーで
玄怪録記載の、宝応将棋化を西暦800年頃ま
でに、仮にしたとしよう。しかしそうだしても、
西暦900年頃にドヴァーラヴァティーは、統
一クメール王朝のヤショヴァルマン一世に侵略、
更には西暦1000年頃、次のクメール王朝の、
スールヤヴァルマン一世にも、侵攻されている。
だから、将棋文化が、仮にドヴァーラヴァティー
に存在しても、少なくとも貴族棋士が、カンボ
ジアに連れ去られて、たぶん原始的なイスラム
シャトランジ系ゲームであろう、八方桂、車駒
が飛車の、

前駆シャッツロンに、溶け込まされてしまう

だろうと、推定できると思う。そもそも、宝応
将棋は、大臣駒がドヴァーラヴァティーの銀貨
と同じく銀の銀将であるという特徴を持ってい
たのは、明らかだろう。物語りで金象将軍なの
だから、銀貨を作った余りで、立体副官駒を
作るはずだ。しかし、銀貨を持てるのは金持ち
だろう。

だからドヴァーラヴァティーの西暦800年
から900年までの将棋棋士は、存在したと
して、富豪

だろう。だから彼らが、クメール王国の侵略時、
プノンペン方面に、捕虜として連れ去られるの
は自明だと、私は思う。よって中国北宋商人の、
一例周文裔が、原始平安小将棋の黄金立体駒を、
西暦1015年に日本へ、今のタイから運んだ
とは考えられない。
 なお、西暦900年から1000年頃、アユ
タヤ付近は、戦乱状態だったと私は、webの
情報により、認識している。中国北宋商人も、
そういう場所との取引は、したくなかったので
はないか。
 以上のような理屈で、中国雲南省に比べて、
タイのアユタヤは、日本の将棋の伝来元の可能
性としては、少なくとも

より低い事は確か

だと、私は考えるのである。(2019/11/19)

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何故チベットでイスラムシャトランジが指された(長さん)

本ブログは、梅林勲氏同様、チベットの古象棋
はイスラムシャトランジであり、現行は西洋
チェスの事になったと認識する。
 ところで本ブログの今までの、囲碁史論によ
れば、チベット暦が定朔である事からの類推で、

吐蕃国では、囲碁が打たれた

はずである。囲碁が打たれると、イスラムシャ
トランジは、

出来の悪いゲームとしてブロックされるはず

なのに、チベットではイスラムシャトランジが
指された形跡が、残っているのは何故なのかを、
今回は論題とする。
 回答から書く。

吐蕃国が北宋代には衰退して、チベットは
戦国時代に入り、

囲碁を指すように暦作成の立場から、下級役人
に強いる、

王朝自体が無くなったため、19路囲碁は余り
しなかった

からだと考えられる。
 では、論を続ける。
 現在囲碁に関するチベットの史料は、17路
の囲碁盤が著名であり、清水康二氏が、自身の
2017年の明治大学学位論文で、

吐蕃の時代のものだろう

との旨述べていると、私は解釈する。そして、

本ブログも、その解釈で正しいと考える。

だから、19路に遅くとも中国の北宋王朝時代
に転換した頃、10世紀に吐蕃国の衰微した

チベットでは囲碁は衰退した

と考えるのが自然だと私は思う。原因は唐に習っ
て日本同様、定朔の暦を、確立したとみられる
吐蕃王朝の暦担当者が、戦乱で居なくなったか
らだという事である。つまり、囲碁をやれと、
小役人にせっつく人間が、居なくなったからだ
と考えるのが、最も簡単だと私は考える。なお、
チベットでの次の統一政権は、17世紀と聞く。
 そのときには、巨大化した宗教教団王朝が、
中国古暦よりも、更にわを掛けて”日月星辰の
運行に則る”、インド古暦を導入したようだ。

もあれその結果、ほぼ北宋時代に、チベット
ではゲームの出来の、良し悪しに関する目は
失われ、イスラムシャトランジが定着

したのではないか。その後結局、中国中原の
中国シャンチーとは違い、チベットでは、たま
たま、中国シャンチーや、日本将棋のように、

民族独自で、出来のよいゲームが、近世になっ
ても運悪く、作れなかった

のではないか。その結果、今度はゲームの出来
の良し悪しに関する目が、囲碁盤を代々保存し
た近世のチベット王朝内では、少なくとも出来
ては来たものの、否それゆえの結果として、

必然的に、西洋チェスが近世になり、侵入した

のではないか。
 つまり、中国、朝鮮半島、日本のように、
その国の民族独自の象棋、将棋が

たまたま作れなければ、西洋チェス化する。

以上のような尤もらしい現象が、チベットでは
現に起こっているのだと、私は考えるのである。
(2019/11/18)

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漢代のこぐま座アルファー星の赤緯の観測精度(長さん)

