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幸若舞信田の将棋。駒落駒多将棋で成立年代不明(長さん)

以前に述べたが、詳しい国語辞書の”将棋の
駒”の例文で知られる、幸若舞信田の将棋は、
いっけんすると小将棋の取捨てタイプが示唆
され、普及した成立年の推定より古形に見え
るものである。
今回は、小将棋であるというのは錯覚であり、

幸若舞信田全文をチェックして、

①摩訶大大将棋用の19升目程度の盤を使う
将棋であり、
②江戸時代成立でも、ストーリー内容から見
ると、成立時代は矛盾しない

という点について述べる。なお、信田(しだ)
は、公若舞の中では最も長編で、ゲームの流
れを表現した部分は、だいたい中段(起承転
結の承の半ば)に出てくる。内容は再掲する
と、細かいカナ使いは別として、だいたいは
以下の通りである。

物によくよく例ふれば、天台(又は竺)衆の
戦いに、歩兵が先に駆くくれば、横行・角行
駆け合わする。金銀桂馬がかかる時、太子も
かかり給いけり。これ戦いの兵法を、将棋の
盤に作れるも、これにいかで勝るべき。

更に漢字が判りにくい部分は、変えたが、ほ
ぼ同じ内容が、以下の成書にある。

岩波書店”新日本古典文学大系 舞の本”
西暦1994年。麻原美子・北原保雄校閲

では、以下に論を続ける。
 まず、将棋種だが、
大きく上手にハンデの付いた、大将棋系のゲー
ムと推定される。根拠は、天台衆の戦い(を
模した将棋)は、

曼殊院で摩訶大大将棋が成立した事を、ほの
めかしているように見える

という点が挙げられる。上記成書では、天竺
衆と記載され”将棋がインド起源である事を、
幸若舞信田の作者が知っていた”かのように、
注釈している。
 が、チェス等がインド起源であると流布し
たのは、日本では幸田露伴の”将棋雑考”が
初である。だから恐らくだが、これは校閲者
が間違えていると考えられる。
 別説とみられるが、天竺衆と天台衆とでは

天台衆の方が正しいのではなかろうか。

よって幸若舞信田の作が、西暦1443年よ
りは後であり、曼殊院の将棋種々の図の、
摩訶大大将棋が意識されているように、私に
は思える。小山行重の軍勢は、物語り上少し
後の時代の小山政光が、源頼朝と小山邸で食
事をする際、政光が自分の家来に聞こえるよ
うに、頼朝に言ったセリフの通り、”多数”
だったのであろう。
 また安土桃山時代程度の時代、曼殊院のし
か、摩訶大大将棋は知られていなかったので
はないかとも疑われる。
 冒頭に書いたゲームの流れのような内容は、
ここだけ読むと良く判らないが、前後を読む
と、着手しているのは上手で、本ブログの言
う、西暦1260年タイプの片側48枚の陣
営程度で相手、下手の片側96枚の
摩訶大大将棋の駒群に対して対局し、

ハンデが大きすぎて、上手が玉砕して負ける
駒落戦の姿が記載

されているように取れる。獅子駒も無いので、
ひたすら、相討ちになりながら、最後は玉だ
けになって、負けるような将棋を、上手が指
しているように、物語りの前後関係から表現
しているのである。つまり小将棋系の、知ら
れた将棋種の、

平手の将棋の記載とは、物語りの内容から見
て、そうは取れない

という意味である。なお、太子が酔象では無
いのは、前段で息子が、大将の父親の直前に、
敵に切り込んで、敗れてゆくような描写をし
たため、それに対応させたという事らしい。
 よって、結論の①に述べたように、平手の
将棋種ではないので、

新作将棋を、舞の作者が頭の中で作っている

と考えざるを得ないようである。
 逆に言うと、江戸時代のように日本将棋が
成立した時代の感覚で言うと、

色々な将棋種が、横断的に描かれる事自体が、
古さをかもし出している

という、文学的効果を狙っているとも考えら
れる。
 そこで次に、この幸若舞信田の成立時代を、
本ブログなりに推定してみる。
 文学的技巧ははずし、ここでは純粋に、

