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ヴァルダナ期の将棋文化とインダス期は繋がるか(長さん)

言うまでも無くインドバルダナ朝は7世紀の
事であり、同じインド・パキスタン領域で
有っても、はるかにそれ以前の、紀元前20
00年より、更に前のインダス文明期とは、
全く時代が別であり、民族も同じで無いとみ
られる。
 しかし、互いの関連性がゼロとまでは言い
切れないという考えについて、今回は論じる。
共通性について何を見るのかと言うと、

数学的な美しさと、現実として存在する物の
特性の表現の的確性とで、どちらを優先させ
るのか

という点について、議論を集中させる。

中国文明とギリシャ文明イスラム、更に西洋
文明は前者、インド中世は後者の疑いが強い

と、ここでは見る。イスラムシャトランジの
象、馬、車駒が、飛龍、八方桂馬、飛車であ
り、実体よりも前後左右対称性という、幾何
学的美しさを優先させているのに対し、本ブ
ログの論では、少なくともインド2人制古
チャトランガ系列の、宝応将棋(本ブログモ
デル)で、象、馬、車駒が、飛車、桂馬、香
車であり、図体からくる強さと、走りの性質
を表していて、各文物の現実的な特性を写し
ているように見えるからである。
 ではモヘンジョダロと、ハラッパ遺跡で有
名な、同じインド・パキスタンで、バルダナ
朝の2500年前のインダス文明期の文物に、

チャトランガ系の象馬車の現実重視と同一パ
ターンの性格を、示す事物があるのかどうか

というのが今回の論題である。回答を書くと、

ある。それは、モヘンジョダロ遺跡から出土
のサイコロである

という事になる。では以下に、論を続ける。
 一般に、現在使用しているサイコロと、
インダス文明のサイコロとは、1~6までの
目があり、立方体である事で共通だが、
1の裏が2、3の裏が4、5の裏が6である
点で、今の合計で7になる、ギリシャ起源と
も言われ、欧州伝来かとも思われる、今の
サイコロとは違う。重要な点は、

インダスサイコロの方が、イカサマがし難い
という点で、むしろ今のよりも優れている

とみられるという事である。
 我々はサイコロと言うと、ランダムに1か
ら6まで、公平に目が出るという風に、教育
された思想に基づいて、

西洋式”美しい数学の感覚”で捕らえている。

また、上下の目の合計が7なのが普通なため、

その他のパターンのものは、旧式と決め込む

傾向があるように思う。しかし本当に、

インダスサイコロより、今の方が優秀なのか。

というのも、よくよく考えてみると、
コインで表裏どちらかが出やすい程度の精度
で、力加減を調整する練習を、イカサマ氏が
何年にも亘って、訓練し続けるとしよう。今
のサイコロの方が、インダスのサイコロに比
べて、

4、5、6、のどれかの方が1、2、3のど
れかよりも、かなり出やすくできる

ように、私は認識するのである。なぜなら、
合計で目が7になるサイコロは、必然的に、
1,2,3が互いに一定の頂点に対して隣接
し、4,5,6も、同様に互いに一定の頂点
に対して隣接しているからである。上記の合
計目数が偏ったどちらかの頂点を、それとな
く一定方向に向けてから、適当な力加減で、
一見ランダムに、個人の癖と”長年の熟練”
で、外見上はさも尤もらしく振って落すよう
に見せかけて、その実は、全体として、1~
3までが、4~6までより、出易さが違うよ
うに、何年もかけて練習するとする。そう
すれば、特定のゲーム、たとえば盤双六で、
勝ちやすい傾向が出るように、サイコロ目が
出せる程度にまで、イカサマ・サイ振りする
事は、

現実として可能

なのではないのか。つまり、裏表の合計目数
が同じラッキーセブンになるという、数学的
賛美性よりも、イカサマを現実として、どう
やって防ぐのかという、

現実を見る目が、現代の我々にさえ無いのだ
が、古代のインド人には有った疑いがある

という意味である。
 そしてどのサイコロの頂点も、3方合計目
数で最低が9、最大が12のサイコロを作り
出した結果が、今のサイコロの構造との違い
という疑いがあるのではないか。以上のよう
に、私には思える。なお、例えば盤双六で、
系統的に、あるときには全体として小さい目、
また他のときには全体として大きい目が出る
と、勝ちやすいという事に関しては、私は

前に、最終回の遊戯史学会で、口頭で草場純
氏から聞いている。

私は、盤双六やバッグギャモンはしないので、
よく判らない。が、たぶんこれらのゲームに
ついて、草場氏の言う事は、本当の事なので
あろう。実際には、小さい目を出せるように、
コントロールできるイカサマが、仮に出来た
とすると、勝ちの確率が増えると結論出来る
ような事を、草場氏は遊戯史学会の最終回講
演のときに、言っていたようだ。
 たまたま、偶数か奇数ではなくて、目の大
小が、勝負の勝敗を決めるゲームが有るので、
インダス文明のサイコロの少なくとも一部は、
上下定数7方式にしないように、工夫してい
たと考えれば、説明できると言う意味である。
 以上の事から、

インダス期の1の裏2の目等のサイコロと、
象が強く、より弱い馬、車が前方動きの将棋

とは、現実的な物の機能性、このケースは、
乱数を発生させる道具として、出来るだけ
欠陥の少ないものにするという事を重んじる
古代インド人という、現実直視という共通イ
メージが、チャトランガの駒の動かし方ルー
ルにも、サイコロの目数の配置にも、どうも
有るように、私には思える。
 なお、将棋の駒とサイコロは、11世紀に
はインドで成立していた四人制チャトランガ
のどちらも道具であるという点で、強いつな
がりのある物品である。だから今回の考察は、
かけ離れた概念の物品同士の、たまたまの例
の論理的な結合とは、必ずしも言えないと私
は見る。
 以上の事から冒頭に述べたように、紀元前
20世紀のインダス文明と、7世紀頃の、
バルダナ期のインドの文化とは、

つながりが全く無いと、言い切れないケース
が存在する事は確か。

以上のように、私は結論するのである。
(2019/12/21)