以前述べたように、本ブログでは、囲碁盤の
線数が17から19に増えたのは、こぐま座
アルファー星の赤緯が85°を越えたので、
星図に準えた、赤緯90°線(メルカトル図
法で言う極点の無限大引き伸ばし線)が、
不足した為ではないかとの事だった。
 薮内清氏の平凡社、中国の天文暦法
(1969)に、西暦前100年頃成立の、
恒星の位置表である、唐代開元占経に実際に
は記載された前漢王朝期の石氏星経の、
こぐま座アルファー星の赤緯値について、
最近私はチェックした。この星表の観測精度
は、実際にはかなり低いと、薮内清氏の成書
から聞いていたからである。つまり事実とし
ては、こぐま座アルファー星の赤緯は80°
より低いのだが、観測誤差が大きいと、漢代
の観測実測で、85°を越えてしまうのでは
ないかと懸念されたので一応調べたのである。
しかし、

西暦前100年でも中国天文道のレベルは高
く、角度の1.5°程度の精度なので、心配
無さそうであった。

実測値はこぐま座アルファー星の赤緯の文献
値は約79°、計算すると約78°で、今の
北極星の赤緯は、1°位の精度で、漢の天文
方の(伝)石氏に測定されていたようである。
 他方、こぐま座ベータは、天一星と呼ば
れていたらしいが、測定するときに、石氏は
エラーしたらしい。

石氏はしくじったのか、または何かあって、
薮内清氏が”天一星”を、自書のリストに
加えなくなってしまう理由が有った

ようだ。
 が、計算値は82.5°前後のはずなので、
西暦前100年位には、まともに計れば81°
から84°に収まり、やはり北極星は存在し
ないはずである。だから17線盤の囲碁盤で、

”天の鏡である囲碁”には間に合っていた

とみられる。
 なお、元データでは、webの情報では、
天一星は、78.8°になっていて、天帝星
(こぐま座ベータ星)とは、確かに全く合っ
て居無い。天一星は、太一星(太子星、こぐ
ま座ガンマ星)と、赤経が、実際にはかなり
違うはずだが、離れているのに適当に、くっ
付けたように見える。更には、2つの星共に、
赤経自身も180°近く違う感じだ。そして
ペアの太一星の方の数値を、唐代の書写復刻
書で、太一星から天一星へ、数値を流用して
適当に記載しているように、私には見えた。
 また同じサイトによると、石氏星表の中で、
りゅう座7番星らしき星が、赤緯81°に
なっているとの事だが、他に赤緯が80°を
越える星は、115個程度の、この星表の
輝星表には無いと言うことだ。だから、

前漢後漢遺跡からは17路囲碁盤が出土する

のだろう。
 しかし、西暦前550年位まで遡ると、
天帝星の事とみられる、こぐま座ベータ星
は、赤緯が84°より高くなるので、

孔子が囲碁を打ったとすれば誤差を考えると、
囲碁を、19路盤にしていた必要がありそう

だ。やはり、孔子の囲碁打ちの伝説は、その
点でも別のゲームの事ではないかと私は疑う。
 ちなみに、もともとは鉤陳星等と称された、
”こぐま座アルファー星”が、歳差のため
赤緯83.5°線を越えるのは、西暦800
年位であるのも、何度調べても、間違いなさ
そうだ。唐末~宋の時代に、見た目でも、
こぐま座アルファー星が、真北に止まって見
えるようになってきたので、赤緯90°線に
対応する線の無い

囲碁の17路盤は、その期間に19路盤に変
えないと、恒星天文道とは対応しなくなった

と私は思う。なお、中国で歳差が確認された
のは、五胡十六国時代の東晋王朝からだから、
”事態”は、その時点で、予測できたと見ら
れる。
 19路盤が少し早めに見つかるのは、その
せいだと考えるとツジツマは一応合っている。
又移行期間が有ったので、チベットに唐代伝
来と推定されている、17路盤が存在するの
も、不思議とまでは行かないのだろう。
 ようするに中国で、天球の赤緯は90°ま
で有る事を、繰り返し教育しながら、移行期
が長い事や、代替わりを利用すれば、囲碁の
ヘビーゲーマー等から文句が来ないように、
囲碁の盤路の数は、変更出来たのではないか
と、私は考えているという事になるのである。
(2019/11/17)

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中国漢代に17路4星囲碁盤が出土するのは何故(長さん)

前世紀にはトピックだったが、中国で六朝時代
まで遡ると、17路囲碁盤が優勢になるという
のは、今では囲碁史の常識らしい。本ブログで
は、将棋史との関連から、

古代の恒星天文学が発達し、抽象星座を使って
いる所では、必ず囲碁が、盛んでなければなら
ない

という前提から出発し、
抽象星座を使っている所では、必ず調整の悪い
将棋類は、著名であっても囲碁で、出来の良い
ゲームに対する目が出来ているので、指されな
いという

”法則”を導入して、古代国際将棋史を展開

している。
 従って、古代囲碁のたとえば、盤の線数は、

メルカトル図法的な赤経、赤緯座標の作りで、
必ず説明出来なければならないという縛り

が発生する。所で、冒頭に述べたように、
十進法の国の話である事は、前提にする事にし
て、17路では赤緯+90°点と-90°の
点と、球の大円の線が抜けていた事に対応する。
 つまり、囲碁と恒星天文道とを対応させると、
赤経、赤緯について、17路囲碁盤では星空に
なぞらえた場合に、端の線が1本づつ足りない。

