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マークルックは、兵、ビアと判る史料が欠乏(長さん)

以前に、橿原考古学研究所の西暦2016年
の清水康ニ論文、”東アジア盤上遊戯史研究”
(pdfファイルで、web上にある)を
紹介して考察した。今回は、その続きであり、
タイのマークルックの出土駒について、
紹介する。結論を述べると、
3カ所の遺跡の出土駒が紹介されているが、
まとまった小ぶりで、兵の類と見られる駒の
出土していると主張されている遺跡は、15
世紀以降の一箇所だけであり、情報が限られ、

解明が依然として、完全とまでは行かない

とみられた。
 では、論を始める。
 マークルックでは、現行の立体駒の兵駒を
相手陣3段目で、副官、大臣駒に成らせるの
で、成り大臣のゲーム内での出現枚数が多く、
それを大理国貴族等とは違って、財力がさほ
ど無いので、兵を、天地がわかるように、頭
を平らに作ってひっくり返して、日本の将棋
の”成り『と金』歩兵駒”を作る感じで、
現代は表現している。
 だから当然、昔はどうだったかが問題だ。
清水氏が、表題の論文で論じる前は、

廃棄する貝等で歩兵を表現し、捨てていた
ので、遺物には無く、よく判らない

とも言われていた。(将棋Ⅰ、増川宏一)
 タイの博物館所蔵の1遺跡(/3)の、兵
の無い出土駒のパターンは、依然それで説明
できるように、私には見える。
 それに対して清水氏は、残りの2箇所の遺
跡の遺物のうち、北部の一箇所の鋳物の遺物
について、起き上がりコボシの小さい形の、
マークルック駒とする遺物駒数点が、

頭が尖がっているマークルック兵駒だと主張

していると、読み取れた。本ブログの解釈で
正しいかどうかについては、web上の、元
文献にあたるように薦める。だから現実は、

3カ所とも全部違うように見え、清水氏の、
この論文での論法は、どうもはっきりしない

と言うのが、本ブログの見方である。
問題の北部一箇所遺物の、起き上がりコボシ
のような駒は、

気まぐれに、大臣駒あるいは金将駒とは形を
別にした、この遺跡だけで出る”と金(ビア
ガイ)”かもしれない

という疑いが有るというのが、本ブログの見
解だ。つまり清水氏の言う、この北部15世
紀程度の成立年代の遺跡の、ピア擬似駒の、
更に半分の、小さなドーム駒がビアで、残り
の、起き上がりコボシがビアガイなら、

私は万々歳だ。

 そもそも本ブログでは、歩兵型駒と、”と
金”型駒(金将駒と同一物品で数が多い)が、
セパレートの形式で、大理国から日本に伝来
したと見ている。ただしタイの15世紀程度
の遺物の”起き上がりコボシ”は、もう少し
大きいように写真からは見えるメット駒(生
金将、生大臣)の形では、このケース無い。
15世紀タイでは、12世紀の大理国の、”
黄金のメット成り駒”の面影は、もはや無い
のであろう。
 つまりは、本ブログの論は

木村義徳氏の論とは、以上の点が違う

のである。
 ただし松岡信行論とは、成り”と金”歩兵
が、誰の発明なのかという点に関し、

日本人説を取るので同一

だ。
 だから、どのみち、その仲間に違いない、
中世のタイ駒が、歩兵の他に、”と金”も同
時出土すれば、本ブログにとっては、誠にあ
りがたい事なのである。

実際のこの北部遺跡遺物は、その疑いも有り

そうだ。
 本ブログは、将棋史学会では無名なので、
”成り『と金』歩兵駒、タイより伝来論”を
駆逐してしまえば、日本の将棋のタイ伝来説
が、潰れるだろうと、

清水康ニ氏には、勘違いされているだけ

だと、本ブログでは考える。
 なおこの論文では、現在の”成りビアガイ
ビア駒”が、15世紀の北タイ遺跡には無く、
成りを、ひっくり返し方式では表現出来ない
と、清水氏は、現象論を述べるだけに、留め
ている。”タイ起源説は潰れた”と言うのは、
この論文だけ読んだ限りでは、”取り巻きが
主張しているだけ”のように見えるように、
清水氏自身が、訂正しているようだ。
 他方、発端となった木村義徳氏の論には、
とり捨てルールだと、立体駒で成り金将駒、
または”と金”をたくさん作って控えて置き、
三段目に達して成らせたい時に、取替え方式
にすれば元駒を問題にしないので、それでも
良いという

論筋の、”見落とし”が、本ブログの見解で
は、存在する事になっている

のである。繰り返すと、
日本で、『成り”と金”歩兵駒』が発明され
たと見る本ブログでは、タイの中世駒は歩兵

(ビア)と、と金(ビアガイ)が、別個体な
らむしろ、発明日本人説論法とは、よく合う

ので、結構な事なのである。
 他の2箇所の遺跡のうちの、残りの古いほ
うの個人コレクション(?)遺物についても、
小ぶりの頭に角のある、四角の”大臣駒”が、
多少余分に作られていて、それが”と金”と、
もしかすると”金将=大臣”として、どちら
にも使うのかもしれないと思う。この個人所
蔵(?)遺物に関しては、本ブログの主張す
る、単純交換方式を、サイコロ型のビアから、
ビアガイにするには、直方体で角のある、
大臣を、ビアガイとして使って、取り替えな
ければならない、やりかたである事を示すの
かもしれないと、私には疑われた。
 なお立方体のような遺物を兵駒と、この論
文で、清水氏は、慎重に言っていると、私は
理解する。私は、厳密に

このサイコロのような駒は、ひっくり返して
も形が同じなので、ビアガイとして使えない

と思う。なお残りの円筒形の不明駒は、高さ/
底面円半径比の如何に係わらず、今の所、
車駒とみなさないと、わけが判らないように、
私には見えた。
 そして残りの、15世紀すぎ成立の、博物
館の兵なし将棋駒セットは、歩兵/と金兼用
の日本将棋駒方式であり、その際の歩兵駒は、
使うと適当に廃棄したので、博物館遺物駒の
セットからは失われているという、増川論法
で、一応合っているのかもしれないと思う。
 ようするにタイ民族は、マークルックを指
すとき

”と金(ビアガイ)”専用駒をも苦心して、
作って使う事も、12世頃より16世紀頃に
は、時々有った

と疑おうと思えば、疑う事もできそうな駒セッ
トも2箇所ある。そしてその遺物セットのう
ちの、15世紀の北部の出土遺物の中の駒が、
本当はビアガイなのに、ビアと勘違いされた
結果、ひっくり返しては、起き上がりコボシ
型なので、使えないと、清水氏に主張されて
いると見られる。この部分が、かなり大きく、
情報として、将棋史界に流布しているらしい
という事が、私にもだんだんに、つかめて来
たという事のようだ。
 そのうちタイ人は、山田長政等に教わって、
起き上がりコボシの、頭の平らで底が重く無
いのを作るか、貝で代用して、成ると交換し
ないで、元の物品をひっくり返すように、なっ
たのだろう。そうして博物館駒が、出土した
とみても、個別、遺跡によって、出方のパター
ンがバラバラなので、本当は、それで良いの
かもしれないと、私には見えた。
 何れにしても小ぶりの、いかにも日本将棋
で言う、歩兵駒だと断定出来るものが、現象
として

タイの象棋遺物には割合が有意に少ないので、
どう論を組み立てても、はっきりしない結果
になるように見える

のは残念な事だ。以上のように、今の所私は
感じているのは確かである。(2019/11/05)

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