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インドでマウカリ王朝期チャトランガは有ったか(長さん)

今回は、チェス・象棋・将棋の起源がインド
であるという話に関する物で、西暦600年頃
成立説の根拠を、まとめる事を目的とする。
成書”持駒使用の謎”なり”将棋の歴史”の写
しが常套なやり方のはずだが、実はすっきりと
した成書が、日本語としては少ない。日本の将
棋の歴史に関する”将棋の歴史”調の、”史料
のマトメ”が、各成書に余り無いだけではなく、
webサイトを見回してさえ、断片的であり、
余り見当たらないのである。
頼みの綱は、増川宏一氏著書、ものと人間の文
化史110”チェス”で、関連する部分を集め
るというやり方だけだ。ちなみに、持駒使用
の謎等の、木村義徳氏の成書等を批判して、
増川氏は、ハルシア・バルダナ(ヴァルダナ)
王の伝記、ハルシアチャリタ(詩人バーナ作・
西暦640年)に言及が無いと、同著書で述べ
ている。そのおかげで、西暦600年インド
成立説の肝が、ハルシアチャリタである事は、
はっきりと判る。蛇足で書けば、木村義徳氏
は、早い成立論の主張者であるから、彼にとり、
ハルシアチャリタが、自身の考えの補強にも、
使える史料であると思っているのは、当たり
前である。だから私には、批判した部分につき

増川宏一氏の論理展開が、今だによく判らない。

木村氏は中央アジアの出土駒のうちの早い方に
関する議論の不確定性を、チャトランガ系ゲー
ムの早い発生論の、論拠になるような表現を、
持駒使用の謎で、滲ませている。ので、
サマルカンド(アフラジアブ)駒と、テバ遺跡
(ダルヴェルジン・ テバ遺跡のDT-5)出
土の将棋駒の、計2点に対するコメントを入れ
ないと、持駒使用の謎に対する、正しい批判に、
なっていないように私は思う。なお”持駒使用
の謎”では、中央アジア、”ウズベキスタンの
出土駒”が、以上の2つの史料についてどちら
も、ウズベキスタン国内の遺跡な為に、前者の
ような後者のような、よく判らない書き方になっ
ていると、私は思う。
 以上が先行文献の紹介とし、以下本論とする。
 まずは600年インド史料のリストを、判り
やすくより古い方から、文献資料、出土遺物の
順に挙げてみる。

①書写物とみられるが、西暦640年前後に成
立したとみられる、ササン朝ペルシャの文献、
ビィツァーリジン・イ・チャトランクに、
”インド王からペルシャのクスラウ・アヌシル
ヴァーン王へ西暦550年頃に、チャトランガ
ゲームが贈られた”との旨の記載がある。
②西暦1000年~1100年ころのイランの
イスラム時代の詩人、フィルドウズイの手記に、
西暦550年~西暦640年にササン朝ペルシャ
で成立の”マーティカーネ・シャトランジ”に
ついての記載がある。それによると、
”インドのカナウジ王よりクスラウ・アヌシル
ヴァーン王へ西暦550年頃に、チャトランガ
ゲームが贈られた”との旨の記載があるとされる。
③バルダナ王朝の創始者で初代王の、ハルシア・
バルダナに仕えた詩人の”バーナ”が、自身の
作品”ハルシア・チャリタ”の中で、
”ハルシア王の時代には、地方豪族たちの内乱的
な戦闘は全く見られなくなった。インド式四軍
(象軍・騎馬軍・戦車軍・歩兵軍)の戦いは、
8×8升目遊戯盤である、アシュターパダ盤の上
に存在するだけになった。”との旨述べている。
また”ハルシア王は、四軍の指揮に関する兵法を、
アシュターバタ盤の上で学んだ”との旨も、記載
しているという。なお、玄奘三蔵の『大唐西域記』
には”ハルシア・バルダナ時代は、30年近くも
戦争が起こらず、政教和平である”と記載され、
客観的事実であり、詩人バーナ作の仕える王に
対する、世辞の類ではない事を示している。
 以上が将棋類の世界初出現と本ブログでも見る、
インド西暦600年頃関連の主な文献史料である。
 次に、出土史料は次のとおり。
④カナウジの北100km地点の、アヒック・チャ
トラから、馬か騎士か戦士像とみられる、高さ
10cm前後の、テラコッタ製のチェス駒が1つ
出土し、西暦550年~650年程度の成立とさ
れる。
⑤カナウジ市自体より、高さ12~15センチの、
盾を持った戦士の像が出土し、西暦650年~
750年程度の成立とされる。
なお、テラコッタ像はほかにも出土している。
成立年は、これより新しいか、不明かのどちらか
である。
 以上だいたい5点が、主なものとみられる。
なお、ブッタガヤのレリーフ24番(西暦500
年頃)、53番が計2点、擬似的材料として否定
的に増川氏の成書”チェス”には紹介されている。
また、②のイスラム圏民のフィールドウズイの件
では、自身の手記、シャーナメ、また西暦
1021年成立のタリクサーレビの中で、”マー
ティカーネ・シャトランジには、チャトランガは、
盤が8升目で駒が自陣2段、双方駒16個づつ
で、駒種類により形の違う丸いゲーム駒で、構成
されていると記載されている”との旨のより詳細
な情報が、書かれているという。
 また以下、遊戯史界が混乱する結果になったが、
10×10升目恐らく40枚制のゲームに、
イスラム時代に於いてフィールドウズイは言及し
ている。(駱駝が、象と馬の間に入る。)
 以上で主なものの全てだと私は認識する。これ
らに関して、簡単に表題の件についてだけ、
コメントしておこう。
 マウカリ朝時代という言い方は、マウカリ国は
有ったが、豊臣秀吉時代の毛利輝元の支配領域
のような意味の国を指し、実質はエフタル侵攻時
のインド小国分立時代全体を指す。なので、そも
そも

