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普通唱導集より前に、持駒ルールは有るのか(長さん)

日本の将棋のうち小将棋で日本将棋に繋がらない
側枝部分を除くと、原始平安小将棋から日本将棋
の成立までは、以下のように概観される。
①8升目から9升目化が、西暦1080年開始、
並立段階経由し西暦1323年頃9升目に一本化。
西暦1746年成立と聞く、本朝俗諺誌は、有る
程度参考になると、本ブログも、松岡信行氏同様
見る。なお後者1323年8升目消滅の根拠は、
新安沖沈没船出土将棋盤(?)の聖目のパターン。
完全に9升目の将棋盤現物が出土したのは、西暦
1500年程度で出雲市、尼子氏使用とみられる
”まな板兼用将棋盤”が初出。
②取り捨て、自殺手負けに対する裸玉勝ち優先
ルールから、細則未決定の持駒ルールへの変化が、
西暦1300年開始、中間状態が余り無く、
西暦1323年の、新安沖沈没船出土駒の頃完成。
ただし、一発成りルールとの並存が、西暦
1500年過ぎまで続く。持駒ルールが有ると
判る、はっきりとした史料は、宗祇作の児教訓で、
15世紀の末頃。
③元々の双玉から、西暦1080年頃に双王将が
発生。京都朝廷双王、地方双玉の、水と油の分裂
状態が、西暦1560年代、一乗谷朝倉氏遺跡駒
の時代まで続いてそこで解消し”溶け合い”になっ
た。ただし、安土桃山時代後期の後陽成天皇が、
皇族の双王使用の可否を、豊臣秀吉へ問い合わせ
る等しており、完全解消は近世。ちなみに最後の
件の事の発端と見られる、”水無瀬兼成中将棋駒
を購入した、雅朝親王”の正体は、私には不明で
ある。或いは後花園天皇の、弟の”やしゃご”の、
尊朝法親王の事かもしれない。
④西暦1500年以前は、飛車、角行が小将棋に
は無い。入ったのは、西暦1506年頃で、記録
は実隆公記で”駒落ち将棋”の記載が初。これに
伴い、成り条件則が、敵陣突入一発成りから、
敵陣内移動毎自由成り(現行)に、こっそりイン
チキ成りの”いかさま”が横行して、それが元で
変わったと見られる。
⑤持駒を打つ、禁手に関する細則は、江戸初期の
将棋棋譜から、初代大橋宗桂が、幼少の時代の
頃成立した事が判る。たとえば、打ち歩詰めの禁
手については、江戸初期成立の狂歌本に、織田信
長の、京都侵攻時代から、それが存在した事を
示唆する例がある。二歩の禁手については、本因
坊算砂の手がおかしく、彼が幼少の頃には、少し
緩かった疑いもある。
 以上の①から⑤の、だいたい5要素で、
8×8升目36枚制原始平安大将棋から、
9×9升目制現行日本将棋に、

日本で、西暦1600年までに完全転化した

と、本ブログでは通史として考えている。
 残りは、千日手のルールと、入玉規定の変化で
あって、これは近年だ。ただし、日本風土記による
と、戦国時代に、”入玉により勝負が付かない
場合、日本将棋では引き分けにした”との記録が
あるようだ。
 今回は、

②の持駒ルールの導入に関して話題

とする。上で述べた、普通唱導集よりも、

前に、

持駒ルールを示唆する内容の、出土駒史料は有る
のかどうかを論題とし、

無いようである

と、結論する。では、論を続ける。
 上で述べた②持駒の使用と、④飛車、角行の導
入は、中身として金将の2枚化等である、①は別格
として、

原始平安小将棋から日本将棋への進化の肝

である。西暦1600年前後に、日本将棋の名人が
派生し始めて、その結果、急激なゲームの変化が、
ぴたりと収まったのは、②と④のバランスの絶妙さ
のおかげだった。特に、世界の将棋の中での特異性
と言う観点でも、②の持駒使用の問題に、関心は
集まる傾向が高い。
 今世紀初頭以降、興福寺出土駒等を根拠にして、
”1058年から持駒ルールが有る”と主張してい
る将棋史家は、木村義徳氏以外に多くは輩出してい
ない。興福寺駒(1058年物も恐らく98年物も)
は、成り金が

擦れているので、特定は無理だと私も思う。

次の、中尊寺境内出土駒にも、駒字の点で、オモテ
駒種類との間に、はっきりとした書体の相関性は、
私には見当たらない。
 大事な事は、まとまった小将棋の出土駒でその次
が、いきなり

新安沖沈没船出土駒であり、これは持駒将棋に使え
るという事

である。
 しかし、新安沖沈没船出土駒の成立は、西暦
1323年であり、西暦1300年前後に成立の
普通唱導集より後だ。
 そこで、普通唱導集より前で、中尊寺境内出土駒
より後の史料について、以下見直して見た。すると、
鎌倉市御成町にある、御成小学校内の今小路西御成
小学校遺跡出土駒が、金将と不明駒が2枚出ていて、
議論の中心になりそうな出土史料である。
しかし、この出土駒を見ると、デザインとして、恐
らく歩兵と金将を、やや差を付けて作っているだけ
だという、

疑いを払拭し得ない史料

だと私は思った。つまり、西暦1250年前後には、
ここのゲームセンターでも、小将棋は取捨ルールだっ
た疑いが有る。その他三重県に、安養寺遺跡出土駒
があり、ここも3枚金将、歩兵、歩兵と出ているが、

中尊寺境内遺跡出土駒の、大きさ同じパターン

だ。つまり、どこを探しても、今の所、駒種によっ
て形に差の有る出土駒は、西暦1300年以前には
無く、たまたまだったが、ちょうど

普通唱導集の頃に、持駒ルールが急に立ちあがった

ように見て、大きな矛盾が無いという結論になった。
 普通唱導集大将棋に欠陥が見つかり、代替が必要
なために急遽、小将棋の研究が進んだのか、どうか、
私には良く判らないのだが。

やはり、佐伯真一氏が言うように、普通唱導集が
成立した頃が、持駒使用の始まりだった可能性が大
きい

ようだと、出土駒データを、ざっと見直しても、
私にはそう、感じられたのである。(2019/11/14)

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