これは、おかしくないのか。どうして、不充分
な表現で、中国六朝時代までは、許されたのか。

なぜ19路囲碁盤の前に、17路囲碁盤が、
隋王朝程度よりも前で、囲碁は成熟していたと
みられる時期に有ったのかを今回は論題にする。
 回答を書く。

西暦紀元前100年から西暦800年まで、
赤緯で85°を越える輝星が無かったので、
+90°と-90°の線は、省略してよいと
考えられた

とみられる。では、説明を続ける。
 時角で18時線と6時線(時角6時、18時
線)、つまり縦の端線が無いのは、地平線近く
で、恒星が見えにくいので、1本づつ、囲碁盤
で縦の線を省略しても、恒星天文道との関係が
乱れたとは、考えられなかった為なのであろう。
それに対して、今なら北極星が、17路囲碁盤
上で表現できないので、横線の端線つまり赤緯
90°ポイントの、メルカトル図法での無限大
引き伸ばしでの縁線の省略は許し辛いであろう。
 しかし、たまたまだったが、西暦紀元前
100年から西暦700年頃は、こぐま座ベー
タ星も、赤緯が85°程度に落ちていたし、
今の北極星こぐま座アルファー星も、天の北極
から、5°以上離れていた。
 そのために、囲碁盤で赤経赤緯座標を模すと
したときに、90°線が無くても、輝星の落と
しが無かったと考えられる。
 だから、

西暦紀元前100年というように、六博より
だいぶん成立の遅い囲碁では、17×17路の
盤で、日月と全ての”星辰”の位置を、示せた
と考えられる

のである。しかしながら時代が下り、話が
厳密になってくると、点が線に無限に引き伸
ばされるという、メルカトル図法の不自然さは
有るとは言え、そうして出来る端線を省略す
るのは、おかしいと考えられたのであろう。
そのため、南北朝時代の南朝のころから、
19路盤への転換が、中国では、起こったと
見られる。そのうち、こぐま座アルファー星
つまり、今の

北極星の赤緯が、80°より、だいぶん90°
に近くなった、唐~宋頃になると、かなり、
19路囲碁ゲームの方が、強くなった

のではあるまいか。
 従って、恒星天文道と囲碁とは、囲碁の成熟
段階に於いて、相関するという論理と、

成熟してから、どうみても17→19路転換が
起こっているように見える点

とは以上のように、歳差による、北極星の出現
が要因の一つと考えると、矛盾はしていないと
私には思える。
 加えて表題の、中国での囲碁盤の5聖目化は、
中央聖目を、北極星と見立てた事を発端とする
との説がある。その頃北極に星は無かったので、
漢代の盤は、4聖目型にしたように見える、と
して説明可能であるという点も、根拠として
挙げる事が、できる。
 なお、この現象が中国発である事は、南極星
が紀元前150年頃には、みずへび座ベータ星
であったにも係わらず、それが問題視されてい
ない事からも、証明できる。つまり囲碁は、
赤道直下の国ではなくて、北半球の中緯度の国、
中国で中心的に行われ続けたゲームであるから、

もう一方の縁の破綻に、少なくとも古代には、
気がつき得なかった

という事が、盤の作りに現われているとして、
説明できると言う事である。
 以上のように、本ブログのように、抽象星座
を使っている所では、必ず調整の悪い将棋類は、
著名であっても指されないという”法則”を仮
定して、古代国際将棋史を展開するという点に
関して、中国の17路囲碁盤の存在は、少なく
とも論を破綻させる要因に、なり辛事は確かと
言えるように、私は思う。(2019/11/16)

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大宰府責任者。藤原隆家(第一回)の前は平親信(長さん)

以前、本ブログでは、西暦1014年12月
から西暦1019年の刀伊の入寇時の、大宰府
長官は、藤原隆家で、その前は藤原伊周だと
書いた。が、間違いである事が判明した。

藤原行成と親しい、平親信が、西暦1010年
から4年間、大宰大弐をしている。

藤原隆家の兄の藤原伊周が大宰府権帥であった
のは、西暦1002年までであり、西暦101
0年に、藤原伊周自体が他界している。
 webの表で、赴任・解任の日付を良く見な
かった

私のミスだ。

 昭和女子大の久下裕利氏が2006年に出し
た、”太宰大弐・権帥について”という論文に、
経過のリストがあり、それから以下の点が判明
した。すなわち、藤原伊周と藤原隆家の間には、
大宰大弐ないし、大宰府権帥という、実質的な
太宰府長官歴任者が、3人挟まっている。
 最初の二人は、webの情報によると、不正
で下ろされたとも書いてあるようだ。
 平親信は西暦1010年から1014年まで
の3人目であり、当時、藤原道長によると、
”三条天皇の即位直後だったので、追い返され
な”かった、御用聞きの為に、頻繁に来日
しすぎの北宋商人、

周文裔が持ってきた、西暦1012年の唐物の
購入責任者

だったとみられる。周文裔の来朝に関しては、
次は藤原道長が、御堂関白記で、大宰府大監
の藤原蔵規から贈られたものだと書いた、

孔雀と、本ブログの論では、雲南省大理国産の
将棋セットを持参した、西暦1015年の正月

だとと、本ブログでは独自に推定している。
 そのときには、たぶんだが、藤原隆家は、
仮病で無ければ、太宰府で、西暦1014年の
暮れに、緊急の彼の目の治療をし終えてから、