判りにくい表現である。

バルダナ朝の創始者の伝記③が、どう見ても史料
のメインだから、

インドで将棋は、バルダナ(ヴァルダナ)朝時代
の草創期頃に成立した

の方が、判りやすいように私見する。マウカリ朝
期に、バルダナ国はカナウジの西にあったという。
なお、”天下分け目の合戦”は無かったようだ。
 更には、①~②は特定のアラブの王、
クスラウ・アヌシルヴァーンに贈ったという部分
が、国際的な遊戯史学会では”伝説である”とい
う見方で紹介されている。そのため、”最も遅い
成立年号が、西暦642年である”という

遅い限度を決める働きしか、実質していない

疑いがある。西暦607年に、バルダナ朝は成立
し、最近ではハルシア王一代で、別の血筋へ変わっ
たとするのが、日本の教科書的な認識である。
 つまりバルダナ国(ヴァルダナ国)は、例えば
百年程度続いたとは見られておらず、その滅亡は
西暦647年頃とされている。つまり

”ヴァルダナ朝時代”は、約40年しかない。

ので「インドで将棋が成立したのは、(高校世界史
でも名の有る)”バルダナ朝”草創期の時代で、
西暦600年前後であると結論できる」と表現し
ても、特に将棋史の啓蒙上は、現状問題が無い事
は確かなように、私には思えるという事である。
(2019/12/20)

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雲南省保山市に碁石生産地の永子囲碁。大会も。(長さん)

以前に、雲南省大理市の囲碁関連施設として、
テーマパークの天龍八部城内の囲碁造形物を
紹介した。また日本で現在使用している碁盤
に、中国雲南省産が多い事も述べた。
 今の所、大理国時代まで遡る、囲碁に関す
る情報は、確たるものは、本ブログでは得ら
れていない。ただし概ね、明王朝より後、
雲南省の西部の保山市で、永子囲碁という、
碁石の特産品が製作され、

明王朝の王宮でも献上されて使われた

という話がある。元王朝より後は、中国雲南
省の元大理国の領域も、必然だろうが、囲碁
文化圏に復帰したと考えて、良さそうである。
 なお、近々西暦2019年12月24日か
ら27日まで、2019中国・保山「永子杯」
国際囲碁大師戦が開催されるという旨の情報
が、web上には3箇所程度有る。
 大会の場所は中国雲南省保山市の永子棋院
という所だそうである。保山市の永子棋院は、
豪壮な楼閣造りの8階建てだそうだ。全館が
囲碁の専用施設という、すこぶる金回りの良
さそうな施設である。
 なおweb上では”永子棋院は、言うまで
も無く永子囲碁にちなんだ施設で、永子囲碁
については、500年ないし1200年以上
前から碁石が制作されたとの旨のものである”
と日本のマスコミでも紹介されている。尚、

途中の700年が”中抜き”で、その部分が
日本の将棋に、実は置き換わっている

というのが、本ブログのこれまでの論である。
 更に”2019の国際囲碁大師戦では、同
時に「囲碁と総合パーク建設シンポジウム」
も行われる”との事である。中華人民共和国
の領土内となっているから当然だが、雲南省
の囲碁文化圏内としての傾向は、今後益々強
まりそうである。
 ちなみにwebを見れば判るが、囲碁だけ
で無く、中国シャンチーも、雲南省保山市の
永子棋院では、関連文化の文物として、しば
しば行われるとの事のようである。(2019/12/19)

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インド二人制古チャトランガを復元する意味は何(長さん)

本ブログの見解によれば、インドの二人制古
チャトランガの馬駒の動きに関し、桂馬動き
と確定したとしたら、日本将棋は生きている
化石と認定されるという事であった。
王、大臣、象、馬、車、兵のうち、王、大臣
馬が、インド二人制古チャトランガと現日本
将棋とで、駒の動かし方のルールが一致すれ
ば、同系統と見てよいだろうと、考えたため
である。桂馬の問題はさておき、ここでは、
二人制古チャトランガの復元に、

そもそもどういう意味があるのか

を論題とする。回答から書く。

①副官は戦国の時代には、1領主に一人必要
なだけだという教えを、インドの古代将棋か
ら学べる。オーケストラの指揮は一人にすべ
きというような、イメージである。
②象、馬、車は、”そのものの性質に関する、
自然な認識が大切”という、ものと人間の文
化の間の関係についての本来の姿が、インド
古代文化から再認識できる。

何れにしても①や②のような知恵が、古代の
インド文化には有ったと、確定し、

我々現代人も、学ぶ内容が存在する

とみられる。
 では、以下に論を開始する。
①に関して重要なのは、日本将棋の金将駒が、
副官ないし大臣ないし軍師駒になるという事
であり、本ブログの仮説が正しければ、軍師
は王に似た能力の人間と、インドでは見られ
ていた事を、示唆している点である。
 つまり、後に四人制チャトランガが実際に、
インドでは発生しているので、傍証はあるの
だが。インド二人制古チャトランガの副官が、
猫叉動きではなくて金将や酔象、剪牛等の
金将系の動きだと確定すると、古代インドで
は、軍師や参謀には王類似の権威者であると
の旨が確定する。ここからインドでは特に、
クプタ朝から、イスラム系統一国家が形成さ
れるまでの概ね戦国期に、一時のバルダナ朝
の時代を除いて、小国支配で長続きせず、国
王の軍師としての個人的な能力で、戦国地方
国家が短い期間だけ保たれていたと見なせる。
 そして、このような小国家は次々と生じて、
ほとんど全ての国で、支配力は王個人の人徳
で保たれていたという事情を、垣間見る事が
出来るように、私には思える。インドでは、
日本や中国と違って、親が王であるという
血統よりも実力がものを言う、比較的合理的
な社会風土であり、また政府機関のような、
官僚体制を作る風土が、乏しかったのだろう
とも推定できる。少なくとも日本では、合戦
のときの戦術は、優勢な武家勢力に於いては、
合議制だったと私は認識するが、

