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十二神将の牛虎を向いた南朝の大威徳明王曼荼羅(長さん)

以前述べたが本ブログでは、本ブログの108枚
制普通唱導集大将棋の2段目麒麟/鳳凰外配列は、
大威徳明王図の十二支の向きから、作ったもので
あると見ている。十二支表示時計を5分割して、
中央角を、牛と虎の中央1時半、左右角を左は
猪のほぼ中央、右は龍のほぼ中央、下2角が、馬
のすこし後よりと、鳥の少し前よりとして、線で
結ぶと、正五角形になる。使うのは、このうち
猪、牛、虎、龍で、ひょっとしたら馬を麒麟、
鳥を鳳凰で代用したのかもしれないという解釈だ。
両端の反車を除くと、本ブログ普通唱導集大将棋
の2段目は、

龍、猪、牛、虎、麒麟、象、鳳凰、虎、牛、猪、龍

となっていて、左4つが、地上の方位磁石の盤を、
兎でちょん切って、展開した配列。右の4つが、
星空を見上げた方位円を、やはり東の兎でちょん
切って、展開した配列になっている。麒麟は地の
動物、鳳凰は天の鳥で、説明ことば書きの使用単
語として、合っているという事になるという意味
である。象は成ると太子で、釈迦の化身(?)の
大威徳明王だ。
 何れにしても、大威徳明王の顔が、牛・虎を
向いていて、ぐるりと12神将か、十二支の絵が
ある仏画が、大将棋の時代に、たくさん無いと、
この説は説得力が無い。
 前に、西暦1233年頃成立したとされる、
現MOA美術館にあると聞く、京都・大通寺が
出所らしい、別尊曼荼羅の一、大威徳明王図に
ついて紹介した。この絵は、今の条件を満たして
いて、十二支の獣の絵が付いていて、さらに、
大威徳明王の足元の牛の下に、こちらから見て、
向かって右に牛が、左に虎が居る。しかし、
普通唱導集の成立より67年位早い。
 しかるに最近、以下のような牛と虎に跨った、
12神将とみられる仏像付きの、

西暦1355年、南北朝時代成立とみられる

大威徳明王曼荼羅図がある事を知った。

南朝が、北朝の降伏を願って作成したとの説

がある絵だと言う事である。

大徳威個人蔵画牛虎.gif

 こちらの方が京都・大通寺のに比べて、たい
へん絵がリアルだ。ただし、ネズミ将はネズミ
に跨って居無いし、トリ将も鳥に跨って居無い。
牛将と虎将とウサギ将は、上の図のように、
それぞれ牛、虎、ウサギに跨っている。また、
上図では切れているが、犬、龍、蛇の将も、そ
れぞれの対応する獣に跨っている。そして、
大威徳明王自体は、普通に牛の上に乗っていて、
牛将と虎将の中間の彼方を睨んでいる。つまり、
本ブログの普通唱導集大将棋モデルの、自陣
2段目配列とよく対応しているという事である。
 なお、このような絵が、蒙古来襲にあわせて
書かれたという情報は、今の所私は掴んで居無
い。鎌倉時代の前期と南北朝時代の間が、

中抜きである。

ただし室町時代には、この尤もらしい構図は、
ひょっとすると殺生を嫌う仏教では、インチキ
臭かったから、なのかもしれないので、余り書
かれた形跡が無いようだ。ひょっとしてこの、
曼荼羅図にしては妙に、意味が判りやすく、
我々現代人にすら、”絵解き”がほとんど必要
の無い構図の、別尊曼荼羅は、

鎌倉時代から南北朝時代らしい絵

というイメージが元々あるのかもしれない。つ
まり、大将棋のイメージに、元々マッチするも
のなのかもしれない。
 なお、平安時代には、十二支の動物や、十二
神将を伴った大威徳明王は、

馬の方向を向いていたのが、最初。

ついで西暦1213年前後成立の覚禅鈔では、

鼠の方向を睨んでいた

と聞いている。鬼門を睨むのは、尤もらしいの
で、元々そのアイディアも、宋の仏書からの
情報らしいが、牛・虎睨み型が、西暦1230
年代に流行って、南北朝時代の南朝使用が最後
だったのかもしれない。
 蒙古来襲時の祈祷は、大威徳明王法ではなく
て、愛染明王法だったという話も、私は聞いて
いるが。将棋は合戦を模したものなので、その
初期配列を決める際は、敵国降伏祈祷型の、
大威徳明王曼荼羅(鎌倉時代~南北朝時代版)
を用いたという解釈は、

一応尤もらしい話

である事だけは確かなのだろう。なお、

上の絵の類で、祈祷したのかどうかは謎

だが、大威徳明王法は、平将門に対する朝廷、
源氏に対する平家、そして今述べた、足利幕府
に対する南朝が、降伏を祈祷する際に使用した
と、今の所私の所に、情報が入っている。
(2019/11/11)

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