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囲碁ブロッキングで木村義徳論は完全否定可能か(長さん)

今回は木村義徳氏の日本の将棋早期伝来説は、
西暦667年以前に、インド古チャトランガ
等が日本に南海から漂着すると、囲碁による、
ゲームを見る目利きの存在による廃れでは、
説明されない事を述べる。理由は次の通り。
木村義徳氏が、本ブログと異なり、ウズベキ
スタン共和国テバ遺跡(ダルヴェルジン・
テバ遺跡のDT-5)出土の将棋駒出土の、
2世記成立出土物品を、将棋類では無いと、
はっきり認識を変えない限り、無理である。
 では、論を始める。
 本ブログで、将棋の日本への上陸がブロッ
クできるのは、囲碁が天文暦道と
強関連していて、百済等から麟徳暦が入って
来るとほぼ同時に、囲碁が西暦667年以降
日本では特に盛んになると、仮定できる、

西暦667年以降である。

それ以前には、盛んに囲碁が国内で打たれる
動機付けが、少なくとも本ブログの論では
存在しない。ので、たとえば西暦500年に、
古代のウズベク・テバ将棋駒が南海から漂着
すると、

出来の悪いゲームでも定着する可能性がある

事になる。
 他方、少なくとも木村義徳氏の持駒使用の
謎には、

古代の将棋ゲームが、2世記から7世紀の初
めまで無いとは書いてない。

つまり、増川宏一氏が将棋の歴史で述べてい
る、チャトランガのインド、前バルダナ朝で
ある、マウカリ国での発生であるという説を、

木村氏は採っていない。ので、少なくとも持
駒使用の謎の木村氏による著作の時点で、木
村義徳氏を説得できるという可能性は少ない

と考えられるという意味である。
 なお、日本には西暦665年成立の麒徳暦
以前に、中国唐代の定朔の暦が入っていたと
する証拠は無く、定朔だから焦って天体観測
つまり月の位置観測をするのであり、関連す
る囲碁が西暦665年以前に、日本で盛んに
なるという、強い動機付けは無い。なお、隋
王朝公記の”倭国伝の囲碁”については、雲
南のハニ族等の混同も否定できないと、前に
本ブログでは述べた。
 他方、本ブログが2世記成立のウズベキス
タン共和国ダルヴェルジン・テバ遺跡の出土
の物品を、将棋駒類では無いとする根拠も、
以前本ブログ内で、以下のように述べている。
象と駱駝が座っており、象が飛車ないし角行
動きの、大駒とは考えられない。象は大駒だ
から、それが伝来元国で削除される結果、日
本に伝来した後に、持ち駒ルールが可能になっ
た。であるから、走っている象の描写は困難
としても、

少なくとも象が、歩いている姿になって居無
いのが、ウズベキスタン共和国ダルヴェルジ
ン・テバ遺跡の出土の、成立2世記出土物が、
将棋類の駒で無いことの根拠

である。この点だけなので、これで木村氏等
が、納得できないようなら、チャトランガ系
ゲームの7世紀インド

マウカリ国での発生を、少なくとも持駒使用
の謎著作の時点で確定的に見ていない木村義
徳氏を、本ブログ流のやり方で、完全説得す
るのは、根本的に無理

であろうと考えられる。
 無制限だったのを、

西暦667年から11世紀までは説明できる
ようになった

という事に、すぎないと言えば、すぎないと
言える。吉備真備が第2次入唐で、タラス河
畔の戦いの2年後の、西暦753年に持ち込
んだとの、話が江戸時代成立の”伝説的将棋”
が、流行らない事は、説明できたのだが。
 ちなみに今まで本ブログでは、麟徳暦の採
用による、日本での、イスラムシャトランジ、
2人制古チャトランガのブロッキングバリヤー
の下限(古い)を、西暦

650年とか700年とかと曖昧に表現した。

が、今後は切り良く、西暦667年の麟徳暦
発生2年後と見ておく事で、統一しようと考
えている。(2019/12/15)

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