そもそも有力な戦法が編み出せる、有能な
軍師は、自分自身で国王になろうとする傾向
が、古代のインドでは強かった

のではないかと、チャトランガのルールから、
間接的にせよ、推定可能になるように、私に
は思えるのである。
 少なくとも四大文明の中で中国やエジプト、
イスラム帝国時代のメソポタミヤとは違い、
インドだけ、広域王朝が、特にチェス系ゲー
ムが存在した中古世に無かった事は、インド
文化がレベルが高くても、伝播速度が低下し
たとみられるだけに、実体把握にとって、
チャトランガの情報は、大切であるように、
私には思えるのである。
 また、象、馬、車と言った、動物・物への
認知の癖の傾向に関する②について重要なの
は、以下の通りである。つまり仮にインドの
二人制古チャトランガの、象、馬、車が、
本ブログの仮説等から、基本的に、飛車、
桂馬、香車動き等だとすると、
象は大きく強いものであり、
馬は前方に馬の走りで駆けるものであり、
車は走るもの
と、インドで数世紀頃は認識していたと確定
する。そうだとすると、それは単に

ありのままの姿を、表現したにすぎない

事になる。
 馬は、惑星のように動く天体力学と関連す
るという、天文とゲームを関連付ける抽象的
な思想がインドに元々は無く、それについて
は、イスラムと中国から、挟み込まれて外来
したものという事になるはずである。もとも
と、馬は前方に馬走りするだけであり、数手
連続して動かして、複雑な閉曲線図形を描か
せるといった意味は、インドに於いては無かっ
たのではという意味だ。

恐らくインドでは、科学思想がてんこ盛りの、
プトレマイオスのアルマゲストは、余り人気
が無かった

のではあるまいか。
 つまり、インドチャトランガの馬が、チェ
スのナイトと同じ動かし方のルールだという
のが間違いだったとすると、古代のインド人
の、思考の様式について、特に欧米では、

間違った、己に近づけすぎるイメージが過去
定着していた

という事になるかと私は思う。
 何れにしても、正しい情報そのものが無く、
本当はどうだったのかが判らなければ、たと
えば以上のようには、推論できない。である
から、我々は古代インドから、学びたくても
学べない事になる。だから、事実としての、

インド二人制古チャトランガの正確な復元が
必要になる

という事に、なるわけであろう。(2019/12/18)

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幸若舞信田の将棋。駒落駒多将棋で成立年代不明(長さん)

以前に述べたが、詳しい国語辞書の”将棋の
駒”の例文で知られる、幸若舞信田の将棋は、
いっけんすると小将棋の取捨てタイプが示唆
され、普及した成立年の推定より古形に見え
るものである。
今回は、小将棋であるというのは錯覚であり、

幸若舞信田全文をチェックして、

①摩訶大大将棋用の19升目程度の盤を使う
将棋であり、
②江戸時代成立でも、ストーリー内容から見
ると、成立時代は矛盾しない

という点について述べる。なお、信田(しだ)
は、公若舞の中では最も長編で、ゲームの流
れを表現した部分は、だいたい中段(起承転
結の承の半ば)に出てくる。内容は再掲する
と、細かいカナ使いは別として、だいたいは
以下の通りである。

物によくよく例ふれば、天台(又は竺)衆の
戦いに、歩兵が先に駆くくれば、横行・角行
駆け合わする。金銀桂馬がかかる時、太子も
かかり給いけり。これ戦いの兵法を、将棋の
盤に作れるも、これにいかで勝るべき。

更に漢字が判りにくい部分は、変えたが、ほ
ぼ同じ内容が、以下の成書にある。

岩波書店”新日本古典文学大系 舞の本”
西暦1994年。麻原美子・北原保雄校閲

では、以下に論を続ける。
 まず、将棋種だが、
大きく上手にハンデの付いた、大将棋系のゲー
ムと推定される。根拠は、天台衆の戦い(を
模した将棋)は、

曼殊院で摩訶大大将棋が成立した事を、ほの
めかしているように見える

という点が挙げられる。上記成書では、天竺
衆と記載され”将棋がインド起源である事を、
幸若舞信田の作者が知っていた”かのように、
注釈している。
 が、チェス等がインド起源であると流布し
たのは、日本では幸田露伴の”将棋雑考”が
初である。だから恐らくだが、これは校閲者
が間違えていると考えられる。
 別説とみられるが、天竺衆と天台衆とでは

天台衆の方が正しいのではなかろうか。

よって幸若舞信田の作が、西暦1443年よ
りは後であり、曼殊院の将棋種々の図の、
摩訶大大将棋が意識されているように、私に
は思える。小山行重の軍勢は、物語り上少し
後の時代の小山政光が、源頼朝と小山邸で食
事をする際、政光が自分の家来に聞こえるよ
うに、頼朝に言ったセリフの通り、”多数”
だったのであろう。
 また安土桃山時代程度の時代、曼殊院のし
か、摩訶大大将棋は知られていなかったので
はないかとも疑われる。
 冒頭に書いたゲームの流れのような内容は、
ここだけ読むと良く判らないが、前後を読む
と、着手しているのは上手で、本ブログの言
う、西暦1260年タイプの片側48枚の陣
営程度で相手、下手の片側96枚の
摩訶大大将棋の駒群に対して対局し、

ハンデが大きすぎて、上手が玉砕して負ける
駒落戦の姿が記載

されているように取れる。獅子駒も無いので、
ひたすら、相討ちになりながら、最後は玉だ
けになって、負けるような将棋を、上手が指
しているように、物語りの前後関係から表現
しているのである。つまり小将棋系の、知ら
れた将棋種の、

平手の将棋の記載とは、物語りの内容から見
て、そうは取れない

という意味である。なお、太子が酔象では無
いのは、前段で息子が、大将の父親の直前に、
敵に切り込んで、敗れてゆくような描写をし
たため、それに対応させたという事らしい。
 よって、結論の①に述べたように、平手の
将棋種ではないので、

新作将棋を、舞の作者が頭の中で作っている

と考えざるを得ないようである。
 逆に言うと、江戸時代のように日本将棋が
成立した時代の感覚で言うと、

色々な将棋種が、横断的に描かれる事自体が、
古さをかもし出している

という、文学的効果を狙っているとも考えら
れる。
 そこで次に、この幸若舞信田の成立時代を、
本ブログなりに推定してみる。
 文学的技巧ははずし、ここでは純粋に、