ストーリー内容から、何時の成立かを推定

してみた。結果から述べると、

茨城県の民話として、このようなストーリー
の話は、現代でも、作り出せるという内容

だとみられる。つまり、

成立年代の特定は、成立可能性に関する条件
巾が、このケースには広すぎて、特定は困難

だとみられる。なぜなら、

今でも栃木県小山市市役所が、web上に公
開している”お国自慢話”

に、仇役として登場する志田義広の地元なら、
やっかんで、仇役が真逆な話を、作ろうと思
えば、作れるというような例だからである。
 この幸若舞の題、信田は”しんた”と読む
のではなくて、茨城県の地理から見て”しだ”
と読むようである。そして志田荘と信田郡は、
どちらも茨城県稲敷市付近と、同一のようで
ある。だから、信田は志田義広の

志田を連想できるのは明らか

だと私は思う。つまり、ずばり

幸若舞信田の作者は、各種の将棋が指せ、有
る程度、将棋ゲームのデザインもできる、
茨城県の人間

だったのではないかと、私は考える。
 この作者が、栃木県小山市の自慢話に、憎
しみを持っているのではないかと疑われる証
拠としては、以下の点が挙げられる。すなわ
ち仇役で、物語り中に登場する小山行重(お
やまゆきしげ)という架空の、栃木県小山市
付近の殿様の名前が、物語り上の舞台である
平安時代に、小山氏の殿様の名の通し字は
”政”ではなくて、”行”であった事を、作
者は知っている。つまり歴代の

下野小山氏の素性に、有る程度詳しい事

が挙げられる。なお、平安末の小山氏は、
藤氏系太田姓であり、埼玉県等におり、栃木
県小山市には存在せず、小山氏という名の豪
族は存在しない。物語り上で、平安時代中期
の小山氏を登場させて、太田や藤原ではなく
て”小山”を名乗らせているのは、信田の作
者が、平安時代平将門の乱の因縁よりも、
鎌倉時代早草期の、対志田義広戦(野木宮の
戦い)に関する、

栃木県小山市市役所が現代も流布している、
小山市の成立に関連した御国自慢話に対して、
不愉快感を表現する為

であると見て、明らかに間違い無いと私は思
う。適当にデタラメに悪役を作ったにしては、

相手の素性を、知りすぎている信田(暗に、
志田義広派の仕返し)話だという意味

である。定説の平将門の乱関連のみ説は、悪
役を小山ではなくて太田にしない点が、それ
だけだと解釈すると、やや弱いように、私に
は思える。また藤原秀郷の子孫は、栃木県
小山市の小山氏以外にも、鎌倉時代頃には
常陸江戸氏等、関東に広く分布していると
思われる点でも、ストーリーとの間に矛盾が
あるように、個人的には感じる。
 すなわち更には、物語りのストーリー上で、
主人公の信田小太郎は、2回小山行重と合戦
しているのだが。後半の勝戦の方は、茨城県
(常陸)武者連合軍の加勢による、”大勝利”
で終わっている点が挙げられる。つまり、

常陸江戸氏も小山氏を裏切ったということか

と思える。
 よってこの点から見ても、”志田義広の件”
が、この物語りを作成する動悸の一つである
事は、決定的に明らかだと、私には思える。
 こうした、栃木県と茨城県の間にローカル
に存在しうる”偉そうに言っても、小山氏も
所詮、武力による公領・荘園等の横領によっ
て、伸し上っただけ”という類の主張は、
室町時代初期から令和の時代に至るまで、何
時でも存在し得るものなのであろう。だから、
冒頭の結論の②に述べているように、将棋ゲー
ムの経過が、せっかく記載されていても、

この物語りの成立時代を、ストーリーの特徴
から特定する事は、すこぶる困難

だと、結論せざるを得ないように、私には思
えた。
 つまり、天正年間のあたりで原案が成立し
た、歴代最長の幸若舞の信田に、江戸時代の
中頃、時代考証に基づいて、さも尤もらしく、

将棋の場面を登場させているとしても、余り
おかしくないような内容

であると、言わざるを得ないように、私には
結論できるのである。(2019/12/17)

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