京都御所、大内裏の火災対応補充物品を、京都
に2月頃には護送する準備を、博多でしていた

と、本ブログでは見る。
恐らく直ぐに”黄金の将棋”等、多数の唐物を
持って、太宰府の護送担当者を引き連れて、
京都に戻ったのだろう。京都に着いて直ぐに
1015年2月に藤原隆家は、藤原実資に、
”三条天皇が回復すると藤原道長の機嫌が悪い
ので困ったものだ”と、こぼしていたという話
が、成書の”藤原道長” (人物叢書・2007)
山中裕氏著に出ているようだ。その後彼は、
”西暦1015年4月に、太宰府へ行くので、
藤原道長から、餞別を貰った”そうである。
 が赴任ではなくて再度の戻りであり、恐らく
餞別は、

孔雀等への対応の、藤原道長からの礼

だったのであろう。
 (一例)周文裔は、ちょうど平親信と藤原隆
家の交代の”は境”を狙って、トップが居無い
スキを見計らって来日し、代理で処理をしてい
た当時太宰府大監の、藤原蔵規等が、

良い様に持参品を買ってくれるようにし向けた

可能性も、否定はできないのかもしれない。
 は境だったので藤原道長は、孔雀は平親信で
はなくて、藤原蔵規から(購入処理して)貰っ
たと、日記に書いている、のかもしれないとは
私も考える。
 何れにしても、西暦1012年に孔雀が来て
いるのなら、藤原道長への贈り主の責任者は、
平親信のはずだから、藤原蔵規からと言うから
には、周文裔は西暦1012年と1020年の
2回ではなくて、

西暦1012年、1015年年初、1020年
と3回来朝したのではないかと、私は疑う。

西暦1014年12月に、太宰府権帥になって
いるのだから、西暦1015年1月来朝の、
”一旦、国軍買い上げルール”の、唐物購入責
任者は藤原隆家だと、藤原道長以外は、納得し
ていたのではないかと、私は独自に考える。
 なお、久下裕利氏(2006年)の、”太宰
大弐・権帥について”によると、西暦1020
年一年だけ、太宰府権帥を歴任した藤原行成が、
太宰府へ、実際に行っている形跡は無いと言う。
 将棋駒師を、行成が現地で指導したように、
前に本ブログで書いたが、

現地でと言うのは、多分間違い

だったようだ。
 実際には逆に、西暦1020年のたとえば夏
頃に、博多の将棋駒師等を京都に集めて、京都
市内、たとえば世尊寺で、藤原行成が、将棋駒
の書き方の指導をしたのだろう。なお学習用の
経帙牌は、お寺であるから世尊寺にも、当然必
要数位は有ったのではないかと、私は考える。
 藤原頼通は藤原行成に、太宰府での賭博を、
見張ってほしかったのかもしれないが。余り期
待には、添えなかったと言う事かもしれない。
(2019/11/15)

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普通唱導集より前に、持駒ルールは有るのか(長さん)

日本の将棋のうち小将棋で日本将棋に繋がらない
側枝部分を除くと、原始平安小将棋から日本将棋
の成立までは、以下のように概観される。
①8升目から9升目化が、西暦1080年開始、
並立段階経由し西暦1323年頃9升目に一本化。
西暦1746年成立と聞く、本朝俗諺誌は、有る
程度参考になると、本ブログも、松岡信行氏同様
見る。なお後者1323年8升目消滅の根拠は、
新安沖沈没船出土将棋盤(?)の聖目のパターン。
完全に9升目の将棋盤現物が出土したのは、西暦
1500年程度で出雲市、尼子氏使用とみられる
”まな板兼用将棋盤”が初出。
②取り捨て、自殺手負けに対する裸玉勝ち優先
ルールから、細則未決定の持駒ルールへの変化が、
西暦1300年開始、中間状態が余り無く、
西暦1323年の、新安沖沈没船出土駒の頃完成。
ただし、一発成りルールとの並存が、西暦
1500年過ぎまで続く。持駒ルールが有ると
判る、はっきりとした史料は、宗祇作の児教訓で、
15世紀の末頃。
③元々の双玉から、西暦1080年頃に双王将が
発生。京都朝廷双王、地方双玉の、水と油の分裂
状態が、西暦1560年代、一乗谷朝倉氏遺跡駒
の時代まで続いてそこで解消し”溶け合い”になっ
た。ただし、安土桃山時代後期の後陽成天皇が、
皇族の双王使用の可否を、豊臣秀吉へ問い合わせ
る等しており、完全解消は近世。ちなみに最後の
件の事の発端と見られる、”水無瀬兼成中将棋駒
を購入した、雅朝親王”の正体は、私には不明で
ある。或いは後花園天皇の、弟の”やしゃご”の、
尊朝法親王の事かもしれない。
④西暦1500年以前は、飛車、角行が小将棋に
は無い。入ったのは、西暦1506年頃で、記録
は実隆公記で”駒落ち将棋”の記載が初。これに
伴い、成り条件則が、敵陣突入一発成りから、
敵陣内移動毎自由成り(現行)に、こっそりイン
チキ成りの”いかさま”が横行して、それが元で
変わったと見られる。
⑤持駒を打つ、禁手に関する細則は、江戸初期の
将棋棋譜から、初代大橋宗桂が、幼少の時代の
頃成立した事が判る。たとえば、打ち歩詰めの禁
手については、江戸初期成立の狂歌本に、織田信
長の、京都侵攻時代から、それが存在した事を
示唆する例がある。二歩の禁手については、本因
坊算砂の手がおかしく、彼が幼少の頃には、少し
緩かった疑いもある。
 以上の①から⑤の、だいたい5要素で、
8×8升目36枚制原始平安大将棋から、
9×9升目制現行日本将棋に、