ストーリー内容から、何時の成立かを推定

してみた。結果から述べると、

茨城県の民話として、このようなストーリー
の話は、現代でも、作り出せるという内容

だとみられる。つまり、

成立年代の特定は、成立可能性に関する条件
巾が、このケースには広すぎて、特定は困難

だとみられる。なぜなら、

今でも栃木県小山市市役所が、web上に公
開している”お国自慢話”

に、仇役として登場する志田義広の地元なら、
やっかんで、仇役が真逆な話を、作ろうと思
えば、作れるというような例だからである。
 この幸若舞の題、信田は”しんた”と読む
のではなくて、茨城県の地理から見て”しだ”
と読むようである。そして志田荘と信田郡は、
どちらも茨城県稲敷市付近と、同一のようで
ある。だから、信田は志田義広の

志田を連想できるのは明らか

だと私は思う。つまり、ずばり

幸若舞信田の作者は、各種の将棋が指せ、有
る程度、将棋ゲームのデザインもできる、
茨城県の人間

だったのではないかと、私は考える。
 この作者が、栃木県小山市の自慢話に、憎
しみを持っているのではないかと疑われる証
拠としては、以下の点が挙げられる。すなわ
ち仇役で、物語り中に登場する小山行重(お
やまゆきしげ)という架空の、栃木県小山市
付近の殿様の名前が、物語り上の舞台である
平安時代に、小山氏の殿様の名の通し字は
”政”ではなくて、”行”であった事を、作
者は知っている。つまり歴代の

下野小山氏の素性に、有る程度詳しい事

が挙げられる。なお、平安末の小山氏は、
藤氏系太田姓であり、埼玉県等におり、栃木
県小山市には存在せず、小山氏という名の豪
族は存在しない。物語り上で、平安時代中期
の小山氏を登場させて、太田や藤原ではなく
て”小山”を名乗らせているのは、信田の作
者が、平安時代平将門の乱の因縁よりも、
鎌倉時代早草期の、対志田義広戦(野木宮の
戦い)に関する、

栃木県小山市市役所が現代も流布している、
小山市の成立に関連した御国自慢話に対して、
不愉快感を表現する為

であると見て、明らかに間違い無いと私は思
う。適当にデタラメに悪役を作ったにしては、

相手の素性を、知りすぎている信田(暗に、
志田義広派の仕返し)話だという意味

である。定説の平将門の乱関連のみ説は、悪
役を小山ではなくて太田にしない点が、それ
だけだと解釈すると、やや弱いように、私に
は思える。また藤原秀郷の子孫は、栃木県
小山市の小山氏以外にも、鎌倉時代頃には
常陸江戸氏等、関東に広く分布していると
思われる点でも、ストーリーとの間に矛盾が
あるように、個人的には感じる。
 すなわち更には、物語りのストーリー上で、
主人公の信田小太郎は、2回小山行重と合戦
しているのだが。後半の勝戦の方は、茨城県
(常陸)武者連合軍の加勢による、”大勝利”
で終わっている点が挙げられる。つまり、

常陸江戸氏も小山氏を裏切ったということか

と思える。
 よってこの点から見ても、”志田義広の件”
が、この物語りを作成する動悸の一つである
事は、決定的に明らかだと、私には思える。
 こうした、栃木県と茨城県の間にローカル
に存在しうる”偉そうに言っても、小山氏も
所詮、武力による公領・荘園等の横領によっ
て、伸し上っただけ”という類の主張は、
室町時代初期から令和の時代に至るまで、何
時でも存在し得るものなのであろう。だから、
冒頭の結論の②に述べているように、将棋ゲー
ムの経過が、せっかく記載されていても、

この物語りの成立時代を、ストーリーの特徴
から特定する事は、すこぶる困難

だと、結論せざるを得ないように、私には思
えた。
 つまり、天正年間のあたりで原案が成立し
た、歴代最長の幸若舞の信田に、江戸時代の
中頃、時代考証に基づいて、さも尤もらしく、

将棋の場面を登場させているとしても、余り
おかしくないような内容

であると、言わざるを得ないように、私には
結論できるのである。(2019/12/17)

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七並べ型に地札を並べる競技カルタと泰将棋配列(長さん)

以下、今のカルタ類の持札の”初期配列”に、
水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の泰将棋配列が
関連するかもしれないという話をする。
 なお、私の認識では、今の特に格式と、ゲー
ムとしての公平性を重く見る、競技のカルタ
の七並べ状の地札初期配列(現行3段)は、
少なくとも原型が江戸時代、17世紀頃の
成立なのではないかと見ている。
 では、論を開始する。
 この問題を解く有力な史料は、歌貝カルタ
の形が、五角形である事と、ウンスンカルタ
の枚数やスードの構成等である。
 事実によれば、歌貝カルタは、貝合わせ
ゲームからの派生であり、盤升一辺が一年の
月数12にちなんだ中将棋を指す、主流
な階層とみられる、貴族の文化である。そこ
には、安土桃山時代の末期に、欧州から、
4スード48枚制の、ジャックが無いトラン
プというイメージに近い、ウンスンカルタが
伝来し、それで遊んだ跡があるとみられる。
 また、言うまでも無く、歌貝カルタは将棋
駒と同形の五角形で、関忠夫氏(日本の美術
12、遊戯具、西暦1968年)によれば、
地札の初期配列を、同心円状に並べたときに、
最も内側の円を、中将棋の一辺升目数と同じ、
12枚の歌貝カルタで形成するためだとされ
る。なお、歌貝カルタは、字が2文字しかな
い将棋駒に比べて、横巾が広い。そのため、
将棋駒型ではあるが、将棋駒と完全相似形で
はない。
 裾野の広がりがカルタの方が少し大きい。
将棋駒で同じ円形を作ると、12枚ではなく
て、22~23枚程度の、より大きな円にな
るようである。ただし成書の図版に、分度器
を当てると判るが、歌貝五角形札の裾野部分
の内角は、75°前後になっていて、確かに
約12枚で円が出来る形である。他方将棋駒
の方は、裾野部の内角は82°程度と計算で
きる。
 恐らくこうしてできた、歌貝カルタの形が、
今度は逆に将棋駒に影響し、長さや裾野の広
がりが、バラバラだった

