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(コラム)本ブログ、開設より3年(長さん)

本2019年11月初旬をもって、本ブログも
開設より、まる3年が経過した。
 当初正直、これほど記事数が増やせるとは、
予想もしなかった。独自の論を主張し、それが
終えたところで、そのつど新発見事項を、時折
追加する程度になるだろうと、予想していたが、
はずれた。
 はずれた原因は、解けないだろうと思われた
問題が、この分野の史料の内容が、予想を上回っ
て良く、展開できないはずの論が、意外に展開
出来た事にある。単なる娯楽にしては、祖先の
思い入れが、国が何処であるかには関係なく、
ことのほか強い分野だったと、感心させられた。
 ただし、投稿数1000を越えると、さすが
に最近は、連続投稿は苦しくなってきた。ここ
5日~10日位で、毎日将棋史の内容を書くの
は、残念だが途切れてしまう見通しである。
 しかし何とかその後も、余り日を空けないで、
この分野の記事の投稿を続けたいと考えている。
 当初は、将棋史関連の主張に関する私の意見
を、まとまって書くために、ブログを立ち上げ
た。立ち上げた時点で、他人に読まれるかどう
かという点については、余り関心が無かった。
自己主張をする場を、自分で作っていなかった
事に対する羞恥心から、立ち上げたブログだっ
たのである。
 しかし、ブログの管理人になってみて、ブロ
グのホストが読者の数を、希望しなくても、
デフォルトで表示するという事実を、始めて知っ
た。狭い分野の話しか、していない割りには、
数字が数倍予想よりも多く、ランキングも1桁
上になり、たいへんありがたかった。
 読者の皆さんに、深く感謝を申し上げたい。
 他方ブログをその人の、個別の日常の、日記
代わりに使っている方の話だと、普通は、私の
読者数の数分の1程度だという話である。日本
は今平和なので、そのような、ブログの立ち上
げ方だと、管理人が私よりずっと有能でも、そ
の程度の読者数になるのだろう。それに対して
将棋は、将棋ソフトが強くなり、本質的に今は、
非常事態の時代だ。
 それに加えて遊戯史通史の啓蒙量が、将棋の
半分程度の、やはりソフト優勢の囲碁に比べて、
将棋史名うての論者の、増川宏一氏等が過去、
将棋史での啓蒙を、元々旨くした結果、同様に
面白いはずだが、将棋史の方を、ブログ・テー
マに選んだ私は、どうやら当たりくじを引いた
ようであった。
 そのため、覗いて頂く方が、囲碁史をテーマ
にするよりもむしろ多くなった。ようするに、
他人のフンドシで相撲を取った私は、先達のお
かげで、少なくともこれまでは、たいへん助かっ
たように感じられた。誠にありがたい事である。
 何れにしても、できるだけがんばりますので、
これからも読者の皆さん、よろしく御願いいた
します。(2019/11/09の2)

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新猿楽記の将棋の将棋種は何か(長さん)

(伝)藤原明衡著の新猿楽記は、将棋の言葉
の初出として著名である。それ以前には、酔
像入り小将棋とみられるものが、興福寺で、
成立1058年に出土しているというのが、
現史料の全てである。また、本ブログの推定
や、論旨の整合性から、この史料の成立の
だいたい10年位前になってから、玉駒が双
王将で、盤が現行日本将棋の9升目盤を使う、
標準型平安小将棋が存在すると、本ブログで
は見ている。
 他方中国では、司馬温光が作成されたとさ
れる、七国将棋や、ヒムリー図で有名な、
北宋象棋が、先行してある。その他イスラム
シャトランジは、吉備真備は知っていた可能
性がある。が、新猿楽記の時代には、忘れ去
られていただろう。
 では、以上のように史料や記録から見た整
合性が有ると言う点で、可能性がある”将棋
種”の中から選ぶというふうに、多少話を限
定する事にして、今回は、(伝)藤原明衡が、