日本で、西暦1600年までに完全転化した

と、本ブログでは通史として考えている。
 残りは、千日手のルールと、入玉規定の変化で
あって、これは近年だ。ただし、日本風土記による
と、戦国時代に、”入玉により勝負が付かない
場合、日本将棋では引き分けにした”との記録が
あるようだ。
 今回は、

②の持駒ルールの導入に関して話題

とする。上で述べた、普通唱導集よりも、

前に、

持駒ルールを示唆する内容の、出土駒史料は有る
のかどうかを論題とし、

無いようである

と、結論する。では、論を続ける。
 上で述べた②持駒の使用と、④飛車、角行の導
入は、中身として金将の2枚化等である、①は別格
として、

原始平安小将棋から日本将棋への進化の肝

である。西暦1600年前後に、日本将棋の名人が
派生し始めて、その結果、急激なゲームの変化が、
ぴたりと収まったのは、②と④のバランスの絶妙さ
のおかげだった。特に、世界の将棋の中での特異性
と言う観点でも、②の持駒使用の問題に、関心は
集まる傾向が高い。
 今世紀初頭以降、興福寺出土駒等を根拠にして、
”1058年から持駒ルールが有る”と主張してい
る将棋史家は、木村義徳氏以外に多くは輩出してい
ない。興福寺駒(1058年物も恐らく98年物も)
は、成り金が

擦れているので、特定は無理だと私も思う。

次の、中尊寺境内出土駒にも、駒字の点で、オモテ
駒種類との間に、はっきりとした書体の相関性は、
私には見当たらない。
 大事な事は、まとまった小将棋の出土駒でその次
が、いきなり

新安沖沈没船出土駒であり、これは持駒将棋に使え
るという事

である。
 しかし、新安沖沈没船出土駒の成立は、西暦
1323年であり、西暦1300年前後に成立の
普通唱導集より後だ。
 そこで、普通唱導集より前で、中尊寺境内出土駒
より後の史料について、以下見直して見た。すると、
鎌倉市御成町にある、御成小学校内の今小路西御成
小学校遺跡出土駒が、金将と不明駒が2枚出ていて、
議論の中心になりそうな出土史料である。
しかし、この出土駒を見ると、デザインとして、恐
らく歩兵と金将を、やや差を付けて作っているだけ
だという、

疑いを払拭し得ない史料

だと私は思った。つまり、西暦1250年前後には、
ここのゲームセンターでも、小将棋は取捨ルールだっ
た疑いが有る。その他三重県に、安養寺遺跡出土駒
があり、ここも3枚金将、歩兵、歩兵と出ているが、

中尊寺境内遺跡出土駒の、大きさ同じパターン

だ。つまり、どこを探しても、今の所、駒種によっ
て形に差の有る出土駒は、西暦1300年以前には
無く、たまたまだったが、ちょうど

普通唱導集の頃に、持駒ルールが急に立ちあがった

ように見て、大きな矛盾が無いという結論になった。
 普通唱導集大将棋に欠陥が見つかり、代替が必要
なために急遽、小将棋の研究が進んだのか、どうか、
私には良く判らないのだが。

やはり、佐伯真一氏が言うように、普通唱導集が
成立した頃が、持駒使用の始まりだった可能性が大
きい

ようだと、出土駒データを、ざっと見直しても、
私にはそう、感じられたのである。(2019/11/14)

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なぜ宝応将棋の輜車は、木将動きにならなかった(長さん)

玄怪録”岑順”「小人の戦争」の将棋は、
本ブログによれば、西暦825年頃の、
南詔国王室の将棋であり、物語りの中で、
表題の輜車は、香車の動きである。
なお、走る飛龍の動きの前半分を、
ここでは木将の動きと表現する事にする。
 インド2人制古チャトランガの車駒は、
4人制チャトランガの10世紀~11世
紀のルールにより、走りの飛龍に近いと
推定される。
 南詔国王室の将棋では、元駒が後退で
きない事によって、相手陣で必然的に、
金将動きに成らざるを得ないように、
西暦775年時点で調整したかったので、
元が八方桂だとしても、馬駒は桂馬に直
した。その調子で、
ミャンマー在住モン族の戦車または、
(伝)牛僧儒命名の輜車が、インド2人
制古チャトランガルールでは走る飛龍だっ
たとしたら、前半分の動きの木将にする
のが、