将棋駒の形を、今と同じような相似に近い形
に近世に入ると、均していった

のだろう。
 以上の事から、歌貝カルタは将棋駒形であ
り、同じカルタ文化の、天正ウンスンカルタ
は48枚で、

12×4は、中将棋の自陣四段配列と類似形

である。しかも、ウンスンカルタはその後、
75枚5スード制に17世紀に進化したとさ
れる。が、それも

15×5が、後期大将棋の自陣5段配列と
類似形

だからなように、私には思える。貴族や上流
階級は江戸時代には、余り指さなかったが、
後期大将棋が15×15升目で、将棋駒の初
期配列が所定の形である事自体は、よく知っ
ていて、新式のウンスンカルタの形を、支持
したようである。

なお、現行の日本将棋は自陣3段である。

 以上の事実からカルタを指す貴族には、駒
数多数将棋では、盤面にぎっしり駒を並べて

隙間を余り造らない配列である

というイメージが、

事実とは合っていない

が何かを根拠として有ったようである。

①歌貝カルタを将棋駒形に類似させている事。
②4段や5段に七並べ型にスードごとに数の
順番でカードを並べると、ウンスンカルタの
バージョンによって中将棋、大将棋初期配列
に類似になるというパターンは、座りが良い
というイメージが、江戸時代に有る事

以上の①と②の組合せで、初期配列で隙間の
無い、仮想の将棋が想定されていると言える
のではないかと、私には思えるからである。
 では、そのようなイメージが何処から来た
のかと言えば、ウンスンカルタ自体が伝来
した、ちょうどその頃に成立した、

水無瀬兼成作と本ブログが見る、泰将棋の初
期配列の姿のイメージが大きかった

のではないかと、私は推定する。水無瀬兼成
が、実質的貴族である豊臣秀頼用に納入した、
354枚25升目制の新作将棋の壮大な駒配
列が、新作ウンスンカルタの枚数構成や、競
技用カルタの地札の正式な初期配列、貝合わ
せの変形品である歌貝カルタの形等を、近世
に入ると、逐次作っていったというのが、順
序として、尤もらしいように、ここでは見る
からである。
 逆に言えば、駒師の一人に過ぎなかったは
ずなのだが。近世の上流階級の遊戯の全体的
な形を決める、実質的な権威者になり得る、
何らかの理由と、有る程度の能力が、

水無瀬兼成という個人に、元々存在していた

事は確かなようだと、推定できるように私は
思えるのである。(2019/12/16)

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囲碁ブロッキングで木村義徳論は完全否定可能か(長さん)

今回は木村義徳氏の日本の将棋早期伝来説は、
西暦667年以前に、インド古チャトランガ
等が日本に南海から漂着すると、囲碁による、
ゲームを見る目利きの存在による廃れでは、
説明されない事を述べる。理由は次の通り。
木村義徳氏が、本ブログと異なり、ウズベキ
スタン共和国テバ遺跡(ダルヴェルジン・
テバ遺跡のDT-5)出土の将棋駒出土の、
2世記成立出土物品を、将棋類では無いと、
はっきり認識を変えない限り、無理である。
 では、論を始める。
 本ブログで、将棋の日本への上陸がブロッ
クできるのは、囲碁が天文暦道と
強関連していて、百済等から麟徳暦が入って
来るとほぼ同時に、囲碁が西暦667年以降
日本では特に盛んになると、仮定できる、

西暦667年以降である。

それ以前には、盛んに囲碁が国内で打たれる
動機付けが、少なくとも本ブログの論では
存在しない。ので、たとえば西暦500年に、
古代のウズベク・テバ将棋駒が南海から漂着
すると、

出来の悪いゲームでも定着する可能性がある

事になる。
 他方、少なくとも木村義徳氏の持駒使用の
謎には、

古代の将棋ゲームが、2世記から7世紀の初
めまで無いとは書いてない。

つまり、増川宏一氏が将棋の歴史で述べてい
る、チャトランガのインド、前バルダナ朝で
ある、マウカリ国での発生であるという説を、

木村氏は採っていない。ので、少なくとも持
駒使用の謎の木村氏による著作の時点で、木
村義徳氏を説得できるという可能性は少ない

と考えられるという意味である。
 なお、日本には西暦665年成立の麒徳暦
以前に、中国唐代の定朔の暦が入っていたと
する証拠は無く、定朔だから焦って天体観測
つまり月の位置観測をするのであり、関連す
る囲碁が西暦665年以前に、日本で盛んに
なるという、強い動機付けは無い。なお、隋
王朝公記の”倭国伝の囲碁”については、雲
南のハニ族等の混同も否定できないと、前に
本ブログでは述べた。
 他方、本ブログが2世記成立のウズベキス
タン共和国ダルヴェルジン・テバ遺跡の出土
の物品を、将棋駒類では無いとする根拠も、
以前本ブログ内で、以下のように述べている。
象と駱駝が座っており、象が飛車ないし角行
動きの、大駒とは考えられない。象は大駒だ
から、それが伝来元国で削除される結果、日
本に伝来した後に、持ち駒ルールが可能になっ
た。であるから、走っている象の描写は困難
としても、

少なくとも象が、歩いている姿になって居無
いのが、ウズベキスタン共和国ダルヴェルジ
ン・テバ遺跡の出土の、成立2世記出土物が、
将棋類の駒で無いことの根拠

である。この点だけなので、これで木村氏等
が、納得できないようなら、チャトランガ系
ゲームの7世紀インド

マウカリ国での発生を、少なくとも持駒使用
の謎著作の時点で確定的に見ていない木村義
徳氏を、本ブログ流のやり方で、完全説得す
るのは、根本的に無理

であろうと考えられる。
 無制限だったのを、

西暦667年から11世紀までは説明できる
ようになった

という事に、すぎないと言えば、すぎないと
言える。吉備真備が第2次入唐で、タラス河
畔の戦いの2年後の、西暦753年に持ち込
んだとの、話が江戸時代成立の”伝説的将棋”
が、流行らない事は、説明できたのだが。
 ちなみに今まで本ブログでは、麟徳暦の採
用による、日本での、イスラムシャトランジ、
2人制古チャトランガのブロッキングバリヤー
の下限(古い)を、西暦

