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インドでマウカリ王朝期チャトランガは有ったか(長さん)

今回は、チェス・象棋・将棋の起源がインド
であるという話に関する物で、西暦600年頃
成立説の根拠を、まとめる事を目的とする。
成書”持駒使用の謎”なり”将棋の歴史”の写
しが常套なやり方のはずだが、実はすっきりと
した成書が、日本語としては少ない。日本の将
棋の歴史に関する”将棋の歴史”調の、”史料
のマトメ”が、各成書に余り無いだけではなく、
webサイトを見回してさえ、断片的であり、
余り見当たらないのである。
頼みの綱は、増川宏一氏著書、ものと人間の文
化史110”チェス”で、関連する部分を集め
るというやり方だけだ。ちなみに、持駒使用
の謎等の、木村義徳氏の成書等を批判して、
増川氏は、ハルシア・バルダナ(ヴァルダナ)
王の伝記、ハルシアチャリタ(詩人バーナ作・
西暦640年)に言及が無いと、同著書で述べ
ている。そのおかげで、西暦600年インド
成立説の肝が、ハルシアチャリタである事は、
はっきりと判る。蛇足で書けば、木村義徳氏
は、早い成立論の主張者であるから、彼にとり、
ハルシアチャリタが、自身の考えの補強にも、
使える史料であると思っているのは、当たり
前である。だから私には、批判した部分につき

増川宏一氏の論理展開が、今だによく判らない。

木村氏は中央アジアの出土駒のうちの早い方に
関する議論の不確定性を、チャトランガ系ゲー
ムの早い発生論の、論拠になるような表現を、
持駒使用の謎で、滲ませている。ので、
サマルカンド(アフラジアブ)駒と、テバ遺跡
(ダルヴェルジン・ テバ遺跡のDT-5)出
土の将棋駒の、計2点に対するコメントを入れ
ないと、持駒使用の謎に対する、正しい批判に、
なっていないように私は思う。なお”持駒使用
の謎”では、中央アジア、”ウズベキスタンの
出土駒”が、以上の2つの史料についてどちら
も、ウズベキスタン国内の遺跡な為に、前者の
ような後者のような、よく判らない書き方になっ
ていると、私は思う。
 以上が先行文献の紹介とし、以下本論とする。
 まずは600年インド史料のリストを、判り
やすくより古い方から、文献資料、出土遺物の
順に挙げてみる。

①書写物とみられるが、西暦640年前後に成
立したとみられる、ササン朝ペルシャの文献、
ビィツァーリジン・イ・チャトランクに、
”インド王からペルシャのクスラウ・アヌシル
ヴァーン王へ西暦550年頃に、チャトランガ
ゲームが贈られた”との旨の記載がある。
②西暦1000年~1100年ころのイランの
イスラム時代の詩人、フィルドウズイの手記に、
西暦550年~西暦640年にササン朝ペルシャ
で成立の”マーティカーネ・シャトランジ”に
ついての記載がある。それによると、
”インドのカナウジ王よりクスラウ・アヌシル
ヴァーン王へ西暦550年頃に、チャトランガ
ゲームが贈られた”との旨の記載があるとされる。
③バルダナ王朝の創始者で初代王の、ハルシア・
バルダナに仕えた詩人の”バーナ”が、自身の
作品”ハルシア・チャリタ”の中で、
”ハルシア王の時代には、地方豪族たちの内乱的
な戦闘は全く見られなくなった。インド式四軍
(象軍・騎馬軍・戦車軍・歩兵軍)の戦いは、
8×8升目遊戯盤である、アシュターパダ盤の上
に存在するだけになった。”との旨述べている。
また”ハルシア王は、四軍の指揮に関する兵法を、
アシュターバタ盤の上で学んだ”との旨も、記載
しているという。なお、玄奘三蔵の『大唐西域記』
には”ハルシア・バルダナ時代は、30年近くも
戦争が起こらず、政教和平である”と記載され、
客観的事実であり、詩人バーナ作の仕える王に
対する、世辞の類ではない事を示している。
 以上が将棋類の世界初出現と本ブログでも見る、
インド西暦600年頃関連の主な文献史料である。
 次に、出土史料は次のとおり。
④カナウジの北100km地点の、アヒック・チャ
トラから、馬か騎士か戦士像とみられる、高さ
10cm前後の、テラコッタ製のチェス駒が1つ
出土し、西暦550年~650年程度の成立とさ
れる。
⑤カナウジ市自体より、高さ12~15センチの、
盾を持った戦士の像が出土し、西暦650年~
750年程度の成立とされる。
なお、テラコッタ像はほかにも出土している。
成立年は、これより新しいか、不明かのどちらか
である。
 以上だいたい5点が、主なものとみられる。
なお、ブッタガヤのレリーフ24番(西暦500
年頃)、53番が計2点、擬似的材料として否定
的に増川氏の成書”チェス”には紹介されている。
また、②のイスラム圏民のフィールドウズイの件
では、自身の手記、シャーナメ、また西暦
1021年成立のタリクサーレビの中で、”マー
ティカーネ・シャトランジには、チャトランガは、
盤が8升目で駒が自陣2段、双方駒16個づつ
で、駒種類により形の違う丸いゲーム駒で、構成
されていると記載されている”との旨のより詳細
な情報が、書かれているという。
 また以下、遊戯史界が混乱する結果になったが、
10×10升目恐らく40枚制のゲームに、
イスラム時代に於いてフィールドウズイは言及し
ている。(駱駝が、象と馬の間に入る。)
 以上で主なものの全てだと私は認識する。これ
らに関して、簡単に表題の件についてだけ、
コメントしておこう。
 マウカリ朝時代という言い方は、マウカリ国は
有ったが、豊臣秀吉時代の毛利輝元の支配領域
のような意味の国を指し、実質はエフタル侵攻時
のインド小国分立時代全体を指す。なので、そも
そも

判りにくい表現である。

バルダナ朝の創始者の伝記③が、どう見ても史料
のメインだから、

インドで将棋は、バルダナ(ヴァルダナ)朝時代
の草創期頃に成立した

の方が、判りやすいように私見する。マウカリ朝
期に、バルダナ国はカナウジの西にあったという。
なお、”天下分け目の合戦”は無かったようだ。
 更には、①~②は特定のアラブの王、
クスラウ・アヌシルヴァーンに贈ったという部分
が、国際的な遊戯史学会では”伝説である”とい
う見方で紹介されている。そのため、”最も遅い
成立年号が、西暦642年である”という

遅い限度を決める働きしか、実質していない

疑いがある。西暦607年に、バルダナ朝は成立
し、最近ではハルシア王一代で、別の血筋へ変わっ
たとするのが、日本の教科書的な認識である。
 つまりバルダナ国(ヴァルダナ国)は、例えば
百年程度続いたとは見られておらず、その滅亡は
西暦647年頃とされている。つまり

”ヴァルダナ朝時代”は、約40年しかない。

ので「インドで将棋が成立したのは、(高校世界史
でも名の有る)”バルダナ朝”草創期の時代で、
西暦600年前後であると結論できる」と表現し
ても、特に将棋史の啓蒙上は、現状問題が無い事
は確かなように、私には思えるという事である。
(2019/12/20)

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