本来は、最も簡単

だ。ところが実際には、
イスラムシャトランジの車が、飛車なの
を確認した上で、雲南王室は、前だけ残
して残りは捨て、

輜車等の名称の駒を香車動きにしている

のである。今回は、何がそうさせたのか
を論題とする。回答から書く。
 初手で先手が
▲6五歩とすると、後手は△3四歩と、
マネ将棋を指すしかなく、お互いの、

左辺の輜車が、それだけでほぼ死に駒に
なってしまい、つまらなかったから

であるとみられる。
 では、論を続ける。
 以前に述べたが、ミャンマーのモン族
が、雲南に西暦770年頃伝来させた
木村義徳氏”持駒使用の謎”で言う、
①インド第1波、および②”タイ”の
波(第2波)を、両方加味したような、
原始”日本の将棋”の前段ゲームは、
自陣3段目以下が、”動き”で似たもの
で対応させると、下の初期配列だったと
みられる。

ポーンポーンポーンポーンポーンポーンポーンポーン
口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口
口飛龍口桂馬口飛車口玉将口金将口飛車口桂馬口飛龍

ミャンマーのモン族は、10年位で、難
があるのに気がついて、グローバル標準
化するため、ビールーニ反転させて、
以下のようにしたとみられる。

ポーンポーンポーンポーンポーンポーンポーンポーン
口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口
口飛車八方桂口飛龍口玉将口猫叉口飛龍八方桂口飛車

これはイスラムシャトランジで、3段型
の将棋である。つまり、木村義徳氏の言
う、①インド第1波、および②”タイ”の
波(第2波)に加えて、③”インド”の
第2波(第3波)も取り入れた象棋ゲーム
という事になる。なお成りも、ポーンは、
金将動きから猫叉動きへ、ミャンマーでは
変化した。
 しかし、雲南では、特に馬駒について、
八方桂にすると、より弱い金将に成らせ
る事ができないので、この時点から、

ミャンマー・モン族に追従しなくなった

と考えられる。
 いちいち3段目に達すると、駒を入れ替
えるのは手間なので、西洋チェスも、タイ
のマークルックも、今ではしなくなったが。
自分達が、

金銀黄金を使える身分であるという、喜び
が、玉を詰めるのが旨いという誇りより、
南詔国王室では大切だった

という意味だ。
 つまり雲南では、銀製の成り駒(名称:
銀将、動き:金将)を、なるべく数多く、

豪華に遊戯の最中に使いたかったので、

ポーンだけでなくて、

桂馬や輜車も、金成りにしたかった

のである。
 以下、前に述べたが、桂馬を相手陣
3段目で成るように変えてみると”桂馬
の高飛びが、ポーンで餌食にできない”
ので、木村義徳氏の”持駒使用の謎”で
言う④『”インドより”の第3の”波”、
つまり”持駒使用の謎”の第4波(の逆)』
によって、とにかくポーンを歩兵に変え
た。実は波では無くて、雲南が震源その
ものなのだが。つまり、

ポーンを歩兵に変えて、桂馬の高飛びを
餌食にする必要が生じた

のでそのようにしたのである。
そこでそうした上で、以下のように、
輜車を木将に変えて、後退出来ないので、
相手陣到達で、金将に成らざるを得ない
ように、して見た所、

木将桂馬飛車金将玉将飛車桂馬木将
口口口口口口口口口口口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
口口口口口口口口口口口口口口口口
口口口口口口口口口口口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
口口口口口口口口口口口口口口口口
木将桂馬飛車玉将金将飛車桂馬木将

冒頭に述べたように、以下のように、

木将桂馬飛車金将玉将飛車桂馬木将
口口口口口口口口口口口口口口口口
歩兵歩兵口口歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
口口口口歩兵口口口口口口口口口口
口口口口口口口口口口歩兵口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵口口歩兵歩兵
口口口口口口口口口口口口口口口口
木将桂馬飛車玉将金将飛車桂馬木将

相手の飛車先の歩兵が、突かれてしま
うと、ポーンのときには出来た、
同じ筋の飛車先の兵の突き返しが、
歩兵のケースには、出来なくなってし
まった。そのため、左端の木将動きの

車駒(左木将)が、ほぼ死んでしまう

という事態が発生したのである。
一例として、シットゥイン型歩兵配列
で手を進めると、以下のようになると
見られる。

南詔国800試作変化.gif

 つまり元々の、飛龍の

斜め動きパターンは、3段成り、8升
歩兵3段目配列将棋では良く無かった

という意味である。
 ミャンマーのモン族のように、
インド古チャトランガを捨てて、
イスラムシャトランジ型に変えれば、
車駒は元の象の動きになり、縦横走り
なので、この問題は解決できたのだが。
繰り返すがその方法は、八方桂を使い
たくなかった、雲南では取れなかった。
 八方桂が、惑星の星座内の動きに象る
とモン族から聞き及んだ、イスラムシャ
トランジのイメージに関して、暦の件で、
唐王朝とそれ以前に、一悶着あったと
みられる南詔では、日本の安土桃山時代
の貴族、水無瀬兼成が将棋の定義として、
将棋纂図部類抄で示した