650年とか700年とかと曖昧に表現した。

が、今後は切り良く、西暦667年の麟徳暦
発生2年後と見ておく事で、統一しようと考
えている。(2019/12/15)

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雲南省の”近代碁盤産業”は、カヤ材の拠出(長さん)

以前本ブログでは、中国雲南省大理市の遊戯施設
天龍八部城を取り上げ、大理国時代に囲碁が打た
れた事を示すのではなくて、近年の碁盤関連の企
業の進出を示唆すると述べた。これは今にして思
うと、

常識知らず

な言い回しだった。webを検索すると、現在
日本で使われている、囲碁盤

将棋盤共に、その多くは中国雲南省のカヤ材

である。たとえば、開運何でも鑑定団で、お天気
キャスターの森田正光氏が、自身の持ち物として、
以下の時点で既に、その旨を公開している。

開運何でも鑑定団、西暦2015年05月12日
放送。鑑定依頼人:日本気象協会所属森田正光氏。
鑑定士、鵜川善郷氏(近世・近代工芸)

 鵜川善郷氏によると、森田正光氏の将棋盤は、
”蝋付け(ポリエチレングリコール処理の事か)
しているので中国(雲南省等)製だと判る”とい
う事である。webで検索すると、中国雲南省製
の将棋盤・碁盤は現時点で、厚みの薄いものが、
多く流通している。そして、伐採禁止が徹底され
ていなかった前世紀には、上記のような、分厚い
高級盤も、雲南省製が多く生産されたようである。
 従って、少なくとも天龍八部城が建設された頃、
まだ、中国雲南省で、囲碁盤や将棋盤が、カヤの
木を伐採して多数生産されていたとみられる。価
格ピークは、前世紀の西暦1980年代頃との旨
が、同じく鵜川氏からの情報として、web上に
書き込まれている。
 よって、少なくとも原材料の製造は中国雲南省
であるから、日本向けをも含めて、天龍八部城で
その宣伝の

モニュメント等は、造る気になるのは当然

かと考えられる。
 なお、厳密な所を調べていないが。カヤの木は

苗を中国雲南省に持って行って、育てた

らしい。亜熱帯の高地に近い雲南省で、温帯樹の
カヤが自生していたのかどうか、謎だからである。
 おなじく、鵜川氏によると”カヤは、何処で育
成しても、元材の性質は、変わらない”との事で
ある。それは多分だが

間違い

だろう。他の植物との競合上、冬の無い雲南では、
樹木は伸び続けなければならず、

必然的に水分が常態として多くなり、比重は減っ
て、部材の品質は元々日本産より劣る

と、素人園芸マニアの私には、思えるからである。
 つまり

日本なら、この材料は”規格外品”だ

という意味である。そうしてみると、
四季が無い生産地の品に、伐採季節の議論を持ち
出しているという点で理由がヘンだが。鑑定額の

森田氏の本人評価額の1/6は、正しい

ように、私には思える。つまり、
”ポリエチレングリコール処理”は業者が雲南省
博物館等の指導を受けて、伐採現地成形するよう
になってから、し出したか、日本でしているのか
は謎だが、見てくれや駒音の良し悪しは別として、
数百年のレベルでは盤が破壊されないので良い事
かもしれないと私は思う。近代科学の力を借りて、

手間隙掛けてくれた事には、遺跡からの木製出土
物に興味の有る者の一人として、中国人等に感謝

しておこう。なお、将棋盤、囲碁盤の雲南省の工
場に於ける、製造責任者の所属民族構成が特定で
きないので、約1000年前の記憶が、将棋盤に
有るのかどうかは、今の所私には謎である。
 まあそうだとしても、現日本式の高級な将棋盤
は、百年オーダーでの埋蔵状態での寸法の安定性
が無いとみられる。だから西暦1000年頃に、
大理国平安小将棋が中国雲南省に有って、将棋盤
が必要だったとしても、シナ桂材も含めて、木材
は、経年で縮むのが心配だったろう。だから分厚
い日本式のものは、大理国王侯貴族用には、当時
もたぶん作らなかっただろうと、推定はできるよ
うに、私には思える。
 むろん将棋駒は宝玉の立体駒だったというのが、
本ブログの論の前提である。だから、指したとき
の音を、雲南の王侯貴族は、楽しまなかっただろ
うとは、思えるのだが。
 なお森田正光氏がその後、亜熱帯高山地区で
原材が栽培されていることを、気象学的に調べた
上で、鵜川善郷氏に再度、材そのものの品質の質
問をしたのかどうかは不明である。(2019/12/14)

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水無瀬兼成将棋纂図部類抄大将棋~摩訶大聖目考(長さん)

本ページは、表題の件の再考である。
以前本ブログでは水無瀬兼成の将棋纂図部類抄
の後期大将棋、大大将棋、摩訶大大将棋(麒麟
獅子成り型)の各図の聖目に関して、摩訶大大
将棋の成りの図以外に

欠けている点に関し、単純錯誤

と見てきた。今回は、

摩訶大大将棋以外は、単純錯誤ではなく、

①大大将棋は記録が無い為。
②後期大将棋は鎌倉初期のルールの議論があり、
内容に関し、口伝で水無瀬が、ぼんやりと内容
を把握していたための、意図的な削除
との旨を説明する。
 では、議論を始める。
 まずは、事実認識からスタートする。
(1)聖目の点につき2枚以上ある水無瀬兼成
の将棋纂図部類抄につき、互いに差は無い。
また、
(2)中将棋の図の直後の詳細説明書きで、
水無瀬兼成自身の筆とみられるが、

仲人が、自陣のすぐ外に初期配列される

との旨の記載がある。
 以上が、史料として存在する事である。
 以前は、オリジナルの聖目の書き方が、
後期大将棋、両図聖目無し、大大将棋、両図聖
目無し、摩訶大大将棋、初期配列図聖目なし、
成り図、歩兵段上線聖目有りだったので、全史
料共に

