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将棋伝来元ドヴァーラヴァティーでは無い理由(長さん)

大阪商業大学、大学出版書2014年の、
解明将棋伝来の謎の松岡信行氏と違い、本ブロ
グでは、将棋伝来元が

存在する

という論を取っている。ただし、松岡氏の言う、
将棋伝来元がドヴァーラヴァティー国アユタヤ
から、11世紀では無いと言う点については、
本ブログでも

賛成である。

 先行研究として、上記成書で松岡氏は、この
点を詳しく論じ、
交易力が足りないため、シュリーヴィジャヤ国
のイスラムシャトランジ系が、日本に伝来する
はずで矛盾との旨を述べている。この考えには、

本ブログには異論がある。

今回は、なら、どうして日本の将棋がドヴァー
ラヴァティー国でないのかを、論題とする。
回答から先に書く。
ドヴァーラヴァティー国は、西暦900年頃、
クメール国の、ヤショヴァルマン一世等に
侵略された結果、

将棋文化が、仮に存在しても消滅し、西暦
1015年頃には無かったと考えられる

からである。
 では、以下にもう少し詳しく説明する。
 本ブログでは、松岡信行氏の少なくとも前記
成書と同じく、中国唐の時代の対吐蕃融和路線
の政治家、

牛僧儒の著作したとされる、玄怪録、岑順(
小人の戦争)の将棋は、日本の将棋の先駆体

と見ている。ただし、松岡氏が日本の朝廷で、
それを読んで、自作したと見ているのに対し、
我々の方は、伝来元国のゲームであり、後に
それが、酔象が一つ残っていた点を除いて、

実際に、日本の博多に西暦1015年1月伝来、
すぐさま京都に、そのゲーム器具が届けられた

と見ている。日本の将棋の

九州・京都の二極発生説

である。
 まず、岑順(小人の戦争)の舞台設定が、
呂氏の

山荘になっているから、ドヴァーラヴァティー
国アユタヤとは、合って居無い

と、私は思う。また松岡氏の論法は、中小企業
で開発したゲームでも、面白ければ流行る可能
性もあると例えられると言う点で、

論拠が弱い

とも考えている。
 将棋が松岡氏の論と違って、伝来元国が有る
としての話だが、玄怪録では山荘になっていて、
アユタヤのように、中国中原の人間の感覚で、
海端の、海の家等の表現では無いのだから、
日本の将棋の伝来は、

ドヴァーラヴァティーでは無いと、説明した方
が判りやすい

事だけは、確かだと私は思う。
 それに加えて、冒頭の結論で述べたように、
西暦775年に、ペグー(パゴー)やタトン
のモン族仲間から、銀貨を鋳造する力は持つ
ドヴァーラヴァティー王が、仮に前駆ミャンマー
シットゥインゲームの話を聞き、
反骨精神がたくましくて、イスラムシャトラン
ジ化には対応せずに、ドヴァーラヴァティーで
玄怪録記載の、宝応将棋化を西暦800年頃ま
でに、仮にしたとしよう。しかしそうだしても、
西暦900年頃にドヴァーラヴァティーは、統
一クメール王朝のヤショヴァルマン一世に侵略、
更には西暦1000年頃、次のクメール王朝の、
スールヤヴァルマン一世にも、侵攻されている。
だから、将棋文化が、仮にドヴァーラヴァティー
に存在しても、少なくとも貴族棋士が、カンボ
ジアに連れ去られて、たぶん原始的なイスラム
シャトランジ系ゲームであろう、八方桂、車駒
が飛車の、

前駆シャッツロンに、溶け込まされてしまう

だろうと、推定できると思う。そもそも、宝応
将棋は、大臣駒がドヴァーラヴァティーの銀貨
と同じく銀の銀将であるという特徴を持ってい
たのは、明らかだろう。物語りで金象将軍なの
だから、銀貨を作った余りで、立体副官駒を
作るはずだ。しかし、銀貨を持てるのは金持ち
だろう。

だからドヴァーラヴァティーの西暦800年
から900年までの将棋棋士は、存在したと
して、富豪

だろう。だから彼らが、クメール王国の侵略時、
プノンペン方面に、捕虜として連れ去られるの
は自明だと、私は思う。よって中国北宋商人の、
一例周文裔が、原始平安小将棋の黄金立体駒を、
西暦1015年に日本へ、今のタイから運んだ
とは考えられない。
 なお、西暦900年から1000年頃、アユ
タヤ付近は、戦乱状態だったと私は、webの
情報により、認識している。中国北宋商人も、
そういう場所との取引は、したくなかったので
はないか。
 以上のような理屈で、中国雲南省に比べて、
タイのアユタヤは、日本の将棋の伝来元の可能
性としては、少なくとも

より低い事は確か

だと、私は考えるのである。(2019/11/19)

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