”日月星辰に則る”ように、過剰に
合わせる、駒動きが前後完全対称ゲーム
は、元々嫌われていた

のかもしれない。
 そこで、イスラムシャトランジの車
が、飛車動きなのを知った上で、その
飛車動きの前方だけを残した、1/4
動きとし、

香車動きの駒が、世界中でたぶん最も
早く、西暦800年までには、中国の
雲南省に現われ、玄怪録に記録された

とみられるのである。

香車桂馬飛車金将玉将飛車桂馬香車
口口口口口口口口口口口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
口口口口口口口口口口口口口口口口
口口口口口口口口口口口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
口口口口口口口口口口口口口口口口
香車桂馬飛車玉将金将飛車桂馬香車

そして大切な点は上のルールの将棋は、

本ブログの言う、宝応将棋そのもの

に、他ならないという事である。
 つまり、

輜車天馬上将銀将金将上将天馬輜車
口口口口口口口口口口口口口口口口
兵卒兵卒兵卒兵卒兵卒兵卒兵卒兵卒
口口口口口口口口口口口口口口口口
口口口口口口口口口口口口口口口口
兵卒兵卒兵卒兵卒兵卒兵卒兵卒兵卒
口口口口口口口口口口口口口口口口
輜車天馬上将金将銀将上将天馬香車

以上が、実際の駒の名称に合わせた、
宝応将棋の初期配列図(本ブログ)で
ある。
 一つ上の配列図で言うと、ここから、
①飛車が角行に変わったのが、四人制
チャトランガ発生期の、西暦900年
前後の頃。
②銀将動きが発明されて、ホータン玉
が入って、駒名称”玉将”が発生。上
将、金将、銀将が、銀将、玉将、金将
に名実共に、置き換わったのが、吐蕃
国が衰退した、西暦900年過ぎの、
南詔→大理への王朝交代の頃。なお、
これ以降、成り銀駒は、銀ないし金銅
製から、純金の成り金駒へ、変化した
と見られる。
③右に残っていた上将が消えたのが、
(一例)周文裔が、西暦1015年に
将棋を伝来させたときに、”銀将、銀
用成金2枚ずつの特別増量商法”で、
置き換えたとき。
④ただの馬、車、兵卒を、桂馬、香車
歩兵に統一したのは、日本の大宰府で
西暦1020年まで。
 以上のように本ブログでは、以下の
8升目型原始平安小将棋への、西暦
825年から、西暦1015年までの
約200年弱間の、宝応将棋の

変化は、主な部分中国雲南省でのもの

と推定しているのである。

香車桂馬銀将金将玉将銀将桂馬香車
口口口口口口口口口口口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
口口口口口口口口口口口口口口口口
口口口口口口口口口口口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
口口口口口口口口口口口口口口口口
香車桂馬銀将玉将金将銀将桂馬香車

 つまりまとめれば、

中国雲南省に、

日本の将棋の源が、西暦825年頃成
立の玄怪録までには、完全に現われた
というのが、松岡信行氏の、”解明
将棋伝来の謎”と、唐代怪奇小説史料
に対して同じ評価を取る、本ブログの
論という事に、なるのである。
(2019/11/13)

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将棋進化はCP情報地理学モデルで研究すべきか(長さん)

旦代晃一氏は、2002年の時点で、”日本
文化としての将棋”(三元社)の中で、
”将棋の進化の研究は、計算機で情報の進化
と移動をモデル化して研究する、情報地理学
ですべき”との旨を主張している。今回は、
その当否についてを論題とする。回答をまず
書く。

計算機は、使わなくても良い

と私は思う。では、説明を開始する。私は、
将棋の進化の研究は、情報の進化と移動を、
モデル化して研究する、情報地理学ですべき
だと思う。ただし、

人間が、手計算でできる程度の複雑さなので、
これしきでは、コンピュータの出番は無い

と考える。”旦代の難点”が、中将棋類似の
相手陣突入一発成りルールで、持駒ルールの
組合せならば、垂らし歩の手が有効でないか
ら、切り抜けられるのかどうかを、人間の
将棋の棋力で解けるのかどうかというのと、
いっしょに近いと思う。両方かなり複雑だが、
時間をかけて考えれば、

”プロブレムはそれだけ”で、限られている
訳だし、機械などに頼らず、人間が頭で考え
れば良い程度の、計算量なのではないのか。

そもそも、このケースは、それ自身難が有っ
ても、他の科学技術分野の名声があるので、

①イスラムシャトランジは流行ってしまう

という効果。囲碁が盛んで、ゲームの出来
のよさの

②目が肥えていると、特定の将棋ゲームの侵
入が遅れる

効果が有る。と言ったように、計算に必要な

要因の抽出の能力が、決め手

である。だから、”それを教えてもらって、
始めて、煩雑な計算をする威力の秀でた

コンピュータの特性”が、元々生かしにくい
領域

なのではなかろうか。
 抽出が出来ても、確かに計算は、単純では
ないとは、私にも納得できるのだが。
 あの複雑怪奇な月の運動を、数十年掛けて、

手作業で解いた実績が、人間には有る事を忘
れるべきでは無い

ように、私は考える。
 確かに月の運動を解くのは、今ではコンピュー
タを使えば瞬時なのかもしれない。しかし、
地球の月の問題は一つだけだ。なので、作業
は、一つの月の運動についてだけだったのだ。