何を”将棋”と言っているのかを論題

にする。回答から書く。

日本に伝来した、原始平安小将棋(8升目型)
と、新猿楽記の”将棋”とは同じ物

だと、ここでは見る。
 では以下に論を始める。
 新猿楽記で将棋が出てくる文面の流れからし
て、羅列された手習い(術芸)項目一覧の1つ
が将棋という表現である。

私は、新猿楽記の時代、将棋にはタイトル・ホ
ルダーとしての名人はおらず、上手という意味
での匠人がいただけだ

と考える。新猿楽記に書かれた、術芸の上手は、

日本一の名人ではなくて、高段者に近い

のであろう。将棋の名人と表現されているが、
今の言い方だと、将棋の名人よりも、全国選手
権があるという話は余り聞かない、ハーモニカ
の名人にたとえば近い、ニョアンスに違いない。
そこで、ここでは以下、新猿楽記の世界の名人
等は

達者人と言い換える

事にする。
 ところで新猿楽記に書かれた、将棋の達者人
に、誰がなるべきなのかだが、

日本の貴族としてなるべき、達者人

と、新猿楽記の物語りの流れから取れると思う。
 所で以前に述べたが、西暦1080年時点で、
中国の北宋将棋と日本の、初期伝来型8升目
原始平安小将棋優劣比較が、初期院政の、
後三条天皇、白河天皇、大江匡房らによって
行われたと、本ブログでは仮定している。

だから、それよりほんの少し後の成立と、
今の所疑われている新猿楽記では、別の国の
稽古事と朝廷内で解釈されている、北宋象棋等、

中国象棋系列は、除外できる

と、本ブログでは考える。
 だから、残りは興福寺の小将棋すなわち、
本ブログの言う、大理国原始平安小将棋か、
後一条天皇の玩具の将棋である、本ブログ
1015年伝来と見る、原始平安小将棋(取捨
て、8升目)、そして白河天皇、大江匡房推薦
の、9升目標準型平安小将棋(金2枚型)の

3択

である。
 そこで、次に本ブログでは、後一条天皇の
面前で藤原隆家が、”軍の指揮を取る者は、
(今述べた2択のうちの後者の、)原始平安
小将棋(取捨て、8升目)の達者人になるの
が必須”と、諭したと仮定されている点に
着目する。
 天皇と、日本の軍の将と、貴族は違うのか
もしれないが、

宮廷世界では、原始平安小将棋の達者人になっ
た方が良いと、そこの人間の結局は類である
藤原隆家が言っているというのと、ほぼいっ
しょ

だろう。だから、識字階級である貴族は、
あくまで、本ブログのこれまで述べてきた論
を前提にしての話だが、新猿楽記で稽古事と
解釈されている、

この架空の物語り中の将棋は、8升目制、
西暦1015年伝来の原始平安小将棋と解釈
できる

と、私は断定する。
 他方、興福寺の酔象入り、大理国原始平安
小将棋については、当時生存していた貴族に、
めんとう向かって、

酔象将棋で匠になるべきと、諭した人間が
居ると、考えられる史料、形跡が無い

と私は解釈する。
 つまり興福寺で指していたと見られる、
大理国原始平安小将棋(右酔象タイプ)には、
藤原隆家の責任で購入した、原始平安小将棋
のような、

具体的実績が、無いと考えられる

という事になる。
 更には、もう一つの選択肢である、
9升目制の標準平安小将棋は、新猿楽記の成
立の時点で、出来て10年程度であるから、

皆でコツを研究している段階で、達者人は
まだ居無いと見るのが自然

ではないかと、私は見る。
 以上のように、史料が有り、またはそれが
あると考えると、史料と整合性という点で限
定して、論を狭めた上で考えただけであるが、
新猿楽記の”将棋”とは、後一条天皇の玩具
将棋とみられる、原始平安小将棋を指してい
る、九州大宰府の、”やんごとなき”武者の
うちの、将棋が旨くなった者の類のような、
貴族というイメージで、(伝)藤原明衡が、
空想小説中で人物を描いている疑いが濃いと、
私は現時点で考えるのである。(2019/11/09)

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