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なぜ宝応将棋の輜車は、木将動きにならなかった(長さん)

玄怪録”岑順”「小人の戦争」の将棋は、
本ブログによれば、西暦825年頃の、
南詔国王室の将棋であり、物語りの中で、
表題の輜車は、香車の動きである。
なお、走る飛龍の動きの前半分を、
ここでは木将の動きと表現する事にする。
 インド2人制古チャトランガの車駒は、
4人制チャトランガの10世紀~11世
紀のルールにより、走りの飛龍に近いと
推定される。
 南詔国王室の将棋では、元駒が後退で
きない事によって、相手陣で必然的に、
金将動きに成らざるを得ないように、
西暦775年時点で調整したかったので、
元が八方桂だとしても、馬駒は桂馬に直
した。その調子で、
ミャンマー在住モン族の戦車または、
(伝)牛僧儒命名の輜車が、インド2人
制古チャトランガルールでは走る飛龍だっ
たとしたら、前半分の動きの木将にする
のが、

本来は、最も簡単

だ。ところが実際には、
イスラムシャトランジの車が、飛車なの
を確認した上で、雲南王室は、前だけ残
して残りは捨て、

輜車等の名称の駒を香車動きにしている

のである。今回は、何がそうさせたのか
を論題とする。回答から書く。
 初手で先手が
▲6五歩とすると、後手は△3四歩と、
マネ将棋を指すしかなく、お互いの、

左辺の輜車が、それだけでほぼ死に駒に
なってしまい、つまらなかったから

であるとみられる。
 では、論を続ける。
 以前に述べたが、ミャンマーのモン族
が、雲南に西暦770年頃伝来させた
木村義徳氏”持駒使用の謎”で言う、
①インド第1波、および②”タイ”の
波(第2波)を、両方加味したような、
原始”日本の将棋”の前段ゲームは、
自陣3段目以下が、”動き”で似たもの
で対応させると、下の初期配列だったと
みられる。

ポーンポーンポーンポーンポーンポーンポーンポーン
口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口
口飛龍口桂馬口飛車口玉将口金将口飛車口桂馬口飛龍

ミャンマーのモン族は、10年位で、難
があるのに気がついて、グローバル標準
化するため、ビールーニ反転させて、
以下のようにしたとみられる。

ポーンポーンポーンポーンポーンポーンポーンポーン
口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口
口飛車八方桂口飛龍口玉将口猫叉口飛龍八方桂口飛車

これはイスラムシャトランジで、3段型
の将棋である。つまり、木村義徳氏の言
う、①インド第1波、および②”タイ”の
波(第2波)に加えて、③”インド”の
第2波(第3波)も取り入れた象棋ゲーム
という事になる。なお成りも、ポーンは、
金将動きから猫叉動きへ、ミャンマーでは
変化した。
 しかし、雲南では、特に馬駒について、
八方桂にすると、より弱い金将に成らせ
る事ができないので、この時点から、

ミャンマー・モン族に追従しなくなった

と考えられる。
 いちいち3段目に達すると、駒を入れ替
えるのは手間なので、西洋チェスも、タイ
のマークルックも、今ではしなくなったが。
自分達が、

金銀黄金を使える身分であるという、喜び
が、玉を詰めるのが旨いという誇りより、
南詔国王室では大切だった

という意味だ。
 つまり雲南では、銀製の成り駒(名称:
銀将、動き:金将)を、なるべく数多く、

豪華に遊戯の最中に使いたかったので、

ポーンだけでなくて、

桂馬や輜車も、金成りにしたかった

のである。
 以下、前に述べたが、桂馬を相手陣
3段目で成るように変えてみると”桂馬
の高飛びが、ポーンで餌食にできない”
ので、木村義徳氏の”持駒使用の謎”で
言う④『”インドより”の第3の”波”、
つまり”持駒使用の謎”の第4波(の逆)』
によって、とにかくポーンを歩兵に変え
た。実は波では無くて、雲南が震源その
ものなのだが。つまり、

ポーンを歩兵に変えて、桂馬の高飛びを
餌食にする必要が生じた

のでそのようにしたのである。
そこでそうした上で、以下のように、
輜車を木将に変えて、後退出来ないので、
相手陣到達で、金将に成らざるを得ない
ように、して見た所、

木将桂馬飛車金将玉将飛車桂馬木将
口口口口口口口口口口口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
口口口口口口口口口口口口口口口口
口口口口口口口口口口口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
口口口口口口口口口口口口口口口口
木将桂馬飛車玉将金将飛車桂馬木将