その通りに真似た

と、本ブログでは、解釈してきた。
 しかし、

後期大将棋は5段、5段、5段型が美しいので、
忘却は不自然

ではあった。
 その後議論を進めるうちに、三条西家出身の

水無瀬兼成が婿として入った水無瀬家は、
藤原隆家や、後鳥羽上皇との関連が深い

という点で、安土桃山時代後期の時点で、

口伝でなら平安末期程度の、将棋史に関する情
報が残っていると見るのが自然

と私には、感じられるようになってきた。つま
り、水無瀬兼成に察知可能な情報として、
平安大将棋に自陣3段目型と4段目型が有る事
や、大将棋の盤が聖目4線目が主流であった事、
成り段に関して、論争が有ったとすれば、その
記憶。以上が全て口伝で、安土桃山時代の水無
瀬家には残っている、疑いがあるとみられると、
いうわけである。更に言えば、刀伊の入寇時の、
太宰府権帥である藤原隆家が、将棋の伝来に、
天皇用用具の、購入責任者として絡んでいる
ために、太宰府権帥には将棋の振興と関わりが
有る事。藤原隆家直後の太宰府権帥の藤原行成
が、将棋駒字の手本や、稽古を付けたとみられ
る事。以上の事すら、水無瀬兼成が知っていた
可能性も有ろう。つまりは、

藤原行成に習って、水無瀬兼成が、将棋駒の
字書きを始めた、疑いすらある

という意味である。であるから、

聖目が3段目のままで、大将棋を自陣4段目
配列から始めたときにも、成りは4段目では
なくて、3段目にすべき

といった論争が、鎌倉初期の西暦1230年頃
に有ったという事を、そうした論争があるとす
れば、水無瀬兼成は知っていても不思議は無い
ように、私には思えるのである。そのため、自
身の著作の後期大将棋図では、上記結論の②で
述べたように、同じ大将棋であるから、論理が
援用されると見て

聖目を不自然に、省略した可能性も有る

のではないか。それに対して、①の大大将棋に
ついては、習字の先生等作の将棋だったので、

成り段数について、ルールが未決定なので、
書かなかった。

また、摩訶大大将棋については、曼殊院の将棋
図で、駒の成りルールが判っていたにも係わら
ず、豊臣秀頼へ納める将棋盤で19目盤に聖目
がたまたま無かったので、初期配列図では省略。
成り図では、成段が判るように入れ、
”仲人、・・立聖目内成酔象”と、将棋纂図部
類抄で、補足したのではないか。
 以上のように将棋纂図部類抄の聖目の有無は、

必ずしも誤記と、決め付ける事も出来ない

ように、最近私には、思えてきたのである。
(2019/12/13)

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本当に普通唱導集大将棋等は相手陣4段目成りか(長さん)

今回は本ブログのメインテーマにとって、響く
内容である。これまで本ブログでは、二中暦の
平安大将棋(西暦1200年頃成立、)の自陣
4段配列タイプから、本ブログ版普通唱導集
大将棋(西暦1290年成立)まで、相手陣内
突入一発成りルールであって、成りは相手陣
4段目以内で可能になるとしてきた。歩兵段で
成るのが尤もらしかったからである。ここでは、

以上のケースでも、二中暦の将棋の方に合わせ、
4段組大将棋の歩兵下段の3段目で成る可能性

について以下に論じる。根拠は、二中暦大将棋
用に使える囲碁の聖目型。路数で言うと、

第4線聖目の14路盤が、西暦1110年以降
かなりの間普及していたのではないかという疑

いからである。
 では、以下に論を続ける。
 本ブロクの最近の論では、将棋盤は、賭博用
である事が目立たないように、聖目を4線にし
て、9星占い盤、19路の日本型囲碁盤(現行
タイプ)に合わせていた疑いがあるという事だっ
た。昔は物持ちが良かったので、

この状態が、12世紀から14世紀初まで続い
た疑いがある

ように、私には思えてきた。
 それでも、実戦で4段目で、麒麟や鳳凰を
成らせているかどうかが、実質的には影響する
だけなので、相手陣3段目成りと4段目成りと
でどちらが正しいのか、特定することは難しい。
しかし、

①二中暦の将棋には、相手陣内で成るルールの
説明で、3段目で玉・金以外は金に成るとの旨
とみられる記載が有るが、歩兵段に対する言及
は無い。文献に書いてある事が、ゲームの良否
よりも当時、優先されやすかったのではないか。

②普通唱導集大将棋の唱導唄第1節で、相手の
飛車が無くなってしまえば、麒麟が成りの地点
で取れないので、勝勢だと唄っているようにも
取れ、13升目型の普通唱導集大将棋を、本ブ
ログ流に仮定して、先手▲12四麒麟成りが、
実際には不能で、▲11三麒麟成まで、入り込
む必要が有るようにも取れる

という2点が、補強論理として挙げられる。
 なお”陣が歩兵列前までだというのは明らか
に形がおかしいので、二中暦の歩兵段は、3段
目だ”と、木村義徳氏等、多くの将棋史家が考
えたのが、現行の、二中暦将棋、初期配列図の

”起源”であると私は”推定”している。

どこかに、議論した文献があるのだろうが、私
の手元には、残念ながら無い。つまり、

二中暦大将棋は元々、第2標準将棋だったはず
だから、4段目化しても、成り段だけは、
3段目のままに、した疑いも有る

と言う意味である。
 以上述べた点については、本ブログでは

大将棋ルールのフレ巾が、元々大きい事から考
えると、ローカルルールが複数有った

と、今の所しておきたい。西暦2017年版の

普通唱導集大将棋では、反映させずに4段目成
りのままで良い

と思う。そもそも相手陣突入成りを自由成りに
してしまったし、麒麟や鳳凰が4段目成りの
条件で、攻守バランスを調整しており、3段目
成りに変えると、僅かだが、更に攻め駒を増や
さなければならないように挙動して、

不合理だから

である。
 しかしながら、将棋史としては、無視すべき
ではないと見られる。
なぜなら、近々述べる予定だが、これは、水無
瀬兼成の将棋纂図部類抄の、後期大将棋等に、
聖目点が無い事と、何らかの繋がりがある、証
拠と疑われるからである。(2019/12/12)

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