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大宰府責任者。藤原隆家(第一回)の前は平親信(長さん)

以前、本ブログでは、西暦1014年12月
から西暦1019年の刀伊の入寇時の、大宰府
長官は、藤原隆家で、その前は藤原伊周だと
書いた。が、間違いである事が判明した。

藤原行成と親しい、平親信が、西暦1010年
から4年間、大宰大弐をしている。

藤原隆家の兄の藤原伊周が大宰府権帥であった
のは、西暦1002年までであり、西暦101
0年に、藤原伊周自体が他界している。
 webの表で、赴任・解任の日付を良く見な
かった

私のミスだ。

 昭和女子大の久下裕利氏が2006年に出し
た、”太宰大弐・権帥について”という論文に、
経過のリストがあり、それから以下の点が判明
した。すなわち、藤原伊周と藤原隆家の間には、
大宰大弐ないし、大宰府権帥という、実質的な
太宰府長官歴任者が、3人挟まっている。
 最初の二人は、webの情報によると、不正
で下ろされたとも書いてあるようだ。
 平親信は西暦1010年から1014年まで
の3人目であり、当時、藤原道長によると、
”三条天皇の即位直後だったので、追い返され
な”かった、御用聞きの為に、頻繁に来日
しすぎの北宋商人、

周文裔が持ってきた、西暦1012年の唐物の
購入責任者

だったとみられる。周文裔の来朝に関しては、
次は藤原道長が、御堂関白記で、大宰府大監
の藤原蔵規から贈られたものだと書いた、

孔雀と、本ブログの論では、雲南省大理国産の
将棋セットを持参した、西暦1015年の正月

だとと、本ブログでは独自に推定している。
 そのときには、たぶんだが、藤原隆家は、
仮病で無ければ、太宰府で、西暦1014年の
暮れに、緊急の彼の目の治療をし終えてから、

京都御所、大内裏の火災対応補充物品を、京都
に2月頃には護送する準備を、博多でしていた

と、本ブログでは見る。
恐らく直ぐに”黄金の将棋”等、多数の唐物を
持って、太宰府の護送担当者を引き連れて、
京都に戻ったのだろう。京都に着いて直ぐに
1015年2月に藤原隆家は、藤原実資に、
”三条天皇が回復すると藤原道長の機嫌が悪い
ので困ったものだ”と、こぼしていたという話
が、成書の”藤原道長” (人物叢書・2007)
山中裕氏著に出ているようだ。その後彼は、
”西暦1015年4月に、太宰府へ行くので、
藤原道長から、餞別を貰った”そうである。
 が赴任ではなくて再度の戻りであり、恐らく
餞別は、

孔雀等への対応の、藤原道長からの礼

だったのであろう。
 (一例)周文裔は、ちょうど平親信と藤原隆
家の交代の”は境”を狙って、トップが居無い
スキを見計らって来日し、代理で処理をしてい
た当時太宰府大監の、藤原蔵規等が、

良い様に持参品を買ってくれるようにし向けた

可能性も、否定はできないのかもしれない。
 は境だったので藤原道長は、孔雀は平親信で
はなくて、藤原蔵規から(購入処理して)貰っ
たと、日記に書いている、のかもしれないとは
私も考える。
 何れにしても、西暦1012年に孔雀が来て
いるのなら、藤原道長への贈り主の責任者は、
平親信のはずだから、藤原蔵規からと言うから
には、周文裔は西暦1012年と1020年の
2回ではなくて、

西暦1012年、1015年年初、1020年
と3回来朝したのではないかと、私は疑う。

西暦1014年12月に、太宰府権帥になって
いるのだから、西暦1015年1月来朝の、
”一旦、国軍買い上げルール”の、唐物購入責
任者は藤原隆家だと、藤原道長以外は、納得し
ていたのではないかと、私は独自に考える。
 なお、久下裕利氏(2006年)の、”太宰
大弐・権帥について”によると、西暦1020
年一年だけ、太宰府権帥を歴任した藤原行成が、
太宰府へ、実際に行っている形跡は無いと言う。
 将棋駒師を、行成が現地で指導したように、
前に本ブログで書いたが、

現地でと言うのは、多分間違い

だったようだ。
 実際には逆に、西暦1020年のたとえば夏
頃に、博多の将棋駒師等を京都に集めて、京都
市内、たとえば世尊寺で、藤原行成が、将棋駒
の書き方の指導をしたのだろう。なお学習用の
経帙牌は、お寺であるから世尊寺にも、当然必
要数位は有ったのではないかと、私は考える。
 藤原頼通は藤原行成に、太宰府での賭博を、
見張ってほしかったのかもしれないが。余り期
待には、添えなかったと言う事かもしれない。
(2019/11/15)

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