冒頭に述べたように、以下のように、

木将桂馬飛車金将玉将飛車桂馬木将
口口口口口口口口口口口口口口口口
歩兵歩兵口口歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
口口口口歩兵口口口口口口口口口口
口口口口口口口口口口歩兵口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵口口歩兵歩兵
口口口口口口口口口口口口口口口口
木将桂馬飛車玉将金将飛車桂馬木将

相手の飛車先の歩兵が、突かれてしま
うと、ポーンのときには出来た、
同じ筋の飛車先の兵の突き返しが、
歩兵のケースには、出来なくなってし
まった。そのため、左端の木将動きの

車駒(左木将)が、ほぼ死んでしまう

という事態が発生したのである。
一例として、シットゥイン型歩兵配列
で手を進めると、以下のようになると
見られる。

南詔国800試作変化.gif

 つまり元々の、飛龍の

斜め動きパターンは、3段成り、8升
歩兵3段目配列将棋では良く無かった

という意味である。
 ミャンマーのモン族のように、
インド古チャトランガを捨てて、
イスラムシャトランジ型に変えれば、
車駒は元の象の動きになり、縦横走り
なので、この問題は解決できたのだが。
繰り返すがその方法は、八方桂を使い
たくなかった、雲南では取れなかった。
 八方桂が、惑星の星座内の動きに象る
とモン族から聞き及んだ、イスラムシャ
トランジのイメージに関して、暦の件で、
唐王朝とそれ以前に、一悶着あったと
みられる南詔では、日本の安土桃山時代
の貴族、水無瀬兼成が将棋の定義として、
将棋纂図部類抄で示した

”日月星辰に則る”ように、過剰に
合わせる、駒動きが前後完全対称ゲーム
は、元々嫌われていた

のかもしれない。
 そこで、イスラムシャトランジの車
が、飛車動きなのを知った上で、その
飛車動きの前方だけを残した、1/4
動きとし、

香車動きの駒が、世界中でたぶん最も
早く、西暦800年までには、中国の
雲南省に現われ、玄怪録に記録された

とみられるのである。

香車桂馬飛車金将玉将飛車桂馬香車
口口口口口口口口口口口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
口口口口口口口口口口口口口口口口
口口口口口口口口口口口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
口口口口口口口口口口口口口口口口
香車桂馬飛車玉将金将飛車桂馬香車

そして大切な点は上のルールの将棋は、

本ブログの言う、宝応将棋そのもの

に、他ならないという事である。
 つまり、

輜車天馬上将銀将金将上将天馬輜車
口口口口口口口口口口口口口口口口
兵卒兵卒兵卒兵卒兵卒兵卒兵卒兵卒
口口口口口口口口口口口口口口口口
口口口口口口口口口口口口口口口口
兵卒兵卒兵卒兵卒兵卒兵卒兵卒兵卒
口口口口口口口口口口口口口口口口
輜車天馬上将金将銀将上将天馬香車

以上が、実際の駒の名称に合わせた、
宝応将棋の初期配列図(本ブログ)で
ある。
 一つ上の配列図で言うと、ここから、
①飛車が角行に変わったのが、四人制
チャトランガ発生期の、西暦900年
前後の頃。
②銀将動きが発明されて、ホータン玉
が入って、駒名称”玉将”が発生。上
将、金将、銀将が、銀将、玉将、金将
に名実共に、置き換わったのが、吐蕃
国が衰退した、西暦900年過ぎの、
南詔→大理への王朝交代の頃。なお、
これ以降、成り銀駒は、銀ないし金銅
製から、純金の成り金駒へ、変化した
と見られる。
③右に残っていた上将が消えたのが、
(一例)周文裔が、西暦1015年に
将棋を伝来させたときに、”銀将、銀
用成金2枚ずつの特別増量商法”で、
置き換えたとき。
④ただの馬、車、兵卒を、桂馬、香車
歩兵に統一したのは、日本の大宰府で
西暦1020年まで。
 以上のように本ブログでは、以下の
8升目型原始平安小将棋への、西暦
825年から、西暦1015年までの
約200年弱間の、宝応将棋の

変化は、主な部分中国雲南省でのもの

と推定しているのである。

香車桂馬銀将金将玉将銀将桂馬香車
口口口口口口口口口口口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
口口口口口口口口口口口口口口口口
口口口口口口口口口口口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
口口口口口口口口口口口口口口口口
香車桂馬銀将玉将金将銀将桂馬香車

 つまりまとめれば、

中国雲南省に、

日本の将棋の源が、西暦825年頃成
立の玄怪録までには、完全に現われた
というのが、松岡信行氏の、”解明
将棋伝来の謎”と、唐代怪奇小説史料
に対して同じ評価を取る、本ブログの
論という事に、なるのである。
(2019/11/13)

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