このように、課題が少ないのなら”多少複雑
な”という程度であるのならば、人間が少し
時間を掛けて、手計算すればそれで良い

のではないのだろうか。
 だから、旦代氏より、”計算機”としての
コンピュータとの付き合いが、たぶん長い私
は、ソフトに人間が負けて、困っている日本
将棋連盟の

話等を聞くと”何でも計算はコンピュータに、
やらせれば、それで良い”とは、同じ人間の
倫理観としては、ちょっと思考出来にくい

所があると感じるのである。(2019/11/12)

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十二神将の牛虎を向いた南朝の大威徳明王曼荼羅(長さん)

以前述べたが本ブログでは、本ブログの108枚
制普通唱導集大将棋の2段目麒麟/鳳凰外配列は、
大威徳明王図の十二支の向きから、作ったもので
あると見ている。十二支表示時計を5分割して、
中央角を、牛と虎の中央1時半、左右角を左は
猪のほぼ中央、右は龍のほぼ中央、下2角が、馬
のすこし後よりと、鳥の少し前よりとして、線で
結ぶと、正五角形になる。使うのは、このうち
猪、牛、虎、龍で、ひょっとしたら馬を麒麟、
鳥を鳳凰で代用したのかもしれないという解釈だ。
両端の反車を除くと、本ブログ普通唱導集大将棋
の2段目は、

龍、猪、牛、虎、麒麟、象、鳳凰、虎、牛、猪、龍

となっていて、左4つが、地上の方位磁石の盤を、
兎でちょん切って、展開した配列。右の4つが、
星空を見上げた方位円を、やはり東の兎でちょん
切って、展開した配列になっている。麒麟は地の
動物、鳳凰は天の鳥で、説明ことば書きの使用単
語として、合っているという事になるという意味
である。象は成ると太子で、釈迦の化身(?)の
大威徳明王だ。
 何れにしても、大威徳明王の顔が、牛・虎を
向いていて、ぐるりと12神将か、十二支の絵が
ある仏画が、大将棋の時代に、たくさん無いと、
この説は説得力が無い。
 前に、西暦1233年頃成立したとされる、
現MOA美術館にあると聞く、京都・大通寺が
出所らしい、別尊曼荼羅の一、大威徳明王図に
ついて紹介した。この絵は、今の条件を満たして
いて、十二支の獣の絵が付いていて、さらに、
大威徳明王の足元の牛の下に、こちらから見て、
向かって右に牛が、左に虎が居る。しかし、
普通唱導集の成立より67年位早い。
 しかるに最近、以下のような牛と虎に跨った、
12神将とみられる仏像付きの、

西暦1355年、南北朝時代成立とみられる

大威徳明王曼荼羅図がある事を知った。

南朝が、北朝の降伏を願って作成したとの説

がある絵だと言う事である。

大徳威個人蔵画牛虎.gif

 こちらの方が京都・大通寺のに比べて、たい
へん絵がリアルだ。ただし、ネズミ将はネズミ
に跨って居無いし、トリ将も鳥に跨って居無い。
牛将と虎将とウサギ将は、上の図のように、
それぞれ牛、虎、ウサギに跨っている。また、
上図では切れているが、犬、龍、蛇の将も、そ
れぞれの対応する獣に跨っている。そして、
大威徳明王自体は、普通に牛の上に乗っていて、
牛将と虎将の中間の彼方を睨んでいる。つまり、
本ブログの普通唱導集大将棋モデルの、自陣
2段目配列とよく対応しているという事である。
 なお、このような絵が、蒙古来襲にあわせて
書かれたという情報は、今の所私は掴んで居無
い。鎌倉時代の前期と南北朝時代の間が、

中抜きである。

ただし室町時代には、この尤もらしい構図は、
ひょっとすると殺生を嫌う仏教では、インチキ
臭かったから、なのかもしれないので、余り書
かれた形跡が無いようだ。ひょっとしてこの、
曼荼羅図にしては妙に、意味が判りやすく、
我々現代人にすら、”絵解き”がほとんど必要
の無い構図の、別尊曼荼羅は、

鎌倉時代から南北朝時代らしい絵

というイメージが元々あるのかもしれない。つ
まり、大将棋のイメージに、元々マッチするも
のなのかもしれない。
 なお、平安時代には、十二支の動物や、十二
神将を伴った大威徳明王は、

馬の方向を向いていたのが、最初。

ついで西暦1213年前後成立の覚禅鈔では、

鼠の方向を睨んでいた

と聞いている。鬼門を睨むのは、尤もらしいの
で、元々そのアイディアも、宋の仏書からの
情報らしいが、牛・虎睨み型が、西暦1230
年代に流行って、南北朝時代の南朝使用が最後
だったのかもしれない。
 蒙古来襲時の祈祷は、大威徳明王法ではなく
て、愛染明王法だったという話も、私は聞いて
いるが。将棋は合戦を模したものなので、その
初期配列を決める際は、敵国降伏祈祷型の、
大威徳明王曼荼羅(鎌倉時代~南北朝時代版)
を用いたという解釈は、

一応尤もらしい話

である事だけは確かなのだろう。なお、

上の絵の類で、祈祷したのかどうかは謎

だが、大威徳明王法は、平将門に対する朝廷、
源氏に対する平家、そして今述べた、足利幕府
に対する南朝が、降伏を祈祷する際に使用した
と、今の所私の所に、情報が入っている。
(2019/11/11)

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