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水無瀬兼成将棋纂図部類抄大将棋~摩訶大聖目考(長さん)

本ページは、表題の件の再考である。
以前本ブログでは水無瀬兼成の将棋纂図部類抄
の後期大将棋、大大将棋、摩訶大大将棋(麒麟
獅子成り型)の各図の聖目に関して、摩訶大大
将棋の成りの図以外に

欠けている点に関し、単純錯誤

と見てきた。今回は、

摩訶大大将棋以外は、単純錯誤ではなく、

①大大将棋は記録が無い為。
②後期大将棋は鎌倉初期のルールの議論があり、
内容に関し、口伝で水無瀬が、ぼんやりと内容
を把握していたための、意図的な削除
との旨を説明する。
 では、議論を始める。
 まずは、事実認識からスタートする。
(1)聖目の点につき2枚以上ある水無瀬兼成
の将棋纂図部類抄につき、互いに差は無い。
また、
(2)中将棋の図の直後の詳細説明書きで、
水無瀬兼成自身の筆とみられるが、

仲人が、自陣のすぐ外に初期配列される

との旨の記載がある。
 以上が、史料として存在する事である。
 以前は、オリジナルの聖目の書き方が、
後期大将棋、両図聖目無し、大大将棋、両図聖
目無し、摩訶大大将棋、初期配列図聖目なし、
成り図、歩兵段上線聖目有りだったので、全史
料共に

その通りに真似た

と、本ブログでは、解釈してきた。
 しかし、

後期大将棋は5段、5段、5段型が美しいので、
忘却は不自然

ではあった。
 その後議論を進めるうちに、三条西家出身の

水無瀬兼成が婿として入った水無瀬家は、
藤原隆家や、後鳥羽上皇との関連が深い

という点で、安土桃山時代後期の時点で、

口伝でなら平安末期程度の、将棋史に関する情
報が残っていると見るのが自然

と私には、感じられるようになってきた。つま
り、水無瀬兼成に察知可能な情報として、
平安大将棋に自陣3段目型と4段目型が有る事
や、大将棋の盤が聖目4線目が主流であった事、
成り段に関して、論争が有ったとすれば、その
記憶。以上が全て口伝で、安土桃山時代の水無
瀬家には残っている、疑いがあるとみられると、
いうわけである。更に言えば、刀伊の入寇時の、
太宰府権帥である藤原隆家が、将棋の伝来に、
天皇用用具の、購入責任者として絡んでいる
ために、太宰府権帥には将棋の振興と関わりが
有る事。藤原隆家直後の太宰府権帥の藤原行成
が、将棋駒字の手本や、稽古を付けたとみられ
る事。以上の事すら、水無瀬兼成が知っていた
可能性も有ろう。つまりは、

藤原行成に習って、水無瀬兼成が、将棋駒の
字書きを始めた、疑いすらある

という意味である。であるから、

聖目が3段目のままで、大将棋を自陣4段目
配列から始めたときにも、成りは4段目では
なくて、3段目にすべき

といった論争が、鎌倉初期の西暦1230年頃
に有ったという事を、そうした論争があるとす
れば、水無瀬兼成は知っていても不思議は無い
ように、私には思えるのである。そのため、自
身の著作の後期大将棋図では、上記結論の②で
述べたように、同じ大将棋であるから、論理が
援用されると見て

聖目を不自然に、省略した可能性も有る

のではないか。それに対して、①の大大将棋に
ついては、習字の先生等作の将棋だったので、

成り段数について、ルールが未決定なので、
書かなかった。

また、摩訶大大将棋については、曼殊院の将棋
図で、駒の成りルールが判っていたにも係わら
ず、豊臣秀頼へ納める将棋盤で19目盤に聖目
がたまたま無かったので、初期配列図では省略。
成り図では、成段が判るように入れ、
”仲人、・・立聖目内成酔象”と、将棋纂図部
類抄で、補足したのではないか。
 以上のように将棋纂図部類抄の聖目の有無は、

必ずしも誤記と、決め付ける事も出来ない

ように、最近私には、思えてきたのである。
(2019/12/13)

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